5.かるた黄金時代

名人位戦のはじまり

 全日本かるた協会の主催による第1期名人位戦は昭和30(1955)年1月15日・16日靖国神社において開催された。前年11月に全国8地区の代表選手による予選を行い、さらに東日本代表決定戦、西日本代表決定戦が行なわれた。こうして決まった東日本代表正木一郎5段(白妙会/当時21歳)と西日本代表鈴木俊夫7段(福岡白妙会/同50歳)の両者によって名人位は争われた。結果は正木が4−1で鈴木を破り、初代名人位を獲得した。正木は当時早稲田大学商学部の4年生。敗れた鈴木も「すっかり戦後派にやられました」
(*1)と語ったが、若い世代による新しいかるた時代の幕開けであった。



初代永世名人正木一郎
(「アサヒグラフ」昭和29年1月)
 


 正木は翌31(1956)年から9年連続で名人位を防衛、名人位6期目となった36(1961)年には最初の永世名人位の称号を受けている。昭和39(1964)年の挑戦者は奥田宏(白妙会、のち東会)であった。この時の対戦はもつれにもつれ3対3のタイスコアのまま、最終戦に突入。正木が辛うじて防衛に成功する。正木は試合後「こんな苦戦は初めて。来年はもっとがんばります。」と語った
(*2)が、この10度目の名人位を最後に勇退することとなる。10年連続名人位というのは、 西郷直樹(早稲田大学)が平成21(2009)年に11年連続名人位となるまで、50年近く破られない大記録であった。



第3期名人位戦 正木一郎(左)vs鈴木俊夫
(「かるた道」昭和32年2月)
 


第4期名人位戦 正木一郎(左)vs早川喜市
(「毎日新聞」昭和34年1月5日)


 その正木の後を継いで名人となったのが松川英夫(白妙会、のち東会)であった。昭和40(1965)年名人位戦で東日本代表の松川(当時21歳)は西日本代表の山下義(大阪暁会)を破って初めて名人位につくと、そのまま2期連続防衛。43(1968)年には田口忠夫(白妙会)に破れるも、45(1970)年に再度名人に返り咲く。
  



再現された第11期名人位戦
山下義(左) vs 松川英夫
平成10年隠岐島奉納試合
(「かるた展望28」平成10年12月)
 


 昭和46(1971)年、松川は交通事故のために名人位戦を辞退するが、その年名人位を争ったのは、東日本代表の東北大学農学部3年・遠藤健一(仙台鵲会/当時23歳)と、西日本代表の金沢大学工学部4年・川瀬健男(金沢高砂会、のち大垣むらさき会/同21歳)という若い二人であった。結果は3−1で遠藤が名人位に就く。だが2年後の昭和48(1973)年、今度は川瀬が雪辱に成功する。
 すっかり世代交代を果たしたかと思われた名人位戦であったが、昭和51(1976)年には当時41歳の森洋三(白妙会)が川瀬を破って名人に就いた。これは名人位としては最年長の記録である。昭和54(1979)年には当時35歳の松川が、森を破り三度名人に返り咲く。松川は結局、通算9期名人位を務め、史上2人目の永世名人位を獲得する。





川瀬健男
(「朝日新聞」昭和49年1月15日)
 


最年長(41歳)で名人となった森洋三
(昭和52年)


 昭和60(1985)年、その松川を初の名人位挑戦で破ったのが、慶応義塾大学4年の種村貴史(当時21歳)であった。経験がものを言う名人戦において、初の名人位挑戦で現役名人を倒したのは種村が初めてであった(その後西郷直樹も達成)。昭和から平成にかけて連続8期通算9期名人を務め、3人目の永世名人位を獲得している。
 正木、松川、種村といった各世代のスター選手を生み出しながら、かるたは新しい時代平成へと突入する。
 

*1 「毎日新聞」昭和30年1月17日「雑記帳」
*2 「毎日新聞」昭和39年1月5日

女流選手のあゆみ

 黒岩涙香が開催した明治37(1904)年の第1回かるた大会の案内には「男女御誘合」とあり
(*1)、当初かるた会は女性に大きく門戸を開いていた。だが、男尊女卑の傾向が著しかった時代である、明治41、2(1908,1909)年頃に至りかるたが世間に認知されるようになると、男女が交わって競技を行なう点 が非難の的となる。「若い男女が入り乱れになつて、手と手を重ねたり、引手繰事(ひったくりっこ)をしたり、口の利き様もお互ひに慣れ慣れしくなり作法も乱れて居る」(*2)と、山脇房子は明治42(1909)年1月に指摘している。「今の若い男女は平常は隔てられて居て、いざかるたとでもなると、又極端に走りますからいけない」と、山脇は「風俗上衛生上の害を避ける為め」にテーブルの上での競技をも提案している。またその一方で、「相手が女では、バカバカしくて本気になって取れン」(*3)であるとか、「荒くれ男を向ふに廻して戦を挑むような女は嫌ひだ」「婦人は須らく男子に柔順で、繊弱優雅なるを愛する」(*4)などといった男性選手の言い分もあった。その結果、黒岩涙香としては当初の「平等意思」(*5)に反するとしながらも、東京かるた会は明治41(1908)年2月、傘下の各会と同盟規約を結ぶこととなる。その内容は「同盟各会の会員は勿論東京かるた会の出席者は素行不良ならざる男子たること」「同盟各会其他競技席上には婦人及素行不良と認めらるる男子の入場を拒絶すること」(*6)といったもので、これにより明治42(1909)年2月の5周年大会以降女流選手の大会参加は認められなくなる。
 しかし、完全に女性が閉め出されていたかというと、そうではなく、仙台では女流大会が開催されており、昭和2(1927)年の第1回大会では藤原勝子が優勝している。東京や山梨、筑波などでも同様の大会が開かれている
(*7)

 かるた会が再び女流選手に門戸を開いたのは昭和9(1934)年1月5日の第22回全国大会からであった。この大会には明静会(2名)、紅楓会、筑波会から計4名の女性選手が出場している
(*8)。昭和11(1936)年2月16日の第96回大会において、椿多摩子(白妙会、のち仙台鵲会)が女流選手として初めての入賞(3位)を遂げ、同年に初段を獲得している(*9)。この椿は女流選手としては当時随一の存在で、昭和6(1931)年にかるた競技を始める(*10)と、昭和7(1932)年の江東鈴蘭大会や、翌8(1933)年の東都大会といった女流大会で優勝。戦前に3段にまで昇段している。
 やがて戦後になると、かるた人口も大きく増え、昭和30(1955)年当時の女性選手は1万人を数えた
(*11)
 

*1 「萬朝報」明治37年2月11日
*2 山脇房子「風紀上より見たる歌留多遊び」(明治42年1月「婦人画報」)
   以下引用は同記事
*3 「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」
*4*8 「かるた界 第8巻第2号」昭和9年12月 東京かるた会
*5*6 東京かるた会編「かるたの話(かるた大観)」(大正14年12月 東京図案印刷)
*7 「かるたチャンピオン 95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会
*9 「かるた界 第11巻第1号」昭和12年1月 東京かるた会
*10 「カルタとり名人芸」(「アサヒグラフ」昭和29年1月)
*11 「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」

クイーン位戦の展開



第1期クイーン位戦 天野千恵子(左)vs森脇ゑん子
(「週刊女性」昭和33年2月)
 


 女性選手の最高位クイーン位戦が始まったのは名人戦に遅れること2年、昭和32(1957)年であった。東日本代表の天野千恵子(現・望月千恵子/仙台鵲会)と西日本代表の森脇ゑん子(大阪暁会)との間で第1期クイーン位は争われ、3−1で天野が初代のクイーンとなった。天野は当時宮城学院高校3年の弱冠18才であった。天野は翌年も同じ森脇の挑戦を退け、クイーン位を防衛。34(1959)年に大高悦子(白妙会)に破れクイーン位を失うものの、翌35(1960)年に再びクイーン位に返り咲き、通算3期クイーン位を務める。
 昭和30年代後半の女流かるた界をリードしたのは、小沢教子(白妙会)であった。昭和36(1961)年、天野を破ってクイーン位につくとそのまま連続4期クイーン位を務める。しかし無敗のまま、昭和39(1963)年には名人位を勇退した正木永世名人とともにクイーン位を辞退するのであった。
 



2代目クイーン大高悦子
(「週刊女性」昭和34年1月)
 



3代目クイーン小沢教子
(「週刊女性」昭和34年1月)
 


 小沢に2度挑戦者として挑みながらも退けられてきたのが丹治迪子(現・山下迪子/仙台鵲会→大阪暁会)であったが、小沢引退後の40年代前半のクイーン位戦はこの丹治と宮崎嘉江(金沢高砂会)、椿芙美子(現・平山 芙美子/仙台鵲会)の3人を中心として動いていた感がある。昭和40(1965)年のクイーン位戦は、東日本代表の丹治と西日本代表の宮崎の対戦となった。接戦の末に3−2で丹治が勝ちクイーン位に就く。翌41(1966)年には、椿が挑戦者として丹治に挑むも、丹治が防衛に成功。同じ顔合わせとなった翌42(1967)年は、逆に椿が雪辱し新たなクイーンとなる。43(1968)年、今度は宮崎が椿を破ってクイーンとなり、そのまま3期務める。42(1967)年に元準名人の山下義(大阪暁会)と結婚した丹治は、45(1970)年から2年連続挑戦者となり、46(1971)年に宮崎を破って再びクイーン位を奪還することとなった。



沖美智子クイーン
(「女性セブン」昭和50年1月)
 


 昭和47(1972)年、クイーン位戦に新たなヒロインが誕生することになる。山口県宇部女子高校3年、当時18才の沖美智子(現・今村美智子/小野田、現・伊勢原みちのく会)であった。沖は15才当時の44(1969)年に挑戦者としてクイーン位戦に出場し、宮崎クイーンに敗れていたが、2度目の挑戦でついにクイーン位を獲得する。沖はその後、連続4期クイーンを務める。そして史上初の永世クイーン位を獲得を目前とした51(1976)年沖は、当時慶応大学4年であった吉田真樹子(現・金山 真樹子/慶応、現・東京吉野会)に破れてしまう。
  



初代永世クイーン堀沢久美子(右)
(「まんが百人一首事典」昭和58年12月)
 


 その51(1976)年のクイーン位挑戦者決定戦には、東日本代表の吉田と、西日本代表の堀沢久美子(現・久保久美子/小野田)の2人が出場していた。結果は吉田が堀沢を破り、そのまま本戦でも沖クイーンを破ってクイーン位についたのである。その翌年、挑戦者となったのがその際に敗れた堀沢であった。沖の母校・竜王中学の後輩にあたる堀沢は、クイーン位戦で吉田を破り、前年の雪辱を果たすと同時に、先輩沖の敵討をも果たしたのである。山口県小野田高校2年。17才という年齢は、天野千恵子、沖美智子の18才をも下回る史上最年少のクイーンであった。堀沢はその後昭和50年代を通じて無敵の強さを誇る。59(1984)年まで連続8期クイーンを務めた。昭和60(1985)年に引退すると、初代永世クイーン位の允許状が贈
られた。
 堀沢に代わって北野律子(九州→奈良)が連続3期クイーンを務める。63(1988)年に出産のためクイーン位戦出場を辞退したが、この年にクイーン位を争ったのが、東日本代表渡辺令恵(横浜隼会)と西日本代表山崎みゆき(福井渚会)であった。山崎は19才の58(1983)年に堀沢クイーンに挑み、0−2で敗れており、これが2度目のクイーン位挑戦。一方の渡辺はこれが初のクイーン位戦出場である。結果は渡辺が勝利をあげている。東日本からクイーンが誕生したのは51(1976)年の吉田真樹子(現・金山 真樹子)以来実に12年ぶりのことであった。この時対戦した二人はその後実に7度までクイーン位をかけて対戦することになるのである。両者3度目の対戦となった平成3(1991)年には、山崎がついに勝利し、念願のクイーン位を獲得する。しかし翌4(1992)年、渡辺がすぐに雪辱。その後山崎は3年連続を含む4回挑戦者として渡辺に挑んだが、再び勝つことはなかった。一方の渡辺は、平成14年まで連続11期、通算14期クイーンをつとめ、史上2人目の永世クイーンの称号を与えられている。
 



宿命のライバル 山崎みゆき(左)vs渡辺令恵
(「かるた展望23」平成6年9月)
 


最高の栄誉「永世位」

 名人位を連続5期もしくは通算7期、クイーン位を連続・通算問わず5期務めた選手には「永世位」の称号が与えられている。現在までに永世名人となった選手は、名人位を10期連続務めた正木一郎、通算9期務めた松川英夫、連続8期通算9期務めた種村貴史の3人がいる。永世クイーンには連続8期務めた久保久美子(旧姓・堀沢)、連続11期通算14期務めた渡辺令恵の2人がいる。いずれも各時代を彩った名選手であることは言うまでもない。
 また、昭和51(1976)年に5期目の防衛に失敗し惜しくも永世クイーン位を逃した今村美智子(旧姓・沖)は、今後クイーン位への復帰と同時に永世位を獲得することになる。最近のクイーン位戦予選では毎年上位に進出しており、実現の可能性は十分にある。
 



最年少名人西郷直樹
 


 平成15(2003)年の名人位戦において、西郷直樹現名人(早稲田大学)は4年連続の防衛に成功。連続5期の名人位で、史上4人目の永世名人となった。24歳というのは、もちろん最年少の記録である。彼は平成20(2008)年には正木永世名人と並ぶ名人位10連覇を成し遂げ、23(2011)年には13連覇と記録を更新した。
 平成21(2009)年には楠木早紀 が19歳で5連覇を達成し、史上最年少永世クイーンとなったが、こちらも23年現在7期連続クイーン位となっている。
 

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