平成23年度テーマ:「富士山考&甲斐の国人物伝」 |
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絵画に託された
富士のイメージ |
富士信仰概観 |
① 山岳信仰
・縄文時代の土器から出土
・遥拝(遠くから拝む)施設があった
・富士山は禁足地(足を踏み入れてはならない所)であった
② 浅間神社
・アサマ神(「アサマ」はアイヌ語で火を噴く山の意味が有る)
・荒ぶる神
・そうした神を鎮める為に神社を造った
a)「常陸国風土記」に福慈神(ふじしん)の記述が有る(和銅6年:713)
b)駿河国大宮(現富士宮)の記述が有る(大同元年:806)
c)甲斐国八代郡(貞観7年:865)の記述が有る
☆貞観は「じょうかん」と読み、貞観6年に富士山が大爆発した
③ 修験道
・平安末期(12世紀中頃)に霊力を得る為に登拝(山岳秘教や修験道の山)
・平安末に「末代上人」が富士山頂に「大日寺」を建立
・中腹の「村山浅間社」は室町期の富士修験の中心地
④ 神仏習合:中世前期に「浅間大菩薩」を作りこれは大日如来で八峰を胎蔵界
の「中台八葉院」に例えた
⑤ 阿弥陀信仰:中世、山頂に阿弥陀浄土を祀った
⑥ 祭神の変移:室町末に「木花開耶姫(神)」が祀られ、江戸時代に定着した
⑦ 富士講
・江戸時代に隆盛し、「北口浅間神社」として発展した
☆江戸→甲州道中→高尾山→吉田口→お鉢巡り→須走口→大山→江戸
・木花開耶姫命は室町末期に登場し、盛んになるのは江戸期から
・長谷川角行が正保3年(1646)に人穴で入定(死して即身仏となる)し祖となる
・村上清光と食行身禄が烏帽子岩で入定(享保18年:1733)組織化
・江戸八百八講や富士塚が流行する
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富士の絵画概観 |
古代 |
・物語や名所絵として概念的な山としての富士山(見た事が無いので)
・現存最古は「聖徳太子絵伝」:平安時代(延久元年、1069)
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中世 |
・共通概念としての富士山(形式化した三峰の形)
・現存最古の裏富士:「遊行上人縁起絵(真光寺本)」→鎌倉時代(元亨3年)
・鎌倉時代に禅僧により山水画として描かれた(連作「富士八景」)
・富士信仰の礼拝画として描かれた
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近世 |
・江戸時代には身近な存在となる(富士を江戸の景観の一部と捉える感覚)
・様々な個性が排出され描く者の個性が表わされる
・旅が盛んになり様々な場所から富士が描かれた(多くの画家がいた)
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富士のイメージ
の変遷 |
①名所絵・歌枕
・名所絵として富士が描かれた(富士の姿は概念的)
・歌枕は現実に見る事もなく概念的知識として描かれ、特に和歌の中に描かれた
・10世紀に藤原伊尹邸の名所屏風絵『続千載和歌集』『能宣朝臣集』に屏風絵
が有る
・延長2年(924)「藤原忠平室(奥さん)五十賀の屏風」に田子の浦から見た富士
②物語図
・名所絵の概念的姿を引き継ぐ
・『源氏物語』絵合(絵.合せ)巻 「竹取物語」「伊勢物語(東下りで富士を眺めた」
・「聖徳太子絵伝」現存最古の富士図 延久元年(1069)泰致貞筆(東京国立博物館)
・法隆寺旧蔵(東院壁画)、聖徳太子が27才の時に甲斐の黒駒に乗った姿
・「伊勢物語」第九段「東下り」:久保惣美術館(大阪)・・・鎌倉時代
・「一遍聖絵」:正安元年(1299)、法眼円伊筆:清浄光寺(遊行寺・神奈川)
・「遊行上人絵伝」:現存最古の裏富士(山梨側) 14世紀初め 真光寺(兵庫)
・「曾我物語図」(富士巻狩図)、「月次風俗図屏風」中に最古例(東京国立博物館)
・「曾我物語図屏風」(山梨県立博物館)・・室町末
③室町水墨画の富士
・富士を水墨画で描いたのは、現存では室町期の富士図が最古
・室町期には、日本の風景と言えば富士山が一般的になる
・鎌倉周辺の禅林において、水墨画の富士が多く描かれた
・稜線の傾斜がなだらかになり実景に近ずく。
・中国伝来の技法で日本の風景を描いた
・建長寺画僧(仲安真康)が描いた「冨嶽図」(根津美術館)・・室町時代
・建長寺画僧(賢江祥啓)が描いた・「冨嶽図」(東京国立博物館)・・室町時代
・伝雪舟:「富士清見寺図」多くの絵師模本として描いた最も有名な富士の古画
・式部輝忠(駿河今川家御用絵師説)「富士八景図」:現存する最古の富士連作
④富士参詣曼茶羅
・信仰の対象である富士山上部と富士信仰の拠点である浅間神社の登拝ルート
・「富士参詣曼茶羅」(狩野元信印・・狩野永徳か)富士山本宮浅間神社(室町)
⑤不死の山
・戦国時代の武具などに意匠化(陣羽織などに不死を祈願)
・「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織」(大阪城天守閣)豊富秀吉着用と伝わる
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個性を映す富士図 |
① 桃山~江戸初期の障壁画
・狩野永徳:天瑞寺(母大政所の為に秀吉が大徳寺内に建立)その客殿に
「墨絵富士之図」(現存せず)
・長谷川等伯様式:「富士山杉樹図屏風」→もと襖絵(金毘羅宮博物館)
・狩野山雪:「富士三保松原図屏風」(静岡県美術館)
・狩野探幽(永徳の孫):「富士山図」 寛文七年(1667) 狩野派の抒情的な富士図
の型を完成(静岡県立美術館)
② 文人画・真景画(18~19世紀)
・池大雅:「富士十二景図」(1,3,5月描いた:東京芸術大学美術館)
「冨嶽図」(山梨側を書いた):山梨県立博物館
池大雅は富士を3回登山した三岳道者(富士、立山、白山)
・与謝蕪村:「松林富士図(」富山佐藤美術館
・桑山玉州:「冨嶽山水図襖」 寛政7年(1795)
・田能村竹田:「芙蓉残雪図」 文政2年(1819)
・谷文晁:「富士山図屏風」 天保6年(1838)
・野呂介石:「紅玉芙蓉峰図」 文政4年(1821)→最古の赤富士(脇村奨学会)
三島辺りからの赤富士で、大変なブームになった
・富岡鉄斎:「富士山図」 明治31年((1898)→最後の文人画家
③ 洋風画
・司馬江漢:「駿州薩陀山富士遠望図」 文化元年(1804) 静岡県立美術館
・小田野直武:「冨嶽図」 安永6年(1777) 秋田県立近代美術館
④ 浮世絵
・鍬形蕙斎:「江戸一目図屏風」 文化6年(1809) 津山郷土博物館(岡山)
・葛飾北斎:「冨嶽三十六景」 天保元年~4年(1830~33)
「冨嶽百景」 天保5年(1834)~
「富士越龍図」 嘉永2年(1849) 90歳 最も絶筆に近い作品
・歌川広重:「不二三十六景」(横長) 嘉永5年(1852)
「富士三十六景」(縦長) 安政五年(1858)
⑤ その他
・尾形光琳:「冨嶽図(扇面貼交手箱中籠表」 江戸中期(大和文華館)
・野々村仁清:「銹絵富士山図茶壷」 江戸中期(根津美術館)
・武蔵野図屏風(武蔵野と富士は関東の風景として定着)
・円山応挙:「富士三保松原図屏風」 天明4年(1784)(白鶴美術館)
・長沢慮雪:「富士越鶴図」 寛政6年(1794)(個人蔵)
・狩野永岳:「富士山登龍図」 嘉永5年(1852) (静岡美術館)
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近代に展開し
た日本の象徴 |
①日本の象徴
・外国人にとって富士は日本らしさ→日本人が「日本らしさ」を演出
五姓田芳柳:「風俗図屏風」 横浜絵(郡山市立美術館)
・万国博覧会の出品物:日本の国際的地位向上と日本製品の販路拡大を目指す
柴田是真:「富士田子浦蒔絵額」 明治6年(1873)明治政府初参加のウイーン
博覧会に出品(福富太郎コレクション)
涛川惣助:「七宝冨嶽図額」 明治26年(1893)シカゴ万国博覧会に
「無線七宝」を出品(東京国立博物館)
・日本の国土、日本の国体、日本の国性を、富士山のイメージに託した
・大衆化・通俗化:関東大震災後に銭湯の背景画として使われた
・戦後、敗戦によるイメージの反発、伝統に対するアンチテーゼ
②新たな表現や技法への挑戦
・「日本画」「洋画」の多くの近代画家が富士山に挑戦
橋本雅邦:「富士図」 明治33年(1900)(富士美術館)
横山大観:「四季之霊峰」 昭和16年(1941)(山梨県立美術館)
五姓田芳柳:「清水の富士」 明治14年(1881)(東京都現代美術館)
・現代作家も挑戦中
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山梨出身の歌い手たち |
歌手の紹介 |
1)森進一
・山梨県甲府市出身((昭和22年)
・父親が山梨県白州町出身で看板職人。仕事がら、沼津や下関を渡り歩いた
・最後は母親の郷里の鹿児島へ移ったが、母親の病気等で大変苦労をした
・集団就職で大阪に就職したが、再び鹿児島に戻り、キャバレーでバンドボーイ
・東京の「リズム歌合戦」で優勝 「東京パンチョス」のチャーリー石黒に見出される
・「女のためいき」でプロデビュー(1966年)
・「おふくろさん」が大ヒット(1971年)
・襟裳岬(1974年):その前年に東京に自宅を新築したがその年に母が自殺
・冬のリビエラ(1982年)
・「おふくろさん」騒動(2007年)
①1994年の紅白歌合戦で歌の間に挿入歌として追加された
②その歌詞は、「いつも心配ばかり いけない息子の 僕でした 今では出来
ない事だけど 叱って欲しいよ もう一度」(補詞:保富康午、補曲:猪俣公章)
③つまり、森進一が直接作詞作曲に関わったのではなく、曲を盛り上げる為に
別人により追加されたのだが、作詞者の川内康範と係争問題に発展した
2)水越けいこ
・山梨県富士吉田市出身(昭和27年)
・スター誕生山梨大会優勝(1974年)。決勝大会ではスカウトされず、後日サン
ミュージックと契約。その後、田中星児と組みTBS系の「八時の空」のお姉さん
として出演し活躍した
・「しあわせをありがとう」でデビュー(1978年)
・その後、「ほほにキスして」(1979年)などを出すが、以後は曲に恵まれず、執筆
活動を行う
・海潮音(みしおね)を発表(2005年):宮城県気仙沼市の太鼓演奏曲に彼女が
詞を書き発表、此れが縁で「みなと気仙沼大使」になる
3)レミオロメン
・メンバー(県立石和高校の同級生)・・現在、石和高校は笛吹高校に統合
藤巻亮太(1980年:昭和55年)
神宮寺治(同上)
前田啓介(1979年:昭和54年)
の3名が2000年に初ライブ
・バンド名の由来(三人の好きな言葉の頭文字から選んだ)
①藤巻は自分が好きな英国のロックバンドの「レディオヘッド」から「レ」を選んだ
②神宮寺は以前付き合っていた彼女の名前と自分の名前より選び「ミオ」とした
③前田は 路面電車が好きなので「ロメン」とした
この文字を合わせて「レミオロメン」と正式に呼び、初ライブの6年後の2006年
に日本航空学園高校(韮崎)の滑走路で演奏した
・レミオロメンのバンド名以前の作品
蒼の世界、粉雪(ドラマ「1リットルの涙」フジテレビ系の挿入歌として人気が
出た。いずれも2005年発表)
④その他、
・田原俊彦(小学生から甲府在住)
・THE BOOM(宮沢和史、小林孝至、山川浩正)が、「島唄」、「風になりたい」
「中央線」などのヒット曲を出す(1990年~1995年)
・伸太郎:「白い風」で山梨ではヒットした
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日本と欧米の
歌の違い |
1)海外の場合
・歌手の性別で「彼」「彼女」の歌詞で歌うことが多い。
・例えば、ビ-トルズ(男性グループ)とカーペンターズ(女性ボーカル)が同じ
「涙の乗車券」を歌う時に、ビートルズは三人称をHeで歌い、カーペンターズは
Sheで歌う(英語には一人称と二人称に性差はなく、三人称は音の長さが同じ
なので歌い手によって容易に入れ替える事ができる)
2)日本の場合
日本の歌手は、例えば男性歌手が女の立場で歌う事が多い。これを、
Cross Gendered Paformans(ジェンダー交錯歌唱)と言う
Gender:社会的、文化的に形成される男女の差異。男らしさ、女らしさといった
言葉で表現されるもの
3)結論
・日本の歌手は、男性が女性になり変わって歌唱し、女性はどちらかと言うと男性
の気持ちになって歌唱する場合が多く、特に、「森進一」はそうした歌が多い
・別な見方をすると、日本では歌の作り手と歌手、主人公が分離している場合が
多く、彼が演じた登場人物の感情を、他の歌い手と比較し評価する場合が多い
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山梨の歌手
の歌詞分析
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山梨を舞台にした歌は少なく、「東京」を歌った歌が多いが、上記で紹介した歌い
手達の曲想の分析をすると以下の様になる(東京を歌った歌)
1)森進一[東京物語:阿久悠(作詞) 川口真(作曲)・・1977年(昭和52年)]
・東京のマイナーな部分を歌った曲
・男のために派手な自分を隠し、水商売をやめた女性の心境
・お互いに青春を謳歌出来なかった男女が兄妹(子供)の様に暮らすフィクション
の世界
・孤独な男女が対等の関係で終わりを意識しつつ青春を取り戻す様に求め合う
(此の曲にはこうした東京のマイナーな世界が映し出されている)
東京物語(You Tube 映像)
2)水越けいこ(東京が好き:作詞・作曲水越けいこ・・1979年)
・大好きな人と別れ男は去り、くらくらになったり頼りなさを感じる。
・しかし、それでも「東京が好き」一人で孤独に過ごす大好きな都会、それが東京
・別れのショックで見る都会の夜は、美し過ぎて目がくらむ。そうした東京が好き
東京が好き(You Tube 音声)
3)レミオロメン(東京:作詞・作曲 藤巻亮太・・2010年)
・上の2曲と比べてストーリー性がない(J -POP は歌詞分析が出来ない)
・強いて言えば、東京は愛し・戦う街。しかし、東京にいても、時折 故郷(山梨)
を意識する
・「ハロー」と言い東京に来るが、「グッバイ」と言い立ち戻る(原点は山梨)
東京(You Tube 音声)
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まとめ
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・大学の教授が山梨の歌い手達をどの様に紹介するかが初めは判らなかったが
日本と欧米の歌の違いについて分析し、特に日本の歌謡曲はジェンダー交錯
歌唱と言い、男性が女性の気持ちになって歌い上げる曲想が多いと説明
・森進一と水越けいこそしてレミオロメンを紹介し、「東京」を題材に夫々が歌った
曲を紹介しながら、その歌詞の分析と曲想に付いて紹介した
・私は、森進一以外は知らなかったので興味が持てたが、硬い話ばかりでは無く
時にはこうした柔らかなテーマも楽しかった
・そこで、改めて「You Tube」で曲を聞いて見たので参考までにお聴き下さい
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富士山をプロジュース
世界遺産として守り
観光資源として使う |
富士山とは
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・日本一高い山
・古来から多様な信仰の場として崇拝
・創造的な優れた芸術品を生み出す母体
として、国内外から富士山への憧れがあり、今後とも人気が上昇する
・現在、国内外から年間6000万人の観光客が富士山を中心にその周辺に
訪れている
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富士山の定義 |
1)物理的な山では無く、地域の存在
2)観光圏として富士山単体では無く、面(富士五湖や御坂山塊など)として捉えて、
平成20年に「観光圏構想」として行政を超えて観光圏が定義された
3)周辺地域の観光資源を含めたトータルとしての富士山
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自然保護を
中心とした
キーワード |
1)自然保護を守る概念
・日本人は自然保護を守るか守らないかの二元論の考えが主流で、解釈が様々
その為に、誤解を招き易い
・「守る」の概念には以下が有る
2)自然保護の区分
① 防護・保存(Protection・Preservation)
・貴重・希少自然物(生物を含む)を原則そのままの状態にする
・凍結的に厳重保護・保全維持
・天然記念物や特別保護地域区管理等が典型
・過激な活動では有るが保守的:誰も入っては駄目、触っても駄目といった自然
保護を環境省が「自然公園法」として整備した
② 保全(Conservation)
・国際的に「自然保護」の通念
・日本ではまだ理解されていない
・自然資源を賢明に活用しながら、より豊かな状態に保全管理
・積極活用の反面、自己制御が必要で、賢明さが求められる
(管理の仕組みもないのに使うな。管理の仕組みを作って積極活用
③ 回復・復元(Rehabilitation・Restoration)
・悪化・消失の自然環境を人の手により原因を排除し、より健全な状態に戻す
・修復さえる対象は「劣化や踏圧被害の湿原」など
「ビオトープ」「近自然工法」「多自然工法」等がそれに当る
・技術や知識等の専門性が求められる
・釧路湿原(ラムサール条約):湿原を開拓時期に原野に変えようとした活動
を湿原を湿原のままに残し、回復(復元)させた
3)環境緩和(Environment mitigation)
・開発行為に伴い「環境アセスメント」を行う
・環境影響を最小限に考えた手法で、アメリカが国家環境政策法として定めた
一般的に「環境影響評価」として知られている
① 回避→②最小化→③修正→④軽減→⑤代償(その場・別の場)の順で優先
・日本では「回避」などを含まない代償措置として、新たに緑地や親水護岸を造る
ことを意味する
・ビオトープの技術論が先行し、影響の回避を検討する場合が少ない
・諫早湾の干拓に代表される事業
親水護岸 :護岸としての機能を持ちつつ、人が水辺で遊べる様に配慮された護岸
ビオトープ:生物空間、生物生息空間とされる。(bio(命) + topos(場所))の造語で
転じて生物が住み易いように環境を改変することを指す(ドイツ語)
4)日本ではまだまだ体系的な「自然保護」の概念の整理が出来ていない
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富士山を世界
遺産として守る |
1)富士山を世界遺産として守るためには、保全をどの様にするかを思考しながら
「持続可能な利用」を考える(演出する)
2)世界遺産とは
・地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から引き継がれて来た
人類全体の「宝物」であり、ユネスコが作成する「世界遺産リスト」に登録された
遺産のこと
・世界遺産条約(法律では無い):1972年11月16日に採択された国際条約で、
1975年12月17日に発効した(締約国は2010年
現在187ヶ国)
正式名称は、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」
(Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural
Heritage)
・文化・自然・複合遺産があり、2010年現在 文化遺産(704件) 自然遺産(180件)
複合遺産(27件)で全世界で合計911件が登録されている
・富士山も2009年に暫定的に登録された
3)観光資源とは
・観光客を集めるのに役立つ美しい景観・名所・温泉など
・観光やレジャーと言った余暇を楽しむ需要に応じられる要素の事で、地域起こし
の方法の一つとして、観光産業を興す時の元となる要素や事象のこと
4)「観光」とは
・中国の易経に「国の光を観る、もって王に賓たるに利し」の一文が有り此れが
語源とされている
・貴重なもの、価値の高いもの、素晴らしいもの
5)観光利用とは、生産活動として「観光振興」を地域のものとして利用することで、
・重要なのは、以下の2点
① 地域が一丸となって価値観を共有し、どの様に活用するかを検討する取組み
② それには、保全の仕組みが必要で此れを徹底させる事。使うと価値は下がる
・価値観を共有するには
① 今迄の景観に手を付けずに、富士山が持つ求心力を使ってブラシアップ
② エコツーリズムの多角的展開の仕組みを作る。例えば、地域の特色ある自然
・文化・暮らしへの理解を深める旅行や交流活動によって、地域の環境保全や
産業の仕組みを持った観光活動など
・売れる商品化のポイントは、エコツアーの中で自然系と人文系の2極で創造
6)富士山の文化世界遺産への課題
・近年、五合目へ年間250万人が訪れて、年間26万人が登山をするが今後
此れをどの様に保全して行くか(観光税や入山料の是非)
・世界遺産として守るのは富士山を訪れる人と、それを生業にする人の全てが
富士山の環境を壊すことなく節度と管理が末永く続くことが大前提
・例えば、青木ケ原樹海の環境を守る為に柵で囲い進入禁止にすると、恐らく
ゴミ捨て場に変質することが考えられる
・一部の観光ホテルが世界遺産の登録で観光客が増加し環境が壊れることを
懸念し反対しているケースがあるが、観光振興の見地からどの様に保全し管理
して行くかを考えることが大切であり、前向きに捉えるべきである
・全国の温泉地の中には、一時の繁栄ぶりが衰退して行くケースが見られるが、
地元の事を考えずに外部から大資本が入り地元の旅館が潰れて行く現実を
見るにつけ、地元が将来を見据えて観光と取り組む努力が重要
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4 |
山梨に由来する
モダニズムの群像 |
モダニズムと
近代化(産業化) |
1)モダニズム(modernism)とは
・20世紀初頭に各分野で起こった実験的な芸術運動でモダンアートとも言う
・哲学・美学・文学で、伝統主義に対立して、現代的文化生活を反映した主観
主義的傾向の総称で、未来派・表現派ダダイズムなどを含む
・最新の趣味や流行を追う傾向で、現代好み
2)近代化
・社会を近代的な状態に変えることで、政治・経済・が「国民国家」「産業化」を
特長とする形態に変えること
・「産業化」を中心として、それに関連した政治的・経済的・心理的その他様々
な変化の総体を指す
3)産業化
・科学技術の成果を系統(累積)的に活用して、生産力を始め環境をコントロール
する能力を高めて行く過程の中で 18世紀後半のイギリスにおける「産業革命」
に始まり、20世紀後半には全世界が大きく方向転換した
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日本モダニズム |
1)日本モダニズムとは
・1920年代後半(大正末)~1930年代半ば(昭和10年代)における西洋文化
(美術や詩など)の影響を強く受けて流行した独特の思想と風俗
・第一次世界大戦後の衝撃(既存の解釈体系や信念体系では「世界」は捉えられ
ないと考え、新しい芸術・文学・思想が試みられて「新感覚派」「新興芸術派」
が生まれた
2)日本モダニズムの二つの顔
①産業合理化:西洋の合理主義・鬼界主義の思想の受容によりフォードシステム
による大量生産や生活の機械化・速度化・能率化が叫ばれた
②風俗の解放:西洋文化(特にアメリカ映画・音楽)を通じて移入されたモガ・モボ
等の新しい風俗が生まれた(モガ:モダンガール、モボ:モダンンボーイ)
3)一言で言うと、「街頭(盛り場)のモダニズム」で、昭和10年代に軍国主義支配
に対する消極的な抵抗としての風俗モダニズムで、エロ・グロ・ナンセンスなど
の変革期の風俗的な表現
4)1930年代(昭和10年代)は伝統的な価値や規範への挑戦と言う「思想」の潜勢
化の時代で、哲学者で思想家の「戸坂潤」によれば、思想と風俗は一連のつな
があり思想は風俗となって現れ、風俗は思想を象徴し、風俗の自然的必然性を
抑圧せねばならないと言う事は、実は思想の自然的必然性を抑圧する必要が
ある時だ(昭和初期に現れた人で、治安維持法で捕まり獄死した人物)
5)日本モダニズムに欠けていたいたもの
①個の「主体」形成の抑圧(個が形成されなかった)
「富国強兵」や「殖産興業」が追及され、一兵士・一工員・一社員となり切る事が
要求され、国家・産業への埋没(異論を許さない体制)が求められ、大日本帝国
の一臣民たること、「一丸となる」ことが常識となって行った
②昭和初期のモダニズムの一方が消えて行った
風俗は消され産業合理化のみが残った。大正ロマンであるモガやモボ達
(消費文化)を大切にすべきであった
③戦争の時代の中で、日本の近代化が欠けたものになって行った
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山梨に由来する
モダニズム |
1)昭和戦前・戦中期に、山梨でモダニズムの詩と美術が展開された
2)東京の銀座(森永キャンディーストアー)に集まった若者達
米倉寿仁、長谷部林造、桑原圭介、奈切哲夫、川田総七、磯辺為吉、滝口修造
曽根崎保太郎達が東京に集まった。その中で、米倉寿仁のみが画家で有り詩人
で、他の人は詩人。更に、滝口修造のみが東京人で他は山梨出身者
3)若者達が東京に集まった1936年(昭和11年)は、二・二・六事件が起きた年で
戦争へ軍がカジをきり、若者達に衝撃を与えた年である
4)創造意欲を持つ者との共闘
・モダニズム詩のフォルマリズム的傾向を克服し、詩に「意味」と「社会性」を取り
戻そうとする彼らの意思が有った
5)詩誌「レオパール」の創刊
・1933年~1941年まで26冊を発行した
・その中で第一期レオパールは、旧来の抒情詩的傾向があり、個人的な抒情性
に基礎を置き、自我の意識を中核にして、外界から与えられる印象に反応する
その仕方を伝統的な「詠嘆法」を用いながら表現した者と、故意に文脈をはぐら
かし断片的な観念を積み上げて行く者に分かれて行った
・そうした中で「抒情的」傾向の詩人達はグループから離れて行った(第2期)
・第2期レオパールは「シュールレアリズム(超現実主義)に向かった。それは、
時代への危機意識と歴史意識の表明でもあった
・第2期レオパールでは意味不明な詩をあえて求めた
6)戦時中のモダニズム
・時代が大東亜戦争(太平洋戦争)へと突き進んで行く中で、モダニストたちは
孤立して行った
・従軍画家や従軍作家として戦線詩や銃後の国民生活感情の滲み出た詩が多
くなった
・戦線にあっては、常に死と共にある自らの生を凝視する様になった
・前衛への自己否定として、時代と共にモダニズムは変わって行った
☆ フォルマリズム:1910年半ばから1920年代にかけて、ヤコブソン達が中心となって活動したロシア文学批評一派で、文学では無く文学性(ある作品をして文学作品たらしめるもの)こそを文学研究とすべきと主張した。彼等は其れまでの文学研究が文学史や心理学や哲学に依拠している事を批判し文学作品を言語世界として捉えて、“何が”書かれているかではなく、“いかに”書かれているかが先ず問題と考えた。つまり、“手法こそが唯一の主人公”とした。しかし、反マルクス主義と
非難されてスターリン政権から政治的弾圧を受けた。
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日本のモダニズム
の変遷とまとめ |
1)第一期レオパール:個人的な抒情性をもつ叙情詩人として広まって行った
創刊(1933年11月ツ)~6号(1934年6月)
2)第二期レオパール:シューレアリズム(超現実主義)の前衛詩や前衛絵画へ
変化して行った。7号(1934年7月)~21号(1937年7月)
3)第三期レオパール:軍国化の中で戦争を境に変化し生き抜いて行った
22号(1938年3月)~26号(1941年4月)
まとめ
1)この様に、抒情詩人からモダニスト詩人へ、そして更に国家と共に歩む詩人へと
モダニストらしく新しい思潮に敏感に反応しながら、いわば誠実に「転向」を重ね
て行ったレオパールの詩人(画家)達の姿を振り返るとき、昭和の詩人(画家)
の一つの典型を見ることが出来る
2)しかし、一方では人間として有るべき心の発露が時代と共に消え去って行く現実
を窺い知る事が出来る
3)山梨の若者達が特別では無く、この時代を動かしたモダニストが全国にいたが
特に「米倉寿仁を中心とした一団が日本のモダニズムを牽引した事は事実
4)詩誌「レオパール」は、今も保存されている(26号分)
詩名の「レオパール」は、フランス語の「豹」を意味する
|
3 |
生きている火山
富 士 山 |
火山の分類
と噴火形式 |
1)火山の分類
☆ 以前の分類
・活火山:現在も噴火活動をしている火山→桜島、浅間山
・休火山:かつては噴火活動が有ったが現在は活動をしていない火山→富士山
・死火山:今迄も火山活動が無かった火山→八ヶ岳
しかし、活火山と休火山の線引きが明確ではないので、現在は以下の様に
定義し直した
☆ 新しい分類(A、B、C)
分類 |
特 長 |
例 |
A |
100年活動度指数が5を超えるか1万年活動度指数が10を超えるなど噴火活動が盛んな火山 |
桜島、浅間山など13
の火山 |
B |
100年活動度指数が1を超えるか1万年活動度指数が7を超えるなど噴火活動の火山 |
富士山、箱根火山
など36の火山 |
C |
いずれの活動度頻度ともに低い火山 |
八丈島など36の火山 |
此処で活動度指数とは:「活動頻度」、「噴火規模」、「活動様式」を過去の
記録から調べて、その数値を常用対数化して加算し、可能な限り数値化
例えば、噴火規模は麓に影響を与えた面積や溶岩流速度に点数を付ける
などをしたもので「火山噴火予知連絡会」が平成15年にまとめ発表した
2)火山の噴火様式
噴火様式 |
特 長 |
説 明 |
ハワイ式噴火 |
溶岩流流出が主体 |
溶岩流を避ければ被害は少ない |
ストロンボリ式噴火 |
比較的粘性の小さなマグマの間歇的爆発による噴火 |
|
ブルカノ式噴火 |
爆発による噴火 |
一番被害甚大 |
ブリニー式噴火 |
大規模な降下軽石、火山灰を伴う噴火 |
|
ウルトラ・ブルカノ式噴火 |
水蒸気爆発、マグマで加熱
された地下水により爆発 |
|
3)噴火形式
噴火形式 |
特 長 |
マグマ噴火 |
マグマの直接噴出 |
マグマ水蒸気爆発 |
マグマが地下水と接触して爆発 |
水蒸気爆発 |
・地下の高温ガスと地下水が接触して爆発
・マグマの流出はない |
● マグマ中のガス成分の抜け方で爆発になるかどうかが決まる
● ガス成分がゆっくり抜けて行く時は爆発にはならない
● ガス成分が抜け難いと爆発する
● マグマ=流体状の岩(溶岩)+ガス
4)噴火形式の違いによる原因(噴火形式はマグマの成分により異なる)
・マグマは二酸化珪素(SO2)の含有量により以下に区分される
① 酸性マグマ→酸性(珪長質:長石、准長石、石英)を含むマグマ
② 中性マグマ→①と③の両方の性質を持つマグマ
③ 塩基性マグマ→塩基性(苦鉄質:マグネシウム+鉄)を含むマグマ
(苦はMgのこと)
・二酸化珪素(SO2)の含有量が少ないと(苦鉄質)粘性が少なく粘り気が小さく
なり流れ易くなる(玄武岩が中心:富士山やハワイの火山)
・二酸化珪素(SO2)の含有量が多いと(珪長質)粘性が高くなり粘り気が強く
流れ難い(流紋岩が代表→昭和新山)
・マグマの成分は変化する
塩基性(苦鉄質)マグマ→中性マグマ→酸性(珪長質)マグマ
5)火山の噴火物
原 因 |
名 称 |
特 長 |
マグマの液滴
の飛散物 |
テフラ
(降下火砕物)
上空で固まる |
直径2mm以下 |
火山灰 |
直径2mm~64mm |
火山礫(軽石、スコリア) |
直径64mm以上 |
火山岩塊 |
マグマの流出 |
溶岩流 |
谷に沿って流下(普賢岳) |
気体 |
火山ガス |
|
噴煙の降下 |
火砕流 |
高温火山ガスとテフラの混合物 |
既存の岩体の飛散 |
類質(異質)岩片 |
火山を構成する岩石が飛散 |
● マグマの温度は1000℃
● スコリア(scoria):火山噴出物の一種で、塊状で多孔質のものの内 暗色のもの
岩滓(がんさい)ともいう。 主に玄武岩質のマグマが噴火の
際に地下深部から上昇し、 減圧することによってマグマに
溶解していた水などの揮発成分が発泡したため.
|
富士山の成り立ち |
現在の富士山は、以下の4つの火山で構成されている
火山名称 |
活 動 期 |
特 長 |
愛鷹火山 |
40万~10万年前 |
現在の南側にあり小御岳火山の一部 |
小御岳火山 |
10万年前 |
輝石安山岩質溶岩流・同質テフラ層
5合目の位置(吉田口)標高:2000m程度 |
古富士火山 |
2万~1万5千年前 |
火山泥流堆積物が主体
原富士五湖(セの海、宇津湖、河口湖、
明見湖の4湖の形成。標高:2000m程度 |
新富士火山 |
1万~6500年前
以降 |
現在の富士山
富士五湖の変化
・セの海の分断→西湖、精進湖、本栖湖
・明見湖の埋没
・宇津湖の縮小による山中湖の形成 |
☆ 愛鷹(あしたか)火山:現在の富士山の南側にあり、その山麓部は富士山の
下に埋もれている。しかし、存在しないとする説もある
☆ 小御岳火山:5合目(山梨側)に山頂部が露出している
☆ 古富士火山:新富士火山の下に埋まっているが、大月市の桂川沿岸に露出
☆ 新富士火山:現在の富士山
|
富士山の噴火
場所と新富士
火山の層序 |
1)富士山の噴火場所
・山頂噴火:頂上の火口からの噴火
・山腹噴火:山腹に噴火口が形成されて、此の噴火口から噴出するもので
この山腹の噴火地点には小規模な円錐形の火山(堆積丘)が出来る
事が多い。此の堆積丘を寄生火山又は、側火山と呼び、富士山で
最も大きな寄生火山は、北西山麓の大室山で、寄生火山から溶岩流
が流出することもある。青木が原溶岩流は寄生火山のひとつである
長尾山から流出している(大室山は、精進湖から見える)
尚、富士山には北東から南西に掛けて割れ目が有る
2)新富士山の層序
・新富士火山は溶岩流の流出主体の活動と、テラフ(火山灰やスコリアなど)噴出
主体の活動(爆発的な活動)が交互に繰り返されている。その活動周期は千年
で一回の活動は500年続く
新富士火山の層序 層序:地層の重なっている順序
ステージ |
年 代 |
特長 |
ステージ5
(新規溶岩流) |
2200年前~
現在 |
側火山・側火口からの中規模噴火期
青木が原溶岩流(平安時代)
宝永火山(江戸時代) |
ステージ4 |
3500年前~
2200年前 |
・山頂火口からの爆発的噴火期
・大室山の噴火(2800~3000年前)
・火砕流が発生し、地震による古富士火山の
・山体崩壊し御殿場岩屑堆積物が縄文時代 に発生した(2900年前) |
ステージ3
(中期溶岩流) |
5600年前~
3500年前 |
山頂火口、側火山からの爆発的噴火と溶岩
流噴出期 |
ステージ2 |
8000年前~
5600年前 |
山頂からの小規模な間歇的噴火と土壌
(富士黒土層)の形成期 |
ステージ1
(旧期溶岩流) |
17000年前~
8000年前 |
山頂・山腹からの大量の溶岩流噴出期で
三島溶岩流や猿橋溶岩流が知られている |
●上記の年代は、岩石に含まれる放射線の測定により推定
|
富士山の歴史
時代の噴火 |
平安時代 |
天応元年 |
781年 |
富士山下雨灰(駿河国言)
灰の及ぶ所木葉彫萎(続日本記) |
延歴19年~21年 |
800~802年 |
溶岩流出(日本記略) |
貞観6年~7年 |
864~865年 |
溶岩流出、青木ヶ原溶岩流 |
承平7年 |
937年 |
駿河国富士山火海を埋める(日本記略) |
長保元年 |
999年 |
3月7日駿河国言上解文伝。この頃不二山焚。何崇者即下申伝・・(本朝世紀) |
長元5年 |
1033年 |
駿河国言上 12月16日富士山火。峰より起こりて山脚に至る(日本記略) |
室町 |
永保3年 |
1083年 |
富士山焼燃有(扶桑略記) |
永亨7年 |
1435年 |
富士の火炎見えたり(王代記) |
戦国 |
永正8年 |
1511年 |
富士山鎌岩炊(妙法寺記) |
永禄3年(?) |
1561年 |
富士山噴火(日本災異志) |
江戸 |
永禄13年(?) |
1571年 |
噴火(野史纂略) |
宝永4年 |
1708年 |
噴火(元禄時代の後) |
●上記中で、延歴の噴火と貞観(じょうかん)の噴火(いずれも平安時代)の記録
が多く、その中で貞観の噴火は寄生火山(長尾山付近)から噴火し、溶岩流の
流出により青木が原が出来て セの海を溶岩流が分断し 西湖 精進湖 本栖湖
が形成された。一方、宝永噴火(江戸時代)は3回の噴火で現在も南側6合目
付近に噴火口が残っている(1707年10月より地震が続き、12月16日に
大地震が起こり、午後から噴火し翌年1月に噴火が終了した)
●噴火と地震の関係で明確なのは「宝永噴火」のみで、宝永4年10月4日
(新暦10月28日)にマグニチュード8.4~8.7の宝永地震が起こり、地震の16時間
後に駿河から甲斐付近を震源とするマグニチュード7.0のやや大き目の地震が
発生し、12月16日(新暦)の大地震の後に噴火が始まり半月後に噴火が終了
|
噴火予知と
地震の関係 |
1)噴火予知
・噴火予知には①長期予知②短期予知③直前予知があるが、直前予知は継続
してデーターを取る事で可能であるが、①と②は不可能
・噴火予知方法は前兆現象(地殻変動で山体の変化や山麓付近の群発地震)
を捉えることで直前予知が可能
・火山性地震はマグマの上昇に関係する地震で、特に震度の浅い地震は水分
の急激な冷却による岩石の膨張破壊であり、噴火とは無関係
2)最近の富士山の状況
・最近1年間では、富士山頂の直下10~15km付近で低周波地震(ゆっくりとした
揺れ)が発生している
・低周波地震は2001年にも発生している(防災科学研究所、気象庁)
・1987年にも低周波地震が多発
・低周波地震は1983年に存在が確認されているが、それ以前は不明
・低周波地震は地下のマグマの動きと関連している(マグマの深さは10~15km
と考えられている
・最近の山体の歪の状況は2008年後半から富士山を挟む北東-南西の基線で
伸びの傾向が見られる。しかし、現在は減少傾向(国土地理院)
|
今回の地震で
富士山は噴火
をするか(?) |
1)今回の東北地方の地震(3月11日)以後の3月15日に静岡東部を震源とする
地震が発生(マグニチュード6.4、震源は深さ14kmで富士宮市で最大深度6強)
2)地震は北北東-南南西に走行の断層に沿って発生した(逆断層型)
3)そこで、宝永の地震と噴火の関係から、今後富士山が噴火するのではと考えた
4)次の噴火が爆発的になるとする説
① 宝永噴火(1707年)以降300年間富士山は噴火をしていない
② 300年の間、マグマの成分が変化している
玄武岩質→安山岩質:粘性が高くなり、粘性が高くなると爆発的噴火になる
③ 富士山は溶岩流出期とテフラ(火山灰)噴出期を交互に繰り返しているが、
現在はテフラ噴出期で、次回は溶岩流出の可能性が高い
5)噴火に反対する説
① 宝永噴火は富士山としては特異な噴火形式
② 富士山は玄武岩質マグマで、爆発的噴火では無い
③ 宝永噴火は、安山岩質マグマと玄武岩質マグマの接触で爆発した
④ 安山岩質マグマは、以前の噴火で残ったものが変化した
⑤ 今回の3月15日の地震は、東北の地震の余震と見るべき
6)その後の追跡調査
・継続的な富士山の観測データーを精査する中では、富士山の噴火の兆候は
表れていない
・3月15日以後の調査でも群発地震や山体の変化も確認されていない
・防災科学研究所発表のデ-タ-でも、震源は極めて小規模でその後の余震は
散発的 |
2 |
体験的ポールラッシュ伝 |
ポール・ラッシュ
の紹介 |
1)アメリカ合衆国 ケンタ ッキー州出身(明治30年:1897年生れ)の牧師で博士
2)関東大震災(大正12年)の年に日本キリスト教青年会の拠点を立て直す為に
来日し併せて、復興ボランティアとして活動した
3)聖路加病院設立にも尽力した
4)米作に適さない山間地の清里で、酪農や西洋野菜の栽培促進に取り組み、
教会や高冷地実験農場、農村病院、農村図書館、保育園、農業学校など
理想的な農村コミュニティーの開拓に一生を捧げた
5)太平洋戦争勃発で米国に強制送還されたが、戦後マッカーサーと共に来日し
GHQに勤務し、戦犯者の免罪等に活躍した。同時に米国やカナダの市民に
支援を求めて復興する戦後の日本に大きく貢献した
6)一方、スポーツ振興を図り、アメリカンフットボールを日本に紹介(設立)したり
馬術をスポーツとして国内に広めたことでも知られている
7)清里に「清里教育実験計画」(Kiyosato Educational Experiment Project)を
設立しこの頭文字から、キープ(KEEP)と名づけた。
此の設立の趣旨は「人類への奉仕」の4つの理念、「食糧」「保健」「信仰」
「青年への希望」が目的で、後にキープ協会として新たに「環境教育」と
「国際協力」を掲げて、自然と触れ合う体験型学習の推奨や環境保護活動
をポールラッシュが創設した「清泉寮」で、70年の歴史がある宿泊施設として
現在も運営されている。また、山梨県の協力を得て県有地である清里駅前
から八ヶ岳横断道まで約240haの貸与を受けている
8)終生 清里に住み、1979年に82才で亡くなるまで独身で暮らした。
9)日本を愛し、日本人と深く付き合った極めて偉大な親日家で、クラーク博士と
共に日本を心から理解し、しかもダンディーでおしゃれな人であった
☆ GHQ(General Headquarters)とは:連合国軍最高司令官総司令部のことで、
太平洋戦争の終結に際してポツダム宣言の執行のために日本において占領
政策を実施した連合国軍の機関であり、ほぼアメリカにより執行された(日比谷
に在るかつての第一生命ビルを接収し、1952年(昭和27年)に日本国との平和
条約(サンフランシスコ講和条約)の発効とともに、活動を停止した
配付された資料を参考に、Wikipediaより大半を転記
|
ポールラッシュの
精神と人となり |
・ 生涯を「人類への奉仕」に捧げて、併せて開拓者精神(フロンティア・スピリット)
を日本人にその精神を定着させた
・ 全ての人に可能性が有り 全ての人に役割がある が彼の思想の中心で有った
・ 最善を尽くせ!そして一流たれ!(Do your best and it must be first class!)
を幾度も語っていたと言う
・ そして、「チャレンジ精神」を持つこと
・ 「人間は自然と喧嘩してはいけない」と言う教えを多くの日本人に伝えた
・ 例え夫々の階層(身分)が違っていても、差別(区別)をせずに誰とも公平に
接すること が出来た人
・ 反面、謙虚な人で、しかし行動力や実行力に優れていた
|
講師の交替 |
実は、当日の講演者は清里でポールラッシュと一緒に父親が農場長として働いた人の息子さんで、子どもの頃からポールラッシュに大変可愛がられた舟木上次氏で、彼がポールラッシュから学んだ体験談を語ってくれるのが大変楽しみでした。
処が、舟木氏は急遽東日本大震災の復興(復旧)支援で、彼が清里で経営する
「萌木の村」から大きなオルゴールをトラックに積み、毎年夏に野外で行っている
「フィールドバレエ」のダンサーを数名連れて既に被災地に向かったと言うのです
そして、当日の講演者は18歳の時に乗馬についてポールラッシュに相談し、彼の
薦めで渡米を決意した方でオリンピックの馬術競技に出場し、オリンピックコーチ
として「総合馬術団体」7位入賞(バルセロナオリンピック)」を果たした石黒建吉氏
でしたが、ポールラッシュについてはさすがに舟木さんにはかなわないと話されて
いました。
当日は、最初は何のことかが判りませんでしたが、妻によるとテレビのニュースでスーパーマンのシャツを着た太った人が東北を元気付ける為に今から出掛けると語っていたのが確か舟木さんと呼んでいたそうですが、何とも舟木氏らしい周りを気にしない活動家であると思いました。
彼が経営する「萌木の村」は、JR小海線の清里駅から国道141号線(清里ライン)
に向かって15分ほど歩くとその国道沿いにある施設ですが、40年前に清里初の喫茶店を開業した事を皮きりに、ホテルやレストランそれに小さな遊園地を造り、
そこを「萌木の村」と呼び経営している人で、先ほどの「フィールドバレエ」を夏場に開催し、今年も「コッペリア」や「白鳥の湖」等をプロのバレリーナを呼んで上演するそうですが、既に22回も公演しているそうです。しかし、事務局も話していましたが
いくら何んでも、屋外で行われるバレエは雨や風の時は中止となるリスクを全く
気にする事なく、「高原の星空の下、木々の梢を背景に魅惑のバレエがこの夏も幕を開ける」と題する一枚のリーフレットは舟木氏の人柄を良く現わしている。そして、講演会を突然キャンセルする行動は舟木さんらしいと話していましたが屋外バレエの雨や風の心配など微塵もなく大らかに生きるその生き方は恐らくポールラッシュから幼くして学んだ「チャレンジ精神」や「開拓者精神」そして「最善を尽くせ!
そして一流たれ!」と言った哲学が彼を後押ししているのでしょう。
配られた資料によると、彼は「開拓者としてのDNAが私の体に脈々と流れており、それが今の活動の原点となっている」と述べています。当日の石黒氏の講演にも
有りましたが、「チャレンジ精神」や「全ての人に可能性が有り、全ての人に役割が有る」を唱えたポールラッシュの思想が今もキープ(KEEP)協会として運営され、清里がひと頃の賑わいをなくしている今も、「清泉寮」や「萌木の村」は健在であることが良く判りました。
|
まとめ |
私は40年振りに昨年清里へ行きましたが、その日が清泉寮の収穫祭で有ることを知らずに駐車場が満車でしたので、清里駅へ行き駅の周辺が寂れているのに失望して清里を後にしました。しかし、今回元気の出る話が聞けて安心しました。
と言う事は 清泉寮へは30年以上行っていないことになりますが、清泉寮の広場で娘達とソフトクリームをおいしく食べた想い出が有ります。
そのソフトクリームはポールラッシュ達が酪農事業の中でジャージ-牛を育てその濃厚な牛乳で作られている事を知っていましたが、清泉寮についてはいままで深く
知っていないことが判りましたので、今度はポールラッシュから「人としてあるべき
生き方」と、深い薫陶を受けている舟木上次氏の話を聴きたいと思っています。
昨年の10月に清里へ行きましたが、11月19日の7回改訂後の「近況報告」(8)
の「おわりに」に「清里」について書きましたのでご覧下さい。
ポール・ラッシュとドラッカー
ポール・ラッシュと「経済学の父」として名高いピーター・F・ドラッカーが清里で親しく邂逅(めぐり会うこと)したのは、昭和36年当時で清里へ幾度もドラッカーは訪れているとのこと。ドラッカーが最近話題になるのは
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」の小説(通称「もしドラ」)の映画化で著者は岩崎夏海氏ですが、その中に登場する「ドラッカー」がブームになっている様です
そして、ポール・ラッシュとドラッカーの直筆の手紙やサイン本が現在清里に在る
ポール・ラッシュ記念センターに10月4日まで55点展示されているとの事ですので
出掛けて見ては如何でしょう。親日家のポール・ラッシュとドラッカーのことが良く
判るかも知れません。(水曜日が休館との事です)
|
1 |
富士山は誰のものか
-山頂帰属問題をふりかえる- |
富士山について |
1)富士山が書物に登場するのは、「竹取物語」が最初で制作時期と作者が不詳
ですが、書かれた年代は今から1100年位前ではないかと言われています。
2)その竹取物語の最後に、不死の薬を一番天に近い山で燃やせとの帝の命に
対して、駿河の国に一番高い山が有ると告げると、帝がその山を「不死の山」
と名付け、そこから今の富士山の名前が付いたとされています。
別の解釈では、二つとない山から「不二山」と呼んだという説も有る様です。
3)富士山信仰が古くから存在する中で、「富士浅間神社」が全国各地に約1300社
在り、総本宮は富士宮市に在る「富士山本宮浅間大社」で、神話に登場する
木花咲耶姫命(このはなのさくやびめのみこと)を祭神として祀っています。
☆「アサマ」には、アイヌ語で「火を吹き燃える岩」又は「沢の奥」という意味 があり
また、東南アジアの言葉で「火山や温泉」に関係する言葉だそうですが、
(Wikipediaより)現在は、長野と群馬の間に聳える「浅間山」は「アサマヤマ」と
読みますが、浅間神社の場合は「センゲンジンジャ」と読む方が一般的です。
☆浅間神社は富士山が見える場所に多く建てられていて、山梨には浅間神社が
20ヶ所以上ありますが、何と言っても静岡県には90を超える浅間神社が在り
断トツです。そして、昔から山梨と静岡の人は富士山を挟んで相手を悪く言う
風習が有り、武田信玄では無く徳川家康が天下を取り富士山を静岡のものと
豪語した話を山梨県人は苦々しく思っている様ですが、しかし現代の富士登山
は富士吉田口から登る登山客が多く、富士吉田(山梨県)に在る浅間神社が
総本宮と思っていましたが、静岡の富士宮に在る浅間神社の方が本宮で有る
ことを、私は今迄知りませんでした。
4)富士山は稲作が始まった弥生時代頃から山の神(火の神)→田の神(水の神)
へ変わって行った。
5)平安時代の貞観(じょうがん)6年(AD861年)に大噴火し、江戸時代中期にも
宝永の大噴火が有り今も噴火口が静岡側に見られる。
6)富士山は活火山で今から1万年前から活動が活発になり、コニーデ型の姿に
なって行った。富士山を休火山とする考えが有ったが、現在は活火山とする説
の方が有力。
7)富士講が一般化して行った江戸中期より以前は、修験者(行者)のみが山に
登った。
|
富士山の所有
をめぐる係争 |
1)1779年(安永8年)に寺社奉行より浅間神社宛てに裁許(さいきょ)があった。
本文:「今般衆議之上定趣者富士山八合目より上者大宮持たるべし」
茲で、裁許とは許可のこと。しかし、本文の「持つ」は所謂今の「支配」の解釈
では無く「浅間神社の所有から離なたれた」と解釈し支配とは全く逆の意味の
説があり、此処が後々の紛争を生む部分となっている。
また、富士講に集まる信者達の世話をする御師(おし)が集めるお金の争いが
根底に有ったとされる。尚、定趣者とは「富士山本宮浅間大社」のこと。
2)終戦までは富士山本宮浅間神社(富士宮)が所有と考えられていた。
3)明治初期に富士山は地租改正により国有地(国の財産)とみなされた。しかし、
全国の神社は元々法人では無く国家機関である神祇院(戦前迄)が管理して
いた為に問題にならなかった。
4)1877年(明治10年)頃の法令により、八合目以上の土地は国有林野(御料林野)
となったが、神社側は八合目以上が宗教活動上必要として権利を主張した。
5)1899年(明治32年)に国有林野法が制定され、国有地では有るが区域を画して
神社境内を神社の所有として認めることになった。
|
戦後処理と紛争
発生から訴訟まで |
1)昭和22年(1947年)社寺等に無償で貸し付けられた国有財産の処分に関する
法律と施工令を制定(法律53号)
2)翌年原告神社側は、本宮敷地と併せて「奥宮」用地として富士山八合目以上の
土地112万坪余りの譲与を大蔵大臣に申請
3)大蔵大臣は、本宮敷地は譲与するが八合目以上の土地については5万坪弱を
奥宮用地として譲与を認めたのみで他は譲与しないと決定(昭和27年)したが
原告神社はこの行政処分を取り消し、八合目以上の全ての土地を譲与する様
訴願(不服申し立て)
4)此れに対して、大蔵大臣から諮問を受けた社寺境内地中央審査会は、原告
神社の訴願通り譲与するよう答申したが、大蔵大臣はその後4年余り訴願
採決を留保した。
5)原告神社は本件処分の取消訴訟を提起(昭和32年:1957年)
6)名古屋地裁は請求をほぼ認める判決(昭和37年)
7)名古屋高裁が八合目以上の土地の内、登山道等を除いて原告請求を認める
判決(昭和42年)
8)最高裁が八合目以上の土地で、国が行政目的で使用している一部の土地を
除き原告神社の所有とする司法判断を確定(昭和49年)
7)2004年(平成16年)に財務省東海財務局から無償で同神社に譲渡された。
しかし、登記は出来ない。その理由は、山梨県と静岡県の富士山頂の県境が
明確で無く登記に必要な住所を特定出来ないため。
8)富士山以外の山の帰属
・白山(加賀) →白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
・男体山(栃木)→二荒山神社
・月山(山形) →月山神社
などの山は紛争もなく「神体山」(信仰の対象)として神社に返された。
それに対して、富士山だけが何故紛争になったのか(?)判決に対する様々
な評価が有り江戸時代の寺社奉行の見解と明治政府の地租改正による国有
化そして、戦後の公益上の必要性の評価方法等により、司法判断にならざる
を得なかったと考えられるが、富士山は日本を代表する山であり、国民感情
として特別な思い入れが有る様に思う。(私見)
9)この訴訟の争点
① 富士山頂は神体山(信仰の対象)として宗教活動に必要か
② 国有とすべき「公益の必要性」とは何か(?)の議論
☆現在の神社は、神宮(伊勢神宮)を本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を
包括する宗教法人の「神社本庁」が設立され各県毎の「神社庁」で運営され
ている。しかし、有名な神社であっても神社本庁との被包括関係を有せず、
単立宗教法人として運営されている場合がある。例えば、鎌倉宮、靖国神社
日光東照宮、日光二荒山神社、伏見稲荷神社などがある。(Wikipediaより)
|
まとめ |
1)富士山の八合目以上は公益性のある登山道・トイレ・測候所などを除き
「富士山本宮浅間大社」が所有することになった。しかし、県境が明確では無く
登記は出来ていない。
2)しかし、現在は国立公園法などの適用があり、神社側が今後実行支配すること
は出来ない状況。(富士山頂に「奥宮」がある)
3)寺院は宗教法人として運営されているが、全国の神社は戦前は国の財産として
神祇院(国)が管理していたが、戦後は宗教法人である「神社本庁」により運営
されている。
4)山梨県としては、静岡県側に所有権が有ることにやや不満が残るが、静岡側
が主導権を取る事はなく、返って世界遺産に向けてお互いに協力するスタンス
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