第2章−サイレント黄金時代(30)
サウンド・オブ・サイレンス〜活動弁士〜
 



神田錦輝館でヴァイタスコープを観る人びと(1897年)
(「シネマがやってきた!」21ページ)
 

 

 「無声映画鑑賞会」という会がある。マツダ映画社が定期的に行なっているイベントで、なかなか観ることのできない貴重な無声映画を観ることができるため、僕も会員になっている。このマツダ映画社は、活動弁士であった松田春翠(1925〜87)が1952(昭和27)年に創業。無声映画の収集・保存を行っており、現在1000作品6000巻の映画を所蔵している。
 無声映画末期に少年弁士であった松田は、戦後の1947、8年頃、九州の炭鉱町で2日続けてとある無声映画を観たことがあった。すると最初の日の上映ではあったシーンが2日目では無くなっていたことに気づき、映写室に行って尋ねると、「あのシーンになるとフィルムが痛んでいて、引掛かってしまうから、切って捨ててしまった」とのことだった。「果たしてこのフィルムがまだ他にもあるのだろうか」と心配になった松田は、それ以降無声映画のフィルムの収集を始めたとのことである
(*1)
 無声映画鑑賞会は1959(昭和34)年に向島で始まった。現在では門前仲町の門仲天井ホールを会場に毎月開催されている
(*2)。ここでは、無声映画に活動弁士の 説明を加えた形での上映が行われている。松田亡き後は、その弟子であった澤登翠とその一門が中心となって、活動弁士の芸を現在に伝えている。また、毎年12月には、新宿の紀伊国屋ホールで「澤登翠活弁リサイタル」が開催され、澤登の説明に加え、楽団の生演奏で無声映画を楽しむことができる。
   
*1 松田豊「無声映画鑑賞会について」(「活動弁士/無声映画と珠玉の話芸」所収)169〜170ページ
*2 2012年11月より、門仲天井ホール閉館にともない日暮里サニーホールで上映されている。 

         
◆活動弁士とは
 
 19世紀末に発明された映画は、当初音声の入らない無声(サイレント)映画であった。会話や状況説明が必要な場合は、シーンの間に字幕の入った画面を映し出す。しかしながら、完全な沈黙の中で映画を見続けるというのは決して楽なことでは無い。僕も、今までに何度も無声映画をそのままの上映で観る機会があったのだが、そうした時の映画館では、 フィルムの回る音さえはっきり聞こえるほどだった。ちょっと動くだけでも音が目立ってしまうため、かなりの緊張を強いられた。一度うっかりして携帯電話の電源を切り忘れ、マナーモードのままにしていたところ、バイブレーターの音がかなりうるさく響いてしまったぐらいである。
 そこで、どこの国でも映画の上映に際しては音楽を加えていた。大きな映画館ではオーケストラ、小さな映画館であればピアノやオルガンの生演奏を行った。日本の場合でも、三味線や太鼓といった鳴り物やお囃子を加えたりしていたそうだ。
 例えば、チャールズ・チャップリンが出演している「醜女の深情け」(1914年米)の映画館のシーンでは、ピアノを演奏している様子が描かれている。また、1920年代の映画界を描いた「雨に唄えば」(1952年米)では主人公(ジーン・ケリー)の主演作のプレミア上映のシーンでは、映画に合わせてオーケストラが演奏されている様子が描かれた。同じく1910年代の映画界を描いたピーター・ボグダノヴィッチ(1939〜)監督の「ニッケルオデオン」(1976年米)にもD・W・グリフィス(1975〜1948)監督の「国民の創生」(1915年米)の上映シーンが登場するのだが、ここではオーケストラに鳴り物を加えての派手な形での上映であ る。戦争の場面では、楽団員が空砲を打ち鳴らしている。

 しかし、日本の場合はこうした音楽の他に、「活動弁士」が発達した点において他の国と異なっていた。「活動弁士」は、世界でも日本にしか無い特殊な制度だといえる。「活動弁士」略して「弁士」 もしくは「活弁士」。あるいは「活弁」とも言われるが、当事者はそれを蔑称であるとして好まず、「説明者」と称していたらしい。活動弁士は、映画の字幕を読み上げるばかりではなく、時には自らの言葉でストーリーを説明し、登場人物の台詞を役になりきって話すことで、映画の上映を盛り上げていったのである。
         
 
  ◆活動弁士の誕生  
 



活動弁士の走り上田布袋軒
(「活弁時代」11ページ)
 

 
   
 1896(明治29)年2月、トーマス・アルバ・エジソン(1847〜1931)のキネトスコープが神戸に上陸したのが、我が国の映画の始まりである。これは、一人ひとりが覗き込む形のもので、上映された作品もそれぞれ1、2分と短いものであった。そこで観客は順番を待つ間お茶の接待を受け、キネトスコープについての説明を受けた。この時、キネトスコープの口上を担当した上田布袋軒(上田恒次郎/1849〜)が活動弁士の走りであったといえる。上田は元々広告屋つまりチンドン屋で、この時燕尾服を着て登場したが、このスタイルが後年活動弁士のスタイルとして定着する。
 翌1897(明治30)年1月リュミエール兄弟のシネマトグラフが神戸に輸入され、2月15日から大阪南地演舞場で興行が行われた。シネマトグラフはキネトスコープと違い、スクリーンに上映することで一度に大勢が見ることができる点で画期的だった。この時には片岡仁左衛門一座の俳優だった高橋仙吉が説明にあたっている。もっとも高橋は1回切りでやめてしまい、その後は元テキ屋の坂田千駒 (坂田千曲)が後を継いだ。やはり1本1本の映画は短かったため、フィルムを輪にして何度も繰り返して上映した。ナポレオンに扮した俳優が帽子を脱いでお辞儀をするという映画があったそうだが、その際に「これはナポレオンである。ナポレオンはナポレオンである。」と繰り返したために観客は大ウケであったらしい
(*3)
 エジソンもその後、スクリーン上映式のヴァイタスコープを開発し、それも1897年2月22日から大阪の新町演舞場で上映されたが、この時の口上も上田布袋軒が務めている。
 一方、東京における映画上映もやはりキネトスコープが最初で、1897年1月19日に浅草花やしきで上映されている。その後2月27日にはヴァイタスコープが最初歌舞伎座で、後に神田錦輝館で上映された。東京のヴァイタスコープの口上を務めたのは、十文字大元(1870〜1924)であった。シネマトグラフは3月8日に神田の三上座、翌9日には横浜の港座で上映されている。横浜の上映で口上を述べたのは中川慶二だった。
 
*3 奥田佐一郎の回想。「活弁時代」7ページ
    
 
 



十文字大元
(「活弁時代」11ページ)
 

 
 
 このように、活動弁士というスタイルは日本に映画が上陸したのと同時に誕生したのである。当時の活動弁士の説明方法は、だいたいにおいて演説調であったらしい。横浜市水道局の吏員であった高橋や、代議士・十文字信介(1852〜1908)の弟で後に自身も衆院選に出馬する十文字らの影響だったのだろうか。十文字は「砂中の砂」「奇妙の奇」といった漢語調の文句を乱用したが、こうしたスタイルも後年に踏襲されていった。
   
 
  ◆駒田好洋の映画巡業  
 



駒田好洋
(「頗る非常!」10ページ)
 

 
 
 映画は最初大阪や東京といった主要都市で上映されたが、その後は他の都市でも順次公開されていった。また、ヴァイタスコープを輸入した新居商会から映写機を譲りうけた当時20歳の駒田好洋(1877〜1935)は、「東京活動写真会
(*4)」を組織し、日本中を映画を上映し巡業して回った。彼は1930(昭和5)年に「都新聞」に「巡業奇聞」を連載し、全国巡業の想い出を語っているが、それによるとその足跡は北海道から鹿児島まで全国あまねく及んでいる。彼の足跡が確認できないのは茨城、千葉、沖縄の3県のみだという(*5)。明治という時代にも関わらず、彼は北海道の利尻島・礼文島にまで足を伸ばしている。

 同じ頃、後に日活の社長となる京都の横田永之助(1872〜1943)や、東京の吉沢商会、M・パテーなども映画の巡業隊を組織していた。こうした巡業隊によって映画は山間僻地にまで普及していった。横田も駒田も共に自身が説明者を務めたが、横田は説明の中に時折流暢な英語を織り交ぜ、観客を唖然とさせたという。一方の駒田の巡業隊は弁士2名、技師1名、楽隊3〜5名、会計1名を率いる派手なものであった。駒田は燕尾服にシルクハットといういでたちで指揮棒を揮って楽団の先頭に立って街を練り歩いた。また彼は、説明の中で映写機の構造や発明の由来についても長々と弁舌を振るったそうである。
 「頗る非常な御来場に、頗る非常に有難い仕合せ、頗る非常に一同大満悦、頗る非常に厚礼を申し述べてくれと、頗る非常に頼みますので頗る非常に申し上げる次第でございます」
といった具合に駒田はその語りの中に「頗(すこぶ)る非常」という言葉を多用した。「頗る非常」は彼のニックネームともなり、彼自身「天上天下唯我独尊頗る非常大博士」などとも名乗っている。
 駒田は外国の映画を紹介するに留まらず、自らも映画の製作に携わった。1899 (明治32)年、彼は小西写真店(後のコニカ)に勤める浅野四郎(1877〜1955)に新橋の料亭で3人の芸者の踊りを撮影させ、「芸者の手踊り」を製作。これによって最初の日本映画の興行が行われたとされる。さらに同年には最初の劇映画とも言える「ピストル強盗清水定吉(稲妻強盗)」も製作している。
 巡業が盛んになる一方で、映画の常設館も作られていった。最初に作られたのは1903年10月2日に開館した浅草電気館。1907年に入ると、神田新声館、浅草三友館、大阪でも千日前電気館がオープン。1908年には名古屋と横浜にも映画常設館が作られるなど、全国に広がっていった。
 駒田は1923、24(大正12、13)年頃まで巡業を続けたが、1924年上野に世界フィルム社を設立すると、その後はフィルム貸出業に転身している。
    
*4 一般的には「日本率先活動写真会」として知られているが、前川公美夫(1948〜)の調査によれば、「日本率先」とは「日本におけるさきがけ」の意味であり、駒田自身がそのように名乗った事実はないようである。
 前川公美夫編著「頗る非常!」358〜392ページ
*5 前川公美夫編著「頗る非常!」29ページ

    
 
 



「芸者の手踊り」(1899年)
(「日本映画発達史」73ページ)
 

 
  ◆外国の活動弁士  
 
 無声映画に説明者がいたのは、必ずしも日本だけではなかった。同様の制度は無声映画初期には、アメリカやカナダ、オランダ、スペイン、フランスなどにも見られた。僕は以前、フランスのジョルジュ・メリエス(1861〜1938)の魔法映画を孫のマドレーヌ・マルテット=メリエス(1923〜)が 説明しているイベントの映像を観たことがある。確かにメリエスの代表作「月世界旅行」(1902年仏)の冒頭では、科学者たちによる会議のシーンが数分間続くのだが、字幕がまったくないため、今観ると無駄に長く感じる。また、アメリカのエドウィン・S・ポーター(1870〜1941)監督の「アンクル・トムズ・ケビン−奴隷としての日々−」(1903年米)も、ストウ夫人の原作のいくつかの場面の抜粋で、原作を読んでいないとおそらくストーリーは理解できない。僕はこれらの映画を初めて観た時から、そうした点で疑問を持っていたのだが、もし、説明者による解説があったとすれば、何の問題も無い。
 しかし、欧米では早くから映画を字幕によって理解させるということが発達したために、映画説明者は1910年代までには廃れてしまっている。日本以外の国で、その後も弁士が盛んだったのは、日本の植民地だった朝鮮と台湾、それにタイぐらいであったようだ。
 「多桑/父さん」(1994年台湾)には、1950年代の台湾において、日本映画「君の名は」(1953〜54年松竹)が上映されている場面が登場する。この時の上映では、映画に合わせて弁士が台湾語で解説を加えている。弁士は状況を説明し、台詞を台湾語に翻訳するばかりでなく、時には場内案内をも務めていた。これはおそらく、日本語を理解しない世代のためへの配慮であったのだろう。タイにおいても1950年代までサイレント映画が撮られ、上映にあたっては弁士が解説を加えていたようである
(*6)
 日本においては、活動弁士の語りはそれ自体が独自の芸として発達していった。日本では活動弁士は映画のサイレント期全体を通して存在していたばかりでなく、1931年に本格的なトーキー(発声)映画が製作されて以降も、1938年頃までサウンド版(音楽と音響のみを加えた)を含めたサイレント映画が製作され続けたのである。つまりそれだけ、日本の観客は活動弁士の語りで映画を観るということに慣れていたし、それを望んでいたというわけである。

*6 ジョルジュ・サドゥール「世界映画史T」404ページ
 
 
  ◆活弁文化発達の原因  
 
 それではなぜ、日本においてのみ活動弁士の文化が発達したのであろうか。それにはいくつかの説がある
(*7)
 1つは、当時の日本人の観客の中には文字を読める者が少なく、字幕を読めなかったからだというもの。しかし、江戸時代の日本人の識字率は極めて高かった。イギリスの社会学者ドーアは、明治元(1868)年の日本全国の就学率を男子が43%、女子10%と推測している
(*8)が、都会に限れば この数値はもっと高かっただろう。1808(文化5)年に江戸には656軒の貸本屋があったが、今田洋三によれば、得意先を1店あたり170〜180人として10万人の貸本読者があり、間接的な利用者はこの何倍もいたであろう。いずれにせよ、初期の日本映画にはそもそも字幕そのものが無かったのだから、それは当たらない。
 もう1つは当時の日本人は西洋の事情に明るくなかったため、映画に説明が必要だったというもの。確かにそういった面があったのは確かだろう。しかしそれでは、日本映画においても弁士の人気あったことの説明ができない。
 歌舞伎の上演では、浄瑠璃と呼ばれる三味線伴奏による語りが加えられている。それは、俳優の演技や台詞とは別に、状況を説明したり、人物の心情を表現したりするというもので、義太夫節(義太夫)に代表される。無声映画と弁士の語りの関係というのは、この歌舞伎と浄瑠璃の関係にも似ている。そう考えると、活動弁士の語りというのは、日本人の文化に深く根ざしたものに基づいているということができるのではないだろうか。
    
*7 四方田犬彦「映画史への招待」137〜138ページ
*8 鬼頭宏「文明としての江戸システム」307ページ
   
 
  ◆活弁芸のはじまり  
 



染井三郎
(「活弁時代」43ページ)
 

 
 
 それまで映像の補足的存在であった弁士を、「芸」にまで押し上げたのは、一代の名説明者とされた染井三郎(〜1960)であったとされる。
 染井はもともと新派の俳優であったが、その後浅草仲見世で興行していた「汽車活動」の弁士となった。「汽車活動」とは、汽車の座席を模した客席に座り、窓の向こうに移りゆく景色を眺めるもので、さながら汽車に乗って旅をしている気分に浸れるものであったらしい。浅草電気館が1903年に映画常設館となると、1906年にそこの専属弁士第1号となっている。
 染井の説明は「淡々としていて、激する所のない『客観説明』」
(*9)であったそうだ。初期の映画は長くて2、3分という短いもので、染井の説明も「前口上を一寸言うだけのこと」(*10)であった。やがて、長編映画の時代に入ると、「是は何々している処(ところ)です」といった説明を加えていったそうである。転機が訪れたのは「江戸房」(1910年吉沢商店)が公開された時で、単なる状況解説では駄目だと感じた染井は、「二、三日の間は浪花節や講釈を聞き歩き(中略)会話体にやって見たらいいということに、気がつきました、そこで始めて台詞を読むような具合にやって、非常な好評を受け」 たとのこと。

 常設館の増加と共に弁士の需要も高まり、M・パテー商会の梅屋庄吉(1869〜1934)は1906(明治39)年頃「弁士養成所」を開設し、岩藤思雪(〜1934)を所長として迎えた。岩藤は輸入映画の題名を考え、自ら説明台本を編むような人で後に映画監督にも転身している。そして、この弁士養成所からは西村楽天(1886〜1954)らが巣立っている。
 1913(大正2)年8月には、日活によって「日活弁士学校」が開設され、中島錦五郎を所長、東郷雷州を教師として一般から志願者を募集した。200名を超える応募があり、審査の結果うち30名が採用された。学校の授業科目には西洋史・万国地理・英語・声楽などがあった。同年10月に日活直営館でストライキが発生した際には、養成所の生徒が代役として各館に配属されている。この中には後の大物弁士・生駒雷遊(1895〜1964)がいた。また、当時見習いだった徳川夢声(1894〜1971)も、ストライキのおかげで弁士として直営館の舞台に立つことができた。

*9 「活動弁士/無声映画と珠玉の話芸」137ページ
*10 都筑政昭「シネマがやってきた」147〜148ページ
   以下、染井に関しては同書を参照。
 
 
 



土屋松濤
(「活弁時代」37ページ)
 

 
 
 無声映画において活動弁士が、いかに欠かせないものであったか。観客はしばしば、「映画が何か」ではなく、「弁士が誰か」で映画館に足を運んだという。人気弁士ともなればかなりの高給を得ることができたし、スカウト合戦も盛んであった。当時の弁士の中では、染井三郎と土屋松濤が人気を二分していた。「染井三郎が西洋ものの横綱、土屋は日本ものの横綱だった」
(*11)そうである。また、内藤紫漣(〜1928)、黒沢松声、西村楽天、伊原旭濤が四天王と称されている。その他、徳川夢声、大蔵貢(1899〜1978)、国井紫香(1894〜1966)、谷天郎(1893〜)、山野一郎(1899〜1958)、牧野周一(1905〜1975)、大辻司郎(1896〜1952)といった人気弁士を輩出していった。
 弁士はしばしば、映画の製作にまで口を出した。今日残っている日本の無声映画をサイレントのまま観ると、必要以上に冗長に感じる場面があるが、それは弁士が滔々と語ることを前提にしていたと考えれば納得がいく。映画の革新を目指した田中栄三(1886〜1968)は1918(大正7)年にレフ・トルストイ(1828〜1910)原作の「生ける屍」を映画化。それまでの日本映画にはスポークン・タイトル(会話字幕)を入れることは稀であったが、田中は「生ける屍」において外国映画並みにタイトルを入れた。それに対して、土屋松濤は「見物衆は、芝居のかわりに活動を観て下さるんだ。西洋まがいのタイトルを入れて、台詞を読まされちゃたまったモンじゃありませんや…見物衆は、あっしのこの七色の声色を楽しみに来て下さるんだ」
(*12)と大変な剣幕で怒ったそうである。

*11 都築政昭「シネマがやってきた」148ページ
*12 「生ける屍」に女形として出演した衣笠貞之助の回想
   山田和夫「日本映画101年」26〜27ページ

 
 
 



国井紫香
(「活弁時代」46ページ)
 

 
  ◆説明弁士と声色弁士  
 
 1908(明治41)年、浅草で人気の少女歌舞伎の一団である娘美団が演じる「曾我兄弟狩場の曙」がM・パテーによって撮影された。この作品の上映に当たって、娘美団の団員たち自身が舞台袖からそれぞれの台詞を読み上げたところ好評を得た。こうした上映方式は「陰ぜりふ」あるいは「声色弁士」と呼ばれ、流行していくことになる。このことが、日本映画の発展を長い間阻止していたとも言われる。当時の日本映画は、こうした声色弁士の存在を前提として作られたため、台詞の字幕等は無く、シークエンスの始めに小説の章の題に相当する簡単な字幕があっただけだった。上映の際には5、6人の弁士がつき、鳴り物やお囃子が伴奏に加わるなど、舞台劇をそっくり 写したようなものであったようだ。
 一方、外国映画の場合は、映像と字幕でストーリーを理解させるものであったため、一人の弁士がストーリーや状況を説明し、すべての台詞を読む「説明弁士」という形式で上演された。
 1920年代に純粋映画劇運動が盛り上がり、日本映画においても映像と字幕で理解させる作品が生まれてくるようになると、声色弁士は衰えていった。一方、説明弁士の方は、その後もサイレント時代を通じて長い人気を保っていく。
 無声映画鑑賞会などで、現在見ることのできる活動弁士の芸はいずれも説明弁士に分類される。声色弁士のほうを観る機会は極めて稀であるが、現存の「尾上松之助の忠臣蔵」(1910〜17年横田商会)には複数の弁士による声色弁士の説明が加えられている。また、僕は一度だけ、若手弁士によるイベントで声色弁士を聴いたことがある。尾上松之助主演の「豪傑児雷也」(1921年日活)を、5人の弁士が役を分担していた。
   
 
  ◆活動弁士の名文句  
 



生駒雷遊
(「無声映画と珠玉の話芸」125ページ)
 

 
 
 活動弁士が当時いかに人気を博していようとも、それを直接体験していない僕らにはどうもぴんとこない。それもそうだ。弁士の芸自体は記録されることのない類のものであったからだ。徳川夢声や染谷三郎、国井紫香、西村小楽天(1902〜83)といった弁士は晩年まで無声映画鑑賞会に出演し、その芸を披露していたそうなのだが、残念なことに僕が参加するはるか前のことである。
 
 もちろん、人気弁士の語りは当時からレコード化されていた。ビデオやDVDの無かった当時、映画ファンは活動弁士の語りを聞いて、映画のシーンを思い浮かべていたのだろう。きっと今でいうサントラ版と同じだったのだ。活動弁士の語りの一部はCD化されていて聞くことが可能だが、それを聞いているだけでは当時の弁士の芸のごく一部しか理解できない。
 活動弁士の名文句とされるものが今に伝わっている。例えば染井三郎は、1914(大正3)年に公開された「アントニーとクレオパトラ」(1913年イタリア)でその名を不動にしたと言われる。彼の語りの録音が残っているが、その最後の部分は次の通り。
  
 
     足うつり物変わり春秋ここ2000年、今なお渡る旅人の噂に残る物語。ローマ史劇アントニー・エンド・クレオパトラの一節はこれをもって大団円をつげるのでございます。    
 
英語を交えた美文調の名調子で「電気館の客をヤンヤと湧かせた
(*13)」そうである。
 また、「南国の判事」(1917年米)における「春や春…」というフレーズも有名である。これを語ったのは林天風。
 
 
     紫紺の空には星の乱れ、緑の地には花吹雪、春や春、春南方のローマンス。題して「南方の判事」全五巻のお別れであります(*14)    
 
 同じ映画を生駒雷遊が語った時には、次の通り。
 
 
     一刻千金の春の夜や振り仰げば、星月夜の空あざやかに、今を盛りに咲き誇る桃花の梢を白く残して夜は更ける。春や春、春南方のローマンス。題して「南方の判事」全巻の終わりであります(*15)    
 
 その他、駒田洋行の「頗る非常に」や十文字大元の「奇妙の奇」のように、各弁士はそれぞれ得意のフレーズであったり、語りの特徴を持っていたようである。例えば現在であれば長井秀和(1970〜)の「間違いない」とか 、ダンディ坂野(1967〜)の「ゲッツ!」、小島よしお(1980〜)の「そんなの関係ねえ」といったお笑い芸人の決め台詞と同じような感じだったのではないだろうか。 
  
*13 都筑政昭「シネマがやってきた!」150ページ
*14 「活弁時代」72ページ
*15 同書71〜72ページ
   
 
  ◆活動弁士の終焉  
 



日本初の本格トーキー「マダムと女房」(1931年松竹)
田中絹代と渡辺篤
(「日本映画200」45ページ)
 

 
 
 このように一時代を築いた活動弁士の黄金時代であったが、やがて終わりを迎えることになる。
 1927(昭和2)年10月、「ジャズ・シンガー」(1927年米)が世界最初の本格的トーキー(発声映画)として公開された。この映画が与えたショックは大きく、その様子は「雨に唄えば」(1952年米)にも描かれた通り。すぐさま、サイレント映画は過去のものとなった。
 日本においても早くからトーキー製作の試みはなされていた。記録によると、1909(明治42)年、浅草オペラ館で「発声活動写真」が公開されている。これはレコードに吹き込んだものを映画に合わせて再生するといったものであったらしい。映画評論家の淀川長治(1909〜98)が少年時代の1918(大正7)年頃、こうした上映会に出かけた際のエピソードを残している。それによると、画面に合わせて歌のレコードを流すというものであったが、次第に音と画面がずれてきて客の笑いを誘ったという
(*16)
 本格的なトーキーとしては、1913(大正2)年に設立の映画会社「日本キネトフォン」による製作があった。日本キネトフォンは数本の映画を製作しただけに留まったが、その中でも「カチューシャの唄」(1914年日本キネトフォン)が有名である。これはトルストイ原作、島村抱月(1871〜1918)脚色による芸術座の舞台「復活」より、松井須磨子(1886〜1919)が歌う「カチューシャの唄」のシーンを撮影した短編映画であった。「♪カチューシャかわいや別れのつらさ…」で有名な島村抱月・相馬御風(1883〜1950)作詞、中山晋平(1887〜1952)作曲のこの歌は、レコード化されヒット。流行歌の走りともなった。この映画も、言ってみれば今日でいうところのミュージック・クリップのようなものであったのではないか。
 その後、1927(昭和2)年には、昭和キネマによって小山内薫監督「黎明」、松本金太郎監督「素襖落(すおうおとし)」などの短編が製作されたが一般公開はされなかった。1929年にはアメリカのトーキー 映画として「進軍」「南海の唄」(共に1929年米)、マキノ正博監督の「戻橋」(1929年マキノ)が公開されている。しかしながら、当時のトーキーは音がはっきり聞き取れなかったため、総じて不評で、「トーキーはつまらぬもの」と観客からはみなされてしまっていた。

 日本における本格的トーキーとしては松竹の「マダムと女房」(1931年)が最初である。この作品はビデオ化されていて簡単に観ることができるが、確かに優れた作品と言えよう。日活もアメリカのウェスタン社と提携し「丹下左膳」 (1933・34年/現在部分現存)などを発表している。
 しかしながら、外国映画の場合は少し事情が違ったようだ。義務教育で全国民が英語を学ぶようになった現在でも、アメリカ映画をオリジナルで理解できる人は稀だろう。僕だってそうだ。ましてや、昭和初期の日本人がどれだけ理解できたであろうか? そこで、外国映画を上映するに当たっては、音量を下げ、弁士が同時に説明を加える形での上映が取られた。台湾映画「多桑/父さん」に登場した、日本映画を台湾語の弁士付きで上映するのと同様だったのだ。
 しかし、1931年2月に公開された「モロッコ」(1930年米)の封切りに当たって、初めてスーパーインポーズ(字幕スーパー)付きでの上映が試みられた。この上映の形は「全発声日本版」と称 されている。もっとも、初期の観客は字幕を弁士が読み上げることに慣れていたせいか、字幕スーパーに抵抗があり、字幕を読み終わる前に消えてしまうというようなことがあった。そのため、1935(昭和10)年頃までは封切館を除き、全発声日本版であっても説明付きで上映されていた。

 次の表は、日本映画のトーキー化が進んだ1933年からサイレント映画がほぼ消滅する1938年までの主要映画会社の発声(トーキー)映画と無声(サイレント)映画の作品数である
(*17)。「音響(サウンド)」とは、音楽のみを加えたもので、現在無声映画を上映する際に通常行われる形である。「解説」とは、弁士の説明をあらかじめ録音したもので、「活弁トーキー版」としてソフト化された作品に見られる形である。
   
 
   
    発声 無声 解説 音響
1933年
(昭和8)
日活 81    
松竹 17 60   19
新興   66    
大都   99    
1934年
(昭和9)
日活 16 63  
松竹 24 39   32
新興 67  
大都   103    
1935年
(昭和10)
日活 26 15   22
松竹 33   49
新興 10 12   50
大都   109  
極東 41      
1936年
(昭和11)
日活 55  
松竹 35   23
新興 22   22
大都   102  
極東   36    
全勝   20
1937年
(昭和12)
日活 96      
松竹 89    
新興 90      
大都 88 20  
極東   50  
全勝     33 10
1938年
(昭和13)
日活 91      
松竹 98      
新興 93      
大都 78 22  
極東     48  
全勝     48  
   
    
 日活と松竹という2大映画会社がやはりトーキーの導入に関しては最も早かった。新興キネマはそれよりやや遅れたものの、1937(昭和12)年には3社揃ってサイレントは姿を消している。大都映画以下の小会社では技術や予算の問題からか、トーキーの導入ではかなりの遅れを取っているが、それでも1938(昭和13)年になるとほぼすべての作品が音を持ったようである。極東映画や全勝キネマの作品には「解説版」が多いが、こうした作品であっても「オール・トーキー」と銘打って公開していたらしい。

 トーキーが導入されるにつれ、映画会社では、伴奏をつけていた楽団員や活動弁士たちの解雇が相次いだ。1932(昭和7)年4月、浅草大勝館が弁士に対して予告なしで解雇を告げたことをきっかけに、浅草界隈の弁士がストライキを決行。その火は、全国に飛び火していった。しかしながら、時代の趨勢に抗うことはできず、弁士もその役目を終えることになったのである。

 その役目を終えた活動弁士たちはその後どうなったのか。 黒澤明(1910〜98)の兄・須田貞明(1906〜33)のように時代に適応できず命を絶ってしまった例もあったが、多くはその後もその話術を生かして活躍している。西村楽天、大辻司郎、山野一郎、牧野周一らは漫談家に。西村小楽天は司会者となった。生駒雷遊のように俳優に転向した弁士もいる。変わった所では、鈴木濤晃が本名の鈴木仙吉として国会議員となっている。大川貢は映画館の経営者から日活に入社。新東宝の社長にまで上り詰めている。そして、なんといっても、徳川夢声の存在を忘れてはいけないだろう。
            
*16 「淀川長治自伝 上」42ページ
*17 御園京平「活弁時代」122〜125ページ

   
 
  ◆最高の弁士・徳川夢声  
 



徳川夢声
(「シネマがやってきた!」151ページ)
 

 
 
 今回、多くの活動弁士の名前をこのエッセイでとりあげたが、たいていの人にとってはほとんどの名前が馴染みがないのではないだろうか。正直、僕自身もそうだった。そんな中唯一無二といってもよい存在が、徳川夢声だ。彼の名前だけは多くの人が知っているに違いない。それは彼が戦後に至るまで漫談家・俳優・文筆家として幅広い活躍をしたからである。

 徳川夢声は本名、福原駿雄。1894(明治27)年、島根県の石見国益田町(現・益田市)に生まれた。3歳で上京し、両親が離婚したため祖母に育てられた。やがて府立一中(現・日比谷高校)に入学。政治家を目指して、一高(現・東大教養学部)に進もうと考えるが、入試に3度も失敗したため、芸能界へ転向した。1913(大正2)年、第二福宝館の主任弁士・清水霊山に弟子入り して「福原霊川」と名乗り活動弁士としてのスタートを切っている。その後1915(大正4)年に赤坂葵館に移った際に、「葵」にちなんで「徳川」夢声と名を改めた。そして一躍人気弁士となった 。
 彼の語りがどのようなものであったのか…。当時、彼の説明で「カリガリ博士」を観た政治学者の丸山真男(1914〜96)は、彼の語りを「シンクロナイゼイションといったらいいか、本当に画面とあったリアルなセリフでしゃべるやり方をはじめた」
(*18)と述べる。同じく作家の埴谷雄高(1909〜97)も彼を「間の芸術家」(*19)とする。夢声の弟子であった福地悟朗(1900〜87)は、彼の教えとして「何のためにそれをしゃべらなければならないか。何か特別な意義のあるアクションならば、それはしゃべらなければいけない。さもないことはしゃべる理由がない」(*20)との言葉を伝えている。例えば、男女が廊下からドアを開けて部屋に入るシーンで、「先に立っているメリーは、扉に手をかけて開くと中へ入る。後から彼は続く」などと説明するのは「ドア説明」であって、「そんなもの見ていればわかる」ということだ。夢声の説明はしゃべらないことで、映画を引き立たせるもので、彼の理想というのも「観終わった後で、はてな、いまの映画には弁士がついていたかしらんと自問自答するという場合」であったという。

*18 佐藤忠男「日本映画史T/増補版」314ページ
    ただし、初出は丸山真男・埴谷雄高「文学の世界と学問の世界」(1978年3月「ユリイカ」)
*19 同書 315ページ
*20 福地悟朗「夢声の弟子として」(「講座日本映画T」所収)318ページ
    以下の引用も同書
        
 
 



大正中期の葵館
(「日本映画の誕生」301ページ)
 

 
    
 活動弁士として話芸に磨きをかけたことは、後年の夢声の活躍に大きく役立ったという。当時の映画の映写機は映写技師による手回しであった。したがって、技師の気分次第で映画は「速くもなれば遅くもなる」
(*21)といった具合。甚だしいときには、客を早く入れ替えるために猛烈なスピードで映写機を回したり、全5巻のうちの1巻を飛ばすようなことすらあったそうなのである。たとえそうした上映であっても、その映画に自らの説明を合わせ、さらに客にそのことを気づかせずなおかつ満足させなければならなかったのだから、活動弁士の話術がいかに高度の技術を要したかがわかる。夢声は後年ラジオで活躍するようになってから、この時身に着けた話術が大いに役立ったと回想している。

 夢声は活動弁士の傍ら様々なジャンルで活動していた。1926(大正15)年には彼の発案によって「ナヤマシ会」が始まった。これは言ってみれば弁士の隠し芸大会で、普段は暗い所で人前には顔を見せない彼らに脚光を浴びさせようという企画であった。ここには山野一郎や大辻司郎、藤井紫水といった弁士の他、雑誌「映画時代」の記者だった古川ロッパ(緑波/1903〜61) らが参加している。こうした流れから、夢声は活動弁士廃業後の1932(昭和7)年にロッパらと劇団「笑いの王国」を結成し、「アチャラカ大芝居」で好評を博すようになる。
 ロッパとの意見の相違から「笑いの王国」を脱退した夢声は、1937年に劇団・文学座の結成に参加して新劇の舞台に立ち、また映画にも出演している。「彦六おおいに笑ふ」(1936年東宝)や「綴方教室」(1938年東宝)といった作品で印象的な演技を残している。ちなみに僕が初めて徳川夢声のことを知ったのは、中学生の頃にテレビで観た映画「ノンちゃん雲に乗る」(1955年新東宝)。天才子役と言われた鰐淵晴子(1945〜)が主人公のノンちゃんを演じ、夢声は白ひげの仙人を演じている。
 夢声はその他にも、山野一郎、大辻司郎、5代目・蝶花楼馬楽(後の8代目・林家正蔵、林家彦六/1895〜1982)らと漫談の研究団体「談譚集団」を結成したり、久保田万太郎 (1889〜1963)が主催する「いとう句会」に参加して俳句を詠むなど多方面での活躍を続けた。
 伝説になっているのが、1939年に始まったNHKラジオでの吉川英治(1892〜1962)作「宮本武蔵」の朗読である。伴奏なしで、その間を活かした語りは天下一品だと絶賛された。今日彼をして「語りの神様」と称されることもある。戦後になってもラジオや草創期のテレビで活躍した。
 彼は文筆家としても才能を発揮している。エッセイや小説、自叙伝といったものを数多く残しているが、1938年と1949年には直木賞の候補にも挙げられた。また、彼は詳細な日記を残していたが、その一部は「夢声戦争日記」として出版されている。これは戦時中の生活を知る上での貴重な資料であるばかりか、読み物としても面白い。
 いってみれば彼はマルチタレントの走りであったのだ。 彼が息の長い活躍をしたことで、活動弁士の存在が今日まで語り伝えられていた一面があるのではないだろうか。
  
*21 三國一朗「活弁の話術」(「講座日本映画T」所収)299ページ
    
 
 


 
晩年の徳川夢声
(わかこうじ「活動大写真始末記」223ページ)
 

 
 
 マルチな活動を見せた夢声だが、部類の酒好きで、いろいろと失敗もやらかしていたらしい。いつもポケットにウィスキーの瓶をしのばせており、楽屋でもチビリチビリやってから舞台にあがったそうである。ある時などは、前奏が始まると同時に、弁士台に顔を埋めて眠ってしまった。その場は山野一郎が夢声の声色を真似て弁士を務め事なきを得たが、客席からは「山野御苦労!」「さすが夢声(無声)だ!」との声がかかっ たそうだ
(*22)
 同様のエピソードは後年のラジオでもあったらしい。NHKラジオの生出演が決まっていた夢声だが、放送日に酔っぱらっていたため放送局に行くことができなかった。その時は古川ロッパが代わりに出演し、やはり夢声の声色で番組を務めたそうである
(*23)
 山野一郎も古川ロッパも声帯模写の名人として知られているが、夢声の声はそれだけ物真似しやすかったのだろう。いずれにせよ、偉大な徳川夢声の人間らしさを表すエピソードではないだろうか。
   
*22 わかこうじ「活動大写真始末記」28ページ
*23  同書 224〜225ページ 
  
 
 



古川ロッパ(緑波)
(「活弁時代」101ページ)
 

 
  ◆活動弁士の現在  
 



浅草寺境内の映画弁士塚
 

 
 
 浅草・浅草寺の境内に「映画弁士塚」なるものが建っている。1959(昭和34)年3月18日、大蔵貢が中心となり、かつての同業者や映画演劇界の協力のもとに建立された。「映画弁士塚」の文字を書いたのは元総理大臣の鳩山一郎(1883〜1959)だが、彼は塚の建立されるわずか11日前の3月7日にこの世を去っている。そして、徳川夢声以下、土屋松濤、染井三郎、西村楽天等、このページでも紹介してきた弁士たちの名が白い石の部分に54名、下の黒い石の部分に55名、計109名刻まれている。
 大蔵貢によって刻まれた言葉は次の通り。


   明治の中葉わが国に初めて映画が渡来するやこれを説明する弁士誕生
   幾多の名人天才相次いで現れその人気は映画スターを凌ぎわが国文化の発展に光彩を添えたが 昭和初頭トーキー出現のため姿を消すに至った
   ここに往年の名弁士の名を連ねこれを記念する   建設者 大蔵 貢
 
 
 



鳩山一郎による「映画弁士塚」の文字


大蔵貢による碑文
 

 
 
 映画弁士塚の手前にある碑には賛助として、松竹社長・城戸四郎(1894〜1977)、大映社長・永田雅一(1906〜85)、東映社長・大川博(1896〜1971)、日活社長・堀久作(1900〜74)そして新東宝社長・大蔵貢の名が刻まれている。

 映画弁士塚に刻まれた名前を眺めると、映画史に名高い弁士の名前はほぼ網羅されている。弁士の元祖ともいうべき駒田好洋の名も最下段の黒い石の部分にあった。さらに一番上の左端には松田春翠の名がある。松田春翠といえば、マツダ映画社を設立し現在まで続く無声映画鑑賞会を立ち上げた人物だが、ここにあげられたのは彼(2代目)ではなく、その父の初代・松田春翠ではないだろうか。2代目が松田春翠の名を継いだのは1947年で、無声映画全盛期にその名では活動していない。ちなみに2代目が無声映画鑑賞会を開始したのは映画弁士塚が建てられたのと同じ1959年である。
   
 
 



賛助の各映画会社首脳の名前
 

 
 
 松田春翠の無声映画鑑賞会は、開始以来50年以上に渡って定期的に無声映画の上映を行ってきた。初期の頃は徳川夢声を始めとした往年の活動弁士の多くがこの無声映画鑑賞会のステージに立っていたそうである。
 松田は活動弁士の芸を後世に残そうと、自身の説明と音楽をサイレント映画に加えた「活弁トーキー版」の映画を計32本製作している。また、映画製作にも乗り出した。彼が製作した「地獄の蟲」(1979年マツダ映画社)は、音楽と効果音のみの「ニュー・サイレント」映画である。これは稲垣浩(1905〜80)監督、阪東妻三郎(1901〜53)主演の1938年の「地獄の蟲」のリメイク。主演に阪妻の長男・田村高廣(1928〜2006)を起用し、脚本・監修に当たった稲垣にとっては遺作となった。
 林海象(1957〜)の監督デビュー作「夢みるように眠りたい」(1986年映像探偵社)も音楽と効果音のみのサイレント映画であるが、この作品には晩年の松田春翠も活動弁士役で出演している。劇中劇「永遠の謎」に活弁を加えているが、面白いことに彼の台詞だけはトーキーになっている。

 松田春翠の弟子の澤登翠は「夢みるように眠りたい」にはナイフ投げ芸人の役でワンカットのみ出演していた。だが松田の死後に林海象が監督した「二十世紀少年読本」(1989年 映像探偵社)では活動弁士の役で登場している。 しかも、縁日のシーンで彼女が説明しているのは「夢みるように眠りたい」の劇中劇「永遠の謎」である。
 澤登は法政大学卒業後の1972年に松田に入門。1987年の松田の死後は、彼女が一門を率いて無声映画鑑賞会等で活躍を続けている。澤登は日本国内はもとより、海外でも積極的に活弁を行っている。彼女の説明を収録した「活弁トーキー版」の映画もビデオやDVDで多数発売されており、テレビでの放送も多いことから、聴いたことのある人も多いのではないか。

 ビデオやDVDもいいが、彼女の説明はやはりライブで聞くに限る。そこである日の無声映画鑑賞会を観に門前仲町の駅前にある門仲天井ホールへ出かけてきた。
  
 
 



門仲天井ホールはこのビルの8階にある
 

 
 
 門仲天井ホールはキャパは50人程の小さいホールで、無声映画鑑賞会以外にもコンサートや演劇などが開催されている。開演の15分程前に会場に着くと、場内はすでに6分程の入りであった。どことなく懐かしいお囃子調のBGMが流れ、会場では映画関連書籍やビデオ、DVDなども販売されている。
 18時半の開演に先立ち、澤登の弟子の活動弁士による会場内の注意やお知らせの後、ファンファーレと共に澤登が登場し挨拶。
 無声映画鑑賞会では通常、1本の長編映画と、1〜2本の短編映画の上映が行われる。最初に上映される短編映画は片岡一郎(1977〜)や斎藤裕子(1965〜)といった澤登門下の活動弁士が説明を行う。澤登の紹介で、弟子の活動弁士が登場し、作品に関する説明(これを通常「前説」と呼ぶ)を行った後、場内が暗くなり映画の上映が始まる。

 弟子の上映が終わると「お中入り」。15分間の休憩が入るが、ここで「え〜おせんにキャラメル」と売り子(たいていは澤登の弟子の弁士)がお菓子を売りにやって来る。ちなみにお菓子は1包み200円で、中にはおせんべいとキャラメルが入っている。
 これを食べながら待っていると、再びファンファーレと共に澤登が登場。いよいよメインの映画である。澤登の前説があって映画の上映が始まる。澤登の説明は緩急自在に男にも女にも若者にも年寄りにもなる。勇ましいヒーローを演じていたかと思えば、すぐさまおしとやかなヒロインにも変わる。まさしく七色の声と言っていいだろう。澤登の説明が本領を発揮するのは、例えば時代劇の捕り物などの群集シーン。声が遠くから近くへ迫り、四方八方から響いてくるかのように感じられる。
 「日本には無声映画など無かった」という言葉があるが、澤登の説明は果たして、発声(トーキー)映画よりも雄弁ではないか。観ているうちについつい映画の中に引き込まれていく。
 ちなみにこの日の上映作品はドイツ映画で、「モンブランの嵐」(1930年独)と「嘆きの天使」(1930年独)であった。どちらも発声映画ではあるのだが、「モンブランの嵐」は当時地方巡業用に作られたと思われる無声縮刷版。「嘆きの天使」は 発声映画上陸直後に行われていたような、音量を絞ってそこに日本語の説明を加えるという形での上映であった。
     
 
 



無声映画鑑賞会の様子(上映前)
 

 
 
 現在無声映画鑑賞会に出演している弁士は、澤登翠とその門下の片岡一郎、斎藤裕子、桜井麻美らである。また、澤登の門下から離れた弁士に佐々木亜希子(1972〜)や、声優・タレントとしても活躍する山崎バニラ(1978〜)らがいる。彼らの活動によって、現在まで活動弁士の芸が継承されているばかりか、新たなファンを獲得しているのである。
 しかし、澤登一門の活躍の陰には、危険な点が少なからずある。これまで述べてきたことからも明らかなように、無声映画全盛期には数多くの弁士が存在しその芸を競ってきた。当然、一門や弁士によって様々な芸風があった。ところが、現在の弁士の芸は澤登翠いや、その師匠の松田春翠の流れが主流となっており、それ以外の弁士の芸が育ちにくくなっている。
 実際、澤登の説明に対する批判も少なからず存在している。例えば、徳川夢声の説明は、あえて語らないことで間を活かしたものであったというのは先に述べた通り。それに対し澤登の説明はとにかく語って語って語りまくるのを特徴とする。彼女の説明には、登場人物の心情から、時代背景まで様々な情報が織り込まれ、観ていてとてもわかりやすい。たとえつまらない映画や断片しか残らない不完全な映画であっても、彼女の語りで観ることによって一級のエンターテインメントに仕上がってしまう。むろんそれは 悪いことではない。こうしたことは無声映画全盛期からあったことで、だからこそ人気弁士というのが数多く生まれたのである。
 だがその一方で、彼女の説明には映画に無い情報が多く織り込まれすぎてはいないだろうか。澤登の力量をもってすれば極端な話、例え1枚の写真からでも物語を生みだすことができるだろう。実際、彼女は2008年に現存するスチール写真で構成された「新版大岡政談」 (1928年日活)の説明を成功させている。そうするとある映画を、本来の意図に反した内容にすらできるのではないか。そういった例も過去には存在していて、共産主義礼讃の「アジアの嵐」 (1928年ソ連)を、反帝国主義のプロパガンダ映画に仕立て直したということがあった。また、自作の短編無声映画に活弁をつけるスタイルで映画を上映する若手弁士の山田広野(1973〜)も、取調室での2人の男性刑事と女性容疑者の姿を描いた「大都会最前線」を説明を変えることで内容をまったく違ったものにするという試みをしている。
 徳川夢声の弟子であった弁士のわかこうじ(1923〜)は澤登の説明を「しゃべりすぎであった
(*23)」と批判している。同様に加太こうじ(1918〜98)も「サイレント映画時代の弁士のしゃべり方を知らない現代の人が、松田春翠とその系列の人の説明をきいて、これを映画説明かと思うといけない(*24)」と危惧している。松田春翠は映画がトーキーになってからは紙芝居屋をやっていた時期があり、その説明は「紙芝居的」だと も言える。澤登の説明も師を受け継いで極めて「紙芝居」である。
  
 かくいう僕も、松田春翠の系列の活動弁士の他をほとんど知らない「現代の人」なのだが…。確かにいろいろな種類の活弁があったほうがいいと思う。しかし現在活躍している澤登一門以外の活動弁士は極めて少数である。
 そんな中積極的に活動している活動弁士に麻生八咫(1954〜)・子八咫(1985〜)父子がいる。父の八咫は、29歳の時に往年の活動弁士・池俊行(1909〜90)が語る「坂本竜馬」(1928年阪妻プロ)に感動し、その場で弟子入りを志願した
(*25)。一方娘の子八咫は、小学校5年生の10歳で活動弁士デビューし、10代弁士として長らく活躍してきた。僕は子八咫が19歳の時一度だけ説明を聞いたことがある(演目は「段七千断れ雲」(1938年大都))が、登場人物になり切り、情感たっぷりに時には身振りを交えて(もちろん観客はほとんど見ていないが)の熱演が印象的であった。
 その他には先にも名前をあげた山田広野の他、自作のアニメに往年の名優を模したキャラクターを配し、声帯模写で演じ分ける坂本頼光(1979〜)、大正琴やキーボードを演奏しながらの弾き語り説明の山崎バニラなどの個性的な若手活動弁士が活躍している。
 
*23 わかこうじ「活動写真始末記」232ページ
*24  同上 231〜232ページ
*25 麻生八咫、麻生子八咫/秋月達郎監修「映画ライヴ それが人生」58〜60ページ

      
 
 



 

 
 
 2012年のアカデミー賞で作品賞を受賞したのはモノクロ・無声の「アーティスト」(2011年仏)であった。無声映画がアカデミー作品賞を受賞するというのは、第1回の「つばさ」 (1927年米)以来83年ぶりのこと。また、同年のアカデミー賞で「アーティスト」と並ぶ最多5部門を受賞した「ヒューゴの不思議な発明」(2011年米) も、晩年のジョルジュ・メリエス(1861〜1938/「20世紀の魔法使い」参照)を描いていた。僕もだいぶ以前からこのエッセイで無声映画をいろいろと紹介してきたわけだが、どうやら時代がようやく僕に追い付いてきたらしい(笑)。
 「アーティスト」以前にも無声映画がまったく製作されなくなったわけではない。林海象の「夢みるように眠りたい」を始め、「地獄の蟲」(1979年マツダ映画社) やアキ・カウリスマキ(1957〜)監督の「白い花びら」(1999年フィンランド)などがある。ごく最近でも、「映画史上初の『カラー無声映画』」
(*26)として「幕末渡世異聞・月太郎流れ雲」(2004年「幕末渡世異聞」製作委員会)が製作された。もっともこの「映画史上初」という売り文句は正確ではなく、メル・ブルックス(1926〜)監督・主演の「サイレント・ムービー」(1976年米)がすでにカラーの無声映画として製作されている。「白い花びら」 や「幕末渡世異聞」といった現代の無声映画に、澤登翠らの活動弁士が説明を加えるというようなイベントもこれまでにあった。林海象の「夢みるように眠りたい」「二十世紀少年読本」のように、映画の中に活動弁士を登場したこともある。
 無声映画が注目を集めている今だからこそ、その上映形式としての活動弁士にもスポットが当たるようになって欲しい。そうすることによって新しい活動弁士が生まれ、新しい活弁のスタイルというものも生み出されてくるのではないだろうか。確かに澤登翠の説明は素晴らしい。僕も何度となく彼女の説明に感動してきた。だからこそ、他の弁士たちが負けじと活躍することでより一層盛り上がり、活性化していって欲しいのだ。
 
*26 「コラム・エッセイ/映画史上初の『カラー無声映画』」(http://www.aa.alles.or.jp/~hiro-nagae/column/column2.html
 
 
 

(2012年5月31日)

 
   
(参考資料)
田中純一郎「日本映画発達史T」1967年1月 中央公論社
「日本映画史/実写から成長―混迷の時代まで」1976年7月 キネマ旬報社
淀川長治「淀川長治自伝 上」1985年6月 中央公論社
「日本映画の誕生/講座日本映画T」1985年10月 岩波書店
御園京平「活辯時代」1990年3月 岩波書店
都築政昭「シネマがやってきた/日本映画事始め」1995年11月 小学館
山田和夫「映画101年―未来への挑戦」1997年9月 新日本出版社
わかこうじ「活動大写真始末記」1997年9月 彩流社
四方田犬彦「映画史への招待」1998年4月 岩波書店
四方田犬彦「日本映画史100年」2000年3月 集英社新書
無声映画鑑賞会編「活動弁士/無声映画と珠玉の話芸」2001年12月 アーバン・コネクションズ
加藤幹郎「映画館と観客の文化史」2006年7月 中公新書
佐藤忠男「増補版/日本映画史T」2006年10月 岩波書店
前川公美夫編著「頗る非常!/怪人活弁士・駒田好洋の巡業奇聞」2008年8月 新潮社
麻生八咫、麻生子八咫/秋月達郎監修「映画ライヴ それが人生」2009年9月 高木書房
岩本憲児編「日本映画の誕生/日本映画史叢書15」2011年10月 森話社

椎名一真「映画館の社会史/なぜ人は映画館に行くのか」(http://www.disaster-info.jp/seminar2008/shiina.pdf
藤岡篤弘「日本映画興行史研究/1930年代における技術革新および近代化とフィルム・プレゼンテーション」(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN6/fujioka.html

鬼頭宏「文明としての江戸システム/日本の歴史19」2002年6月 講談社

徳川夢声「夢声戦争日記抄―敗戦の記―」2001年10月 中公文庫
  
 
 


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