旧制第一高等学校寮歌解説

吹く木枯に

昭和7年第42回紀念祭寮歌 

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1、吹く木枯に橄欖の     ふるふ梢の響かな
  魂に通ひて今宵又     草笛とりし若き兒の
  奏づる曲を知るや君    如月時の唄にして

2、あゝ北滿に雲低く      血潮流れて氷なし
  あやめもわかぬ闇の野を (つんざ)く聲も嚴かに
  おゝこの叫び新た世を   告ぐる朝の鐘なれや

3、夕の星の消えゆきて    北斗かそかに歎く時
  濁世の眠り醒さばや    あゝ我が友よいざ起たむ
  芙蓉の峰に曉の      光のさすに先立ちて

4、眞理(まこと)の園は遠くとも     人生(いのち)の道はこヾしくも
  血もて穢れを清むこそ   柏の森の掟なれ
  熱き欣求に掌を合せ     己が力に祈らなむ

5、時の流れは遠くとも     三年は我が力なり
  今宵流離の運命(さだめ)とて    君歎かんかしかすがに
  魂の小琴のふれ合ひし   橄欖の下な忘れそ
昭和10年寮歌集で、次のように変更された。
1、強弱記号・ブレス  
 4段4小節の「強く熱を以て」は削除され、代わりに、ブレスを置いて、フォルテに変わった。6段3小節の「抑へて」は削除されたままである。その代わりであろうか、「うたーにして」の「たー」にスラーがかけられた。「強く熱を以て」「抑へて」の部分を私なりに解釈して、原譜のMIDI演奏に工夫を加えました。如何でしょうか。

2、音
1)「ずえの」の「え」(2段2小節2音)        ミに。 
2)「わかーき」の「かー」(4段3小節1・2音)    ドー1音に。
3)「かなづる」の「か」(4段4小節2音)       ド(高)に。 

 作曲された時から嬰ト短調(ハーモニカ譜の表示はロ調)の曲で、伝統的な2拍子のタータのリズム(付点8分音符と16分音符の組合せ)。哀愁を帯びた調子のいい曲である。嬰ト短調は、めったに使用されないが、短調の中でも最もきらびやかな調だそうだ。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
吹く木枯に橄欖の ふるふ梢の響かな 魂に通ひて今宵又 草笛とりし若き兒の 奏づる曲を知るや君 如月時の唄にして 1番歌詞 木枯しが吹いて、橄欖の梢が音を立てて震えている。今宵も亦、悲しそうな草笛の音が聞こえてきて、心が痛む。君もその草笛の音は知っているだろう。2月1日の紀念祭を前にして、本来は楽しいはずなのに、左翼思想取締りにより、本富士署に連行され学校から処分される友のことを思うと可哀そうでどうしようもない。

「吹く木枯に橄欖の ふるう梢の響かな」
 満洲事変の勃発、左翼思想の取締り強化等の厳しい時代の波が向陵に引き続き押し寄せていた。「吹く木枯」は左翼学生の取締り。「橄欖のふるふ梢の響」は、その取締りに動揺し不安に慄く一高生(特に左翼思想の)。「橄欖」は、一高の文の象徴。
 「昭和6年3月13日 学校、思想問題で19名の第4次大量処分発表。放校1、除名3、停学11、戒飭4。この年、学生の左翼思想事件頂点に達し、全国で395件、学生処分991人。他方、学生の右翼組織も拡大する。」(「一高自治寮60年史」)
 「昭和7年1月25日、学校当局は、前年11月に以来起った三高戦問題に関連し、検挙された左翼学生ならびに”使嗾されたとみられる者”計15名について、除名1、停学9、戒飭3、注意2の処罰を発表した。」(同上)
 「1月25日には寮生13名の處分發表せられて寮内を驚かしぬ。こは去んぬる年、三高戰問題に關連して検擧を受けたる左翼運動の關係者及び之に使嗾せらし(使嗾せられし?)者に行はれたるものにて、以て將來の輕擧妄動を愼めしものなり。眞の學理の探究に身を置かず徒に街頭に身を下して輕擧妄動をなし、かゝる多數の被處分者を出せるに至りしは千載の恨事と云はざるべからず。」(「向陵誌」昭和7年)

「魂に通ひて今宵又 草笛とりし若き兒の 奏づる曲を知るや君」
 元富士署に検挙され、当局の処分を待つ左翼学生を気遣ってか。

「如月時の歌にして」
 「如月」は、本来陰暦2月の称だが、ここでは紀念祭のある陽暦2月をいう(ちなみに、この年の2月1日は陰暦では、前年の12月25日で師走である)。「歌」は、もちろん紀念祭寮歌であるが、「如月時」としたのは、楽しいはずの紀念祭も、厳しい左翼取締りで本富士署に連行されてゆく友のことを思えば、心が痛み悲しくなるの意を込めるものであろう。
あゝ北滿に雲低く 血潮流れて氷なし あやめもわかぬ闇の野を (つんざ)く聲も嚴かに おゝこの叫び新た世を 告ぐる朝の鐘なれや 2番歌詞 嗚呼、北満に雲は低く立ち込め、奉天(現瀋陽)近郊・柳条湖には血潮が流れて氷となっている。敵味方さえ見分けがつかない闇の野を劈く銃声も厳かに、中国軍に対し総攻撃を加える、おゝ、この叫びこそ、新しい世を告げる朝の鐘である。

「あゝ北滿に雲低く 血潮流れて氷なし」
 「北満」は、北の満洲の意で、満洲の北部ではないと解す。満州事変の端緒となった柳条湖事件をいう。「血潮流れて氷なし」の「なし」は、「()(生)し」か「無し」か。満洲といっても9月は、せいぜい霜が降りる程度の秋景色で冬ではなく、また北シベリアのような永久凍土のツンドラ地帯でもない(ちなみに瀋陽市の9月の平均最高気温は23.6℃、平均最低気温は12.1℃程度である)。しかし、寮歌の詞の上からは、夏の7月に起きたアムール川事件で「氷りて恨み結びけむ」とあることから、「血潮が流れて氷となり」と解しても許されよう。氷が張ってないわけであるから、暖かい血潮が氷を溶かして「氷無し」の事態もないが、これも詞的には許されるか。この句が「アムール川」を念頭に置いたものと考え、前者の「成(生)し」と解して訳した。
 「アムール川の流血や 氷りて恨結びけむ」(明治34年「アムール川」1番)*アムール川事件は7月で夏。
 昭和6年9月18日 関東軍参謀ら、柳条湖の満鉄線路を爆破、これを口実に
              総攻撃を開始ー満洲事変始まる。
    7年1月 6日 陸軍・海軍・外務3省関係課長、満州国独立方針を協定。
 「『あゝ北満に雲低く』は、前年の昭和6年6月、北満奥地を調査中の中村震太郎大尉ほか三名が中国軍に殺害された、いわゆる中村大尉事件をさすか。満州事変の直接の発端となった昭和6年9月の柳条湖事件が起きたのは奉天の近くで、北満ではない。ただ、関東軍はその後わずか5箇月で北満のハルピンを含む満洲全土を占領した。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」) 
 「『血潮流れて氷なし』の『氷なし』は『氷()し』で、氷になることを意味すると解する。ここでは、『血潮が氷になった』という表現により、死者の流した血であることを印象づけている。」(同上)

「あやめもわかぬ闇の野を」
 「あやめ」(文目)は、(織目・木目などの)模様。見分け、聞き分けられる区別。「分かぬ」は、見分けられない。「闇の野」は、奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖附近の戦いの野。

「おゝこの叫び新た世を 告ぐる朝の鐘なれや」
 柳条湖事件は、関東軍参謀板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐が計画した爆破事件であったが、関東軍は張学良軍の仕業であると偽って、張学良軍の北大営に総攻撃を開始した。国民は謀略であることを知らされず、関東軍の軍事行動を支援した。この句も満州一帯に軍事行動を拡げる関東軍の行動を「新た世告ぐる鐘」と支援する。*私たちは学校で、「柳条湖」でなく「柳条溝」と習ったが、「柳条湖」が正しい名。
 「9月18日満州事變勃發せり。當時議會政治及び政黨の信用地に墜ちたりと言ふべく金解禁後の經濟的狀勢不安定にして且つ對支外交に彼我互に相齟齬する所あり。世は渾沌として社會機構の運用澁滞を極めぬ。於茲社會は必然的に何物かの勃発を求め居たり。・・・所謂柳條溝の鐡道破壞事件として満洲事變は起らずとも何時かは何等かの形に於て起りしものなり。・・・・
 満洲事變勃發後満洲に於て以前我等が教官たりし島本中佐の大なる活躍ありき。島本中佐はその豊富なる思想と明確なる態度を於て吾等一千の尊敬の的なりき」(「向陵誌」昭和6年)
 「昭和6年9月18日 この日を以て我日本歴史はその進路を一定しぬ。二百年の鎖國の夢破れ西歐文明の滔々と侵入せし中に、我が満蒙經営は日清、日露両役を經、東洋平和維持の絶對使命なりしなり。しかりと雖も十萬の生靈と20億の財を以て償へる我が満蒙特殊權益は徒らに排日侮日の徒の蹂躙する所となりにしなり。9月18日夜支那正規兵の満鐡線爆破は遂に我が隠忍自重を破りぬ。暴戻は膺懲せられざるばからず。自衛の矛は執られざるべからざるなり。全日本の震駭云ふを俟たず、全世界の耳目亦一齊に聳動せられぬ。我が永遠の大和民族は今し全世界の檜舞台にその強烈なる第一歩を印せしに非ずや。」(「向陵誌」辯論部部史昭和6年)
 「満州事変が、もともとは関東軍の幹部将校たちの野心と陰謀によって起こされたものだったということは、日本敗戦後に初めて明らかにされたことで、当時の一般日本人はこの事変を正しい目的をもった戦争だと思い込まされていたので、寮歌の歌詞も当然その線に沿って作られている」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「前年9月18日に、柳条溝の満鉄路線爆破を口火に、関東軍出動、ここに始まった満州事変はその後の日本の昭和史狂瀾の第一波をなしたのだったが、この頃、昭和20年の日本敗戦に至るまでの運命を、透視した達人は殆んどいなかった。然し、ただならぬ日本の前途、という不安は、国民の心ある人が皆抱いたろう。この寮歌の第二節は、その不安を、強いて終りの三行で、強い希望に結びつけている。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
夕の星の消えゆきて 北斗かそかに歎く時 濁世の眠り醒さばや あゝ我が友よいざ起たむ 芙蓉の峰に曉の 光のさすに先立ちて 3番歌詞 宵の明星が消えて、北斗の星の光も今にも消えそうな時、すなわち、残念ながらこの世に真理や正義が通らなくなった時は、さあ、我が友よ、濁ったこの世の眠りから目を醒ましてほしい。富士の峰に朝日の光が射す前に、一高生が魁となって、いざ起とうではないか。

「夕の星の消えゆきて 北斗かそかに歎く時」
 「夕の星」は、宵の明星。真理を黙示する星。「北斗」は北極星。真理、正義を象徴する。それらの星が「消えゆき」、「かそかに」であるということは、この世に真理や正義がまかり通らなくなる時をいう。

「濁世の眠り醒さばや」
 「濁世」は、仏教語で濁ったこの世の意。現世。この世。「ばや」は、自分の希望を表す助詞。

「芙蓉の峰に暁の 光のさすに先立ちて」
 一高生は、この日本の魁となって、濁世に警醒の鐘を鳴らし、起たねばならない。「芙蓉の峰」は、富士山。
眞理(まこと)の園は遠くとも 人生(いのち)の道はこヾしくも 血もて穢れを清むこそ 柏の森の掟なれ 熱き欣求に掌を合せ 己が力に祈らなむ 4番歌詞 真理追究の旅の目的地は遠くとも、また道は険しくとも、熱血の意気をもって世の不条理に立ち向い、これを正して真理の道を行くのが一高生の務めである。自分の力で真理が得られるように、熱心に手を合わせて祈ろう。

「眞理の園は遠くとも 人生の道はこゞしくも」
 「眞理の園」は、一高生が求めて止まぬ真理のある目的地。「人生の道」は、真理を求める旅路。「こゞし」は、ごつごつとしている。けわしい。
 「(はる)けくも嶮岨(こごし)旅路や」(昭和6年「彩雲は」3番)
 「人の世の(こご)しき路に」(昭和15年「人の世の」1番))

「血もて穢れを清むこそ 柏の森の掟なれ」
 「柏」は、橄欖とともに一高の象徴。「掟」とは責務。「血」は、熱血の意気の意。鉄拳制裁のことではない。鉄拳制裁は、偽一高生に対する不法逮捕・監禁事件を契機に、大正11年12月16日に廃止された。
 「血とは、熱血の意気をさすもので、ブラッドでないこと勿論である。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
 「『血で罪や穢れを清める』という場合の『血』とは、『熱血の意気』ではなく、『犠牲』(いけにえ)を意味すると解するのが順当であろう(キリスト教の場合の例として、キリストの血、羊の血などがあげられる)。寮生の寄宿寮規約違反(=穢れ)に対しては、寮委員会が退寮、譴責、禁足などの制裁(=血)を課し、退寮の処分を受けたものは学校にとどまることを許されないというのが、一高自治寮の伝統であった。『柏の森の掟』とは、このことを指すと解する。鉄拳制裁説は適切でない。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」) 

「熱き欣求に掌を合せ 己が力に祈らなむ」
 「欣求」は、喜び求めること。「己が力に祈らなむ」は、自分の力で真理が得られるように祈ろう。
 「秘鑰を捨てゝ合掌の おのれに醒めよ自治の友」(大正9年「春甦る」6番)
時の流れは遠くとも 三年は我が力なり 今宵流離の運命(さだめ)とて 君歎かんかしかすがに  魂の小琴のふれ合ひし 橄欖の下な忘れそ 5番歌詞 人生は、まだまだ長くても心配することはない。三年間、向ヶ丘で培った友情、知識、経験は、これからの自分の人生に大きな力となるであろう。今夜、向陵を離れる運命にあるからといって、君は歎くであろうか。そうではあるが、橄欖の木の下で、友と語り合い、肝胆相照らして友情を盟ったことを忘れないでほしい。

「時の流れは遠くとも 三年は我が力なり」
 「時の流れ」は、人生。「三年」は、向ヶ丘三年。
 「旅行く子等の胸に生き 強き力とならん哉」(大正3年「黎明の靄」1番)
 「三年の糧は青春の 永久の泉と知るや君」(大正8年「まどろみ深き」3番)
 「丘の三年のその夢を 長き力と守り行かむ」(大正7年「霞一夜の」4番)

「今宵流離の運命とて」
 「流離」は、故郷=向ヶ丘を離れ他郷にさ迷うこと。

「君歎かんかしかすがに」
 「しかすがに」は、そうあるところで、の意が古い意味。転じて、そうではあるが。それでも。

「魂の小琴のふれ合ひし 橄欖の下な忘れそ」
 「魂の小琴」は、魂がかき鳴らす琴。心の奥底の感動し共鳴する微妙な心情。「ふれ合ひし」は、共鳴した。「橄欖の下」は、友と理想を語らい、肝胆相照らして友情を結んだ場所である。
あゝ若人よ今宵いざ 溢るゝ思ひ抱きつゝ 銀燭の蔭手を握り 生命(いのち)(うた)うたはずや 希望(のぞみ)の胸の燃えむまで おゝ四十二の紀念祭 6番歌詞 あゝ若人よ今宵いざ、向ヶ丘に対する尽きせぬ思いを胸に抱きながら、明るく輝く祭りの灯の下で手を取り合って、我らが生命の歌である寮歌を歌おうではないか。将来への希望が胸に燃え上り向ヶ丘への思いを断ちきることができるまで、おお、第42回紀念祭を歌い明かそう。

「あゝ若人よ今宵いざ 溢るゝ思ひ抱きつゝ」
 「若人」は、一高生。「溢るゝ思ひ」は、向ヶ丘に対し、友に対し尽きせぬ思い。

「銀燭の蔭手を握り」
 「銀燭」は、明るく光り輝く灯。「手を握り」は、手を取り合って。

「生命の詩うたはずや」
 「生命の詩」は、寮歌。
 「寮歌は、我等の心の奥底にひそむ生命の力を、揺り動かしてくれる天籟である」(「昭和30年一高寮歌集」峯尾都治・竹田 復序)
 「双眸にやどす耀きを 生命の詩と誰か知る」(大正9年「春甦る」4番)
 「思へ柏の蔭に來て まこと生命の詩人と 運命を荷う子羊よ」(大正4年「無言に憩ふ」4番)

「希望の胸の燃えむまで」
 「胸の燃えむまで」は、気力情熱が盛んに起こるまで。ここでは、将来への希望が、向ヶ丘への「溢るゝ思ひ」を燃やしてしまうまでの意。将来への希望が湧き向ヶ丘への思いを断ちきることができるまで。

「おゝ四十二の紀念祭」
 「向陵誌」自治寮略史の第42回紀念祭に関する記事は、1行に満たず簡単である。
 「2月1日、第42回紀念祭を迎ふ。祝賀式に鳩山文相の出席あり。盛大に一日の歓を盡せり。」(「向陵誌」昭和7年)
 「第六節などをよんでいると、『ああここにも青春あり』と、老兵はしみじみとおもふ。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
                        

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