4.競技かるたの復興

戦時中の苦難と愛国百人一首

 隆盛を極めたかるたも、戦時中は中止を余儀なくされた。「国家非常時、国民総動員の今日、恋の歌を弄ぶとは何事ぞ」
(*1)ということで憲兵によって待ったをかけられたのだ。大阪大会は昭和16(1941)年、東京大会は昭和17(1942)年に中止となる。その他の各地の大会も昭和14(1939)年までに姿を消した(*2)
 大日本かるた協会は、苦肉の策として「愛国百人一首」を用い、昭和18(1943)年2月11日「第1回愛国百人一首大会」を橿原神宮外苑にて開催した。約200名の参加があり、選手の神宮参拝の後、歌人川田順の愛国百人一首についての講演、愛国かるた協会理事・伊藤秀吉のかるた競技についての講演に引き続き、湯川鴻堂(京都かるた協会)の朗詠によって試合が開始された
(*3)。当時の新聞報道によれば、大会参加者中最年少の和歌山県市吹上国民学校5年の生岡康次(当時13歳)が、健闘を見せたと伝えられている。しかしこの第1回大会を限りに、会場は戦火に焼かれ、選手も霧散し、最後となってしまうのであった(*4)
 この時用いられた「愛国百人一首」とは、昭和17(1942)年11月20日に発表された異種百人一首である。昭和16(1941)年に国民総動員を受けて結成された日本文学報国会は、事業として小倉百人一首に代わる愛国的和歌を百 首集めた「愛国百人一首」の選定を行なう。東京日々新聞と大阪毎日新聞が、全国の読者に推薦させた明治以前の物故者の和歌の中から、佐佐木信綱、斎藤茂吉、窪田空穂、折口信夫、川田順、土屋文明ら12人の歌人が選択している。そこに収められた和歌も、
   
 大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも  柿本人麻呂
 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし日本魂  吉田松陰
 岩が根も砕かざらめや武士(もののふ)の国の為にと思ひ切る太刀  有村次郎左衛門

といった具合のものであった
(*5)。この愛国百人一首は国家の政策に迎合するものであったため、発表後2年のうちに40種以上ものテキストが出版された。台湾・満州・朝鮮といった占領地はもとより、中国語・マレー語・英語に翻訳されたものまで出版されている(*6)
 

*1 伊藤秀文「かるたの歴史と遊び」(「別冊太陽/百人一首」昭和47年年12月平凡社)
*2 「かるたチャンピオン95年のあゆみ」平成11年1月全日本かるた協会
*3 「毎日新聞(大阪)」昭和18年2月12日
*4
 昭和17年と18年には福岡でも愛国百人一首大会が開催されているようである。
    原田敬次郎「九州かるた界について」(「かるた展望13」昭和59年8月)による
*5 愛国百人一首については次のサイトを参照のこと。
    「高野仁のページ」(
http://www.sfc.keio.ac.jp/~takano/index.html)
    「短歌研究室」(http://member.nifty.ne.jp/takeshita-tanka/kenkyuusitu.htm
*6 吉海直人「百人一首への招待」1998年12月 ちくま新書

かるたの復興と第1期名人位戦

 かるたが戦後に復活したのは昭和21(1946)年12月1日、東京神田の西神田クラブに於いてであった
(*1)。東京かるた会によって明治38(1905)年に第1回が開催されたこの大会は、これが112回目にあたっていた。

 この昭和21(1946)年には、日本各地でかるたの団体の設立が相次いだ。まず、北陸・近畿・東海地方で、「西日本かるた連盟」(西田直次郎理事長)が結成された。同年には東京でも「日本かるた協会」(伊藤秀吉理事長)が設立
され(*2)、昭和23(1948)年に第1回の大会を開催している。また、明治37(1904)年以来の伝統を誇る東京かるた会も、昭和25(1950)年に再興された(*3)。しかし、全国を統合したかるた団体の誕生には至らなかった。

 昭和25(1950)年頃から、かるた競技日本一を決定する名人位戦を開催しようとの動きが東京かるた会から持ち上がり、検討され始めた
(*4)。同年10月急遽「東日本かるた連盟」が結成され、西日本かるた連盟に対して、東西合同での名人位戦開催を申し入れた。また、東日本かるた連盟は、かるた競技の発展普及のために、従来の歴史的かな遣いによる「標準かるた」「公定かるた」等を廃止し、現代かな遣いによる「新制かるた」の使用を主張した(*5)。それに対し、西日本かるた連盟の西田直次郎理事長は、「名人戦の決定には全国的に権威ある統一団体を作らねばならぬ」と時期尚早を唱えた。また、「新制かるた」の使用に対しては、古典としての百人一首尊重の立場から、「全然賛意を表することができません」(*6)との回答を寄せた。それに対して東日本かるた連盟の実力者小山徹事務局長は、東京かるた会会報「かるた界」紙上に、「西日本連盟の再考を翹望す」という文章を載せ(*7)、統一団体の結成には多くの困難がある以上、まず企画を行い、その後に結成することが政治的便法であると、反駁した。
 その後も東西両連盟の交渉は続き、昭和26(1951)年12月16日の会談によって具体的な話がまとまりつつあった。翌27(1952)年の開催で、東西それぞれ1名ずつの代表選手が7回戦を戦い名人を決定すること。前半戦を東で行い、後半戦を西で行なうということである。また、使用札に関しては東側が譲歩し、歴史的かな遣いによる札を使用することで決定した。
 こうして紆余曲折の末に開催されることとなった第1期名人位戦であったが、東側は予選の末に古河明静会の林栄木(当時39歳)を代表選手として選出。一方、西側は予選を行なわず京都浅茅生会の鈴山透(当時43歳)を推薦によって選出した。東代表の林栄木は、兄の栄桓、栄宣(共に宇都宮かるた会)と共に3兄弟で知られる選手。西の鈴山は戦前からの西日本を代表する大選手であり、例えば昭和23(1948)年のかるた界の展望などでは「鈴山にいどむ者はだれか」
(*8)とまで述べられているほどである。そもそも西日本かるた連盟が名人位戦開催に消極的であったのも、「どうせ鈴山君だから」との気持ちがあったからだとも言われている。
 こうして第1期名人位戦は昭和27(1952)年1月13日に芝の日本美術倶楽部で幕を明け、3試合を行なったのち、2月10日には近江神宮に場所を移して続けられた。結果は鈴山が4−0のストレートで圧倒的な強さを見せ、みごとに第1期の名人位を獲得したのである
(*9)
 



初代名人鈴山透
(アサヒグラフ・昭和29年1月)
 


 この名人位戦開催が契機となり、同年5月20日の京都小倉忌全国大会当日、「全日本かるた連盟」の創立が実現することとなった。ちなみにこの日の大会の決勝は、鈴山と林栄木の対戦で、名人位戦の再現となったが、名人が準名人を下して貫禄を見せた。
 夏頃から、翌28(1953)年の名人位戦挑戦者を決めるべき各地の予選が開始され、東は昨年同様林栄木が、西は新鋭・石垣栄造(京都市業平会/当時22歳)が代表となった。11月23日上野韻松亭において両者による挑戦者決定戦が開催され、2連勝した林が再び挑戦者となった
(*10)
 

*1 「朝日新聞」昭和21年12月3日
*2 伊藤秀吉「かるた界の発展」(「かるた界」昭和32年2月全日本かるた協会)
*3 「かるた界 第1号」昭和25年10月東京かるた会
   なお昭和20年2代目会長・黒岩日出雄の死後東京かるた会は会長を置かず、この当時の副会長は団野精造と山田均であった。
   昭和34年以降は日出雄未亡人の黒岩良恵が昭和48年11月に死去するまで会長を努めている。
*4 「特集名人戦の歴史」(「あさぼらけ第1号」昭和29年5月青年かるた同盟)
    以下本章の大部分は同書を参照とした
*5 「かるた界 第1号」昭和25年10月東京かるた会
*6・7 「かるた界 第2号」昭和25年2月東京かるた会
*8 「かるたの友 第66号」昭和23年10月かるたの友発行所
*9 「産経新聞」昭和27年1月14日・2月11日
*10 「かるた界 第5・6合併号」昭和27年12月東京かるた会
 

かるた界の分裂

 第2期名人位戦は、昭和28(1953)年1月19日に開催される予定であったが、直前になって再び使用札の問題が再燃した。11月の挑戦者決定戦の前日、東側は突如新制かるたを使用することを主張し、翌日の試合開催が危ぶまれたが、結局その場に居合わせた鈴山名人の毅然たる態度によって事なきを得たと伝えられる。しかし、この試合に新制かるたを使用すると出版元に約束していた東側は結果的に苦境に立ち、林栄木の連勝に一切をかけ、「三回戦(実際には行なわれなかった)に使用する筈であった。」と説明したとの裏話も残されている。
 名人位戦本戦に際しても東側は新制かるたの使用を主張したため、東西のかるた連盟は真っ向から対立。結局第2期名人位戦は延期されることとなった。その後、打開を図る東側は、新制かるたに反対する鈴山名人をはずした「新名人戦」の開催を計画。同時に、新制かるたを使用する大会には経済的援助を行なうと呼びかけた結果、大阪府と福井県がそれに応じ、新制かるたを用いた大会を開催した。こうしたかるた札をめぐる争いは、当時のマスコミにも採り上げられたが、世論は歴史的かるたを支持するものが大半であったと言う。

 結局第2期名人位戦は開催されないままに1年以上が経過した。昭和28(1953)年2月、かるた名人位戦再建を目的として、「新名人戦再建連盟」(のちに「全国かるた競技連盟」と改称)が結成された。同連盟は、鈴山の名人位の消滅を宣言したが、これには第1期名人位戦の際に定められた名人の任期(1年)を過ぎたにもかかわらず、鈴山が未だに名人を称していたこととも関係していたようだ。また、同時に新たな名人位戦を、歴史的かな遣い札、現代かな遣い札を交互に使用することで決定した。同連盟結成にあたって、京都側にも発起人としての参加の要請がなされたが、京都側は当然のようにこれを拒否した。鈴山は京都において独自に「日本かるた院」を設立し、別個に名人位戦を開催する動きを見せた。
 昭和29(1954)年になって、全国かるた連盟は解散し、全国80余の団体の参加によって、新たに「全日本かるた協会」(伊藤秀吉会長)が設立された
(*1)。参加したのは東京、関東の大部分、大阪、神戸、和歌山、福井、東海の各会である。そして段位を新たに制定すると共に、新しく名人位戦を行なうこととなった。一方、それとは別に「日本かるた連盟」(愛知揆一会長)が結成されている。こちらに参加したのは、京都、金沢、仙台を中心に四国の一部、北関東、東北であった。

 全日本かるた協会主催の名人位戦は昭和30(1955)年1月に毎日新聞社の後援で東京において開催された(詳細は次章)が、日本かるた連盟主催の名人位戦も、同年2月8日、産経新聞の後援で、大阪・産経会館において開催されている。西の名人位戦は、昭和27(1952)年の名人位戦と同じ、鈴山透と林栄木の顔合わせとなった。前回名人位戦では0−4のストレートで敗れていた林ではあったが、今回は奮起し、1・2回戦を1枚、7枚と連勝し、名人位に王手をかけた。後の無くなった鈴山だったが、3・4回戦を3枚、12枚と連勝し、2対2のタイで勝負は5回戦にもつれ込む。最終戦、序盤は両者のシーソーゲームであったが、終盤に入り林が差を広げ、林1枚−鈴山5枚として、林が名人位へ残り1枚とする。追いつめられた鈴山だったが、そこから3連取し1−2。林のお手つきもあって、2−1と逆転する。最後は、林が自陣に残した「よのなかは」を「よのなかよ」で触ってしまい3枚差で鈴山が鮮やかな逆転勝ちを決めたのであった
(*2)

 日本かるた連盟はその後もしばらく、全日本かるた協会とは別個に存在していた。日本かるた連盟が解散し、全日本かるた協会と合同したのは、昭和32(1957)年になってからである
(*3)
 一方、日本かるた院を設立した鈴山は、その後も協会とは距離を置き続けた。日本かるた院
(*4)は、払い手を禁止し、押さえ手を重要視するなど、競技性よりも王朝の雅を重視している。昭和46(1971)年以降は、毎年1月3日に、京都の八坂神社における「かるた始め」の奉納儀式に参加している(写真下)。鈴山はのちには永世名人を称していた(*5)が、平成11(1998)年10月30日に91歳の生涯を終えている(*6)
 



 


*1 「毎日新聞(夕刊)」昭和30年1月14日
*2 「産業経済新聞(大阪)」昭和30年2月9日
    「日本かるた連盟通信」(昭和30年4月日本かるた連盟)に採録
*3 「かるた評論」昭和32年9月仙台秋風会
*4 現在の理事長は鈴山未亡人の鈴山葵

*5 鈴山透「歌かるた競技」(昭和44年5月田村将軍堂)

    澤井敏郎「遊びの文化と百人一首」(糸井通浩編「小倉百人一首を学ぶ人のために」平成10年10月世界思想社)
*6 「朝日新聞・夕刊」平成11年11月18日「惜別」

歴代全日本かるた協会会長



初代会長 伊藤秀吉
(「かるた展望12」昭和55年8月)
 


 昭和29(1954)年に結成された全日本かるた協会の初代会長となったのは白妙会会長の伊藤秀吉であった。伊藤は明治19(1886)年12月1日福岡県久留米市に、伊藤文吉としまの次男として生まれる
(*1)。明治35(1902)年、数え年16歳にして上京、早稲田中学の夜間部に学ぶ。2年後に共立女子職業学校に通うきんと結婚。中学時代には中央大学の校外生として卒業証書も受けている。中学卒業後、鉄道青年会に勤務 し、明治40(1907)年には満州に渡り、南満州鉄道に入社している。満鉄社内でのかるた練習会に参加したのが、かるたとの出会いであった。明治45(1912)年に伊藤は、3歳になった息子の秀文を連れて帰国した。
 帰国後、神田三崎町に事務所を構えた伊藤は、大正5(1916)年頃から事務員たちを相手にかるたの練習を再開した。大正6(1917)年の日本橋常盤木クラブでの大会に「Xクラブ」と称して初めて出場
(*2)。大正8(1919)年の大会で初めて「白妙会」を名乗った。正式に白妙会を発足させたのは翌9(1920)年1月のことである。
 伊藤自身も通算9回の優勝を数える
(*3)ほどの大選手であった。最後に優勝したのが昭和16(1941)年の大阪大会であったが、当時の伊藤は55歳。競技者の平均年齢が30歳前後(*4)であり、当時の伊藤は大日本かるた協会の会長として多忙であったことを考えると敬服に値する。だが、伊藤の業績はむしろかるたの全国統合に尽力したことがあげられるだろう。戦前の大日本かるた協会会長、戦後の日本かるた協会理事長をも歴任している。
 また伊藤は、廃娼運動家として知られている。明治44(1911)年に結成された廃娼運動組織「廓清会」に、25歳の伊藤は機関誌「廓清」の記者兼書記として加わっている
(*5)。大正6(1917)年以降は常務理事として「棒給を辞して全く献身的に努力すること」(*6)となった。運動は第二次大戦による中断もあったが、昭和31(1956)年6月の「売春防止法」成立の土台を築くことになる。主著に「日本廃娼運動史」「紅燈下の彼女の生活」(共に昭和6年)がある。
 



2代目会長 伊藤秀文
(「かるた展望21」平成4年9月)
 


 昭和41(1966)年1月14日に80歳で死去した伊藤の後を継いで全日本かるた協会会長となったのは、子息の伊藤秀文であった。秀文は秀吉の次男
(*7)として明治43(1910)年9月1日に誕生。彼自身はかるたの選手ではなかったが、平成4(1992)年2月2日に81歳で死去するまで会長の地位にあった。

 その伊藤秀文の後を継いで会長となったのが、新木敬治(白妙会)である。新木は全日本かるた協会の組織化を押し進め、それは平成8(1996)年8月に社団法人全日本かるた協会が発足することで結実する。新木は平成17(2005)年5月15日の全日本かるた協会通常総会において、会長を退任。4代目の会長には副会長だった山下義(大阪暁会)が就任した。
 

*1 以下、伊藤の経歴については以下の資料を参照した。
    伊藤秀吉「日本廃娼運動史」昭和6年6月 廓清会婦人矯風会廃娼連盟
    伊藤秀吉「紅燈下の彼女の生活」(昭和57年11月 不二出版)解説
    伊藤秀文「秀吉伝」(「かるた展望12」昭和55年8月)
*2 内田柳次郎「前会長 伊藤先生のこと」(「かるた展望2」昭和41年8月)
*3 「かるたチャンピオン95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会
*4 「室内の遊びごと座談会」昭和12年1月4日「東日新聞」 村松久義の談による。
*5 伊藤自身は「廓清会」結成当時は前述の通り満州におり、いつ参加したかは確かではない。
*6 伊藤秀吉「日本廃娼運動史」
*7 一般的には「長男」とされることが多いが、実際には2歳で早世した長男の秀行がいる。
 


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