14.山川惣治のライバルたち 手塚治虫
ここで取り上げる手塚治虫は、絵物語を滅ぼしたストーリーマンガの創始者としてではなく、
絵物語作家としての手塚治虫です。
手塚治虫の絵物語作品は私の知るところでは「黄金のトランク」「バンビ」(絵物語版)「銀河少年」「オズマ隊長」
の四つです。山川惣治の「少年エース」のあとサンケイ新聞に連載された「オズマ隊長」が最も長い絵物語だったの
ですが、私は図書館で新聞を拾い読みした程度で通読していません。。
このうち「銀河少年」については2001年6・7月に2ヶ月間だけホームページを開いたとき、「宏一郎」さん
http://www.h2dion.ne.jp/‾amazo07/geki00.htmから聞いたものです。おもしろブック昭和28年月号から連載
されています。「ピピちゃん」のあと、「ワンダーくん」の前です。
「銀河少年」の絵柄はマンガの描線に少し陰影をつけただけです。基本的にマンガの絵に説明の文章をつけたものです。
できばえはあまりよくなく、連載の最後には純然たるマンガにかわっています。
もともとまんがの絵に説明の文章をつけた、「まんが物語」のようなものは以前からありました。そもそも椛島勝一の
「正チャンノバウケン」も説明文がついていましたし、「長靴三勇士」「団子串助漫遊記」など漫画に説明文のついた
ものは戦前からありました。戦後の絵物語の全盛時代にも石田英助が漫画風の童画に文章をつけたものをよく書いて
いました。そのほかにもまんが物語は雑誌の増刊号などによく掲載されていましたが、滑稽味、ユーモアを基調にした
ものが多かったように思います。手塚治虫の絵物語はこれらとは違って、シリアスなものです。かれがストーリーマンガ
でとりあげるのと同じようなまじめなテーマを絵物語形式で書こうとしたのです。
しかし「銀河少年」は成功したようには思えません。「銀河少年」の絵はそれほど魅力的ではありません。手塚治虫の
マンガのなかにときどき大きなコマの絵がでてきますが、それらはものすごい迫力で、模写したくなります。しかし
絵物語「銀河少年」の絵はそれほど魅力的ではありません。絵物語は1枚1枚が模写したくなる絵の連続でなければなら
ないのです。たんに場面の絵画的説明であってはなりません。絵としての迫力がなければならないのです。下に「銀河
少年」のもっとも絵物語風のコマを紹介しますが、手塚治虫が絵物語風の絵もかけるということ以上の意味はない
ように思います。むしろ「化石島」や「ぼくのそんごくう」の中にでてくる絵物語ふうの絵のほうが生きていると
おもいます。
「銀河少年」の第2、3回はカラーページで印刷されています。この時はまったくディズニーのまんが映画の誌上紹介
のような絵が続きます。集英社は思いきって1年間、手塚治
虫に毎月4ページのカラー絵物語を書かせたらよかったとおもいます。そしたらユニークな作品ができていたでしょう。
しかし、カラーページは金がかかるので、おもしろブックでは、今月は飛竜夜叉をカラーに、来月はポストくんを
カラーにというように、カラーにする作品を毎月交替させて、目先をかえていました。このような状況では、まとまっ
た作品は生まれにくいでしょう。
「銀河少年」は失敗しましたが、手塚治虫のその後の作品に絵物語風の陰影のある絵が見られます。それらは1枚絵と
してのすごい迫力を持っています。絵物語を書いた経験をマンガ作品にいかしたのだと思います。転んでもただでは
起きない作家魂の発露でしょうか。(手塚漫画の絵物語風の絵について見たい方は、ここ
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まんが家で本格的に絵物語を書いたのは大城のぼると手塚治虫くらいです。大城
は挿し絵の技法を練習して取り組んだので、大城のほうが本格的と言えるかもしれません。しかし大城は「神州天馬峡」
1作なのに手塚は4作も書いており、しかも「オズマ隊長」は日刊新聞に毎日連載し、かなりの長さの作品ですので、
手塚の方が力を入れていたともいえます。