旧制第一高等学校寮歌解説

春は萬朶の花霞

昭和7年第42回紀念祭寮歌 

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1、春は萬朶の花霞      春風丘に亂るれば
  飛花繚亂の天降(あも)らしに   散り敷く錦花筵(はなむしろ)
  夕陽(ゆふひ)照り添ふ岡の邊に  祭の鐘のひヾくあり

3、王師幾度(いくたび)辛酸(しんさん)の      朔北の野に勝軍
  瀋陽(はんやう)()ちて一萬里     興安嶺の日章旗(ひのみはた)
  北雪胡雲収(ほくせつこうんおさ)まりて      東亞の繁栄(さかえ)我に在り

4、輪廻(りんね)運命(さだめ)中空(なかぞら)に     興亞(かうあ)の星の(のぼ)るらん
  雪山(ヒマラヤさん)に雲(ひら)け       恒河(ガンジスがは)黎明(あさぼらけ)
  没する()なき奮世界(ふるきよ)の   覇者永久(とこしえ)に覇者ならず    

7、嗚呼一千の我が友よ    新潮(にひしほ)洗ふ八寮に
  理知の輝き至誠(まこと)もて    濁る思潮(してふ)()(きよ)
  祖国の使命諸共(もろとも)に     四海の波を(しづ)めてん   
変更箇所はなく、現譜はこの原譜に同じである。

語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
春は萬朶の花霞 春風丘に亂るれば 飛花繚亂の天降(あも)らしに 散り敷く錦花筵(はなむしろ) 夕陽(ゆふひ)照り添ふ岡の邊に 祭の鐘のひヾくあり 1番歌詞 春は、枝もたわわに満開となった向ヶ丘の桜が花霞となって棚引く。向ヶ丘に春風が吹くと、花吹雪となって桜の花びらが舞い落ち、地上は、まるで錦の花筵を敷いたように美しい。太陽が西に傾いて、夕陽が向ヶ丘に射すと、紀念祭の始まりを告げる鐘の音が向ヶ丘に鳴り渡る。

「春は萬朶の花霞」
 「朶」は垂れ下がった枝。多くの垂れ下がった枝。「花霞」は、遠方に群って咲く桜の花が、一面に白く霞のかかったように見えるさま。

「春風丘に亂るれば」
 「丘」は、向ヶ丘。

「飛花繚亂の天降らしに」
 「繚亂」は、もつれ乱れるさま。「天降らし」は、「天降(あも)る」(上二)からの造語か。天上から神が降るの意であるが、ここは桜が散り落ちるの意。

「散り敷く錦花筵」
 「錦」は、金糸銀糸色糸を使って織りなした華麗な厚手の織物。また、模様の華麗なものを喩えていう語。「花筵」は、イグサを赤・黒色に染めて、模様を織り出した筵。また、花見の席をいう。

「祭の鐘のひゞくあり」
 紀念祭の祝宴の始まりをいう。実際に鐘を撞いたかどうかは分からない。紀念祭は、樂友會ないし軍楽隊の演奏で始まったとの記録は残る。
理想の自治の船出より 四十二の春めぐり來て 今宵掲ぐる白銀(しろがね)の 自治の(ともしび) 色()せぬ 思へば永し先人の (はえ)ある歴史偲ぶ哉 2番歌詞 明治の昔、理想の自治を求めて船出してから、42回目の春が巡って来た。今宵の紀念祭で掲げる光り輝く自治燈は、年を経て色が褪せてきた。古色蒼然とした自治燈を見ていると、寮史に輝く先人の業績が偲ばれる。

「理想の自治の船出より 四十二の春めぐり來て」
 明治23年2月、木下校長が自治を許し、同3月1日、東・西寮に入寮を許可されてから、42年経った意。「理想の自治の船出」は、理想の自治を求めて船出してから。「四十二の春めぐり來て」は、開寮以来42年経ったこと。

「今宵掲ぐる白銀の自治の灯色褪せぬ」
 「白銀の」は銀燭ので、明るく光り輝く。「灯」は、昭和50年寮歌集で「燈」に変更された。「自治の灯」は、自治の教え。祭の灯で具現する。「褪せる」は、駒場移転を踏まえた表現。一高の伝統は古くなり色褪せている。駒場移転を機に伝統を見直す必要がある意であろう。
 「一高の栄ある伝統の後退にも触れ」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

 「第二節の『自治の灯色褪せぬ』以下は、向陵の外圧をはねのけて自治を守ってきた長き傳統に対する尊敬と、その最近の後退に対する慨きとを、一気に吐きだしたもの。・・・全節をくり返し読む時、色褪せた自治の灯の復活への強い祈りが、一見護国調とからみつつ、切なくせまってくる。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
王師幾度(いくたび)辛酸(しんさん)の 朔北の野に勝軍 瀋陽(はんやう)()ちて一萬里 興安嶺の日章旗(ひのみはた) 北雪胡雲収(ほくせつこうんおさ)まりて 東亞の繁栄(さかえ)我に在り 3番歌詞 帝国陸海軍が、日清・日露の戦争以来、特殊権益を守るために苦労してきた満洲の地で日本が勝った。満州事変が始まった翌日には瀋陽を占領し、その後も1月に錦州、2月にはハルピンと瞬く間に全満鉄沿線から張学良軍を駆逐した。興安嶺に日章旗がひるがえって、満洲はこれで収まった。東亜の繁栄は日本国のものである。

「王師幾度辛酸の」
 「王師」は、帝王の軍隊。日本帝國陸海軍。「辛酸」は、辛い苦しみ。苦い経験。日清日露戦争以来の戦いをいうか。
 「王師の金鼓地を搖れば」(明治38年寮歌)

「朔北の野に勝軍」
 「朔北」は北方の地、特に中国の北方にある辺土。満州事変のことをいう。
 昭和6年9月18日  関東軍参謀ら、柳条湖の満鉄線路を爆破、これを口実に
              総攻撃を開始ー満洲事変始まる。
    7年1月 3日  関東軍、錦州占領。
       2月 5日  ハルピン占領。
          6日  陸軍・海軍・外務3省関係課長、満州国独立方針を協定。
       2月29日  国際連盟リットン調査団来日。
       3月 1日  満州国建国宣言(9日ラストエンペラー溥儀執政に就任)

「瀋陽陥ちて一萬里」
 「瀋陽」は、中国東北の旧満州の中心都市。民国時代以降は瀋陽とも奉天とも呼び、現在は瀋陽。 大正6年9月18日の柳条湖事件(満洲事変の始まり)の翌日に瀋陽占領。「一萬里」は、随分長い距離をいうか。ちなみに地球一周の距離は4万キロで、約1万里である。

「興安嶺の日章旗」
 満洲の地を日本が占領し、日章旗を掲げたことをいう。「興安嶺」は、中国東北部の高原ないし丘陵性の山系。西側を北東方向に走る延長約1200キロメートルの海抜1100から1400メートルの大興安嶺と、北部で南東方向に転じて黒竜江沿いに走る延長400キロメートルの小興安嶺に分かれる。

「北雪胡雲収まりて 東亞の繁榮我に在り」
 関東軍は、全満鉄沿線から張学良軍を駆逐し、紀念祭直前の1月3日には錦州、2月5日はハルピンを占領するなどほぼ4ヶ月半の間に、全満洲を占領し、満州国独立を図った。このことを踏まえる。「北雪胡雲」は満洲、中国東北地区をいう。
輪廻(りんね)運命(さだめ)中空(なかぞら)に 興亞(かうあ)の星の(のぼ)るらん 雪山(ヒマラヤさん)に雲(ひら)け 恒河(ガンジスがは)黎明(あさぼらけ) 没する()なき奮世界(ふるきよ)の 覇者永久(とこしえ)に覇者ならず     4番歌詞 盛者必衰の運命により、西洋は没落し、東洋の時代が来る。今に天の中央に、興亜の星が輝くことであろう。インドでは、イギリスの支配から独立できる展望が開け、ガンジス河は、朝を迎えようとしている。七つの海を支配し、「領土に日落つる時なし」と誇った大英帝国も、永久に世界の覇者であることは出来ないのである。

「輪廻の運命中空に 興亞の星の上るらん」
 「興亜」は東洋の勢いを盛んにすること。シュペングラーの「西洋の没落」を踏まえるか。「輪廻の運命」は、この歌詞最後の「覇者永久に覇者ならず」ということであろう。
 ドイツの文化哲学者シュペングラーは、主著「西洋の没落」(第1巻大正7年刊、第2巻大正11年刊)の中で、世界史を八つの独立した高度の文化圏に分け、それぞれが独立した生成・繁栄・没落の過程をたどる。そのうちヨーロッパのキリスト教文化は既に終末を迎えていると断言し、第一次大戦後の西ヨーロッパの危機感を背景に大きな反響を呼んだ。
 「榮華は古りし二千年」(大正12年「榮華は古りし」1番)
 「見よやアングロ・サクソンの文化の園はたそがれつ 今こそ吾等盟邦と 新しき世の指標なる 文化の塔をたてんかな」(昭和17年「月を背にして」7番)

「雪山に雲闢け 恒河の黎明」
 昭和6年9月7日、第2回英印円卓会議にガンジーが自治領の地位を獲得できる可能性が出てきたとして国民会議派を代表して参加したことを踏まえる。しかし、結果はイギリスから何の譲歩も得ることが出来ず、不服従運動を退潮させるだけに終わった。「雲闢け 恒河の黎明」は、イギリスの支配からの独立の展望が開けたこと。
 昭和5年6月5日 瑞穂会主催でインド亡命志士ラ・ビ・ボースの「インド問題」と題する講演会を開催。「インドを救え」との熱弁に一同感激したが、生徒主事は無届開催を厳重注意した(「一高自治寮60年史」)。

「没する陽なき奮世界の 覇者永久に覇者ならず」
 「舊世界」は、七つの海を支配し太陽の沈むことのない広大な地を領土とした大英帝国を踏まえる。ちなみに、日本外交の要と言われた日英同盟は、ワシントン会議で結ばれた四ヶ国条約(昭和6年12月13日)第4条で最終的に破棄された。
 「七つの海を支配して 領土に日落つる時なしと 榮華に驕る老國に 落暉の光今淋し」(昭和16年「北海浪は」2番)
春橄欖の枝輕く 夏蔚林(うつりん)の影重し 金環(きんかん)城を照らす秋 銀礫園(ぎんれきその)に散らふ冬 向ヶ岡の(あさ)(ゆふ) 故國の風物(すがた)見て果てし 5番歌詞 昭和6年度は、様々なことがあった。春は、思想問題で第4次大量処分の発表があり、夏は、赤城山で合宿中の撃剣部員3名が遭難して死亡した。秋は、第4回目の「向陵誌」の刊行があり、冬には、また思想問題で第5次大量処分の発表があった。これが、朝な夕な見てきた向ヶ丘の一年間の主な出来事である。

「春橄欖の枝輕く 夏蔚林の影重し」
 「春橄欖の枝輕く」は、昭和6年3月13日の思想問題で第4次大量処分発表があったこと。「夏蔚林の影重し」は、7月15日、撃剣部員3名が赤城山で合宿中、遭難死亡した事故をいう。「橄欖」は一高の文の象徴。「蔚林」は草木の盛んに生茂るさま。赤城山をいう。5番歌詞は、春夏秋冬の四季全てを折り込んで詠う。
  「昭和6年3月13日 学校、思想問題で19名の第4次大量処分発表。放校1、除名3、停学11、戒飭4。この年、学生の左翼思想事件頂点に達し、全国で395件、学生処分991人。他方、学生の右翼組織も拡大する。」(一高自治寮60年史」)

 「7月15日撃劔部部員3名赤城山にて遭難の慘事あり。即ち撃劔部は今夏大洞湖畔に於て合宿練習を行ひし際文科廣瀬久二郎、同本郷敏夫、同斎藤實の3名は明媚なる風光を鑑賞せんと夜小舟を湖上に浮べ、その際不幸にして遭難し翌日未明此の事實を發見せしものなり。捜索せしも僅に転覆せるボートを發見せしのみなりき。帝室林野局、地元青年團等の應援を得て錨綱等を用ひて鋭意死體捜索に努力したれども、水深70尺の湖水なれば中々に進捗せず1週間後に漸く廣瀬君の死體浮び更に1週間後31日に至り本郷斎藤両君の死體浮びたり。紺青の大沼に多望なる三君はその生命を一時に埋めぬ。」(「向陵誌」昭和6年)
 『上つ毛の赤城の山にたつきりは はるゝもしらず怨ある霧』」(「向陵誌」昭和6年撃劔部部史)

「金環城を照らす秋」
 昭和6年9月10日、「向陵誌」(第4回)を刊行したことをいう。「金環」は月。「城」は寄宿寮。
 「橄欖の梢の尖に 香はしき金環懸り」(大正14年「橄欖の梢の尖に」1番)

「銀礫園に散ろふ冬」
 昭和7年1月23日、思想問題(三高戦問題を契機に発覚)で15名の第5次大量処分があったことをいう。「銀礫」は(あられ)。左翼学生は、既に12月には検挙されており、処分あることは、寮歌作詞時点で十分に予想されていた。
 「あられたばしる武蔵野に」(明治41年「野球部凱歌」1番)
 「『銀礫』は『ぎんなんの実』の意。しかし『園に散らふ冬』とちょっと季節がずれるようにも思われる。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「梁の皇太子簡文の詩に例があるように、冬の情景として『霰(あられ)』と解するのが妥当であろう」(森下東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」)
 「昭和7年1月25日、学校当局は、前年11月に以来起った三高戦問題に関連し、検挙された左翼学生ならびに”使嗾されたとみられる者”計15名について、除名1、停学9、戒飭3、注意2の処罰を発表した。」(「一高自治寮60年史」)

「向ヶ丘の朝な夕 故國の風物見て果てし」
 5番歌詞に春夏秋冬の四季を詠ったこと。この場合「故國」は「ふるさと」と読むか。日本のことであれば、3番歌詞。
春光(しげ)き向陵に 三年の昔立ちしより 櫻花(あうくわ)再び丘に咲き 柏葉三度搖落(はくえうみたびえうらく)す 悲しき眞理永久(しんりとこしへ)に ()へる(すべ)なき丘の夢   6番歌詞 春の光が燦々と降り注ぐ向ヶ丘に、三年前に登ってから、桜は二回丘に咲き、柏葉は三回落葉した。向ヶ丘を去る時になっても、悲しいことに追い求めた真理は永遠の彼方にあり、また向ヶ丘の思い出を今に返す術はない。

「春光翳き向陵に」
 「翳」の字のもともとの意味は、おおい。君主の車の、鳥の羽で飾った絹のおおいをいう。

「櫻花再び丘に咲き 柏葉三度搖落す」
 三年を経過したことをいう。桜は二回咲き、柏葉は三回葉を落とした。「再び」は、二回。「搖落」は、揺れ落ちること。落葉。

「悲しき眞理永久に 返へる術なき丘の夢」
 「悲しき眞理」は、悲しいことに、追い求めた真理は永遠の彼方にあり、という挫折感。「返へる」は、もとの状態に戻る。「丘の夢」は、向ヶ丘の思い出。
嗚呼一千の我が友よ 新潮(にひしほ)洗ふ八寮に 理知の輝き至誠(まこと)もて 濁る思潮(してふ)()(きよ)め 祖国の使命諸共(もろとも)に 四海の波を(しづ)めてん    7番歌詞 嗚呼一千の一高生よ。時代の波が次々に一高寄宿寮に押し寄せているが、理智を輝かせ、誠の心を以て、濁った思想が入ってくれば、浄化して、これを研ぎ澄ませ、東亜の繁栄を願う我国の使命に沿って、満州事変に対する国際的非難を一緒に鎮めよう。

「嗚呼一千の我が友よ」
 一千は、1年生から3年生までの全一高生のおおよその数。

「新潮洗ふ八寮に」
 「新潮」は、時代の波。その時代時代の新しい波。「八寮」は、一高寄宿寮(東・西・南・北・中・朶・明・和の八棟)。

「理智の輝き至誠もて 濁る思潮を磨ぎ清め」
 「濁る思潮」は、汚れた思想。左翼思想のことか。その逆か。「思潮」は、その時代の人々の思想の傾向。思想の流れ。

「祖國の使命諸共に 四海の波を鎮めてん」
 満州事変で我国が国際的な非難を浴びているとき、一高生としてもこの非難を鎮めるように努力しなければならない。「祖國の使命」は、3番歌詞の「東亞の繁榮」である。「四海」は四方の海、世界。「四海の波」は、満州事変の国際的非難をいうと解す。
 「昭和6年12月2日 満洲事変をめぐり国際連盟で孤軍奮闘中の松平恒雄大使、杉村陽太郎連盟次長の両先輩に『国事多難御奮闘を祈る』の激励電報を『一高寄宿寮』の名で発信」(「一高自治寮60年史」)
 「作者の内面では明暗二面がせめぎあっている。その様相は、結びの第七節により一層明らかで、ここにいう『新潮』といい、『濁れる思潮』といい、内容的には複雑で、昭和年代初期の不況による失業者の増加、農村の疲弊等から来る不安でかつ厭世的な空気、その状況への反抗と革新の機運から生じた左右両面の過激な革新的思潮、そういう入りくんだ情況の中での頽廃と軽佻浮薄の世相などが作者の念頭にあって、最終節の『理智の輝き至誠もて、濁る思潮を磨ぎ清め』との強い願いがうち出されたのだと思われる。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
                        

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