第0章−映画前史(2)
  幻燈幻想
〜マジックランタン(幻燈機)〜
 
 



ファンタスマゴリア(1798年)の上映風景
(「幻燈の世紀」8ページ)
 

 
 
 映画の前身と考えられるものの1つに「幻燈機(Magic Lantern)」がある。これは、ランプとレンズを使ってガラスに描かれた画像を映し出すもので、後にスライド映写機として改良されている。
 
 
◆マジック・ランタン



キルヒャーのカメラ・オブスクーラ装置
(「幻燈の世紀」21ページ)
 


 
 
 幻燈機はすでに2世紀の中国で用いられていたという説もあるが、一般的には17世紀のヨーロッパで発明され、瞬く間に世界中で流行した。日本でも明治20年代(1887〜96)にブームとなっている。樋口一葉(1872〜96)の小説「たけくらべ」(1895年)には 幻燈会の様子が描かれているし、芥川龍之介(1892〜1927)の短編「少年」(1924年)にも30年前の思い出として幻燈を回想する場面がある。チャップリンの初期の短編映画「幻燈会」(1915年米)は、子供が母親の浮気現場を撮影したスライドが、幻燈会で上映されてしまい騒動に発展するというドタバタコメディであるが、映画が発明されてだいぶ経った後でも幻燈は娯楽として幅広く楽しまれていたようだ。
 
 暗い部屋に小さな節穴を空けると、そこから漏れてくる光が壁に像を逆さに映し出すことがある。これは「カメラ・オブスクーラ」と呼ばれる現象である。幻燈機はこの原理を応用している。カメラ・オブスクーラはかなり古くから知られており、中国の墨子(前470〜前390頃)やギリシアのアリストテレス(前384〜前322)らが記録に残している。現在写真機のことを「カメラ」と称するのも、この「カメラ・オブスクーラ」が語源となっている。

   
 
 



キルヒャーのマジックランタン上映
(「幻燈スライドの博物誌」150ページ)
 

 
   
 イスラムの学者アルハゼン(イブン・ハイサム/965〜1040)はカメラ・オブスクーラを日蝕の観察に用い、その原理を研究した。イギリスの哲学者ロジャー・ベーコン(1214〜94)もアルハゼンの影響を受け、やはりカメラ・オブスクーラを用いて日蝕を観察している。
 また、ルネッサンス期のレオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)はカメラ・オブスクーラをデッサンに用いていた。投影された風景をなぞり下絵を描いていたのであるが、彼の手稿にはその際に用いた装置のデッサンが残されている。
 
 一般的には幻燈機を発明したのはドイツ人神父アタナシウス・キルヒャー(1602〜80)だとされているが、実際は先行する幻燈機に改良を加えたことのようである。キルヒャーはその著書「光と影の大いなる術」の中で、幻燈機の仕組みを図解し発表した。それを見ると、8枚の絵が描かれた横長のスライドが用いられており、物語に沿って場面を転換しながら画像を映し出していたと思われる。
 早くも物語を伝えるという映画の要素が表れている。

 キルヒャーに刺激を受け、多くの人たちが幻燈機の作成を試みた。
 そのうちの1人であるデンマーク人数学者トマス・ワルゲンステイン(1627〜81)は1665年リヨンで幻燈機の実演を行なった。その際に機器を「Laterna Magica(魔法のランタン)」と名付けている。このラテン語の「Laterna Magica」が英訳されて「Magic Lantern(マジック・ランタン)」と呼ばれるようになった。
 ちなみにリヨンでは230年後の1895年にオーギュスト(1862〜1954)とルイ(1864〜1948)のリュミエール兄弟が映画の元祖であるシネマトグラフを発明している。

 
 
◆ファンタスマゴリア



ファンタスマゴリア上映風景
(「幻燈スライドの博物誌」151ページ)
 

 
 当初幻燈機が映し出す絵は動かないものであったが、それを動かそうとの試みも早くから始まっていた。17世紀初めには早くも「動く絵(moving picture)」が上映されたとの記録がある。これはぜんまい仕掛けのからくり絵を映し出すものであったようだが、この時用いられた「moving picture」という語は、後の映画を指す語となる。
 動く幻燈を初めて上演したのはオランダの自然哲学者・数学者ピーテル・ファン・ムッセンブルク(1692〜1761)であったとされる。1730年代に5幕からなる大幻燈劇「トロイ戦争」を上映している。
  
 



ファンタスマゴリア上映風景
(「幻燈スライドの博物誌」151ページ)
 

 
 
 この幻燈機の上映を人気ショーに仕立てたのはベルギー人のロベルトソンことエティエンヌ・ガスパール・ロベール(1763〜1837)である。1798年、彼はパリで「ファンタスマゴリア」との銘打っての興業を行なった。

「ロバートスン(注:ロベルトソン)が燃えている焜炉にコップ二杯分の血、安物の火酒一瓶、大粒の水滴を十二滴注ぎ、《自由人新聞(ジュナル・デ・ゾム・リーブル)》を二部くべる。するとすぐに、短刀を手に赤い帽子を被った小さい蒼白な亡霊が立ち現れる。マラーの亡霊がぞっとするような渋面をして消えていく。
(*1)

 廃墟となった修道院が会場で、「幽霊や亡霊の出現」「降霊術あるいは蘇生」「血まみれの修道女」などといったタイトルの出し物が上映された。当時のフランスはフランス革命(1789〜99)の真っただ中。国王ルイ16世(1754〜93)やその妃マリー・アントワネット(1755〜93)らがギロチンにかけられた凄惨な事件もまだ人々の記憶に新しかった頃である。スモークを焚き、おどろおどしい音楽を加え、さらに重々しい口上のもと、ロベルトソンはルイ16世夫妻やロベスピエール(1758〜94)、ダントン(1759〜94)、マラー(1749〜93)、マラーを暗殺したシャルロット・コルデー(1768〜93)といった非業の死を遂げた人物の霊を出現させた。
 観客の前に置かれたスクリーンの裏側から複数の幻燈機を用いて次々と亡霊を出現させる。幻燈機を車のついた移動台に乗せて前進・後退させることで亡霊の大きさを変化させる、いわばズーミングのような演出も行ない、さぞかし当時の観客の度肝を抜いたことであろう。ロベルトソンの「回想録」(1831年)に載せられたファンタスマゴリアの上映光景の絵 (写真上)を見ると、床に蹲る人や、刀を抜いて亡霊に挑もうとする人の姿などが描かれている。
 ロベルトソンは自身の幻灯機を「ファンタスコープ」と名付けて特許を取得。ファンタスマゴリアは1802年にはロンドンでも上映され、大評判となった。

*1 ジョルジュ・サドゥール/村山匡一郎、出口丈人、小松弘訳「世界映画全史2/映画の発明 初期の見世物1895―1897」16ページ
 
 
◆幻燈の発展


 



ステレオスコープの上映風景
(「幻燈の世紀」53ページ)
 

 

 19世紀半ば、ヘンリー・ラングドン・チャイルド(1781〜1874)は「ディゾルビィング・ビューズ(Dissolving Views)」を完成させた。これは2つのレンズを同時に用い、1つのレンズを閉じながらもう1つを開いていくという技術である。これまでの幻燈機では、あるシーンを次のシーンと切り替える際に最初のシーンが次のシーンによってスクリーンの外に押し出される場面を見なければいけなかったのだが、この技術を用いることで滑らかなシーンの切り替えが可能となった。また、花が次第に開花する様子などをゆっくりした変化で見せることも出来るようになった。
 現在の映画でも、1つのシーンが次第に暗くなるに従って、次のシーンが明るくり、2つのシーンが重なりながら転換する手法を「ディゾルブ」もしくは「オーバーラップ」とも呼んでいる。ディゾルビング・ビューズのよく知られた例としては、ディズニーランドの「ホーンテッド・マンション」の入口にある肖像画がある。肖像画に描かれた青年がだんだんと年老いていき、最後には骸骨になってしまう。
 もう1つ、19世紀半ばにライムライト(Limelight)が発明されたことで、明るい光源がられるようになったことも幻燈が普及した要因である。チャールズ・チャップリン(1889〜1977)の名作「ライムライト」(1952年米)のタイトルにもあるように、ライムライトは白熱電灯が普及するまで舞台照明としても広く用いられていた。
 さらに1850年、ドイツ出身のフレデリック(1809〜79)とウィリアム(1807〜74)のランゲンハイム兄弟がガラスに写真を焼き付ける技術を発明すると、幻燈のスライドを大量生産することが可能になった。
 19世紀前半には眼鏡をかけて見る立体幻燈の「ステレオスコープ(Stereoscope)」も発明されている(写真上)。

 こうなると映画の発明は時間の問題である。1832年、ベルギーの物理学者ジョゼフ・プラトー(1801〜83)が絵の描かれた円盤を鏡に映し回転させ、スリットから透かして観ることで動いているように感じさせる「フェナキスティスコープ」を発明した。さらに1852年、フランス人ジュール・デュボスクはこのフェナキスティスコープやロベルトソンのファンタスコープに写真を利用する装置「ステレオファンタスコープ(ビオスコープ)」を発明した。
 やがて1891年にアメリカの発明王トマス・アルヴァ・エジソン(1847〜1931)が覗き筒システムの「キネトスコープ」を発明。次いで1895年にフランスのオーギュストとルイのリュミエール兄弟がスクリーンへの投影式の「シネマトグラフ」を発明し、映画の時代が到来するのである。
  
  ◆その後の幻燈機  
 
 映画が発明されてからも、幻燈機は長い間使われていた。日本でも昭和30年代(1955〜1964)頃まで普及していたという。後にスライド映写機として改良されたが、学校教育の視聴覚教材などで長く用いられていた。僕自身も1980年代であるが、小学校でスライドを用いた授業を受けた記憶がある。
 また、映画館でも上映する映画と映画の合間にスライドを映すこともずっと後まで見られた。僕が記憶しているのは「他のお客様の迷惑になる行為はご遠慮ください」といった注意事項をイラスト入りの静止画像で見せるものであったが、かつては観客が合唱するための歌詞を映し出すようなこともあったという。
 
 現在ではコンピュータとプロジェクタを用いてより簡単に画像を投影できるようになった。マイクロソフト社の「Power Point」に代表されるプレゼンテーション・ソフトが駆使され、学校の授業はもちろん、会議などでのプレゼンテーションの場面において、様々な文章や画像を投影することが可能となっている。映し出す個々のページを「スライド」というのは、もちろんスライド映写機に由来している。
 
 
 



東京ディズニーランド・シンデレラ城のプロジェクションマッピング
(2017年11月撮影)
 



ユニバーサル・スタジオ・ジャパン・ホグワーツ城のプロジェクション。マッピング
(2018年12月撮影)
 

 
   
 さらに近年ではスクリーンのような平面だけではなく、建物の壁などに画像を映し出す“プロジェクション・マッピング”なるものも隆盛を極めている。1969年にスタートしたディズニーランドのアトラクション「ホーンテッド・マンション」における半透明の幽霊がその走りだと言われているが、一般的には2008の北京オリンピック開会式で広く知られるようになった。さらに、2012年にはJR東京駅の駅舎でも大掛かりなプロジェクション・マッピングが行なわれたが、沿道に大勢の観客が押し寄せたため、途中でイベントが中止となっている。
 東京ディズニーランドのシンデレラ城や、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのホグワーツ城で、夜にプロジェクション・マッピングを用いたアトラクションが催されたのを見たことがあるが、映像や光、それに音楽が加わり、かなり見ごたえのあるショーとなっていた。
 映画「スター・ウォーズ」(1977年米)では、R2−D2がメッセージを伝える場面でなどで、空中にレイア姫の姿を映し出す技術が登場する。対象物のない空間に映像を映し出すことも“3Dホログラム”として実用化されている。
 幻燈機の伝統というものは、常に形を変えていつまでも受け継がれてきているのだ。

  
 
 



「スター・ウォーズ」に登場するホログラム
 

 


(2019年9月23日)


(参考資料)
C・W・ツェーラム/月尾嘉男訳「映画の考古学」1977年8月 フィルムアート社
ジョルジュ・サドゥール/村山匡一郎、出口丈人訳「世界映画全史1/映画の発明 諸器械の発明1832―1895」1992年11月 国書刊行会
ジョルジュ・サドゥール/村山匡一郎、出口丈人、小松弘訳「世界映画全史2/映画の発明 初期の見世物1895―1897」1993年10月 国書刊行会
岩本憲児「幻燈の世紀」2002年2月 森話社
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編「幻燈スライドの博物誌/プロジェクション・メディアの考古学」2015年3月 青弓社
    

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