第2章−サイレント黄金時代(32)
光の幻想〜アニメーションの誕生〜
 



「恐竜ガーティ」(1914年米)
(「世界アニメーション映画史」4ページ)
 

 

 昨年2016年は日本のアニメの当たり年だったと言われている。社会現象ともなった「君の名は。」(2016年「君の名は。」製作委員会)は、映画の舞台を訪ねる「聖地巡礼」なる現象を生み出した。また、「この世界の片隅に」(2016年「この世界の片隅に」製作委員会)は、「キネマ旬報」ベスト10において「となりのトトロ」(1988年スタジオジブリ)以来28年ぶりとなる1位を獲得している。また、受賞こそ逃したが、第89回アカデミー賞(オスカー)において「レッドタートル/ある島の物語」(2016年日/仏/ベルギー)が日本映画としては4年連続の長編アニメーション映画賞にノミネートされた。このように、今やアニメというものは日本を代表する文化となっている。そのアニメの歴史をたどれば、現在の日本アニメがなぜ世界に受け入れられるようになったのかを知ることができるのではないだろうか。

  ◆アニメーション前史  
 
  実はアニメーションというものは、映画よりも古くから存在している。映像がスクリーンに映し出されるようになる以前から、人間の網膜に映る残像を利用した様々な仕掛けが発明されてきた。
 例えば、1825年にイギリスの地質学者W・H・フィットン(1780〜1861)と医師ジョン・エアトン・パリス(1785〜1856)が発明したソーマトロープは、ボール紙の円板の両面に絵を描き、素早く回転させることで2つの絵が1つに見えるものであった。これをもってアニメーションの原型だと言うこともできる。
 
 
 



ソーマトロープ
回転させると鳥が籠の中に入って見える
(「映画の考古学」83ページ)
  

 
   
 続いて1832年、ベルギーの物理学者ジョゼフ・プラトー(1801〜83)が「フェナキスティスコープ」を、オーストリアの数学者サイモン・フォン・シュタンフィル(1792〜1864)が「ストロボスコープ」をほぼ同時に発明した。これらは絵の描かれた円盤を鏡に映し回転させ、スリットから透かして観ることで動いているように感じさせるものであった。
     
 
 



エドワード・マイブリッジが再現したフェナキスティスコープ
(「Wikipedia:フェナキスティスコープ」より)
 

 
   
 このフェナキスティスコープに触発されて、イギリスの数学者ウィリアム・ジョージ・ホーナー(1786〜1837)が1834年に回転覗き絵のディーダリウムを発明した。スリットの入った円筒を回転させ、内側にある絵が動いて見えるというもので、「ゾエトロープ(ゾートロープ)」としてアメリカに持ち込まれた。ずっと 後のことであるが、アメリカの映画監督フランシス・フォード・コッポラ(1939〜)は、1969年に設立した自らのプロダクションを“アメリカン・ゾエトロープ”と名付けている。これはもちろんゾエトロープにちなんでのネーミングで、このプロダクションから「ゴッドファーザー」(1972年米)や「地獄の黙示録」(1979年米)などが発表され、1970年代の映画界をリードしていった。
 
 
 



ゾエトロープ
(「映画の考古学」87ページ)
 

 
◆エミール・レイノーのプラクシノスコープ
 



「哀れなピエロ」(1892年仏)
(「Wikipedia:Pauvre Pierrot」より)
 

 
   
 1876年、シャルル=エミール・レイノー(1844〜1918)はゾエトロープのテクニカルを発展させ、内側に設置した鏡に絵を映し出す「プラクシノスコープ」を発明した
(*1)。彼は1882年、「ランバースコープ」を開発。背景を別の幻灯機でスクリーンに映し出し、そこにプラクシノスコープの動画を重ねて映すことに成功した。それをさらに改良して大型スクリーンに映し出すシステムとして開発したのが「テアトル・オプティーク」(光の劇場)であった。
 1889年のパリ万博において、テアトル・オプティークはデモンストレーション公開された。アメリカの映画の父トーマス・アルバ・エジソン(1847〜1931)や、フランスの映画の父リュミエール兄弟、トリック映画を撮影したジョルジュ・メリエス(1861〜1938)らもこのデモを見学したらしく、彼らの発明に何らかのインスピレーションを与えたのではないかと言われている。エジソンがキネトスコープを発明したのは1891年、リュミエール兄弟がシネマトグラフ(参照) を発明したのは1895年のことだから、レイノーの偉業はそれよりもはるかに早かった。レイノーこそは“アニメ映画の父”と呼ぶにふさわしい人物である。
 1892年10月2日、レイノーはパリのクレヴァン博物館の“幻想の間(キャビネ・ファンタスティック)”において、テアトル・オプティークの公演を開始した。第1回公演のプログラムは、「一杯のビール」(15分)、「道化師と犬」(10分)、「哀れなピエロ」(15分)の3作品であった。レイノー自ら機械を操作し、口上や台詞を述べた。また、公演に当たっては音楽家ガストン・ポーリン作曲のメロディに合わせてシャンソン歌手が歌ったそうである。
 レイノーはその後も「炉縁の夢」(1894年仏)や「脱衣所のまわりで」(1895年仏)などの作品を製作し、テアトル・オプティークでの上映を続けた。1900年2月28日まで、1万2800回上映され、のべ50万人の観客を集めたというから、相当人気があったのだろう。
 しかし、1895年12月にリュミエール兄弟がシネマトグラフを公開、1896年にはエジソンがキネトスコープをスクリーンに投影するヴァイタスコープを公開すると、テアトル・オプティークの人気も次第に陰りが見られるようになった。レイノーは博物館から契約を解除され、失意のためノイローゼとなった。そして1910年、彼はテアトル・オプティークの機械を壊すと、自らの作品をセーヌ川に投げ込んでしまった。現在残っている彼の作品は、「哀れなピエロ」
(*2)と「脱衣所のまわりで」(*3)のわずかに2作品しかない。
  
 
 



「テアトル・オプティーク」を操作するエミール・レイノー
(「映画の考古学」254ページ)
 

 
 
 それではその現存する2作品はどのような内容なのか…。
 現在観ることができる両作品だが、新たに音楽が付けられているものである。また、鮮やかに彩色されたその映像は、さぞかし当時の観客の度肝を抜いたであろうことが想像される。動かない背景を前に、キャラクターのみを動かしているのだが、現在のアニメーションと比べると、絵の数が少ないためか動きはかなりギクシャクしている。また、キャラクターの絵が透けていて後ろの背景が見えるのはご愛敬。

 まずは最初に製作された1篇である「哀れなピエロ」。舞台はどこかのお屋敷のバルコニーだろうか。そのバルコニーの壁を乗り越え、一人の男が忍び込んで来る。彼は屋敷の娘と恋仲らしい。
 そこにやって来たのがもう一人の男。最初の男は、柱の後ろに隠れるのだが、どう考えてもそこではバレるだろう。
 もう一人の男は娘に花を渡して帰っていくが、再びやって来て、彼女の部屋の前でギターを奏でて歌う。最初の男は、柱の影からそんな男を棒で叩いたりして邪魔をし追い返す。最初の男は彼女の部屋に入っていく…。
 ストーリーは、男女の三角関係を描いたものなのだが、何しろ台詞も何もないため、細かい状況はよくわからない。だが、リュミエール兄弟がそのすぐ後に製作した作品とは異なり、きちんとしたストーリー仕立てになっている。現在観られるものは5分弱。もともとは15分だったというから、一部が失われているのかもしれない。
  
 
 



「脱衣所のまわりで」(1895年仏)
(「Wikipedia:Autour d'une cabine」より)
 

 
 
 一方の「脱衣所のまわりで」の舞台は海水浴場である。飛び込み台から海に飛び込む人たち。そこに犬を連れた貴婦人がやって来る。さらに男性もそこに現れる。2人は恋人同士だろうか? 水着に着替えた2人は、そのまま海に泳ぎ出す…。
 こちらはわずか2分弱。資料によると、やはりもともとは15分あったそうである。現存作品にはストーリーらしきものはないため、断片なのかもしれない。
 
 これらの作品は今日の目で見ると確かに陳腐に感じる。しかし、この当時エジソンやリュミエール兄弟が製作していた映画の大半は単に風景を映しただけのものである。それに比べれば鮮やかに彩色されていることもあって、はるかに見ごたえがある。レイノーの業績はもう少し見直されるべきではないか。
 
*1 レイノーについては渡辺泰「E・レイノーの『テアトル・オプティク』見聞記」(「アニメーション研究Vol.3」98〜99ページ)を参照した。
*2 「YOUTUBE: Pauvre Pierrot!」(https://www.youtube.com/watch?v=zDKWNOeN5CQ
*3 「YOUTUBE: Autour d'une Cabine」(https://www.youtube.com/watch?v=A5MXcxaRXNc) 

 
 
  ◆ストップモーションアニメ・アニメ  
 



「マッチ・フットボール」
(「Wikipedia:Arthur Melbourne-Cooper」より)
 

 
   
 レイノーの作品は厳密な意味ではアニメ“映画”とは言えない。それでは最初のアニメ映画は何になるのだろうか? アニメ映画が生まれるにはエジソンのキネマトグラフやリュミエール兄弟のシネマトグラフの発明を待たなくてはいけなかった。
 アニメ映画とは、「コマ撮り(ストップモーション/1コマ撮り)」によって撮影されたものである。「コマ撮り」とは、撮影中のカメラをいったん止め、その間にそこにある物に変化を加えるという撮影技法だが、この技法は映画草創期には早くも見られる。例えば、エジソン社が製作した「メアリー女王の処刑」(1895年米
*4)という作品では、処刑人が斧でメアリー女王の首を切り落とすというトリックが見られるのだが、斧を振り上げた瞬間にカメラを止め、メアリー女王役の女優と人形を入れ替えている。こうしたトリックを生み出した当時の映画作家たちが、コマ撮りアニメーション(ストップモーション・アニメーション)を見出したのは、ある意味当然だといえる。

 コマ撮りを駆使して物を少しずつ動かすことであたかもその物が動いているかのように感じさせるコマ撮りアニメを最初に製作したのは誰だろうか。はっきりはわからない。しかし、現存する最古の作品は、イギリスの写真家アーサー・メルボルン=クーパー(1874〜1961)が1899年に製作した「マッチ・アピール」(1899年英
*5)である。
 これはボーア戦争(1899〜1902年)の従軍兵にマッチを送るよう市民に訴えかけたコマーシャル・フィルムであるが、他にもマッチがクリケットやサッカーをしている作品の写真が残っている。クーパーは1897年にカスタード・パウダーのコマーシャルをアニメで作ったという記録もあるため、コマ撮りアニメの始まりはもう少し早くなるかもしれない(ただし、1900年という説もある)。
 なおクーパーは、1908年には「おもちゃの国の夢」(1908年英
*6)を製作している。母親に玩具を買ってもらった子供が、その夜におもちゃの国の夢を見るというストーリーで、後半が人形アニメでおもちゃの国の交差点の様子を描いている。10数体の人形を同時に画面の中で動かすというかなり複雑なアニメとなっており、クーパーの技術の進歩を見ることができる。

 19世紀末から数多くのトリック映画を製作したジョルジュ・メリエスも早くからコマ撮りを駆使していた。彼が映画製作を始めた1896年の作品である「ロベール=ウーダン劇場における婦人の消滅」(1896年仏
*7)では、マジシャンに扮したメリエスが、アシスタントの女性に布をかけて外すと女性が消えていたりする。また、コマ撮りアニメと呼べるものも、「シンデレラ」(1899年仏*8)の中で、作り物のネズミや置時計が動く場面や、「魔法使いの洞窟」(1901年仏*9)でテーブルが動き回る場面に見られる。

 エジソンのもとで映画を製作したアメリカ映画のパイオニア、エドウィン・S・ポーター(1870〜1941/参照)もやはりコマ撮りアニメを用いた映画を製作した。例えば彼が1905年に監督した「ジョーンズがロールを無くしたわけ」(1905年米
*10)のオープニングタイトルや中間字幕には、アルファベットが画面を動き回って文字となるアニメが見られる。さらに左右から手のイラストが現れて握手するように重なる。おそらくは小さな文字の切り絵を用いたコマ撮りアニメであろう。また、ウィンザー・マッケイ (1871〜1934)の原作漫画を映画化した「レアビット狂の夢(チーズトースト狂の夢)」(1906年米*11)では、酔っぱらった主人公が見る幻想の中で、部屋の家具が独りでに動いてどこかへ行ってしまう。
 童話「3匹のくま」を基にした「テディ・ベア」(1907年米
*12)では、クマの親子は着ぐるみによって演じられている。しかし、主人公の少女がある部屋を覗き込むと、そこでは6匹のクマが体操をしている。この6匹のクマが人形アニメによって表現されているのだ。しかもこの「テディ・ベア」、「ポーターの最後にして最高のアニメーション(*13)」との評価がなされており、ポーターはそれ以前にもアニメ映画を製作しているようだ。

 どうもこうしてみると、アニメというものは、映画と同様に、複数の人物によってほぼ同時に発明されたもののようである。
  
 
 



「電気仕掛けのホテル」(1908年西・仏)
(「Wikipedia:El hotel eléctrico」より)
 

 
 
 コマ撮りを駆使した作品としてはスペインのセグンド・デ・チョーモン(1871〜1929)の「電気仕掛けのホテル」(1908年西/仏
*14)がある。「世界アニメーション映画史」によると1905年の作品なのだが、実際のところはっきりしない。ジョルジュ・サドゥール(1904〜67)著「世界映画全史」には「1909年ごろ(略)『電気仕掛けのホテル』07でこの手法を予感させてはいた」とあり、そもそも1907年なのか09年なのかがはっきりしない。「Wikipedia」(英語版)や「IMDb」は1908年としているから、おそらくはそれが正しいのだろう。映画創世期においては、4年の違いは大きく、製作されたのが1905年か1909年では作品の位置づけが相当違ってくる。それは置いておいても、この「電気仕掛けのホテル」がごく初期の1コマ撮りを駆使した映画であることは確かである。
 とあるホテルに1組の男女がやって来る。夫婦だろうか? 男性を演じるのは監督のチョーモン自身。すると、床に置いたカバンが勝手に動き出し、部屋まで行くと、中の物が独りでに棚に入っていく。2人が部屋に入ってからも、男が機械のようなものを操作すると、独りでに靴を磨いたり、髭を剃ったり、奥さんの髪を梳かして結ったり…。手紙まで勝手に書いてくれるから何とも便利。ところがその夜、機械がショートし、家具が暴走を始め、2人は揉みくちゃにされる…。
 何とも愛らしく珍妙な作品に仕上がっている。映画草創期のSF映画と言えるだろう。確かにストップモーション・アニメの元祖と言えなくはないが、実写の部分が大半を占めているため、アニメ 映画の元祖だとは言いにくい。

*4 「YOUTUBE: The Execution of Mary, Queen of Scots」(https://www.youtube.com/watch?v=XJSoRgZL0Nk
*5 「YOUTUBE: Matches an Appeal」(https://www.youtube.com/watch?v=-HD9NwzFNLY
*6 「YOUTUBE: Dreams of Toyland」(https://www.youtube.com/watch?v=Hu-1t9sId5I
*7 「YOUTUBE: Escamotage d'une dame au Théâtre Robert-Houdin」(https://www.youtube.com/watch?v=1RnJag-2WCw
*8 「YOUTUBE: Cendrillon」(https://www.youtube.com/watch?v=cAUX6Qokkvo
*9 「YOUTUBE: L'Antre des Esprits」(https://www.youtube.com/watch?v=cdQaIhABzRw
*10 「YOUTUBE: How Jones Lost His Roll」(https://www.youtube.com/watch?v=Qlxkfnbmv8k
*11 「YOUTUBE: Dream of a Rarebit Fiend」(https://www.youtube.com/watch?v=g98eVbp0zic
*12 「YOUTUBE: The 'Teddy' Bears」(https://www.youtube.com/watch?v=GhXbZ1ub4Fw)人形アニメのシーンは3:25から
*13 「世界アニメーション映画史」11ページ

*14 「YOUTUBE: The Electric Hotel」(https://www.youtube.com/watch?v=cCzru63JBSE
 
 
  ◆J・スチュアート・ブラックトン  
 



「愉快な百面相」(1906年米)
(「wikipedia:Humorous Phases of Funny Faces」より)
 

 
 
 ストップモーションアニメの創始者とされるのはアメリカのJ・スチュアート・ブラックトン(1875〜1941)である。彼による「愉快な百面相」(1906年米
*15)がよく知られている。
 実写の腕が現れ、黒板にチョークで素早く男性の上半身が描かれる。次いで、その右側に女性の絵が自然に描かれていく。男性の表情がにやけた顔に代わり、葉巻をくわえると、煙が女性の方に流れていく。すると、再び腕が現れて絵をすべて消してしまう。
 横を向いた紳士が現れ、持っていた傘を放り投げる。渦巻の中から向かい合った年老いた男女が現れるが、しわが取れて若返っていく。ピエロが現れ、犬と曲芸を披露する。
 チョークで描いた絵を少しずつ消して書き直すことで、動きを与えている。また、傘を持った紳士やピエロのシークエンスでは、動く体の部分は絵の書かれた紙を切って動かしているようにも見え、いわゆる「切り絵アニメ」の手法が取られている。
 後半は打って変わって紙の上に絵の具で描かれた絵が動き出す。禿頭の紳士の横顔をブラックトンが素早くスケッチすると、絵で描かれた顔がにやりと笑うと、紙が独りでに丸められていく。これはストップモーション・アニメの一種であろう。最後は紙に描かれたグラスにお酒と水が注がれるが、ごく普通のアニメーションの手法のようでもある。「愉快な百面相」にはその後のアニメーションの要素がすべて取り込まれている点でも注目されるのだが、ストーリーらしいストーリーは無く、実験的な作品の域を出てはいない。
 
 ブラックトンはもともとボードビルのチョーク芸人であった。「愉快な百面相」にもあったように、チョークを使って素早く絵を描くパフォーマンスを披露していた。こうした芸は“チョーク・トーク”あるいは“稲妻スケッチ(ライトニング・スケッチ)”と呼ばれている。ブラックトンは チョーク芸人として活躍していた1890年代にエジソンと出会っている。エジソンはブラックトンのパフォーマンスを3本の映画に撮影した。そのうちの1篇「発明家エジソンを描くワールド紙の画家」(1896年米
*16)が現存している。2分程の短編映画だが、ブラックトンはみるみるうちにエジソンの似顔絵を描き上げていく…。残念なことに、映像の状態がよくないため、その似顔絵がエジソンに似てるのかどうかわかりにくい。その後ブラックトンは1897年にマジシャンだったアルバート・E・スミス(1874〜1958)と映画会社ヴァイタグラフ社を設立すると、自身でも映画を製作していった。早くからミニチュアや二重露光を駆使したトリック映画を製作していたのは、同じく大道芸人出身のメリエスと同様だった。
 1900年に製作された「魔法をかけられた絵」(1900年米
*17)は、ブラックトンのパフォーマンスを撮影した作品であるのだが、そこでは初歩的なアニメ ーションの効果が見られる。ブラックトンが紙に描いた男性の顔が、喜んだり怒ったりした顔に変化している。おそらくは目や口といったパーツを切り貼りしているのであろう。 また、ブラックトンが描いたワインや葉巻が本物になって取り出したり絵の中に戻したりするトリックも披露されている。
  
 ブラックトンはその後もストップモーションを駆使した映画を次々と製作した。「幽霊ホテル」(1907年米
*18)は、ホテルの中の荷物やテーブルの上の食器が独りでに動き出す様子をストップモーション・アニメを駆使して描いたメリエスばりのトリック映画であった。
 ブラックトンは確かにアニメの元祖を生み出した作家ではあったが、アニメ作家の元祖とは言えない。チョーモンもそうだろうが、彼はトリックを生み出すための新しい技術の1つとしてストップモーションを取り入れたにすぎなかった 。

 ブラックトンは1909年以降はアニメーションを製作することなく、1941年にロサンゼルスで亡くなった。

*15 「YOUTUBE: Humorous Phases of Funny Faces」(https://www.youtube.com/watch?v=5hz3b__5_Zc
*16 「YOUTUBE: Edison Sketched by J Stuart Blackton」(https://www.youtube.com/watch?v=lW3uIm82hpY
*17 「YOUTUBE: The enchanted drawing」(https://www.youtube.com/watch?v=pe7HSnZotbU
*18 「YOUTUBE: The Haunted Hotel」(https://www.youtube.com/watch?v=zpWooy0uI9Q
 

 
  ◆エミール・コール  
 



最初のアニメ「ファンタスマゴリー」(1908年仏)
(「IMDb:Fantasmagorie」)
 

 
 
 アニメ作家の元祖と呼ぶことができる人物は、フランスのエミール・コール(1857〜1938)である。 彼はブラックトンの影響を受けて、実写部分を含まない最初のアニメ映画といわれる「ファンタスマゴリア」(1908年仏
*19)を製作した。

 僕はこのエミール・コールの作品をフランスのDVDで観た。ブックレットのついた豪華なDVDなのだが、すべてフランス語で描かれているため、せっかくの詳細な解説の内容を理解することが出来ない…。
 ともかく「ファンタスマゴリア」を観てみた。真黒な画面に人間の手が現れ白い線で絵を描き始める。先ほど、「実写部分を含まない」と書いたが、いきなりその期待は裏切られた。もっとも、実写部分が大きなウェイトを占めるブラックトンの「愉快な百面相」に比べれば、実写部分はうんと少ない。冒頭以外では後半に、首と胴体が離れてしまったキャラクターを糊でくっつける場面で手が出てくるだけである。
 「ファンタスマゴリア」の登場人物は黒字に白い線で描かれたファントーシュ(「操り人形」の意)と呼ばれるキャラクター。最初は男の子が1本の横線につかまっているが、それから手を離すと、横線は窓枠のようになって降りてくる。窓枠の中にはシルクハットに雨傘を持った紳士が立っている。紳士が帽子を脱いで枠から出てくると、そこは映画館。紳士は椅子に座る。一方、男の子は、紳士の座った椅子の前の椅子から出てくるが、紳士に叩かれ、蜘蛛の糸につかまってどこかへ行ってしまう。紳士の前の席には羽飾りのついた帽子を被った婦人が座ったため、紳士は映画が見えない。なので、婦人の帽子の羽根を抜き始める…。このような感じで、アニメはスピーディに展開していくが、ストーリーらしきものはほとんどない。
 次の「人形の悪夢」(1908年仏
*20)が実写部分のない完全なアニメのみの作品としての最初の物となるが、やはりこちらにもストーリーらしきものはない。第3弾の「人形のドラマ」(1908年仏*21)になると、一人の男が女の家を訪ねるが入れてもらえず窓から入ると女が逃げ出し、警官がそこにやって来て…。と、ようやくストーリーらしいものが現れてくる。
 個人的に好きなのは「ほら吹き男爵の冒険」(1911年仏
*22)。ほら吹き男爵というからには、テリー・ギリアム(1940〜)監督の「バロン」(1989年英)などで知られるミュンヒハウゼン男爵(1720〜97)のことだろうか。もっともこの作品の主人公の男爵は、実在の18世紀の人物というよりは、帽子を被った現在の船長といった感じ。その男爵が、奇想天外な冒険を繰り広げる。気球に乗った男爵だが、雨が降ると気球が傘と変わり、男爵は墜落。すぐに観覧車に乗る込むと、それが飛行船となって飛び出す。だが飛行中に、その飛行船の気嚢が破けて男爵は墜落。両端にスタンドのついたポールを2本持った男の上に落ちる。男爵はそのポールを持つと、またしても飛び上がり、海の向こうの王様のところへ赴く…。
  
 
 



「ファンタスマゴリア」(1908年仏)
(「世界アニメーション映画史」4ページ)
 

 
 
 コールはこうしたアニメ作品を400本程製作したというが、線画のアニメーションだけではない。「それではスポーツをしよう(Soyons donc Sportifus)」(1909年仏
*23)は、乗馬、自動車、自転車、スケート、重量挙げ、釣りなど、様々なスポーツをする人々を人形で表現した人形アニメ。「行こう(En Route)」(1910年仏*24)は、切り絵アニメで、動く星や乗り物を表現している。「ジャパン・ファンタジー(Japon de Fantaisie)」(1909年仏*25)は、その名の通り日本を思わせる要素のふんだんな物体アニメで、閉じた提灯から日本人形が顔を出したり、隈取のお面の口からネズミが出てきたりする。

 コールはアニメと実写を巧みに組み合わせた作品もたくさん作り出した。その1篇「陽気な微生物」(1909年仏
*26)は、学者が来客から採取した細菌を顕微鏡で覗くと、それがアニメで様々な人間に変化する。コールはいわゆるトリック映画や、コメディ映画なども多く製作しており、単なるアニメ作家の枠にはとらわれない映画作家だった。1912年にはアメリカにも渡り、ウォルト・ディズニーらアメリカのアニメ作家に大きな影響を与えたと言われるが、1914年に帰国。第一次世界大戦後は忘れられてしまった。1938年、スラム街に住み、痴呆症にかかっていたコールは火事を起こして悲劇的な最期を遂げた。
 
*19 「YOUTUBE: Fantasmagorie + Un drame chez les fantoches」(https://www.youtube.com/watch?v=C7yyIm7NeBg
*20 「YOUTUBE: Le Cauchemar de Fantoche」(https://www.youtube.com/watch?v=BwGD_V35DjM

*21 「YOUTUBE: Un drame chez les fantoches」(https://www.youtube.com/watch?v=bDYNes40QqU
*22 「YOUTUBE: Les aventures du baron du Crac」(https://www.youtube.com/watch?v=lpz8fx__8Rw
*23 「YOUTUBE: Soyons donc sportifs」(https://www.youtube.com/watch?v=4V5ThMxeFCY
*24 「YOUTUBE: En Route」(https://www.youtube.com/watch?v=YjHaj4rLqgA
*25 「YOUTUBE: Japon de Fantaisie」(https://www.youtube.com/watch?v=wA7QX2M7iVw
*26 「YOUTUBE: Les Joyeux Microbes」(https://www.youtube.com/watch?v=Zg2pB2lwF3w
 
    
 
  ウィンザ−・マッケイ  
 



ウィンザー・マッケイ
(「Wikipedia:Winsor McCay」より)
 

 
 
 アメリカではJ・スチュアート・ブラックトンの影響が大きかったが、中でもウィンザー・マッケイ(1867〜1934)は相当の影響を受けたと言われる。
 マッケイは漫画家としてキャリアをスタートさせた。1903年に「フィリックス・フィドルのジャングル・インプ物語(A Tale of the Jungle Imps by Felix Fiddle)」でデビューした。1904年に「レアビット狂の夢(Dream of the Rarebit Fiend)」の連載を開始。1911年まで連載される人気漫画となった。先にも紹介したが、そのうちの1篇「空飛ぶベッド」が1906年にエジソン社で実写映画化されている。

 翌1905年に連載を開始したのが、マッケイにとっての代表作となる「夢の国のリトル・ニモ (Little Nemo in Slumberland)」であった。「夢の国のリトル・ニモ」は、主人公の少年ニモが、眠っている間に見る夢の物語である。ニモは夢の国(Slumberland)の王女に招かれ、夢の国へ向かう。途中様々な苦難にあうが、そのたびごとに目が覚めてしまい、なかなか夢の国へはたどり着けない。葉巻をくわえた親父フリップが、ニモの旅を妨害する。苦難の末に夢の王国にたどり着き、王女様と出会えたニモは、新たな冒険に出かけるのであった。
 ニモ少年のモデルとなったのはマッケイの当時5歳の息子ロバートだった。「夢の国のリトル・ニモ」は相当に人気があり、続編も含めて1927年まで書き継がれたが、ニモも息子の成長に合わせて9歳にまで成長した。

 1908年にはオペレッタ化され、ブロードウェイで上演されている。この「夢の国のリトル・ニモ」のアニメ化で、マッケイはアニメーション・デビューを果たすことになる。1911年「リトル・ニモ」は約2分間の作品としてアニメ化された
(*27)。その後、マッケイ自身がアニメ映画を製作するまでの下りを実写として付け足し(監督したのはJ・スチュアート・ブラックトン)、「ニューヨーク・ヘラルド紙の人気漫画家ウィンザー・マッケイとその動く漫画(Winsor McCay, the Famous Cartoonist of the N.Y. Herald and his Moving Comics)」の題で上映している。それによると、酒場で自分の漫画が動かせるかどうかの賭けをしたマッケイが、1ヶ月後約4000枚もの絵を描きあげる。もっともこの4000枚というのは、マッケイが大げさに盛っているようである。サイレント映画は1秒16コマだから、それで計算すると4分強になる。なお現在のリミテッドアニメであれば、4000枚あれば30分のアニメ1本が製作できてしまう。
 僕が観た「リトル・ニモ」は、手で彩色されたフィルムであった。マッケイの手が現れて葉巻をくわえた親父フリップと土人のインプが描かれる。フリップは、ニモのライバルともいえるキャラクター。インプはマッケイのデビュー作「ジャングル・インプ物語」のキャラクターで 、「夢の国のリトル・ニモ」にも登場する。フリップとインプがケンカしたあと、ニモが現れ、彼の左右で2人は縦に延びたり縮んだりする。ニモが女王を描くと動き出す。そこにやって来たドラゴンが口を開くと座席があり2人は乗って去っていく。その後を車に乗ったフリップとインプが追うが突然車が爆発。落ちてきた2人に ドクター・ピルが潰される。
 特にストーリーは無く、そもそもニモが主人公というわけでもない。しかしストーリーは無いとは言っても、ブラックトンの「愉快な百面相」やコールの「ファンタスマゴリー」といった実験的作品に比べるとはるかに洗練されていてる。 
    
 
 



「リトル・ニモ」(1911年米)
(「Wikipedia:Little Nemo (1911 film)」より)
 

 
 
 「夢の国のリトル・ニモ」は現在に至るまで多くの人に愛されてきている。ウォルト・ディズニー(1901〜66)も2度に渡って映画化を検討したと言われるが、実現しなかった。その後、日本のアニメ・プロデューサーの藤岡豊(1927〜96)が日米合作として「NEMO/ニモ(リトル・ニモ)」(1989年日/米)を製作。製作期間15年と55億円にも上る費用を費やして完成させた。「NEMO/ニモ」の製作をめぐってはある意味映画本編よりも面白いので、簡単に触れておきたい。
 東京ムービーを設立した藤岡は、「巨人の星」(1968〜71年よみうりテレビ)や「ルパン三世」(1971〜72年トムス)などを製作するが、国内でのマーケットに限界を感じ、アメリカ進出を志すようになる。1975年にテレコム・アニメーションフィルムを設立すると、アメリカ進出の為の企画として「リトル・ニモ」の映画化に着手する。藤岡は「シンデレラ」(1950年米)や「ピーター・パン」(1953年米)で作画監督を務めたディズニーの古参アニメーターのフランク・トーマス(1912〜2004)とオーリー・ジョンストン(1912〜2008)と協力。ジョージ・ルーカス(1944〜)の推薦でアメリカ側プロデューサーとして「スター・ウォーズ」(1977年米)のゲイリー・カーツ(1940〜)が参加する。そして脚本にはSF作家のレイ・ブラッドベリ(1920〜2012)が起用された。
 アメリカ側の監督は後に「リトル・マーメイド」(1995年米)や「ヘラクレス」(1997年米)で美術監督を務めるアンディ・ガスキル(1954〜)。日本側は高畑勲(1935〜2018)、宮崎駿(1941〜)が監督候補であった。しかし宮崎は、「ニモ」の企画その物に否定的で、代案として後の「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」につながる企画を提案していたが受け入れられず降板。高畑もプロデューサーのカーツとの確執により降板している。こうしているうちに製作は長引き、1984年になって「ニモ」の製作は中断してしまった。
 その後、ゲイリー・カーツとの契約を解除し、再び「ニモ」の製作が動き出す。アメリカ側監督としてフランク・ニッセンが起用され、フランスの漫画家のメビウスことジャン・ジロー(1938〜2012)、イギリスのイラストレーターでビートルズとも親交のあったアラン・アルドリッチらもスタッフに加わっている。日本側監督としては一時、出崎統(1943〜2011)が起用された。最終的には1989年頭になって、クリス・コロンバス(1958〜)とリチャード・オッテンが仕上げた脚本を、日本側監督・波多正美(1942〜)、アメリカ側監督ウィリアム・T・ハーツ(1919〜2000)が完成させるに至る。
 1989年に日本で公開されるが、製作費が嵩んだがために宣伝費が十分捻出できなかったこともあり、製作費55億円に対し興行収入4億5000万円に留まった。興行失敗の責任を取ってプロデューサーの藤岡も東京ムービーを退社することとなる。このような経緯もあって、「NEMO/ニモ」は失敗作とされることが多いのだが、果たして本当にそうだろうか?
 「NEMO/ニモ」は、ウィンザー・マッケイの漫画を原作としているが、少年ニモが見る夢という設定と、一部のエピソードが使われている以外はほとんどオリジナルの作品である。鮮やかな色彩とスピーディな展開で、めくるめく夢の世界を見事に描きあげている。ディズニー的なファンタジーの要素と、日本アニメのダークな側面が見事に融合しているともいえる。
いずれにせよ、魅力的な作品だと言える。
   
 
 

「NEMO/ニモ」(1989年日米)

 
   
 さて、ウィンザー・マッケイの話に戻ろう。マッケイもブラックストン同様ボードビルに出演しており、1906年からチョーク・トークを披露していたが、彼のアニメーションは、ボードビルの演目となった。
 1911年マッケイは、「市民ケーン」(1941年米)のモデルとなった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト(1863〜1951)に引き抜かれ「ニューヨーク・アメリカン」紙で仕事をするようになる。ハーストはマッケイに社説漫画を描くことを求め、普通の漫画を書くことを禁じてしまう。また、ハーストはマッケイにアニメーションを製作することを強制し、以後数多くのアニメ作品が生み出されていった。
 マッケイの2作目は人間の血を吸う蚊を描いた「蚊の話(蚊はいかにして行動するか)」(1912年米
*28)。これは「レアビット狂の夢」の1エピソードのアニメ化である。人間の体に針を刺し、血を吸うごとに腹が膨れていく蚊の描写はなんともグロテスク。最後は血を吸い過ぎて破裂してしまう。
 
 
 



「恐竜ガーティ」(1914年米)
ガーティに乗るウィンザー・マッケイ
(「アートアニメーションの素晴らしき世界」57ページ)
 

 
 
 そして最も有名な作品が3作目の「恐竜ガーティ」(1914年米
*29)である。「リトル・ニモ」同様、実写部分で幕を開ける。博物館で恐竜の骨を見た男たちが、マッケイに恐竜を動かすことが出来るかどうかの賭けをする。6ヶ月後、マッケイは約1万枚の絵を描きあげ、男たちの前でアニメを上映する。マッケイが名を呼ぶと、主人公の雌の恐竜のガーティが岩陰から姿を現す。ガーティは岩や木を食べ、マンモスとやり取りをする。マッケイの命令でお辞儀をしたり足を挙げる…。賭けに勝ったマッケイは夕食をご馳走になる。
 恐竜の動きがリアルである。「ジュラシック・パーク」(1993年米)に先立つこと約80年であると考えると驚異的だ。アニメ部分の最後は、マッケイ自身が映画の中に現れ、ガーティの背中に乗って去っていく。このマッケイは写真を切り抜いたものであったらしいが、実写とアニメの合成という点でもこの作品は先駆的である。
 この作品もボードビルにおいてマッケイの演目となっていた。もともとは実写の部分はなく、マッケイ自身がスクリーンの外から口上を述べ、スクリーンの中のガーティと掛け合いを見せた。例えば、マッケイがスクリーンの外からカボチャを投げ込むと、ガーティはスクリーンの中でそれをキャッチする。

 ところで、この作品を今日見ると、非常に違和感がある。というのも、背景までもがすべて同じ紙に描く“ペーパー・アニメーション”の手法で描かれているため、動画にすると微妙なズレがチラついて見えるのである。そうした違和感が解消されるためには、透明な「セル」を用いた技法の発明を待たなくてはならなかった。
 
 
 
 マッケイの次の作品は「ルシタニア号の沈没」(1918年米
*30)。これはアメリカが第一次世界大戦に参戦するきっかけとなった1915年5月7日のUボートの攻撃でイギリスの豪華客船ルシタニア号が沈没した事件を描いている。他の作品のようなコミカルさを排除し、きわめて写実的にドキュメンタリータッチで淡々と描く。ペーパー・アニメーションだけに、完成まで3年もの歳月を費やした。そのため作品が完成した際には、第一次大戦自体が終息に向かってしまっていたという。なお、この作品では一部にセルが用いられていた。
 それ以降のマッケイの作品はすべてセル・アニメーションとして製作されている。ギリシア神話に材を取った「ケンタウルス」(1921年米
*31)や、恐竜ガーティが都会にやってくる「ガーティの旅」(1921年米*32)、「フリップのサーカス」(1921年米*33)などは、セルを用いた習作的な感じでそれほど面白いと思わなかった。しかし、彼の漫画「レアビット狂の夢」の映画化である「虫の大道芸」(1921年米*34)、「ペット」(1921年米*35)、「空飛ぶ家」(1921年米*36)の3作品は、完成度も高くそれなりに楽しめる内容となっている。しかし、この頃にはマッケイの名はすでに過去のものとなっていた。
 アニメ製作をやめたマッケイは再び漫画の世界に戻り、1934年7月27日脳溢血によって亡くなった。

*27 「YOUTUBE: Little Nemo」(https://www.youtube.com/watch?v=K8qow7jTyoM
*28 「YOUTUBE: How a Mosquito Operates」(https://www.youtube.com/watch?v=1uLWbuButIE
*29 「YOUTUBE: Gertie the Dinosaur」(https://www.youtube.com/watch?v=lmVra1mW7LU
*30 「YOUTUBE: Sinking of the Lusitania」(https://www.youtube.com/watch?v=0Ugk348jStc
*31 「YOUTUBE: The Centaurs」(https://www.youtube.com/watch?v=hoVHhIoyoO4
*32 「YOUTUBE: Gertie on Tour」(https://www.youtube.com/watch?v=7zdrZH0h67M
*33 「YOUTUBE: Flip's Circus」(https://www.youtube.com/watch?v=C7w7gukaZJ8
*34 「YOUTUBE: Bug Vaudeville 」(https://www.youtube.com/watch?v=0LZIW1cNdjI
*35 「YOUTUBE: The Pet 」(https://www.youtube.com/watch?v=s39jimMyAFI
*36 「YOUTUBE: The Flying House 」(https://www.youtube.com/watch?v=kDaDYCRmxmQ
  
          
 
  セル・アニメの誕生  
 



「アニメイテッド・グラウシュ・チェイサーズ」(1915年米)の1篇
(「アートアニメーションの素晴らしき世界」57ページ)
 

 
 
 初期のペーパーアニメでは、すべての絵を1枚ずつ描くため製作には膨大な時間がかかっていた。これではとても商業ベースに載せることはできない。そのため、それらの問題を克服する試みがなされてくる。

 アメリカのラオール・バレー(1874〜1932)は、絵のぐらつきを防ぐためにタップ(アニメーション・タップ)を使って用紙を固定する“タップ形式 (ペグ・システム)”を生み出し、絵のずれを最大限防ぐことに成功した。また、1枚の絵を撮影した後、背景のように動かない部分だけを残して切り取り、動く部分だけ を新たに描いてすり替えた。これは、切り絵アニメの一種だろうか。後にセルが普及する以前にはよく用いられた手法である。
 バレーは1913年にアニメ・スタジオを立ち上げ、こうした手法を用いて風刺アニメ・シリーズ「アニメイテッド・グラウシュ・チェイサーズ(The Animated Grouch Chasers)」(1915〜16年米)などを製作した。僕はそのうちの一篇「Cartoons on Tour」(1915年米
*37)を観た。彼氏との結婚を父親に認めてもらいたい少女の実写映画の合間に、登場人物たちが読む漫画として、「アニメイテッド・グラウシュ・チェイサーズ」の短編アニメが4篇挿入されている。いわゆる切り絵アニメの一種であろうか、シンプルな絵だが、確かに「恐竜ガーティ」などに見られた画面のちらつきはなくなっている。 もっとも、どのあたりが風刺なのかは、正直僕にはわからなかった。
   
 
 



「アフリカのヒーザ・ライア大佐」(1913年米)
(「アートアニメーションの素晴らしき世界」57ページ)
 

 
 
 セル・アニメを発明したのは、ジョン・ランドルフ・ブレイ(1879〜1978)である。
 ブレイは1913年「画家の夢(「ダックスフントとソーセージ)」(1913年米
*38)を製作している。画家を演じるブレイ自身が席を外した隙に、絵の中の犬が動き出す。ソーセージを盗み食って、腹が膨れて破裂してしまうという、マッケイの「蚊の話」の蚊とよく似た結末を迎える。この作品を観たフランスのシャルル・パテ(1863〜1957)は、ブレイに毎月1本のアニメの製作を依頼した。
 パテの依頼でブレイが製作したのが「ヒーザ・ライア大佐」(1913〜24年米
*39)シリーズである。同じキャラクターを主人公としたシリーズとしてはこれが最初のものであるとされる。主人公のヒーザ・ライア大佐は、はげ頭で眼鏡をかけた冒険家。ジャングルや孤島に旅をしては騒動を巻き起こす。
 第1作「アフリカのヒーザ・ライア大佐」(1913年米)では、大佐はカンガルーの袋に入って登場する。ダチョウの卵を取ったり、蝶を捕まえようとして間違えて熊に追いかけられたりと様々な冒険を繰り広げる。これは探検家・狩猟家としても知られたセオドア・ルーズヴェルト大統領(1858〜1919/任期1901〜09)の狩りの様子をパロディ化していたそうである。また、後の作品はウッドロー・ウィルソン大統領(1856〜1924/任期1913〜21)を風刺しているそうでもあるが、やはり僕にはどの辺りが風刺なのかはわからない。このシリーズでは、だいぶ後の作品だがヒーザ・ライア大佐がバナナ不足の中、南海の孤島にバナナを求める旅に出る「ヒーザ・ライア大佐/バナナがほしい」(1923年米)が面白かった。
 ブレイは1914年、トレーシングペーパーに背景をあらかじめ印刷する手法を発明し特許を取得した。さらに、透明なセルに絵を描くセルアニメを発明している。当時は背景の方をセルに描き、紙に書かれたキャラクターの上に重ねるという、今日のアニメとは重ねる順番が逆であった。こうした発明はパテの依頼に間に合わせるの苦肉の策であったのかもしれないが、これによって背景を書く手間が省かれ、より複雑な背景を作り出すことが可能になった。

 1915年6月、アール・ハード(1880〜1940)は透明なセルに動画を描いて、背景の上に重ねるという手法を生み出した。これは近年コンピュータ・グラフィックが導入されるまで主に使われていた手法である。ハードは、ブレイの特許と合わせて「ブレイ=ハード・プロセス・カンパニー」を設立。1932年まで他のアニメ作家へライセンスを与え続けた。
 セル・アニメが生み出された結果、背景とキャラクターを切り分けそれぞれを簡素にすることで、分業制を可能にすることができるようになった。その結果、多くの作品を生み出すことができるようになったのである。それまでのアニメというものは、ウィンザー・マッケイのような名をあげた漫画家が、余暇として製作するようなものであったが、ようやく興業として成立する時代がやって来た。マッケイ自身もセルアニメを取り入れる以前の1911年から1918年までの7年間に発表した作品はわずか4本しかないが、セルを取り入れた1921年は1年間で6本もの作品を発表している。
 ハードがセル・アニメを駆使して製作したのが「ボビー・バンプス」(1915〜25年米
*40)シリーズである。ボビー・バンプス少年とその愛犬フィドを主人公としている。僕はだいぶ後の作品になるが、「食堂は大混乱の巻」(1918年米)、「Pup Gets the Flea-Enza」(1919年米)などを観た。日常生活の中で起きる騒動を描いた作品であった。 
   
 
 



「Starts for School」(1917年米)
(「Wikipedia:Bobby Bumps(イタリア語)」より)
 

 
 
 ブレイのスタジオからは1910年代、20年代と多くの作品が生み出されていく。それらの中には、「ディプロドクス」(1915年米)という作品がある。これは、ウィンザー・マッケイの「恐竜ガーティ」のセルアニメによる焼き直し。スクリーン外から食べ物が投げ込まれたり、人物がスクリーンの中に出現したりと、細かい演出も踏襲されている。また、「視点(The Point of View)」(1920年米)や「化学的インスピレーション(Chemical Inspiration)」(1921年米)といった教育アニメもあった。ブレイは最初のカラー・アニメである「猫のトーマスの第1歩」(1920年米)も製作しているが、僕は見ていない。
 ブレイはニュース映画や実写映画をも手掛けるようになり、アニメ製作を後に「ベティ・ブープ」(1932〜39年米)や「ポパイ」(1933年〜米)を生み出すマックス・フライシャー(1883〜1972)や、「ウッディ・ウッドペッカー」(1940年〜米)を生んだウォルター・ランツ(1899〜1994)に任せるようになっていった。
 ブレイのパートナーだったアール・ハードは1920年に独立するも成功せず、1934年にウォルト・ディズニーのプロダクションに入ると「白雪姫」(1937年米)や「ファンタジア」(1940年米)の製作に携わった。
      
 
 



「マットとジェフ」
左がジェフで右がマット
(「世界アニメーション映画史」16ページ)
 

 
 
 1907年に連載が始まったバド・フィッシャー(1885〜1954)の漫画「マットとジェフ」は、100紙以上に掲載される大ヒットとなっていた。フィッシャーは、自身の手で「マットとジェフ」をアニメ映画化したいと考え、チャールズ・バワーズ(1889〜1946)を責任者にマット・アンド・ジェフ・フィルムを立ち上げた。しかしすぐにそれは行き詰まり、バワーズはラオール・バレーと組み、「バレー=バワーズ・スタジオ」を発足し「マットとジェフ」シリーズ(1916〜26年米
*41)の製作を開始した。
 ノッポのマットと、チビのジェフという珍コンビが引き起こす騒動が描かれる。後の“極楽コンビ”ローレル&ハーディや、“凸凹コンビ”アボット&コステロを思わせる。「ヒーザライア大佐」シリーズのような荒唐無稽さは無く、実写のドタバタ喜劇を見ているかのような味わいがある。実際、1911年〜13年には実写でも映画化されている。
 原作者のフィッシャーは、オーナーとしてスタジオに君臨したばかりか、実際にはアニメの製作にタッチしていなかったにも関わらず作品の顔として振る舞った。 彼は作品のクレジットに自分の名前だけを“製作者”として記し、バワーズやバレーの名前を出すことはなかった。そのことで、バレーやバワーズとの間で確執が深まっていったのだろうか。1918年、バレーがスタジオを去る。1919年にはバワーズがフィッシャーにより解雇されてしまう。その1919年にはスタジオそのものが「バド・フィッシャー・スタジオ」という名称に変わってしまった。バレーはその後は絵画に活動の場を移し、1926年に一時期パット・サリバンの元で「フェリックス・ザ・キャット」のアニメーターとして復帰するも1927年にアニメ界から引退している。バワーズもすぐにフィッシャーの元に復帰をするものの1920年代半ばに再び解雇されると1928年に引退してしまう。
 フィッシャーも1926年以降は漫画の世界に戻り「マットとジェフ」を亡くなる1954年まで書き続けた。「マットとジェフ」はその後も他の漫画家に書き継がれ、1983年まで連載が続いていた。
 
*37 「YOUTUBE:  Cartoons on Tour 」(https://www.youtube.com/watch?v=ADy4NXvaDgI
*38 「YOUTUBE: The Artist's Dream」(https://www.youtube.com/watch?v=1DFgvqA1eCw
*39 「YOUTUBE: Colonel Heeza Liar Foils the Enemy 」(https://www.youtube.com/watch?v=ZvVzGp306eY
*40 「YOUTUBE: Bobby Bumps Starts for School」(https://www.youtube.com/watch?v=zFm4HBZy-vk
*41 「YOUTUBE: Domestic Difficulties 」(https://www.youtube.com/watch?v=txBS_unQKdg
   
 
  ◆新聞王ハーストのアニメ興業  
 



「カッツェンジャマー・キッズ:ポリシーとパイ」(1919年米)
 

 
 
 こうしたアニメの隆盛に、ビジネスマンたちが目をつけないはずがなかった。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストもその1人で、1916年インターナショナル・フィルム・サービス社を設立すると、自身の新聞に連載された漫画を次々とアニメーション化していった。これはいってみればメディア・ミックスの元祖である。
 ハーストが生み出したシリーズには次のようなものがある。

 「カッツェンジャマー・キッズ」シリーズ(1916〜18年米)は、悪戯小僧2人組のハンスとフリッツが引き起こす騒動を描いている。原作漫画はドイツ移民のルドルフ・ダークス(1877〜1968)によって1897年に連載が始まったが、最初の1コマ漫画ではない複数コマの漫画(コミック・ストリップ)であったと言われる。また、漫画史における最初の版権訴訟を起こされた漫画としても知られている。ダークスはハースト系の「ニューヨーク・ジャーナル」誌で「カッツェンジャマー・キッズ」の連載を開始するが、その後ライバルのピューリツァー系の新聞に引き抜かれた際に訴訟となった。判決は、ハースト側に「カッツェンジャマー・キッズ」の名前の使用権、ダークスにはキャラクターの使用権が与えられることとなった。ハーストはハロルド・クネル(1882〜1949)に「カッツェンジャマー・キッズ」を執筆させ、ダークスは「ハンスとフリッツ」と改題して連載を続けた(後に「キャプテンとキッズ」と改題)。「キャプテンとキッズ」は1948年にダークスの息子ジョン・ダークスに引き継がれ、1979年まで連載された。一方の、「カッツェンジャマー・キッズ」のほうもクナーの死後複数の漫画家によって書き継がれ、120年目となった2017年現在も連載中。2014年に世界最長連載漫画として「ギネスブック」記録に認定されている
(*42)
 僕が観た「カッツェンジャマー・キッズ」の1篇は「ポリシーとパイ」(1918年米
*43)。1918年製作なのでおそらくクネル版の漫画が原作なのだろう。ハンスとフリッツが、中年カップルのお祝いを邪魔しようといろいろな悪さを仕掛ける。部屋に猫を投げ込んだり、パイの中にカエルを入れたりするのが、やや荒唐無稽な印象である。

*41 「Longest-running comic strip still syndicated」(http://www.guinnessworldrecords.jp/world-records/longest-running-comic-strip-still-syndicated
*42 「YOUTUBE: Policy and Pie 」(https://www.youtube.com/watch?v=hTg9-ojoq6c
    
 
 
 



「サーカスのクレージー・カットとイグナッツ・マウス」(1916年米)
イグナッツ・マウスとクレージー・カット
(「Krazy Kat」より)
 

 
 
 猫のクレージー・カットとネズミのイグナッツ・マウスのコンビが活躍する「クレージー・カット」シリーズ(1916〜40年米
*44)。原作はジョージ・ハリマン(1880〜1944)の人気漫画で、ハースト系の新聞に1913年から1944年まで31年にも渡って連載された。
 短編アニメも1916年から製作が始まり、1940年まで231本もの作品が製作された。そのうちの初期の作品をいくつか見てみた。「クレージー・カットのいたずら合戦」(1916年米)では、酔っぱらって帰って来たイグナッツに水をかけたクレージー・カットが、復讐として熱闘風呂に入れられてしまう。「クレイジー・カットの舞台の悲劇」(1916年米)では、クレイジーとイグナッツがステージでショーを披露。イグナッツによって宙へ放り投げられたクレイジーが、地面に激突。潰れて黒い染みになってしまう…。なるほど、時に不条理でシュール。笑い以上に考えさせられるものがある。それだからか、「クレイジー・カット」シリーズは一般大衆以上に知識人の支持を集めたという。アンドレ・ブルトン(1896〜1966)や詩人のE・E・カミングス(1894〜1962)、作家のウンベルト・エーコ(1932〜2016)らも 「クレイジー・カット」への賛辞を寄せた。何よりもハースト自身がこの作品を愛したと言われ、ハリマンの死後は誰にも後を継がせず連載終了を宣言した。
 主人公のクレージー・カットとその相棒のイグナッツ・マウス、時にいがみ合いながらも仲良くしている姿は後の「トムとジェリー」(1940〜米)を彷彿させる。また、「猫のフィリックス(フェリックス)」(1919〜36年米)にも影響を与えたのではないだろうか。フィリックスは、日本では現在でも10円ガムの袋や東日本銀行のマスコットに起用されるなど人気があるが、初期のフィリックスの造形というのは、現在の姿よりもスリムで角ばっていて、このクレイジー・カットによく似ている。
 ただ面白いことに、クレイジー・カットの造形も、1925年以降は丸みを帯びた現在のフィリックスによく似たものに変わって来るのである
(*45)。当時、シリーズを製作していたビル・ノーラン(1894〜1954)が、フィリックスを生んだパット・サリバン(1885〜1933)のスタジオにいたこととも関係しているようである。さらに、1930年以降はミッキー・マウスの亜流とも言うべき姿に変貌している(*46)。まるでミッキーにおけるミニー・マウスのような、クレイジーとそっくりなガール・フレンドが出現したり、ミッキーにおけるプルートような愛犬が登場する。「The Birth of Jazz」(1932年米*47)という作品などは、まるでディズニーの「シリー・シンフォニー」シリーズそのもの。僕が観たいくつかのエピソードには、イグナッツは登場しておらず、旧作の持つ不条理さも消え単純明快なドタバタと化しているので、もはやタイトルだけ同じで別の作品のようである。
  
 
 

  

1930年代の「クレイジー・カット」
  

 
   
 「クレイジー・カット」の人気は現在まで続いている。チェコスロバキア(現・チェコ)のジーン・ダイッチ(1924〜)によって1962年から1964年にテレビアニメとして「クレージー・カット」 が製作された
(*48)。旧作のクレイジーの性別ははっきりしなかったが、ここでは明らかに女性として描写されている。イグナッツへの種族を越えた恋慕の情が描かれる。また、イグナッツはすぐにレンガをクレイジーの頭にぶつけるなど、かなり好戦的だ。
 1988年には「ガーフィールドと仲間たち」(1988〜94年米)のスペシャル版「ガーフィールドは9回生きる!」(1988年米)にゲスト出演している
(*49)。クレージー・カットの出演する第5の命のエピソードは、モノクロでレトロな雰囲気で始まる。クレイジーが花の匂いを嗅いでいるところに、イグナッツが木にたくさんレンガを入れた袋を吊るしている。監督にスタントを頼まれたガーフィールドが、クレイジーの代わりに立つと、イグナッツはそこにレンガを落とす…。ここでのクレイジーとイグナッツの姿は、1910年代の初期のものと同じである。

*44 「YOUTUBE: Krazy Kat Bugologist 」(https://www.youtube.com/watch?v=7ESzUkmCiIA
*45 「YOUTUBE: Krazy Kat- Stork Exchange」(https://www.youtube.com/watch?v=QAnhGkoek54
*46 「YOUTUBE: Weenie Roast」(https://www.youtube.com/watch?v=Qz_2mEkFru8
*47 「YOUTUBE: The Birth of Jazz」(https://www.youtube.com/watch?v=NO6dys1_FoU
*48 「YOUTUBE: My Fair Ignatz」(https://www.youtube.com/watch?v=NU1AotsYMYg
*49 「YOUTUBE: Garfield 9 Lives 1988 TV special, lives 4-6」(https://www.youtube.com/watch?v=Ov4bb1KAhtE
 
 

 

 



「Jerry on the Job in A False Alarm」(1920年米)
ジェリー少年は一番右
(「John Randolph Bray: Animation’s First Mogul」より)

 

 
 
 ウォルター・ホーバン(1890〜1939)原作の「仕事場のジェリー(Jerry on the Job)」シリーズ(1916〜22年米) は、ニュー・モニア(New Monia)駅で働く少年ジェリーの引き起こす騒動を描いている。
 ジェリーは上司のギヴニー氏にいろいろと命じられるのだが、何をやっても結局失敗ばかり。例えば、「The Tale of a Wag」(1920年米
*50)では、ギヴニー氏に蚊をやっつけてくれと頼まれたジェリーが、愛犬の尻尾に金づちを括りつけて蚊を退治しようとするが…結局ギヴニー氏を打ちのめしてしまう。「Cheating the Piper」(1920年米*51)でも、駅舎のネズミを退治しろと頼まれたジェリーが、「ハーメルンの笛吹き男」よろしくサックスでネズミを誘い出して湖に連れて行くが、結局駅に戻ってきてしまう。
 「魅惑のまなざし」(1922年米)では、ジェリーは駅に来た少女に恋をする。ところがその少女は、列車強盗が化けた姿であった。ジェリーがそうとは知らず女装男子とイチャイチャするなど、よく考えるとかなり際どい描写が登場する。
 主人公のジェリー少年の容姿は2頭身で描かれている。極端にデフォルメされた描写が魅力的な作品である。
  
*50 「YOUTUBE : Jerry on the Job - The Tale of a Wag」(https://www.youtube.com/watch?v=kF7j7BEYJ2M
*51 「YOUTUBE ; Cheating Piper」(https://www.youtube.com/watch?v=Yv_4DN_rpr0

 
 
 



「ハッピーフリガン戦争の巻」
(「世界アニメーション映画史」17ページ)
 

 
 
 「ハッピー・フーリガン」シリーズ(1917〜21年米)は、フレデリック・バル・オッパー(1857〜1937)が原作。1900年から32年にかけて連載された。「フーリガン(Hooligan)」とは「ならず者」の意味である。近年、主にヨーロッパのサッカーの試合において暴徒化する熱狂的なファンのこともそう呼ばれている。この作品の主人公のフーリガンは、ならず者というよりは「ホーボー(Hobo)」に近い。日本語で言えば「風来坊」とか「フーテン」といった感じだろうか。僕が観たいくつかの作品でのフーリガンは、夢見がちな好人物といった印象を受ける。すでに1900年から1903年にかけてJ・スチュワート・ブラックトン監督・主演で実写映画化されていた。
 僕が観たアニメ版の作品だと、「A Trip to the Moon」(1917年米
*52)はロケットに乗って月に到着したフーリガンが月の王様に祭り上げられるというSF作品であった。「The Spider and the Fly」(1918年米*53)は、蜘蛛の巣を伝って天国にたどり着いたフーリガンが、神様の怒りを買って地獄に落とされるという内容。荒唐無稽な所が、この作品の魅力なのだろう。

*52 「A Trip To The Moon」(https://www.youtube.com/watch?v=5I5HB2RrLI4
*53 「The Spider and the Fly」(https://www.youtube.com/watch?v=vQQ8hZ_j7nQ
 
 
 
 ハーストには他にも「親父教育」シリーズ(1916〜18年米)といったシリーズもある。次々と面白い作品を生み出していったハーストのスタジオだったが、1918年7月にアニメスタジオは閉鎖されてしまう。その前年にハーストは、愛人となるマリオン・デイヴィス(1897〜1961)と出会っているから、あるいはハーストの関心が彼女に移ってしまったのかもしれない。これ以後ハーストは専ら劇映画の製作を手がけることとなる。しかし、ハーストは自らの新聞のキャラクターを使用したアニメ製作にはその後もライセンスを与え続けた。また、彼のスタジオからは数多くのアニメーターが育っている。後にウォルト・ディズニー(1901〜66)のもとで「白雪姫」(1937年米)や「ファンタジア」(1940年米)を監督するベン・シャープスティーン(1895〜1980)、同じくディズニーで短編アニメ「花と木」(1932年米)や「三匹の子ぶた」(1933年米)を監督するバート・ジレット(1891〜1971)らが、ハーストのアニメスタジオから巣立っている。


 このように1910年代にはバレー、ブレイそしてハーストのプロダクションから次々とアニメーションのシリーズが生み出されていった。これらの作品は当時はかなりの人気があったようなのだが、現在とくに日本ではすっかり忘れられてしまっている。実を言うと僕も今回このエッセイを書くために輸入盤のDVDやYOUTUBEにUPされた動画で初めて観たものばかりである。しかし、片っ端から観てみたところ、100年経った今観ても色あせていないどころか十分に面白いということが分かった。このエッセイでは可能な限り、YOUTUBEのURLを載せておいた。YOUTUBEにはこれ以外にもかなりの数の作品がUPされているので、ぜひ皆さん自身の目で確かめてみることをお薦めする。
 アメリカにおいてアニメーションは1920年代に入るとますます大きな発展を遂げ、いわゆる「アメリカン・アニメーションの黄金時代」を迎える。アニメ界最大のスーパースターであるミッキー・マウス(1928年デビュー)を始め、バッグズ・バニー(1940年デビュー)、ベティ・ブープ(1930年デビュー)、ウッディ・ウッドペッカー(1940年デビュー)、トムとジェリー(1940年デビュー)など今日まで息の長い活躍をするキャラクターが次々と生まれたのもこの頃である。だが、その背景にはこれら1910年代までのアニメーションの業績があったことを決して忘れてはいけない。引き続きこの「映画史探訪」では1920年代のアニメについても語っていきたいと思う。
   
 
 

(2017年11月16日)

 
   
(参考資料)
C・W・ツェーラム/月尾嘉男訳「映画の考古学」1977年8月 フィルムアート社
伴野孝司、望月信夫/森卓也監修「世界アニメーション映画史」1986年6月 ぱるぷ
渡辺泰「E・レイノーの『テアトル・オプティク』見聞記」2001年「アニメーション研究Vol.3」
「アートアニメーションの素晴らしき世界」2002年6月 エクスファイアマガジンジャパン
大塚康生「リトル・ニモの野望」2004年7月 徳間書店
三浦知志「ウィンザー・マッケイのマンガ作品に関する研究ー『レアビット狂の夢』とマンガ言説の問題ー」2009年東北大学大学院情報研究科人間情報科学専攻博士論文 (https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=71767&item_no=1&page_id=33&block_id=38
レナード・マルティン/権藤俊司監訳「マウス・アンド・マジック/アメリカアニメーション全史 上」2010年5月 楽工社
スティーヴン・キャヴァリア/仲田由美子、山川純子訳「世界アニメーション歴史事典」2012年9月 ゆまに書房
細馬宏通「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか/アニメーションの表現史」2013年10月 新潮選書
ウィンザー・マッケイ/和田侑子訳「リトル・ニモの大冒険」2014年2月 パイ・インターナショナル

ジャンナルベルト・ベンダッツィ 「カートゥーン:アニメーション100年史」(https://web.archive.org/web/20161102044729/http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/

 
 



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