出逢う為に生まれたのか。
 生まれたから出逢えたのか。
 誰も知らない。


 気付けば立ち竦んでいた。
 己が何をしようと思っていたのか、此から何をするべきなのかを思い出せず。
 手には何も持っていない。
 どうして此処にいるのかも分からない。
 ゆっくりと瞼を開けると其処は見知らぬ場所。
 正確に言えば何も無く、音もせず、全てが死に絶えたのだと錯覚する程の空間で一人きり。
 ぼやけた感情は寂静たる侘びしさすら思い起こさせなかった。
(―――歩くしかあるまい)
 このまま惚けているよりかは幾分マシだろうと判断した上で、一歩を踏み出した。
 だが。
「!!」
 世界が突然白くなり、視界が何か白いもので埋め尽くされ。
 吹き付けてくるのは風だろうか。
 此が風と呼べるものなのだろうか。
 お世辞にも穏やかとは言えない強い風に。
 思わず掌で視界を遮る。
「…雪……? いや、此は―――」
 男は呟いた。
 癖のある銀の髪が、特に長い前髪が同じ色の細められた瞳を隠している。
 俯き加減に歩いていた男は、ふと此の正体に気付く。
 踏み締める足下は冷たくない。
 其れに音が違う、あの特有の音。
 もし此が雪ならば其の音がする筈。
「桜、だ…―――――」
 視線を上げ、吹き荒れる花弁の向こうに見つけたのは桜。
 周りには一切何も無かった。
 不思議と近付いていけば行く程風は和らぎ、落ち着いて穏やかに花弁を徒に散らす程度のそよ風になっていく。
 闇色の虚空に浮かび上がるその姿。
 大地に深く根を張り、枝を広く伸ばした桜の木が一本のみ存在している。
 月も無く太陽にも照らされていない筈の其れは、淡い燐光を帯びて何故か白く光っていた。
 白く、否。
 仄かな赤みを帯びた正に桜色と言うに相応しい色。
 遠くから其れを見つめながら、胸に過ぎった想いは何だっただろうか。
 静かな空間で存在するのは己唯一人きり。
 普段共に居る筈の青年も、男も居ない。
 去来した感情を分かち合える者も居らず、何故己は此処にいるのか。
 そもそもどうやって此処へ来たのかが分からない。
 辻褄の合わない事ばかりだがこの時ばかりは不思議と気にならないのだ、其れよりも。
「………」
 傍に在ればからかいの嵐で、まともに会話すらさせてくれない二人であっても居なければ寂しい。
 何よりも銀の瞳に映るのは孤高に輝き咲き誇る一本の桜。
 どんなに美しく咲いたとて風に遊ばれ散る華。
 自然と己の心情が悲観的な方向へと流れてゆくのは仕方の無い事だろう。
(行くか―――)
 しばらくぼんやりと眺めていた桜に向かって男は歩き出した。
 近付いて、もっと至近距離で見たくなったのだ。
 白に近い薄紅の花びらを、手に取ってみたい。
 如何に儚く簡単に散りゆくものであろうとも、凛として咲く其の姿には感動を覚える。
 其れに幾許かの郷愁を含めて此の心が揺れているのだから。
 自然と手が前へと伸びて。
「…?」
 しかし大分近付いてから、隠れていた人影に気付く。
 太い幹の向こうに、誰かが立っていた。
 否、人影は二つ。
 小さなものと大きなもの。
「エルザム…? ウォーダン…?」
 二人の内どちらなのかは分からない。
 そして小さな方の正体も。
 背中まで流れる金の髪をした青年か。己と酷似した容貌を持つ男か。
 両方の名を口にしながらも、男はつい足を止めてしまった。
 銀の瞳が細められ。
 祖国の深い森に似た翠玉の瞳は、矢張り己と同じ様な感情を以て此の花を見ているのだろうか。
 片眼に傷を負い、唯一の薄銀の瞳は、何を思って此の花を見ているだろうか。
 亡き妻を想うか。
 拭えぬ喪失感を想い出すか。
 孰れにせよ、もっと近くに行かなければ分からない―――だが男は近付いて驚いた。
 其処に居たのは想像していた通りの青年と、だがもう一人は幼子。
 青年に手を引かれ、物珍しそうに桜を眺めている。
(似て、居る―――…)
 考えるよりも先に男は理解していた。
 何故かは分からないが、すんなりと其れは思考に滑り込んできたのだ。
 汚れを知らぬ純粋な瞳。
 しかし何かに怯えた様な感情を宿して。
 まるで壊れ物の様な、其の者は。
「エルザム」
「…漸くの到着だな」
 名を呼び、声を掛けると青年は振り向き微笑した。
 少し、悪戯そうな光をした瞳で。
「待たせてしまったか?」
「ふふ…さて、な」
 瞳を細めて微かに表情を変えた青年が曖昧な答え方をする。
 責めるでも咎めるでも無く。
 話題をはぐらかしておきながら、急に核心へと物事を進めてしまう、独特のペース。
 付き合い始めてからずっと今まで一度も破れた試しの無い其の雰囲気を感じ、
青年の足にじっとくっついて離れようとしない幼子に視線を少し落としてから、男は青年に尋ねるでも無く呟いた。
 僅かに零れた嘆息は安堵に近い。
「……一緒だったのだな」
「見事なものだからな、此を見ずに春を過ごすは愚かかと」
「そうか」
 まるで幽霊か何かに脅えているように青年から身体を離そうとしない幼子の正体が、
己の影であり姿を鏡写しにした男―――ウォーダン・ユミルだとは一言も口にしていない。
していないのだが、青年は伝わっている様な知っている様な口ぶりで返事をしてきた。
 本当の彼はもっと大きくて己と同じくらいの身長で。
 けれど実際の精神年齢というのは、これくらいなのかも知れない。
 絶え間無く浮かべていた青年の微笑を横目で見ていると、少し寂しげに思うのは気のせいだろうか。
 軍人にしては珍しく整った顔立ち。
 貴族然とした佇まい。
 情趣を介し、理知ある瞳。
(俺とは似ても似つかぬお前が、何故)
「ぜ、ぜんがー…?」
「ん…ウォーダンか?」
 途切れた思考。
 突然耳に届いたか細い声を出したのが、
その幼子であるウォーダンだと気付くまでに数秒を要してしまった事に苦笑を覚えながら、
男は膝を付き目線を幼子と同じ高さにまで揃える。
さて一体どうしたのか、と問おうとした瞬間。
「うっ、…っく…ぅ」
「!?」
「うぁぁぁっ」
「なっ、!?」
「ウォーダン?」

 泣くな幼子。
 恋しければ傍に居る。
 二つの大きな掌が。
 愛しいお前を抱く為に。
 恐れるな。
 怯えるな。
 触れ合う肌の温もりと。
 伝わる鼓動の囁きと。
 其れら全てはお前の為に在るのだから。

 あっという間に表情が崩れ始め大粒の涙を零して泣き叫ぶ其の様子に、
目の前の男はどうして良いのか分からず、又どうしてかも分からずに慌ててしまう。
一方静寂を破る子供らしい疳高い声に青年の方も目を丸くして泣く幼子を見た。
男だけでは無く、人の気持ちを読み取る事に闌けている青年であっても驚きは同じだったらしい。
男程では無くとも、多少の驚きを瞳に交えている。
「ぁぁぁぁっ、うっ、ぅっ…」
「ウォーダン…一体……」
「……」
 青年が頭を撫で、尋ねてみたところで泣くばかりの幼子は全く答えそうに無い。
否、答える事が出来ないと言うべきなのか。
もしかしたら此の子どもは、自身の感情を表現出来る言葉を何も知らぬのでは無いか―――
直感的な其の考えに従い、男は幼子を抱いた。
 ならば言葉の策を弄するは無駄。
 己の直感が正しいのであればきっと斯うする方が良い。
「…!」
「泣くな…お前は独りでは無い」
「ゼンガー」
「エルザム、お前からも…何か言ってくれ」
「ああ…」
 心配そうに覗き込んできた青年の瞳にも、矢張り己と似た感情が見えた。
 男とは少し違う想いもあるのだろうが、男には未だ見えない。
 幼子を抱き上げて大きな腕で其の細く小さな身体を抱いた。
驚くほど華奢で、軽い存在である事を知り、己が胸中の過ぎるのは悲しさ。
(こんなにもお前は)
 寂しかったのか。
 悲しかったのか。
(ずっと、ずっと―――――?)
 己の目の前に突然顕れたもう一つの剣は、哀切の錆で脆く傷付いていた。
 無意識に潜む悪夢に魘され、だが目覚めた時には其の事を忘れ。
 抑えようの無い不安。
 制御不可能の感情。

『…もう何も…何も……喪いたくない…っ!』

 切れ切れの言葉。
 遠く、切なく。
 伸ばされた腕が力無く落ちた時に。
 己が想った事。
 誓った事。
「ぅ……」
「俺はお前の傍に居る。エルザムもお前の傍に居る…」
「ウォーダン、孤独を懼れるな…君を脅かすものは何も無いのだから」
「っく…ぅ…」
 泣きじゃくる声も徐々に小さくなってきたのは、
何度も頭に触れる手と、背中を撫でる手と、そして抱きしめてくれる温かさのお陰だろうか。
伝わる心臓の鼓動が直接的に想いを届けてくれているのだろうか、言葉よりももっと深くて大切な何かを。
 約束を。
 誓いを。
 ほんの小さな望みだけを。
 共に。
 ずっと。
 祈っているから。
「いっしょに…?」
「勿論」
「ぜんがーも、えるざむも?」
「当たり前だ」
「ほんとう?」
「「無論」」
 鼻をすすりながら呂律の回らない口で一生懸命に喋る子供に二人は自信を持って答える。
 小さな手が精一杯握った手で背中を叩いた。
 此は合図。
 言葉を知らない幼子の気持ち。
 其れに応えて二人も背を軽く叩き、頭を撫でると、心底嬉しそうな笑顔を浮かべ、ウォーダンは言う。
「いっしょにいて、ほしい。わすれない、で」
「ああ…忘れん」
「必ず一緒だ」
 はにかむ様な小さな笑みが零れた、其の笑みが確かに耳に届く。
 安心。
 希望。
 温かくて、嬉しい想い。
「…………」
 物言わぬ桜が三つの影を見下ろしている。
 静かに散りゆく桜の花びらが足下に敷き詰められていく、其れはまるで過ぎ去った季節、冬の雪化粧と良く似た光景。
幼子を抱えたまま、二人はゆっくりと木の周りを歩き出した。
 何枚も何度でも降ってくる花びらへ向かって無邪気に笑い手を伸ばそうとする幼子に落ちるなよと思いながら、
男は青年に向けて告げた。青年も其の言葉に微笑で応える。
「―――――」
 好きだから。
 愛しているから。
 一緒に居よう、傍に居よう。
 そっと寄り添った青年の肩と男の肩に、薄桃の花びらが一枚、刹那触れては落ちていった。



【背中に感じる体温が、いつか消えてしまう日に怯えてる】


さくら。
咲くならどうか。


『ただひたすらに、願い続けている』のだ。
『その距離を、誰も、壊さないで』欲しいのだと。
『背中に感じる体温が、いつか消えてしまう日に怯えている』から。


瞼を下ろした静寂の世界で聞こえる鼓動に耳を澄ませても。
「……」
紡がれる言葉は無い。
ゆっくりと時は流れ。
現れ出でるものと消えて去りゆくもの。
互いに。


『そしてそんな一瞬に、俺はお前の夢を見る』。
『そしてそんな一瞬に、私は君の夢を見る』。


名を呼ぼう。
愛しい人の名を。
此処に来て。
傍に居て。
恋い焦がれる貴方を。
「……」
胸、打ち震える度に想う。
声、そよぐ木々の風に乗せ。
手、伸ばせば触れる事の出来る。


『悔しくてやるせなくて歯痒くて堪らない、どうして君が傷つくというのだろうか』。
『悔しくてやるせなくて歯痒くて堪らない、どうしてお前が傷つくというのだろうか』。


微睡みの中で、はなが咲く。
一瞬の幻想の隙間に、つぼみが開く。

銀糸の月―――孤独な其の人を恋うてしまったが故に。

金糸の太陽―――此の血塗られた手で本当に愛する者を抱けるのかと惑うが故に。

そして。

一度折れ、再び顕れたもう一つの剣。
月が夜の闇の中で水鏡に映した己の姿。
儚い銀の剣は―――茫漠たる過去の喪失に怯えるが故に。

まるで一つの決まり事。
『散り逝く花びらのように、枯れ逝く泉のように、終わり逝く世界のように』

さくらは、今咲く。


【そしてそんな一瞬に、僕は君の夢を見る】【散り逝く花びらのように、枯れ逝く泉のように、終わり逝く世界のように】

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