旧制第一高等学校寮歌解説

愁ひに悲し

昭和8年第43回紀念祭寮歌 

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 1、(うれ)ひに悲し柏蔭     など春風の身には泌む
   夕雲暗く星寒く      暮れゆく丘の邊に立てば
   光求むる友が眼に    宿れる永遠(とは)の涙かな

 2、時雨るゝ丘の夕まぐれ  ()傳ふ雨の氷りては
   夜半の嵐にむせびつゝ  憂ひに惱む若き胸
   凛々しと守る自治燈の  孤影の下に君よ泣け

 3、自治の傳統(つたへ)は永けれど 歴史は光榮(はへ)に輝けど
   時の流の(いさなひ)に      希望(のぞみ)の星の今消えて
   闇路果てなく踏み迷ふ  この子羊をいかにせん

 4、君な嘆きそしかすがに  闇は綾目(あやめ)を分かねども
   眞闇を告ぐる鐘の音は  (あけ)の近きを約すなれ
   涙拂ひて友よいざ     闇の(とばり)を開かなん

 5、若き生命に誇りてし    三年が丘の友垣や
   歎きの悲曲今しまた   別離(わかれ)の春に奏ずれば
   友が瞳のうるほひに   名殘盡きせぬ今宵かな      
音符下歌詞「もとめる」(第5段2小節)は昭和50年寮歌集で「もとむる」に訂正された。

昭和10年寮歌集でキーを下げ変ホ短調からハ短調に移調した。その他の変更はない。左右のMIDI演奏を聞き比べ、調の違いを確かめて下さい。後述する財閥トップを狙ったテロが横行する中、作曲は三菱財閥の御曹司(もちろん一高生)である。当時の憂うべき世相に苦悩する一高生の姿がひしひしと伝わってくる悲曲である。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
(うれ)ひに悲し柏蔭 など春風の身には泌む 夕雲暗く星寒く 暮れゆく丘の邊に立てば 光求むる友が眼に 宿れる永遠(とは)の涙かな 1番歌詞 向ヶ丘は今、愁いにうち沈んで悲しみにくれている。春だというのに、どうしてこんなに風が冷たく感じるのであろうか。暮行く向ヶ丘の辺に立つと、夕雲が暗く空をおおい、星の光は寒々として、今にも消え入りそうである。星の光に真理の黙示を求める友の目に、いつまでも涙が浮んでいた。

「愁ひに悲し柏蔭 など春風の身には泌む」
 「愁い」の原因は、「夜半の嵐」(2番歌詞)が吹き、「希望の星が消え」(3番歌詞)、「歎きの悲曲」(5番歌詞)を奏でるようになったから。すなわち左翼思想取締りが相次いで、友が向ヶ丘を去らねばならない悲しい事態となっているからである。「柏蔭」は、向ヶ丘。人生の旅の途中、若き三年を柏の蔭で旅寝する。「など」(副詞)は、ナニトの転で、どうして。なぜ。
 「柏蔭に憩ひし男の子」(昭和12年「新墾の」3番)
 昭和7年12月26日、左翼学生15人の第6次大量処分。伊藤律ら放校、除名5、無期停学4、戒飭2(「一高自治寮60年史」)
 伊藤律とは、占領期の日本共産党政治局員。昭和26年中國に渡り野坂参三らに査問・幽閉され、消息不明。昭和55年に帰国。戦前検挙時に、ゾルゲ事件発覚の端緒を作ったスパイ容疑で昭和28年に共産党を除名されたが、今日ではスパイ容疑は根拠がないとされる。
 「昭和8年2月1日、紀念祭を行ふ。近時左翼思想の事やかましく昭和7年9月頃より検擧さるゝものの多く、或は4名、或は10名と續々丘より去り行く者あり。作冬夏にも亦15名の検擧を見、8年に入り紀念祭に又検擧を見る。寮内に於ても傳統を批判するもの多くその反動として護陵會なるもの一部の有志によりて結成されし事ありき。瓣論部は左翼検擧と共に大弾壓を受け一時事実上の潰滅を見しも近時復活の聲高まり昔日の隆盛を思ひてその建設に努力せしものありき」(「向陵誌」昭和8年)

「夕雲暗く星寒く」
 「夕雲暗く」は、左翼思想の取締りのために、向ヶ丘が重苦しい雰囲気となっている形容。「寒星」は、空気が澄んだ冬空に北斗七星やオリオンなどの星の光が冴えて輝きが増すことをいうが、ここに「星寒く」とは、逆に星の光が消え入りそうな状態をいう。3番歌詞に至り、「希望の星の今消えて」とある。「星」は、真理を喩える。従って「星寒く」とは、真理が歪められていることをいう。

「光求むる友が眼に 宿れる永遠の涙かな」
 「光」は3番歌詞の「希望の星」の光で、前述のとおり、真理をいう。「宿れる永遠の涙かな」は、雲に遮られ光が弱いため、星の黙示を得ることが出来ず、いつまでも涙している。
 「友の瞳の輝きぬ 夕の星の瞬きぬ」(大正10年「彌生ヶ丘に」夕)

 「(左翼)運動や理論のもっと奥に潜むふかい価値観を求めて沈潜するしかなかったろう。・・・そうでなくしてどうして栄光の向陵を『愁ひに悲し柏蔭 など春風の身には沁む』などとうたい出せよう。」(井上司朗「一高寮歌私観」)
時雨るゝ丘の夕まぐれ ()傳ふ雨の氷りては 夜半の嵐にむせびつゝ  憂ひに惱む若き胸 凛々しと守る自治燈の 孤影の下に君よ泣け 2番歌詞 向ヶ丘の夕暮れに、時雨れが降って、木の枝を伝う雨は凍るほど寒い。夜半の嵐のような厳しい左翼学生の取締りの風が情け容赦なく寄宿寮に吹き荒れるので、一高生は恐れおののきながら、我が身を、また友の身を憂い思い悩んでいる。一高生よ、辛かろう。泣きたくなったら、気強く守る自治燈の灯影でそっと一人泣け。

「時雨るゝ丘の夕まぐれ」
 「時雨る」は、過グル雨、通り雨の意。秋から冬にかけて、降ったり止んだりする雨。季語は冬。また、比喩的に涙を流すこと。「夕まぐれ」は、夕方ほの暗くなってよく見えない頃。「まぐれ」は、マ(目)クレ(暗)の意。

「夜半の嵐にむせびつゝ 憂ひに惱む若き胸」
 「夜半の嵐」は、左翼学生の取締り、処分。昭和7年12月26日の第6次大量処分後も、内偵や取調べを受けていた者は少なくなかった。
 昭和8年3月6日、学校、左翼学生5名の処分発表。除名1、停学1、戒飭3。1月27日から本富士署に大量検挙され取り調べを受けていた者の一部。この後、卒業の前日3月30日にさかのぼって数名の処分発表があり、次いで5月6日、除名2、停学2、さらに12月18日除名2を出して、一高の左翼学生組織は壊滅し、運動は終息した。(「一高自治寮60年史」)
 「吹きあるる夜半の嵐に 音立ててさわぐ椎の葉」(昭和9年「綠なす」2番)

「凛々しと守る自治燈の 孤影の下に君よ泣け」
 「凛々し」は、きびきびと、溌剌としたの意だが、ここでは、これだけは守ると気強く。「自治燈」は自治の伝統、教え。寺院の法燈に喩える。寮歌では、紀念祭の祭りの灯を自治燈と歌うことが多い。「自治燈の孤影の下に」は、寄宿寮の片隅で。自治燈の灯影でそっと。「孤影」は、ひとりぼっちの姿。ただ一人でさびしそうな姿。

 「第二節一、二、三行も太平記道行『時雨もいたくもりやまの 木下露に袖ぬれて』の悲調を思わせる。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
自治の傳統(つたへ)は永けれど 歴史は光榮(はへ)に輝けど 時の流の(いさなひ)に 希望(のぞみ)の星の今消えて 闇路果てなく踏み迷ふ この子羊をいかにせん 3番歌詞 自治の伝統は長く、寄宿寮の歴史は栄光に輝いているが、今は、暗い時代の波が押し寄せてきて、将来に希望も持てない向ヶ丘となった。真理も正義も通らない暗い世の中で、一体、この先、どうしたらいいのか分からない。子羊のように迷う一高生をどうしようというのか。

「自治の傳統は永けれど」
 一高自治は明治23年3月1日、東西寮に入寮を許されてから始まった。昭和8年時点で、43年の歴史と傳統。

「歴史は光榮に輝けど」
 特に明治の時代の野球部や端艇部の活躍等をいう。
 「隅田川原の勝歌や 南の濱の鬨の聲 大津の浦にものゝふが 夢破りけん語草 かへりみすれば幾歳の 歴史は榮を語るかな」(明治36年「彌生が岡に」2番)

「時の流の誘に 希望の星の今消えて」
 「時の流」は、その時代の風潮。思想昏迷。学問・思想の自由の弾圧、軍の跋扈等。「希望の星の今消えて」は、将来に何の希望ももてない時代となったこと。

昭和7年 1月 8日 朝鮮人李奉昌、天皇の馬車に爆弾を投げる(桜田門事件)
28日 日本海軍、上海で中国軍と交戦〈第1次上海事変)5月5日に上海停戦協定調印。
2月 9日 血盟団員、前蔵相井上準之助を射殺。
3月 5日 血盟団員、三井合名理事長団琢磨射殺(血盟団事件)。
2月29日 国際連盟リットン調査団来日。
3月 1日 満州国建国。
5月15日 海軍将校ら首相官邸などを襲撃、犬養首相を射殺(5.15事件)。
6月29日 警視庁、特別高等警察課を特別高等警察部に昇格。
10月 1日 リットン調査団、日本に報告書を送達、翌日、政府公表。日本の満洲撤退を勧告。
10月30日 熱海での共産党全国代表者会議直前、一斉検挙される(熱海事件)

「闇路果てなく踏み迷ふ この子羊をいかにせん」
 「闇路」は、真理・正義の通らない暗い世。「子羊」は、一高生。
 
 「本寮歌では第三節までは、もっぱら悲愁の念と憂苦の情が強調的に歌われ、この憂うべき時局の推移(=『時の流れ』)に伴って、栄えある明治以来の歴史的伝統を誇りとするわれわれの『希望の星』も今や消え、『闇路』に『果てなく踏み迷』わざるをえぬという状況が詠まれている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「『時の流れの誘に 希望の星の今消えて 闇路果なく 踏み迷ふこの子羊をいかにせん』と、当時の向寮生(向陵生)の良心を示している。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
君な嘆きそしかすがに 闇は綾目(あやめ)を分かねども 眞闇を告ぐる鐘の音は (あけ)の近きを約すなれ 涙拂ひて友よいざ 闇の(とばり)を開かなん 4番歌詞 そうではあるが君よ、どうか歎かないでくれ、闇の中では、何が真理で、何が偽りなのか見分けがつかないが、朝の来ない夜はない。真理の太陽が輝く朝はもうすぐそこに来ている。さあ友よ、涙を拭って、夜の帳を開いて朝を呼ぼう。

「君な嘆きそしかすがに 闇は綾目を分かねども」
 「綾目」は、模様。見分け。条理。「な・・・そ」は、禁止の意をやさしく表す。「しかすがに」は、そうあるところで、の意が古い意味。転じて、そうではあるが。それでも。
 「あやめもわかぬ闇の野を」(昭和7年「吹く木枯に橄欖の」2番)

「眞闇を告ぐる鐘の音は 曉の近きを約すなれ」
 朝が来ない夜はない。今、夜だいうことは、朝が近いということだ。「曉」には、真理の太陽が輝く。

「涙拂ひて友よいざ 闇の幕を開かなん」
 「闇の幕」は、「曉」を遮っている帳。真理を妨げている暗い世の帳。「男さびせよ 蟷螂(とうろう)も 龍車に向ふ意氣地あり」(大正6年「比叡の山に」9番)と、堂々と口に出せない時代となった。厳しい左翼学生取締りを、じっと耐え忍び、いつの日にか正義の実現を期そうの意。
 「『彩目を分か』ぬ『闇』の状況をただ嘆いてばかりいてはならず、涙を払ってこの難局を打開し突破する知恵と勇気を持つべきことを改めて詠みだしている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「第四節は、然し、よき暁の到来を期待し、その黎明に向って進まうと自ら励ましているが、『曉』を示すその思想体系は、明らかにいい表わし得ぬ条件下だったろう。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
若き生命に誇りてし 三年が丘の友垣や 歎きの悲曲今しまた 別離(わかれ)の春に奏ずれば 友が瞳のうるほひに 名殘盡きせぬ今宵かな  5番歌詞 多感な青春の三年間に向ヶ丘で友情を契った友と、ついに別れる時が来た。友の中には卒業を目前に左翼思想が発覚したため処分を受け退学させらた者もいる。まことに嘆かわしく心が痛む。別れを惜しんで寮歌を歌えば、友の瞳に涙が浮んで、本当に名残が尽きない紀念祭の宵である。

「若き命に誇りてし 三年が丘の友垣や」
 「若き命に誇りてし」は、若い命を誇ってきた。多感な青春の。「三年が丘」は、向ヶ丘の三年。「友垣」は、友達。

「歎きの悲曲今しまた 別離の春に奏ずれば」
 「歎きの悲曲」は、左翼学生取締り処分を暗に示す。「今しまた」は、第6次大量処分(昭和7年12月26日)、および昭和8年1月27日に大量検挙された左翼学生の内偵調査、呼出し、取調べ等をいう。「別離の春」は、卒業して別れ別れになる春。思想取締りの処分で退学処分を受け、向ヶ丘を去る左翼学生との別れも含む。
 「近時左翼思想の事やかましく昭和7年9月頃より検擧さるゝものの多く、或は4名、或は10名と續々丘より去り行く者あり。」(前掲の昭和8年「向陵誌」)
 「昭和8年1月27日から本富士署に大量検挙され取り調べを受けていた」(「一高自治寮60年史」)

「友が瞳のうるほひに 名殘盡きせぬ今宵かな」
 「うるほひ」は、涙を浮かべること。「今宵」は、紀念祭の夜。
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩  前年上海事変勃発、満州国建国、犬養首相暗殺、警視庁始め各府県の特高強化と、世相は益々暗く、この年1月、アララギ派の歌人大塚金之助氏(商大教授)、河上肇博士等が検挙され、小林多喜二も虐殺された。そういう思想混沌に対して無関心であり得ぬ寮生の一部は、既述の如く、その左翼思想のなかに飛び込んで働くか、或いは、そうした運動や理論のもっと奥に潜むふかい価値観を求めて沈潜するしかなかったろう。この歌は、後者の途を選んだ人達の、悲愁の思いを、声ひくく、しかしふかい旋律をもって歌ひ出されるものとして、感動を呼ぶ。そうでなくてどうして栄光の向陵を『愁ひに悲し柏蔭 など春風の身には泌む』などとうたい出せよう。
*河上肇の検挙は昭和8年1月12日、小林多喜二が検挙され築地署で虐殺されたのは2月29日のことである。
「一高寮歌私観」から


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