旧制第一高等学校寮歌解説
丘邊の春に |
昭和4年第39回紀念祭寮歌
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1、丘邊の春に今日も來て 高らに吹けど草笛は むなしく空に消え入りて かへすすべなき三年かな 4、星のみ冴えて更け行くを かがり火焚きて生命よと 珠のさかづきささげてし かの祭こそ今宵なれ 5、こがねの鞭にきほひ立つ 怪奇の群のかなしきに 一夜を宿るおもひでの 丘には耻はあらざりき |
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昭和10年寮歌集で、各段3小節のスラーが外されたが、その他は変更はない。Moderatoは中庸の速さで、espressivoは表情豊かに、という意味。 |
語句の説明・解釈
語句 | 箇所 | 説明・解釈 |
丘邊の春に今日も來て 高らに吹けど草笛は むなしく空に消え入りて かへすすべなき三年かな | 1番歌詞 | 卒業生として、今年もまた春の紀念祭に向ヶ丘を訪れた。しかし、草笛を高らかに吹いても、何の感傷もなく、むなしく空に消えてゆく。向ヶ丘で過ごしたあの頃には、もう帰ることは出来ないのだなあ。 「丘邊の春に今日も來て」 「丘邊の春」は、向ヶ丘の紀念祭。「今日も來て」は、今年もまた訪れて。作詞の郡 祐一は大正14年文甲卒であるから、一高卒業後4年経っている。 「高らに吹けど草笛は むなしく空に消え入りて」 「むなしく空に消え入りて」は、草笛を吹いても何の反応も、感傷もないということ。 「かへすすべなき三年かな」 「三年」は、向ヶ丘で過ごした三年。 |
霜に明けゆく丘に立ち 力に滿ちて涙せし 朝もありしかおもほへば あたたかかりし涙かな | 2番歌詞 | 霜の降りた寒い明け方、向ヶ丘に立って、厳しい寒さに負けてはならないと、じっと我慢して涙を流した朝もあったのだったなあ。思えば暖かい涙であった。 「霜」は、厳しい試練を暗喩する。左翼思想取締りをいうか。霜の季語は冬。 「力に滿ちて涙せし」 「力に滿ちて」は、頑張って。厳しい試練に堪えようと我慢して。 「朝もありしかおもほへば」 「ここの『しか』は、回想の助動詞「き」の連体形『し』+詠歎の助詞『か』と見るべきであろう。『あったのだったなあ」の意」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) 「あたたかかりし涙かな」 「あたたかかりし」は、昭和50年寮歌集で「あたゝかゝりし」に変更された。 |
橄欖の葉をもるる陽に 頬をそめつつひたすらに 眞理の像をきざむ子の 不滅の姿ここに見き | 3番歌詞 | 橄欖の葉をもれる木漏れ日に頬を紅潮させて、ひたすら真理を追究する一高生の昔ながらの姿を向ヶ丘に見た。 「橄欖の葉をもるる陽に」 「橄欖」は、一高の文の象徴。「もるる」は、昭和50年寮歌集で「もるゝ」に変更された。「陽」は、木漏れ日。太陽は、真理を象徴する。 「頬をそめつつひたすらに」 「そめつつ」は、紅潮させて。昭和50年寮歌集で「そめつゝ」に変更された。 「眞理の像をきざむ子の」 「眞理の像をきざむ」は、真理を追究する。「子」は、一高生。 「不滅の姿ここに見き」 「不滅の姿」は、昔ながらの姿。「ここに」は、昭和50年寮歌集で「こゝに」に変更された。 |
星のみ冴えて更け行くを かがり火焚きて生命よと 珠のさかづきささげてし かの祭こそ今宵なれ | 4番歌詞 | 夜が更けて、夜空には星のみが澄んだ光を放っている。命よ燃え上れと篝火を焚いて、魂を込めて酒を乾杯した、あの紀念祭こそ今宵なのだ。 「珠のさかづきささげてし」 「珠のさかづき」の珠は美称。玉杯に同じだが、ここでは「かヾり火焚きて生命よと」の「生命」を受けて「魂」をかける。「ささげてし」は、昭和50年寮歌集で「さゝげてし」に変更された。 |
こがねの鞭にきほひ立つ 怪奇の群のかなしきに 一夜を宿るおもひでの 丘には耻はあらざりき | 5番歌詞 | 金銭の亡者となって、金儲けを競っている怪物のような資本家の哀れなことよ。今日一夜の宿を借りる思い出の向ヶ丘には金銭に毒された恥はなかった。すなわち、向ヶ丘は、昔と同じように俗塵に侵されることなく清かった。 「こがねの鞭にきほひ立つ 怪奇の群のかなしきに」 「こがねの鞭にきほひ立つ」は、黄金を求めるように鞭打たれ競い合っている。「怪奇の群」は、資本家。 「『鞭』の比喩は、普通、咎める場合、教えさとす場合などに使うので、ここで『鞭』というのは適切でないが、ここでは『馬に鞭うつ』の連想で、金銭の力につき動かされていることへの皮肉がこめられていよう。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) 「丘には耻はあらざりき」 向ヶ丘には金銭の亡者のような恥になるようなことはなかった。俗塵に侵されることなく、清かった。 「金が支配力を揮う世俗への反撥、憎悪の念が暗にこめられているようである。推測するに、三年前(大正15年「生命の泉」)との姿勢の違いは、率直な表現ができなくなったがための韜晦であった可能性が高い。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) |