3.競技かるたの夜明け

かるた会のあけぼの


 

 
 十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銀鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに輝き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊びを為るなりけり。
(*1)

 尾崎紅葉(1868〜1903)のベストセラー小説「金色夜叉」(明治30〜35年連載、未完)の中には明治当時のかるた会の模様が述べられている。娯楽の少なかった当時、かるたというのは格好の男女の出会いの場であったと想像される。実際、 後のクイーン渡辺令恵の祖父母も、昭和5(1930)年頃ではあるが、かるたが縁で出会ったとのことである
(*2)。当時のかるたの試合は、今日で言う所のちらし取り、あるいは2組に分かれての源平戦が主流であった。「金色夜叉」に描かれたかるたの試合は、どうやらちらし取りであったように思われる。

 東京に初めてかるた会が設立されたのは日清戦争以前の明治25、6(1892,3)年頃であったと思われ、本郷の東京帝国大学内に医学部の生徒によって緑倶楽部と弥生倶楽部が誕生した
(*3)。緑倶楽部は、明治35(1902)年に、それまでお座敷かるた中心であったかるた競技を、トーナメント化した競技会を開催している(*4)。この時の競技は、敵味方5人ずつの選手が各自10枚ずつの札を用いて争う源平戦形式で、読手の他に審判が置かれていた。また同年、緑倶楽部の選手のうち大学卒業者により芝に緑廼会が成立したのを皮切りに、麹町の小倉会、次いで青葉会。早稲田の和泉倶楽部、牛込の歌狂倶楽部(後の東会)等が次々と誕生している。その後に合併、解散した会も含め明治38(1905)年までに大小35の団体が出現した(*5)とのことである。「国民新聞」はその模様を「かるた界の群雄割拠時代」と称しているが、中でも小倉会、和泉倶楽部、紅葉会、東会の4つが大きな力を持っていた(*6)
 明治36(1903)年3月頃、九段の遠州屋にて歌狂倶楽部と歌仙倶楽部が初めて他流試合を行い、歌狂倶楽部が辛勝したと伝えられる。こうした他流試合はその後盛んになるものの、会同士の感情を害することになるとの理由ですぐに中止されている。しかし同年12月には、緑廼会の主催で外神田福田屋において最初の競技会が開催された。これがどのような大会であったのかはよくわからない。しかし緑廼会の田村・野田医学士、歌狂倶楽部の山田、芝紅葉会の福原といった顔触れにメダルが送られたと記録されている
(*7)
 

*1 尾崎紅葉「金色夜叉」(昭和44年11月新潮文庫)より引用
*2 渡辺令恵「競技かるたの魅力」(「百人一首の文化史」平成10年12月すずさわ書店)
*3 「国民新聞」明治38年1月4日
   ただし、城西子「百人一首かるた秘訣」(明治42年12月文楽堂)によれば、緑倶楽部が明治28年末に成立したのをもってかるた会の嚆矢としている。
*4 「明治100年生活データ33/かるた」(「週刊サンケイ」昭和40年1月)
*5*6 緑眠皃「歌がるた観」(「遊楽雑誌」明治39年3月20日)
*7  「国民新聞」明治38年1月4日

黒岩涙香と東京かるた会



競技かるたの父黒岩涙香
(「別冊太陽/百人一首」より)
 


 この頃のかるた競技に統一したルールは存在せず、競技方法は各会によってまちまちであった。明治期のジャーナリスト黒岩涙香(黒岩周六/1862〜1920)は、競技方法の統一を図るために、明治37(1904)年2月東京かるた会を結成した。自らが主催する新聞「萬朝報」に広告(資料)を出して選手を募ると、同年2月11日に日本橋常磐木倶楽部において第1回のかるた大会を開催した。
 

    (資料)「萬朝報」明治37年2月11日広告
 
 小倉百人一首 かるた会 会費三十銭晩餐呈弁当
 本日。日本橋萬町常盤木倶楽部に開く。正午開場。一時開会。同好の方々男女御誘合され御来場被下度候。
 当日朝報社遊戯部の考案になる新式の最も公平なる歌留多を用ひ秀技者には金牌其他の賞品を贈り候(時刻を後れて来会さるゝ方は或いは加入致し難きやも計り難きに付き成る可く早刻に御出下され度候。)
       東京かるた会 発起人 謹言
 

 翌明治38(1905)年1月1日、黒岩は「萬朝報」紙に3面に渡る「小倉百人一首かるた早取り秘伝」を掲載している。同記事及び「東京かるた会競技規定」
(*1)によれば、黒岩の提唱した「最も公平なる歌留多」は、現在の競技かるたの基底となるものであった。例えば、それ以前のかるた競技において、かるたの札の並べ方は2段から4段まで各自でまちまちであったが、黒岩は行儀上それを3段に並べることで統一している。また、持ち札の枚数を各自25枚ずつと定めたのも東京かるた会である。ただし、当時は4回戦までを予選とし、予選での持ち札は各16枚であった(*2)。なお、明治37(1904)年の第1回大会における持ち札は予選各16枚、入賞以後は各50枚、第2回大会では各20枚、第3回大会以降は各25枚というように持ち札は変わってきている。予選16枚、入賞後25枚となったのは大正14(1925)年1月の第59回大会以降である。
 その一方で、当時の競技方法と現在の方法とで大きく異なる部分もある。当時は「札に早く手の触れたる者を以て其札を取りたるものとす」(東京かるた会競技規定第10条)とあるように、札押しによる取りを認めていなかった。また、「札を取る手は二本の指(中指、人差し指)」(同9条)と定められ、札に直接触れたかどうか明らかでない場合は「審判委員は無効を宣告」(同13条)とある。現在のかるたに比べれば幾分か優雅なものであったように思われる。
 また、東京かるた会のもう一つの大きな功績として、「標準かるた」を考案したことがあげられる。「標準かるた」は、すべて平仮名の同形活字を用いて印刷されたものである。それ以前には色紙模様の上に草書で書かれた「文学的かるた」が使用されており、その札を見慣れているかどうかが勝敗を左右するような状況であった。そのため「標準かるた」は大いに普及することとなる。その後大正14(1924)年には微妙に改定された「公定かるた」が生み出されている
(*3)
 



東京かるた会主催全国大会の風景
(「別冊太陽/百人一首」より)
 


 さて東京かるた会によって明治37(1904)年2月11日に開催された第1回のかるた大会には、東京府内の会はもとより、横須賀、静岡からも参加者があった。優勝したのは小倉会の高田信二で、萬朝報社よりメダルが授与された
(*4)。東京かるた会は続いて同年7月2日にも麹町日枝神社にて第2回のかるた大会を開催した(*5)。これは日露戦争における旅順陥落を祝っての臨時開催であったようである。翌3日にも同様の目的で小倉会が大会を開催しようとしていたとの記事も「萬朝報」には見られる(*6)。この時の臨時大会と、続いて11月3日に開催された「秋季競技会」で優勝を収めたのは麻布にある村雨会の石川保蔵であった。彼は「かるた界における唯一の選手で、遺憾ながら現時のかるた界は、(石川)氏の右に出る者はまずないと云うて差し支えはなかろう」(*7)と称される程の選手であり、当時のかるた界はこの石川打倒ということで盛り上がっていた。明治38(1904)年1月5日の第4回かるた大会、続く2月11日の第5回大会において、石川は宇多良一、近藤懋(共に和泉倶楽部)に相次いで敗れ「幾人の選手をして騒然たらしめた」(*8)とある。翌39(1905年の7回大会では、石川は再び奮起し、近藤懋、松本襄(和泉倶楽部)との全勝対決の末に栄冠をつかんだのである。

 石川以外の明治30年代を代表する選手としては先に出てきた宇多
と近藤がまずあげられる。宇多は第3、9回、近藤は第4、7回の大会でそれぞれ2度の賜杯を得ている。また、第6回大会優勝の福原秀太郎(紅葉会)、8回大会優勝の近藤親正(別名・浦川親正/同)もやはり大選手であった。彼らはいずれも明治40(1906)年に相次いで競技を引退。以後は審判として競技を支えることとなった(*9)。その結果、明治末期から大正にかけて新たな選手の台頭を見るようになる。
 

*1 笹原史歌「標準かるた必勝法」(大正8年11月東京京橋堂)所収
*2 東京かるた会編「かるたの話(かるた大観)」(大正15年12月東京図案印刷)
*3 「かるた改訂の理由」(大正14年9月 東京かるた会)によれば、「歌詞を正確にしたこと」「読札を読みよくしたこと」「取札を取りよくしたこと」「優雅になつたこと」「堅牢になつたこと」というのが、改善点である。
*4 「萬朝報」明治38年2月13日
*5 「萬朝報」明治38年7月4日
*6 「萬朝報」明治38年7月3日
    翌4日の記事によれば、この大会開催の情報はガセネタであったようである。
*7 「国民新聞」明治38年1月5日
*8 緑眠皃「歌がるた観」( 「遊楽雑誌」明治39年3月20日)
*9 城西子「百人一首かるた秘訣」(明治42年12月文楽堂)
 

大日本かるた協会の発足

 明治末になるとかるたは全国的に盛んになっていった。日露戦争(明治37〜38年)前後の軍国主義・愛国的な風潮の中、「敵味方に分れて争ふ遊び」
(*1)である点、日本の伝統的な百人一首を用いる点が受け入れられたのであろう。明治43(1909)年、水戸かささぎ会主催によって関東かるた大競技会が近隣同志に呼びかけられ開催された。これは、昼間は花火を打ち上げ、夜は大提灯行列を試みるなど、空前の盛観であったという(*2)
 大正2(1913)年1月5日に東京かるた会主催で日本橋常盤木倶楽部において開催された大会は、初めて「全国大会」と銘打ったものであった
(*3)。この大会は昭和17(1932)年まで、毎年1月5日に開催されるようになる。白木屋意匠部調整の優勝旗が争奪され、第1回の優勝者は石井輝三(若葉会)であった。大正12(1924)年の第11回大会の優勝者は明静会の小泉清(川上輝彦)であったが、9月1日の関東大震災において、家・家財道具と共に優勝旗を焼失してしまった。そこで翌13(1925)年2月11日開催の第12回大会以降は、優勝盃に優勝者の氏名を刻むことになった。
 一方、関西では東京より1年早い明治45(1911)年2月18日に大阪で第1回全国大会が開催され、明静会の団野精造(団野朗月)が優勝旗を東京に持ち帰っている。その後大正6(1918)年には第1回京都大会が、同8(1919)年には第1回神戸大会が、同14(1925)年には名古屋において中京大会が開催されている。当時いかにかるたが盛んであったのか、例えば昭和5(1930)年だけでも50回以上の大会が開催されている
(*4)ことからわかるであろう。当時の大会は時に翌朝の3、4時にまで及んだという

 明治40・41(1906,1907)年頃のかるた界をリードしていたのは和泉会の獅子内謹一郎と若菜会の黒瀬房松であった。彼らは後には同時期の横綱常陸山と梅ケ谷にも準えられている
(*5)。その後は、団野朗月、渡辺秀夫を擁する明静会と、石井輝三、浅井均を擁する若菜会の「壮烈な対立時代」(*6)で「団体としての源平の趣があつた」(*7)。中でも明静会の団野朗月は「巨人」(*8)と称されるほどの大選手で、当時他の選手を寄せ付けなかった。彼は現在かるたの試合で行なわれている「払い手」を生み出した選手と言われているが、その払い手を武器に明治41(1907)年1月の第13回東京大会での優勝を皮切りに、計7回大会で優勝している。明静を始めとして、若葉、村雨、東、小倉などの当時の東京の各会は「打倒、団野」を目標に合同練習を行なったと伝えられている(*9)。一方の若葉会も「若葉会員にあらざれば、かるた取にあらず」(*10)との豪語でもってかるた界を席捲する勢いがあったが、「不世出の才」(*11)とされた浅井均の病没後はその勢いを失っていった。
 笹原史歌「標準かるた必勝法」(大正8年11月東京京橋堂)によれば、大正8年当時、力を持っていたのは明静、若葉、村雨、東、秋風、横浜隼、吉野の7会であり、明静の川上輝彦(小泉清)、隼の飯野卓、吉野の小山徹の3人が「三大巨星」と称された
。中でも川上輝彦は、大正末期から昭和初期にかけての計6回優勝し、しばしば「名人」と称された(*12)

 大正9(1921)年、後に3代の全日本かるた協会会長を輩出するかるた会の老舗・白妙会が設立されている。また、大正15(1926)年1月3日には、ラヂオ新聞主催によって、日本橋東美クラブにおいてラジオ放送によるかるたの試合が行なわれたとの記述が「萬朝報」に見える
(*13)。当時の大読手として知られる山田均(山田越山/東会)の朗詠を、ラジオを通じて放送し、試合を行なうというものであったが、読みの間隔が短いため札の整理や暗記の時間が少なく、精神集中を欠くとのことであった。また、「ほととぎす」の「ほ」や「きりぎりす」の「き」の発声が不明瞭であったと言う。これは後の昭和3(1928)年1月3日にもう一度開催されている(*14)
 このようにかるたが隆盛を極めていく中、大正9(1920)年10月6日にかるたの生みの親である黒岩涙香が58歳で死去し、東京かるた会会長は子息の黒岩日出雄に引き継がれた。そして、昭和9(1934)年には、ついにかるたの全国統合が計られ「大日本かるた協会」が発足し、会長には白妙会の伊藤秀吉が就任した。伊藤はのちの全日本かるた協会初代会長である。続いて段位が制定され
(*15)、最高位の8段が当時最高の選手であった団野朗月、渡辺秀夫(共に明静会)に贈られた。昭和11(1936)年当時の有段者は、8段2名、7段3名、6段11名、5段16名、4段12名、3段12名、2段18名、初段30名であった(*16)
 
*1 黒岩涙香「小倉百人一首かるた早取秘伝」(「萬朝報」明治38年1月1日)
*2 伊藤秀文「かるたの歴史と遊び」(「別冊太陽/百人一首」昭和47年 平凡社)
*3 山田越山「東京かるた会沿革」(東京かるた会編「かるたの話(かるた大観)」大正15年12月 東京図案印刷)
*4 「かるたチャンピオン95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会
*5 「時事新報」昭和11年2月11日
*6 「東京毎夕新聞」昭和9年12月26日「小倉百人一首かるたの話(一)」
*7 山田越山「東京かるた会沿革」
*8 「東京毎夕新聞」昭和9年12月26日「小倉百人一首かるたの話(一)」
    ただし、山田越山「東京かるた会沿革」には「巨漢」とあるので、その体格を指してのことかもしれない。

*9 鈴木俊夫「選手会の発足を祝して」(「かるた展望 第1号」昭和40年12月)
*10*11 山田越山「東京かるた会沿革」
*12 鈴木俊夫「追想」(「かるた展望 第2号」昭和41年8月)
*13 「萬朝報」大正15年1月6日
*14 「かるた界 第2巻第1号」昭和3年1月 東京かるた会
*15 「東京日々新聞」昭和9年11月16日
*16 山田越山「紙上レッスン/百人一首」(「報知新聞」昭和11年12月15日)
 

昭和初期のかるた事情

 昭和初期のかるた界の状況を見てみたい。手元に昭和9(1934)年12月から14(1939)年3月までの新聞の切り抜きがある。全国大会の結果ばかりか、途中経過、展望などが数種の新聞によって盛んに報道されており、当時いかに世間がかるた高い関心を寄せていたかがわかる。

 この頃の東京随一の選手は吉野会の蘭木笛朗(本名・奥村郁男)であった。昭和2(1927)年に京都の若葉大会で優勝を遂げたのを皮切りに、戦前だけで14回の優勝を遂げ
(*1)、「巨人」(*2)や「怪物」(*3)などと言われた。戦後になってからも昭和27(1952)年の大阪大会で優勝している。当時の吉野会は、蘭木と矢田重直とに率いられ「断然他を厭してゐる」(*4)とのことであった。
 当時の有力会には喜多幸次郎率いる東会、伊藤秀吉、鈴木俊夫(のち福岡白妙会)らが活躍する白妙会があった。吉野会(明治44年創立)、東会(明治33年「歌狂倶楽部」として創立、同37年改称)、白妙会(大正9年創立)の3つはいずれも今日現存しており、幾多の名選手を輩出してきているが、現在でもまとめて「東京三会」と称されている。また、栄治、栄桓、栄宣、栄木の林4兄弟の活躍する明静会や秋風会、横浜の隼会などがあった。
 一方、西日本では京都の鈴山透(浅茅生会)が最高の選手で、京都の全国大会において4連覇(昭和5〜8年)を成し遂げたのを始め、東京の大会でもしばしば優勝。戦前だけで19回の優勝を数え、戦後も2度の名人位に加え23回の優勝を遂げて一時代を築く。また、鈴山と肩を並べる存在であったのが、澤田兼蔵(福知山)であった。神戸大会において4連覇(昭和6〜9年)したのを始め戦前7回、戦後6回の優勝を遂げている。

 当時の新聞記事などを見ると、「王座を目指し奮迅の熱戦!(略)いよいよけふ開戦」
(*5)や「栄冠は京都軍に」(*6)などといった血気盛んな言葉が飛び交っている。昭和6(1931)年の満州事変を皮切りに、日中戦争、太平洋戦争と続く、軍国主義の時代にあって、日露戦争当時と同様に、かるた競技が奨励されたと想像される。昭和17(1942)年11月に発行された白妙会の機関誌「かるた道」の冒頭には伊藤秀夫(秀吉)が「決戦とは何ぞや」という文章を寄せ、「大東亜戦争に於ては、(略)我等のかるた道に於ける戦術、戦闘精神から見て、必ず日本が勝つに相違ないと思ふ。」と戦意の高揚に努めている。
 だがこうした目論見に反し、戦争の波によって、かるたは受難の時代を迎えることとなる。
  

*1 「かるたチャンピオン 95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会
    以下各選手の優勝回数については同書を参照した
*2 「東京毎夕新聞」昭和10年11月16日
*3*4 「時事新報」昭和11年2月11日
*5 「関西日報」昭和12年1月10日
*6 「関西日報」昭和12年1月12日 

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