旧制第一高等学校寮歌解説

風荒ぶ曠野の中に

昭和8年第43回紀念祭寮歌 

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              序
  風(すさ)曠野(くわうや)(うち)に  古木(こぼく)たヾ黙して立てり 
  吾等皆めぐりて唄はん  新しき芽枝に萠えたり

              夢
  旅衣いろはあせども  とはに歩む眞理(しんり)夜途(よみち)
  先き行きし(あと)をたどりて  吾も亦(のぼ)り來りぬ
  櫻吹雪(ふヾき)(つゆ)す  明け暮れの丘の三年や
  夜をこめて響くまどゐの  歌枕夢をはらむか
  *「吹雪」は、昭和50年寮歌集で「吹雪き」に変更。

               現
  盛り上り伸び行く心に  ひた寄する時代の苦惱
  混沌の思想の巷  吾等いま何を求めん
  若き兒は(おそれ)を知らじ  まことの()胸に抱きつ
  いばら踏み浪路おどりて  あけの鐘かきならす哉

               結
  古き木や歴史の榮に  めぐる春四十有三
  友よいざ共に舞ひて  花咲かせ紀念の祭
 平成16年寮歌集で、次のように変更された。そのうちシードラーーと変更された箇所は4箇所。その他、23箇所もフェルマータが付いた。

1、「すさぶ」(1段2小節)                 ドーシラーー   
2、「ろもいろはあせども」(3段2.3.4小節)     ミーシーー ドーミレードー シードラーー
3、「よみちさきゆ」(3段8小節・第4段1小節)    ミーファミーー ミーミミーー
4、「どりて」(4段4小節)                 シードラーー
5、「よをこめて」(6段1・2小節)             ミーソドーー ソードミーー
6、「どいの」「まくら」(6段4及び6小節)        各シードラーーに変更

 曲末のD.C.(ダ・カーポ)は、曲頭に戻り、Fineの箇所で終わる反復記号。1・2段の序と結のメロデーのテンポは「Allegretto」(やや速く)に対し、本文の歌詞のメロディーのテンポはModerato(中位の速さで)である。
 昭和8年度「一高辯論部部史」(「向陵誌」)は、冒頭、この寮歌の歌詞を3頁に亘って載せる。何の説明もなく意味深長である。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
(すさ)曠野(くわうや)(うち)に 古木(こぼく)たヾ黙して立てり 吾等皆めぐりて唄はん 新しき芽枝に萠えたり 序の歌詞 厳しい風が吹き荒れる向ヶ丘に、柏の古木は、黙ってじっと耐えている。我等一高生は、古木の周りをまわって歌おうではないか。古木は決して枯れることはない、新しい生命(いのち)の芽は既に芽吹いていると。

「風荒ぶ曠野の中に」
 「風荒ぶ曠野」は、学問・思想の弾圧の風が吹き荒れる向ヶ丘。向ヶ丘も、この時代、寄せ来る濁流を防ぐことが難しくなっていた。「風」は、時世の風。「曠野」は、向ヶ丘。
 昭和7年には、血盟団によるテロにより前蔵相井上準之助・三井合名理事長団琢磨が射殺され、また5.15事件が起り海軍将校らが首相官邸を襲撃して、犬養首相が射殺された。この頃、治安維持法による左翼思想に対する弾圧は一層熾烈を極め、一高においては後の日本共産党政治局員伊藤律ら15人が放校・除名などの厳しい処分(第6次)を受けた。共産党は、熱海での全国代表者会議直前に、党員が一斉に検挙された(熱海事件)。前年大正6年に始まった満州事変は、7年3月満州国の建国となったが、国際連盟のリットン調査団は日本の満洲撤退を勧告、日本は国際的に孤立し、国際連盟を脱退せざるを得ない事態となった。世界大恐慌が日本に波及する中、昭和5年の緊縮財政と金解禁等は日本経済を一層、大不況に追い込んだ。この不況状態は昭和7年ごろまで続き、都市に失業者が溢れ、農村に「娘を売るな」の立て看板が立ち、都市・農村ともにその疲弊は極度に達していた。文部省は大正7年5月、農漁村の欠食児童数は20万人と発表した。
 「『曠野』は、ひろびろとした野原。『風荒ぶ』は、当時の社会の動きをさす。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 
昭和8年 1月 8日 朝鮮人李奉昌、天皇の馬車に爆弾を投げる(桜田門事件)
28日 日本海軍、上海で中国軍と交戦〈第1次上海事変)5月5日に上海停戦協定調印。
2月 9日 血盟団員、前蔵相井上準之助を射殺。
3月 5日 血盟団員、三井合名理事長団琢磨射殺(血盟団事件)。
2月29日 国際連盟リットン調査団来日
3月 1日 満州国建国。
5月15日 海軍将校ら首相官邸などを襲撃、犬養首相を射殺(5.15事件)
6月29日 警視庁、特別高等警察課を特別高等警察部に昇格。
10月 1日 リットン調査団、日本に報告書を送達、翌日、政府公表。日本の満洲撤退を勧告。
10月30日 熱海での共産党全国代表者会議直前、一斉検挙される(熱海事件)。
8年 2月 9日 河上 肇検挙(「貧乏物語」の著者、元京大教授)

「古木たゞ黙してたてり」
 「古木」は柏の木。一高、一高寄宿寮を象徴する。「風荒ぶ曠野の中」で、黙ってじっと耐えている。

「新しき芽枝に萠えたり」
 「新しき芽」は、柏の新芽。具体的には昭和10年に駒場移転を踏まえ、新向陵の伝統となるものが既に芽生えているというか。あるいは、風荒ぶ曠野にあっても、古木は枯れず、新しい芽を出して力強く生きて行こうとの意か。
旅衣いろはあせども とはに歩む眞理(しんり)夜途(よみち) 先き行きし(あと)をたどりて 吾も亦(のぼ)り來りぬ 櫻吹雪(ふヾき)(つゆ)す 明け暮れの丘の三年や 夜をこめて響くまどゐの 歌枕夢をはらむか 夢の歌詞 真理追究の旅が長くなって、旅の衣は色褪せてしまったが、眞理を求めて暗い夜道を歩く旅は、これからも果てしなく続く。先人の後を辿って、自分もまた眞理を得ようと向ヶ丘にやってきた。桜が吹雪く春、柏の木に露のおりる秋と年中、また明けても暮れても一日中、全寮制の寄宿寮で三年を過ごした。親しい友が集まって、夜通し語り合い、古歌に詠み込まれた歌枕の名所に夢を孕ませたものだ。

「旅衣いろはあせども とはに歩む眞理の夜途」
 「旅衣」は、真理追究の旅の装束。「とはに歩む眞理の夜途」は、真理追究の旅は、果てしなく続く旅であり、光(真理)がないので道は暗い。

「先き行きし後をたどりて 吾も亦上り來りぬ」
 「先き行きし後」は、先人が辿った跡。「上り來りぬ」は、向ヶ丘にやってきた。一高に入学した。

「櫻吹雪柏露す 明け暮れの丘の三年や」
 「櫻吹雪」は春を、「柏露」は秋(露の季語は秋)で、四季の移ろいをいう。「明け暮れ」は、明けても暮れても。全寮制の寄宿寮生活を踏まえる。「吹雪」は、昭和50年寮歌集で「吹雪き」に変更された。
 「老いゆく年も月も日も 只白駒と朝夕」(大正13年「草より明けて」2番)
 「熱き血潮に奏でたる あしたゆふべの物語」(昭和10年「大海原の」2番)

「夜をこめて響くまどゐの 歌枕夢をはらむか」
 「夜をこめて」は、夜通し。「まどゐ」は、親しく集まり合うこと。「歌枕」は、古歌に詠み込まれた諸国の名所。
盛り上り伸び行く心に ひた寄する時代の苦惱 混沌の思想の巷 吾等いま何を求めん 若き兒は(おそれ)を知らじ まことの()胸に抱きつ いばら踏み浪路おどりて あけの鐘かきならす哉 現の歌詞 夢に大きく胸をふくらませ、伸び伸びと成長していくはずの若者の心が、向ヶ丘にもろに押し寄せた時代の波に翻弄されて苦しみ悩んでいる。混沌として思想が入り乱れる状況の下、我らはいったい何を信じ何を求めていったらいいのであろうか。若い一高生は、真理を妨げるものを怖れない。真理を照らす自治の灯を胸に抱いて、行く手に立ちはだかる茨の道を踏み、荒波を乗り越えて、世の人に針路を示すために夜明けの鐘をかき鳴らすのである。

「盛り上り伸び行く心に ひた寄する時代の苦腦 混沌の思想の巷 吾等いま何を求めん」
 「盛り上り伸び行く心」は、理想に胸ふくらませ、伸び伸びと成長していくはずの若者の心。「ひた寄する時代の苦惱」は、もろに向ヶ丘を襲った思想取締りの苦悩。「混沌の思想の巷」は、思想昏迷の状況。何が正義であり、何が真理であるか分からない。「心」は、「こころ」と歌う一高生もいるが、戦前卒の大先輩が少なくなったので、最近は「むね」と歌う一高生が多くなった。
 「『ひた寄する時代の苦惱』は、当時の社会主義の動きと、それへの弾圧などのよる思想上の悩みを指す。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「昭和8年2月1日、紀念祭を行ふ。近時左翼思想の事やかましく昭和7年9月頃より検擧さるゝものの多く、或は4名、或は10名と續々丘より去り行く者あり。作冬夏にも亦15名の検擧を見、8年に入り紀念祭に又検擧を見る。寮内に於ても傳統を批判するもの多くその反動として護陵會なるもの一部の有志によりて結成されし事ありき。瓣論部は左翼検擧と共に大弾壓を受け一時事実上の潰滅を見しも近時復活の聲高まり昔日の隆盛を思ひてその建設に努力せしものありき」(「向陵誌」昭和8年)

「若き兒は怖を知らじ まことの炬胸に抱きつ」
 「若き兒」は、一高生。「怖を知らじ」は、真理を妨げるものを恐れない。「まことの炬」は、真理を照らす自治の灯。
 「行途を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある」(明治35年「嗚呼玉杯に」5番)
 
「いばら踏み浪路おどりて あけの鐘かきならす哉」
 「いばら踏み浪路おどりて」は、行く手に立ちはだかる障害。「あけの鐘」は、世の人に夜明けを知らせる鐘。夜が明ければ何が真理か、そうでないか明らかになる。すなわち世の人を導く鐘である。
 「自治の光は常闇の 国をも照す北斗星 大和島根の人々の 心の梶を定むなり」(明治34年「春爛漫」6番)

 「当時の日本の国家、社会が直面していた困難を極めた現実を、『ひた寄する時代の苦惱、混沌の思想の巷 吾等いま何を求めん』との語句で提示しつつ、『若き兒は怖を知らじ まことの炬胸に抱きつ』云々と、一高生としての厳しい覚悟の程を詠み上げている。この表現の奥底には、当時の反体制革新思想への期待が暗にこめられているように思われるが、その内面は複雑だったに違いない。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「この寮歌の中心は『現』の章にあろう。『混沌の思想の巷 吾等いま何を求めん 若き兒は怖を知らじ まことの炬胸へ(に)抵(抱)きつ』といいつつ、しかし『いばら踏み浪路おどりて あけの鐘かきならす哉』とぼかしている。」(井上司朗「一高寮歌私観」)
古き木や歴史の榮に めぐる春四十有三 友よいざ共に舞ひて 花咲かせ紀念の祭 結の歌詞 一高寄宿寮は、栄えの歴史に輝いて、今年、43回めの春を迎えた。友よ、せめて今宵は、日頃の辛いことを忘れ、一緒に舞い、紀念祭の喜びに浸ろうではないか。

「古き木や歴史の榮に」
 「古き木」は、序歌詞の「古木」。柏の木。一高寄宿寮。「歴史の榮」は、栄えの輝く歴史。

「めぐる春四十有三」
 今年、開寮以来、43回めの春が巡って来た。

「花咲かせ紀念の祭」
 「花咲かせ」は、成功させよ。盛大に。「風荒ぶ曠野の中」では難しい。せめて紀念祭のこの日だけは、左翼思想取締りのことなど忘れ、紀念祭らしく楽しくの意であろう。
                        

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