第2章−サイレント黄金時代(6)

日本人の肖像
〜早川雪洲とハリウッドの外国人〜



最初の日本人スター早川雪洲
(「追想の扉」155ページ)
 


 ここ数年、あらゆるジャンルにおいて日本人の世界的な活躍がめだっている。ノーベル賞では3年連続で受賞(2000〜2002年)しているし、大リーグでのイチロー(1973〜)、新庄剛(1972〜)らの活躍は連日テレビや新聞をにぎわしている。

 それでは映画界はどうであろう。昨年(2001年)ベルリン映画祭で、宮崎駿(1941〜)監督の「千と千尋の神隠し」(2001年スタジオジブリ)が見事にグランプリを受賞したのを始めとして、ここ数年の日本映画の国際的な活躍は目覚ましい。だが、映画の都ハリウッドに目をやると、そこを舞台に活躍している日本人は案外少ないのである。特殊メイクのスクリーミング・マッド・ジョージ(本名・谷譲治/1956〜)のようなスタッフはまだしも、人種という避けて通れない壁があるせいか、俳優はほとんどいない。

 ところが、映画史を紐解いてみると、サイレント期のハリウッドに、堂々とスターとして活躍した日本人がいたのである。それが、千葉県出身の早川雪洲(1886
(*1)〜1973)である。

*1 早川の生年についてはかつては1889年という説が有力であった。また、本人は自伝で明治23(1890)年生まれだと語っている。
 

 ハリウッドにおける日本人の活躍を知るためには、アメリカにおける日系移民の歴史を見ていく必要があるだろう。日本人移民がアメリカの統計移民に現れる最初は、1861(文久元)年の1人であり、1860年代には合計186人がアメリカに渡っているとのこと。また、1868(明治元)年にはイギリスの商船で当時独立国であったハワイに153名が渡り、翌1869(明治2)年には会津若松からサンフランシスコに移住した家族が「若松コロニー」という開拓村を築いた。その後、アメリカに在住する日系人の数は、1910(明治43)年には7万2000人、1920(大正9)年には11万人を突破したという。彼らの大半は西海岸のカリフォルニアに居住し、主に農業の世界で成功を収めることになる。
 今日でもロサンゼルスのリトル東京は世界最大の日本人街であるが、そこは映画の都ハリウッドからもほど近い場所にある。1911年に最初の映画スタジオが建設され、映画の都として発展したハリウッドに、多くの日本人が入っていったのは当然の流れであっただろう。

 アメリカで最初に映画に出演した日本人は、歌舞伎出身の玉木という人物であったそうである。彼は1912年頃にエジソンの短編映画で主役を務めていたというが、詳しいことは解らない。また、同じ年には栗原トーマス(1885〜1926)がカレム社で西部劇に出演している。女優としては、青木鶴子(1889〜1961)がやはり1912年にマジェスティック社の喜劇映画「お鶴さんの誓い」に出演しているが、この作品は、日本の異国情緒をコミカルに描いた作品であったようだ。やがて、プロデューサーのトーマス・H・インス(1882〜1924)は、当時増加する日系移民を市場として目をつけ、日本劇を製作するために1913年撮影所に日本人村を作った。
その彼の下に鶴子や栗原、サンフランシスコで舞台に立っていたヘンリー小谷(小谷倉市/1892〜1972)らが集結するのである。
 

 さて、青木鶴子(本名・青木ツル)は、川上音二郎(1864〜1911)の姪にあたり、その後音二郎、貞奴(1872〜1946)夫妻の養女となった。1899(明治32)年、 9歳であった鶴子は、総勢19名で欧米巡業する川上一座に加わり、アメリカへと渡る。一座で鶴子は「楠正成」の子別れの場面で正行に扮したり、「道成寺」に母と共演している。だが、アメリカでは子役の労働条件に厳しい制限があり、それに加えて一座の興行収入を持ち逃げされるという災難が重なったため、足手まといとなった鶴子は、一座と別れサンフランシスコに留まることになる。そうして鶴子は日本人画家の青木瓢斎(年雄 /1853?〜1912)に預けられ養女同然となった。
 その後養父の瓢斎が亡くなると、鶴子は「ロサンゼルス・エグザミナー」という新聞の白人女性記者に引き取られ、彼女の下からロサンゼルスのイーガン・ドラマチック・スクールに通い本格的に演劇を学ぶ。やがて、鶴子はインスに見出され日本劇に出演することになるが、後に早川雪洲をインスに紹介したのもこの鶴子であった。
 



早川雪洲(中央)と青木鶴子(右)
「The Honorable Friend」(1916年米)より
(「ハリウッドの日本人」81ページ)
 


 早川雪洲は本名を早川金太郎と言う。裕福な網元の末っ子として現在の千葉県千倉町に生まれた。幼い頃から海軍大将に憧れ、海軍予備校(現・海城高校)を卒業する。だが、海軍兵学校への入学直前に、素もぐりで鼓膜を破ったことが原因で耳に炎症を起してしまい、体格検査で不合格。夢を断念せざるを得なかった。
 雪洲が海軍を諦めた同じ年の11月、千倉の沖合いでアメリカの汽船ダゴタ丸が座礁。予備校時代から英語が得意であった雪洲は、村に上陸したアメリカ人達の通訳を買って出る。このことが契機となって、 雪洲は1907(明治40)年単身アメリカに渡る。
 
 1913年頃、雪洲は日本人劇団に参加すると、自身で脚本を書き俳優としても出演することになる。
 彼の自伝によれば、ロスで日本劇を見た雪洲は、あまりに古臭く、なっちゃいないため、そのまま楽屋に乗り込んで団長の常盤操(藤田東洋)を説得し、劇団に加わったとのことである。これまで演技経験がまったくなかったにも関わらず、最初の芝居では徳富蘆花(1868〜1927)の「不如帰」を自ら脚色して主役の川島武男を演じ、それで評判を得たと言うから面白い。まさに天性の才能があったのだろう。
 その頃につけたのが「早川雪洲」という芸名であった。これは彼が崇拝していた西郷隆盛(1827〜77)の別名「南洲」にちなんでのもので、当初「北洲」と名乗っていた。ところが、他にも同じ名前の俳優がいるということで、北には雪が降っているから「雪洲」に変えたという。当時彼は雪舟(1420〜1506頃)のことは知らなかったそうである。

 雪洲が青木鶴子と出会ったのはこの日本人劇団時代である。二人は雪洲が映画界に入った後の1914年に結婚している。



早川雪洲
 


 その後、雪洲は日本人のみならずアメリカ人に向けた作品をと言うことで、日本人が主人公の「颱風(タイフーン)」(ウォーカー・ホワイトサイド作)を上演し、やはり好評をもって迎えられる。これがインスの目に止まって、1914年に映画界入りしたのである。
 自伝によれば、映画化を持ちかけたインスに対し雪洲は、「颱風」を超大作として製作し、週給500ドルに自動車での送迎付き、さらに劇団員全員の出演といった様々な条件をふっかけた。それで向こうに断らせようとしたのだが、意外なことにインスはこれを受け入れてしまう。こうして破格の好条件で早川は映画界に入ることになったとのことである。続いて「火の海」(1914年米)に出演している。これら2作の監督は レジナルド・バーカー(1886〜1945)であった。
 
 雪洲の自伝は1959年に書かれた「武者修行世界を行く」(1999年2月に日本図書センターより再版)のことである。彼自身、前書きで「自分のことを自分で書くのは(略)ややもすると自慢話になるし、また、ときにはオノロケをすることになるかもしれない」と述べているのだが、同書もまたその例にもれてはいない。
 雪洲自身が「自分の過去にはあまりにも劇的場面が多い」と述べている通り、アメリカに上陸したその日に強盗にあうが、柔道の技で逆にやっつけた話や、フランスでフェンシングの選手と決闘して剣道で勝った話など、興味深いエピソードが満載である。だが、いささか大言壮語のきらいがあり、どこまで信用していいのかわからない。
 スキャンダルの嵐の吹き荒れるハリウッドで、彼がいかに高潔で、そういった誘いをはねつけていたかがしばしば述べられているのだが、実際はそうではなかった。雪洲と鶴子の間に子供はいなかったが、雪洲は女優ルース・ノーブルの間に息子の雪夫(1929〜2001/後に放送作家)を設けたのを始め、計3人の子供を外に作っている。3人は鶴子の元に引き取られて帰国。中でも雪夫は外国人そっくりの容貌であったため、鶴子は戦時中そのことで苦労する羽目になる。だが当の雪洲は戦時中はパリにいた。もちろん、こういったことは自伝では一言も触れられていない。
 そういう訳で、雪洲の自伝ははっきり言えば信憑性が低いのだが、溢れんばかりの自信が漲っており、これこそが彼のハリウッドでの成功の要因ではなかったのかと思えてくる。

 



「チート」(1915年米)
左はファニー・ワード
(「ハリウッドの日本人」81ページ)
 

 
 さて映画界に入った下りでも、自伝には若干の疑問が生じる。雪洲は「颱風」の映画化によってデビューしたと述べているのだが、実際に製作されたのは「火の海」のほうが先であった。また、これらに先立って青木鶴子主演の「おミミさん」(1914年米)の助演で映画デビューを飾っているが、この作品に関しては自伝にまったく触れられていない。どうやら、プライドの高い雪洲が、鶴子の助演と言う立場を嫌ったからのようである。

 いずれにせよ、「颱風」の成功によって俳優として認められた雪洲は翌1915年にパラマウントに移る。そこでの4作目の「チート」(1915年米)が大ヒットし、彼はスターの仲間入りを果たす。そして1918年には自らのプロダクション、ハウアス・ピクチャーズ(1920年ハヤカワ・フューチャー・プレイに改称)を設立し、1922年まで22本の映画を製作している。
 その人気ぶりは1917年当時、週7500ドルを稼いでいたことからも明らかである。当時、最も稼いでいたチャップリンやアラ・ナジモヴァでさえ週1万ドルであったそうだ。
 また、ディズニーのファンタジー映画「続ラブ・バッグ(ハチャメチャワーゲン大騒動)」(1973年米)には、解体建築会社の社長が、地上げに最後まで抵抗する老婆に対し、代償として一流老人ホームの一室を提供してあげようと言う。そのセリフ中に「古いルドルフ・ヴァレンチノや早川雪洲の映画を上映するような…」なんて言葉が出てくるが、このことからも雪洲がサイレント映画の代表的な俳優であったことがわかる。

 しかし1920年代は、全米で排日感情が高まっていた時代であった。雪洲が映画界入りする直前の1913年には外国人土地法が施行され、日本人の土地所有が禁止される。続いて1924年には移民制限法によって日本人の移民は全面的に禁止されてしまう。
 こうしたムードの中、作品の配給をめぐるトラブルにも見舞われた雪洲は、1922年に自身のプロダクションを解散し、ハリウッドを去っていった。
 



「チート」(1915年米)
右はファニー・ワード
 


 ハリウッドを去ってからの早川雪洲は、ヨーロッパを中心に世界を舞台に活動している。1932年には自身の監督で「太陽は東より」(松竹)に出演、日本映画デビューを飾る。1937年以降はフランスのパリに拠点を構え、そこに自らのプロダクションを設立している。
 フランスでは1938年に「マカオ」を製作しているのだが、この映画にはナチスを嫌ってアメリカに渡ったオーストリア出身のエリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885〜1957/次項参照)が出演していたことから、占領下のフランスでは公開することができなかった。後にシュトロハイムの出演部分をピエール・ルノワール(1885〜1952
*2)で撮り直し、1942年にようやく公開することができている。
 雪洲は、1937年に日本・ドイツ合作の国策映画「新しき土」に出演しているが、当時フランスにいた多くの日本人がドイツにベッタリであったのとは異なり、彼はナチスとは距離を置いていたようである。なるほどアメリカを第二の故郷とする雪洲らしいことである。そのため、1945年にパリが解放された後も、逮捕されるようなことはなかった。一説によれば彼はアメリカのスパイであったとも言われている。

 1949年、ハンフリー・ボガート(1899〜1957)は自ら主催するサンタナ・ピクチャーズが製作する「東京ジョー」の共演者に雪洲の起用を切望。ところが戦後の混乱もあって雪洲の行方はわからない。死亡説まで出る有り様であったというが、どうにか連絡がつき、雪洲は16年ぶりにハリウッドにカムバックする。

*2 映画監督ジャン・ルノワールの兄。


 以上のように早川雪洲の経歴について簡単に見てきた。次いで、彼の映画について見ていきたいと思うのだが、実はこれが簡単ではない。なぜなら全盛期の彼の作品は今日観ることが困難だからである。
 同時期にハリウッドで活躍したチャップリンやヴァレンチノ、フェアバンクスの作品は、現在その作品の多くをビデオで簡単に観ることができる。ところが、雪洲の場合、サイレント期だけで56本もの作品に出演していながら、現在ビデオで観 られるものが1915年の「チート」一本きりと寂しい限り。どうやら彼の作品の大半は今日では失われてしまい、もはや永久に観ることができないらしい。
 その理由を考えると、恐らく、彼の作品に優れたものが少なかったからだろう。実際、映画史的に重要な作品はといえば「チート」ぐらいしか思い当たらない。また、彼が日本人であったことも大きいと思われる。排日運動と、それに続く太平洋戦争の勃発。そんな風潮の中で、敵国・日本の俳優の映画など、誰が観ようとするであろうか。
 さらに、雪洲の出演した映画はしばしば日本において国辱的であると見なされた。後に述べるが「チート」はまさしくそういった作品の代表例である。残念ながら僕は観ていないのだが、フランスで撮影した「ヨシワラ」(1937年仏)や、戦後の「東京暗黒街・竹の家」(1955年米)もまた誤った日本観から国辱映画とされたらしい。そういったこととも関連して早川雪洲の作品の多くが今日では不当な評価を受けているのではないだろうか。こうした不幸が重なった結果、今日の日本では早川雪洲という名前自体が忘れられかけている。何とも残念なことだ。

 それでは、唯一観ることのできる「チート」はどのような作品なのか。それを確認するところから始めたい。この作品で雪洲が演じているのは日本人古美術商のヒシュル鳥居。株仲買人の夫の窮状を救うためにその妻(ファニー・ワード)は、鳥居に借金を申し込む。だが、彼女は鳥居に身を任せなかったことから、彼によってその肌に焼きごてを当てられる…。
 この映画は、和服に身を包み、焼きごてを取り扱う鳥居の姿で幕を開ける。彼の部屋は障子張りで、東洋美術が乱雑に置かれている。我々日本人から観ると相当に違和感を感じるところだ。雪洲はこの鳥居を表情少なく冷たげに演じている。その悪役ぶりは残忍かつショッキングで、際立っている。配役の順序としてはヒロインのファニー・ワード(1872〜1952)が上にクレジットされてはいるものの、雪洲によって完全に食われてしまっている。作品自体も当時としてはかなりのセンセーショナルなものであったろうと、想像される。雪洲の好演ぶりは、アメリカにおける排日の機運を高める要因となってしまったと言われているが、実際それだけ強い印象を受ける。日本大使館は監督のセシル・B・デミル(1881〜1959)に正式に抗議を申し入れ、作品もまた国辱的であるとされて日本では未公開に終わった。このことに憂慮してか、1918年の再公開の際には設定がビルマの象牙王と変えられている。鳥居やその従者がしばしば和服で登場することを考えると、ビルマ人ではよけい に矛盾が生じるような気がするのだが…。第一、日本人ではダメなのにビルマ人なら良いのだろうかと純粋な疑問が湧くのだが、まあ当時のアメリカのビルマ人口は日本人よりも少なかったのだからきっと平気だったのだろう。ちなみに現在ビデオ化された「チート」でも雪洲の役名はビルマ人ハカ・アラカウとなっている。

 にもかかわらず、「チート」で雪洲の人気は高まった。アメリカ人女性の持つ潜在的なマゾヒズム願望を掻き立てられたからだというから、女心はわからないものである。



「チート」(1915年米)
左はファニー・ワード
(「追想の扉」161ページ)
 


 トーキー以降の雪洲の作品はどうであろうか。実はサイレント作品とほとんど事情が変わらない。生涯に101本の映画に出演した雪洲だが、現在ビデオ等で観ることができる作品はほんの一部である。現に、僕が観ることができた作品も先に述べた「チート」の他は「東京ジョー」(1949年米)、「戦場にかける橋」(1957年英/米)、「緑の館」(1959年米)、それに日本映画「日本敗れず」(1954年新東宝)、「怒れ!力道山」(1956年東映)の5本だけ
(*3)。この有り様では、本当は雪洲について何も語る資格がないことは重々承知している。今後、特集上映等の機会を利用して、少しでもその穴を埋めていくことを今から約束しておきたい。

*3 実際には僕は「南海漂流(スイスファミリー・ロビンソン)」(1960年米)も観ているのだが、なにしろ20年以上前の小学校入るか入らなかったかの頃だから、記憶も定かではないので、ここには挙げなかった。もちろん当時は早川雪洲が出ているかどうか知るよしもない。なお、雪洲の役は国籍不明の海賊の親玉とのこと。
 



「東京ジョー」(1949年米)
左はハンフリー・ボガート
 


 それでは、僕が観ることのできた数少ない雪洲映画についてみていきたい。
 先にも述べたように「東京ジョー」(1949年米)は、雪洲が戦後カムバックしてきた映画である。題名通り東京が舞台となっているのだが、なぜか日本では未公開に終わっている。都内でロケが行なわれ、戦後すぐの丸の内の様子などが見 られて興味深い。ただし、作品の大部分はアメリカで撮影され、ボギー (ハンフリー・ボガート)も雪洲も来日したわけではなかった。ボギーは戦前に東京でナイトクラブを経営していたジョーを演じ、雪洲扮するキムラ男爵は、飛行機による運送会社を始めたジョーを利用し、韓国から戦犯を密かに帰国させる陰謀を企てる。作品的にはそう優れたものではないが、二人の男の間で心揺れるヒロインを、今度はボギーが手に入れるということで、「カサブランカ」(1942年米)のセルフ・パロディ的にも感じられる。
 雪洲は当時のハリウッドの大スター・ボギーを向こうに、悪役を堂々と演じている。そもそも雪洲にとって出世作となったのは「チート」での悪役であっただけに、こうした悪役はお手の物なのだろう、見ていて余裕すら感じさせる。他にも「怒れ!力道山」(1956年)で悪徳政治家を演じているが、はっきり言ってあまり格好良いとは言えない。作品自体も当時人気絶頂にあったプロレスラー力道山(1924〜63)のアイドル映画といった感じで、力道山ファンにとっては楽しめるが、雪洲ファンには不満が残る。
 



「戦場にかける橋」(1957年英/米)
早川雪洲(中央)
(「追想の扉」169ページ)
 


 雪洲は若き頃は二枚目として活躍していたが、年齢を重ね貫禄が備わると、その堂々とした風貌で軍人などを演じることが多くなったようだ。例えば「日本敗れず」(1954年)では、終戦時の陸軍大臣・阿南惟幾(1887〜1945/映画では川浪陸相)を演じている。面白いことに同じ役を、もう一人の国際的日本人スターである三船敏郎(1920〜97)が「日本のいちばん長い日」(1967年東宝)で演じているのである。それらを見比べてみるのも一興といえよう。また、デビッド・リーン(1908〜91)監督の「戦場にかける橋」(1957年)でもタイの捕虜収容所長・斎藤大佐に扮している。この役が雪洲にとっては戦後の代表作となった。
 「戦場にかける橋」の撮影された1956年頃といえば、太平洋戦争の記憶もまだ生々しく、日本人も残忍で卑劣なイメージを持たれていた頃ではなかったろうか。にも関わらず、斎藤大佐は、憎まれ役ではあるものの、武士道精神に満ち、血の通った人物として描かれていること が注目される。そして、イギリスの騎士道精神を持つニコルソン大佐演じるアレック・ギネス(1914〜2000)との男の意地の張り合いもまた見所の一つとなっている。唯一のアメリカ人シアーズ少佐(ウィリアム・ホールデン)のほうがむしろいい加減な人物として描かれている点が面白い。
 アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞(ギネス)など計7部門で受賞した。雪洲も助演男優賞にノミネートされたが、日本を舞台にした「サヨナラ」(1957年米)のレッド・バトンズ(1919〜2006)に惜しくも破れ、受賞は逃している。

 



「戦場にかける橋」(1957年英/米)
早川雪洲(左)とアレック・ギネス(右)
 


 雪洲はスターになった直後の1917年、ハリウッドの一角にお城のような豪邸を買った。ルドルフ・ヴァレンチノ(1895〜1926)が、売れない頃その豪邸で働いていたということは前項ですでに述べた通りである。雪洲はパラマウントを辞めて、自分のプロダクションを設立する際に、残された企画「シーク」の主人公に、ヴァレンチノを推薦したのだという。だが、自伝のこの辺りの記述には少々疑問が残らないでもない。自伝で雪洲は、「シーク」(1921年)を、「私の書いた脚本」
(*4)とはっきり述べているのだが、「シーク」は原作がエディス・M・ハル、脚本がモント・M・カッタージョンとなっており、雪洲の名はクレジットされていない。何をもって雪洲が「シーク」を自分の脚本としているのかは不明だが、「シーク」の企画が当初雪洲に持ち込まれた可能性は充分ありうる。
 雪洲がヴァレンチノを推薦したのは、「この男は少し私に似ているから」であったそうだ。また、ヴァレンチノ自身も「今までハヤカワのような芸をやりたいとずっと真似をしていた」と述べていたらしい
(*5)。確かに、2人とも外国人で、エキゾチックな魅力で売っていた。共に切れ長の眼で冷たい感じがする点でもよく似ている。

*4・5 早川雪洲「武者修行世界を行く」 187ページ

 


 では、彼ら雪洲やヴァレンチノといった外国人俳優がなぜハリウッドで成功することができたのであろうか。彼らが異国人であることから醸し出す神秘性というもの が大きな理由と考えられる。また、当時の映画がサイレントで声を持たなかったということも無視できない理由だろう。当時の映画が今日のように声を持っていたなら、果たして英語を母国語としない彼らがここまで活躍できたであろうか。当時ハリウッドでは他にも以前紹介した日本人・上山草人(1884〜1954)や、「ベン・ハー」(1926年)に出演したメキシコ出身のラモン・ノヴァロ(1899〜1968)らが活躍している。
 ヴァレンチノはトーキーの出現を待たずに若くして亡くなったが、雪洲はトーキー以後も世界各地で活躍している。だが、戦後に彼が出演した英語圏の映画を観ると、意外にも英語が下手なこと で驚かされる。イギリス映画「戦場にかける橋」を最初観た時、雪洲は第二次大戦当時の帝国軍人を演じているのであるから、たどたどしく英語を喋っているのはわざとであろうと思ったものだ。「ラスト・エンペラー」(1987年伊/英/中)で甘粕大尉に扮した坂本龍一(1952〜2023)が、流暢な英語を喋っていたのが、逆にリアリティを欠いていた通りである。ところが、「東京ジョー」での雪洲の役はたどたどしい発音の英語をしゃべる必然性がほとんど無いのだから、実際に彼の英語の発音が良かったわけでないことがわかる。このことから考えても、雪洲が映画界に入ったのがサイレントの時代であったことは幸いであった。
 なお、オードリー・ヘップバーン(1929〜93)とアンソニー・パーキンス(1932〜92)が共演した「緑の館」には雪洲は南米のインディオの酋長役で出演している。ほとんどゲスト出演にも等しい小さな役だが、何でもスタッフが現地ロケの際に知り合った酋長が雪洲とそっくりだったことから、雪洲に役が回ってきたとか(写真下)。そういうわけで彼は原住民の言語を喋り、英語はまったく喋らない。

 



「緑の館」(1959年米)
早川雪洲
(「追想の扉」171ページ)
 


 アメリカや日本の映画界では踏み台のことを「セッシュウ」と言うそうである。これは背の低かった雪洲が、背の高いアメリカ人女優とラブシーンを演じる際に、身長をごまかすために踏み台を使ったことに由来しているそうである。その一方で、地面に穴を掘って高いほうを低く見せることをも「セッシュウ」と呼ぶことがあるから
(*6)、人や物の高さを上げることそのものを指して「セッシュウ」と言うのだろう(*7)。雪洲は自称五尺七寸(約173センチ)だったというが、実際には 5フィート6インチ(約168センチ)だった。また、「セッシュウ」はアメリカでは「アラン・ラッド」とも呼ばれているらしいが、これも由来は同じ。「シェーン」(1952年米)で知られるアラン・ラッド(1913〜64)が、やはり背が低かった(約167センチ)ことから踏み台を使用していたのだという。洋の東西を問わず、二枚目俳優にとって背が低いことはコンプレックスであるようだ。
 最近では西洋人とも肩を並べるような堂々たる体格の日本人も多くなってきたが、雪洲の場合は体型的にはむしろ劣っていたのであるから、彼がハリウッドで成功を収めた本当の理由はますますわからなくなってくる。

*6 「役者バカ!:救Qセンター」(http://www.merge-e.co.jp/yakusha/q&a.html
*7 SAORI氏の教示による
 



2人の日本人国際スター
上山草人(左)と早川雪洲
 


 雪洲以降も、ハリウッドを舞台に活躍した日本人は数多くいる。まず最初に上山草人があげられるし、最近でも「砲艦サンパブロ」(1966年)のマコこと岩松信(1933〜2006)や、「ベスト・キッド」(1984年)の師匠役ノリユキ・パット・モリタ(1932〜2005)などがいる。だが、雪洲のような“スター”とはなっていない。雪洲はまさしく最初の、いや唯一の国際的な日本人スターであったのだ。
 唯一の例外が“世界のミフネ”こと三船敏郎であると言えるが、彼の場合はあくまで日本を拠点に活躍した俳優であり、雪洲と同列に扱うことは難しい。また、「ニンジャ」ブームで一躍スターとなったショー・コスギ(小杉正一/1948〜)も、ブームが去ってからはあまりパッとしなくなってしまった。アジア全体に視点を広げてみても、「ラスト・エンペラー」(1987年)に主演した中国人ジョン・ローン(1952〜)ぐらいしかスター的存在はいないから、やはりハリウッドは人種差別的な、いわ ゆる白人至上主義の風潮があるのだろう。日系人でも3世ともなれば、日本語以上に英語を自由に操ることができるはずにも関わらず、未だに第二の雪洲と呼ばれる日系人俳優は出てこない
(*8)。そういった意味からも、早川雪洲の業績は今日改めて見直されるべきではないだろうか。

*8 日本人ではないが、ジョン・ローンが一時期「第二の雪洲」として注目されたことがあったそうである。
 

 1986年の「マックス・モン・アムール」を最後に沈黙を守っていた大島渚(1932〜2013)は、次回作として早川雪洲とヴァレンチノの確執を描く「ハリウッド・ゼン」の製作を発表していた。雪洲に坂本龍一、青木鶴子にジョアン・チェン(1961〜)、ヴァレンチノにアントニオ・バンデラス(1960〜)が扮し、1991年には撮影開始となるはずであった。2人の確執というからには、ヴァレンチノが雪州の推薦で「シーク」に出演する1921年から雪洲がハリウッドを去る1922年あたりが舞台であろうかと思われる。非常に興味深いテーマであり、公開のあかつきには雪洲の再評価にもつながると期待できるのだが、残念なことに現在に至るまで製作は中止されたままである。大島作品はご存知の通り「御法度」(1999年松竹/角川書店/他)のほうが先に完成してしまった。いつの日にか「ハリウッド・ゼン」が日の目を見ることを願ってやまない。
 

(2002年8月30日)


(参考資料)
青山雪雄「ハリーウッド映画王国の解剖」1929年5月 博文堂出版部
佐藤忠男「ハリウッドの日本人たち」(「日本映画の誕生/講座日本映画1」所収)1985年10月 岩波書店
野上英之「聖林の王早川雪洲」1986年10月 社会思想社
垣井道弘「ハリウッドの日本人/「映画」に現れた日米文化摩擦」1992年2月 文藝春秋
淀川長治「追想の扉」1996年12月 TBSブリタニカ
早川雪洲「武者修行世界を行く」1999年2月 日本図書センター
飯野正子「もう一つの日米関係史」2000年3月 有斐閣
大場俊雄「早川雪洲―房州が生んだ国際俳優」2012年4月 ふるさと文庫
 

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