【 そしてそんな一瞬に、僕は君の夢を見る 】

 喪った記憶の向こうで、違う誰かと同じものを見た。
 もう思い出す事が出来そうに無い。

 怖くて。
 哀しくて。


『いつもこうやって一人で?』
『…鍛錬や修練の類は、基本己自身との戦いだ』
 依然として冬の冷たさが残る風が時折彼らの制服を揺らす時分。
 黙々と木刀を片手に素振りを続けている男の傍に、突然現れた見知った顔。
 暫くは何も言わずに黙っていた彼が、不意に、尋ねてくる。
 言葉少なく、どちらかと言えばぶっきらぼうなものの言い方で男は答えた。
 多弁を苦手とする己の悪い癖だと分かっていても、この年になっては性分など直しようも無く。
 普通の人間であれば其れで去っていくものなのだが、
意に介さない様子で隣に立つ人物は会話を続けようとするのだ―――此の、エリートパイロットは。
 コロニーを統べる軍門一族の現当主、マイヤー・V・ブランシュタインの長子であり。
 前線に立つ兵士としての技術、後方で作戦立案をする指揮官としての頭脳も持ち合わせた此の人物が。
 何故己などに構うのか、未だに分からない。
 いつの間にか、傍に居るのだから。
『…私も、どちらかと言えば花は静かに愛でたい』
『花?』
 いきなりの話題転換について行けず、思わず聞き返す。
 逆に意外だなという色を秘めた瞳が此方を刹那見返して、視線と共に指で示した。
 気付いていなかったのか? とは、瞳の中で。
 初めて見る、深い緑の色。
 意識するよりも早く、青年の発した声が脳髄を支配する。
『コロニーでは見る事の出来ない…自然の大地に根付く花、桜だ』
『…そう、言えば……』
 青年の台詞につられて視線が彼の深い瞳の色から、遠く咲き誇る木々へと移る。
(自然の、大地に)
 思わず反芻してしまう一語。
 ―――誰がそう評したのかは分からない。
 しかし、激動の宇宙移民の時代を終え、宇宙に住む人々も些程珍しくなくなり、
多くの安定したコロニーが宇宙空間に浮かぶ様になると、囁かれるコロニーへの形容。
 其れはコロニーの人間から生まれた自嘲の言葉なのか。
 否、地球という安寧の籠に住む人間が生み出した驕りの言葉か。
 曰くコロニーは人工的な檻なのだと。
 雨も空も雲も木々や花でさえ、所詮は地球の模造品。
 何一つ本物は無いと。
 簡単に壊れてしまう無音の空間と隣り合わせに過ごす事を選びながらも、
人々が求めているのは地球という母なる大地の環境。
 自ら離れていった人々が漏らす、羨望と渇望。
 求めて已まぬ、其れは。
『当たり前の事が当たり前では無いのだ、全て』
 いつか彼がそう言った。
 水も空気も。
 食べるものも何もかも。
 此処とは違う―――青く美しい此の惑星とは。
 だからこそ彼は夕暮れに吹く風にも、雨でうたれた大地にも、
雲に見え隠れする朝焼けという其の全てに心を動かして、情趣を楽しみ、今までを過ごしてきた。
 青年が此方を覗き込む様にして告げる。
『案内、してもらえるかな?』
『…俺がか?』
『無論。今私の隣には君しか居ない』
『……』
 無遠慮と言うよりも人懐っこい言い方だった。
 元貴族の人間らしい整調さを見せる時もあれば、こんな風にして戯ける時もある。
 軍人としても冷静で、操縦技術も一流という人間が。
(何故?)
 期待に満ちた瞳は、懇願というより強請っている様にも思えたが。
『…分かった、今度時間があれば…』
『有難う』
 嘆息混じりの言葉も受け流して。
 青年は微笑する。
 此の胸で生まれる戸惑いと、何か見知らぬ感情に、男は困惑せずには居られなかった。


 ふわりと頬に落ちてきた、薄桃の花弁。
 指先程しかない其れに、覚醒を促されて。
 どこから入ってきたのかは分からないが、少なくともあの孤島では見る事の出来ない小さなもの。
 柔らかな光の中、そっと瞼が開いて薄い銀の瞳が現れた。
 左目には大きく引き攣れた傷がある、何処か幼さの残る顔立ちの人物が身体を起こす。
「ゼンガー?」
 寝起き特有の掠れた声。
 男は怪訝に眉を寄せ、名を呼ぶ。
 不意に目覚めると見慣れぬ風景に心が慌ててしまう。
 徐々に晴れてきた記憶が此処に居る理由を教えてくれても、無意識に潜む不安だけは拭えない。
 大きく開け放たれた襖という戸の向こうにも、縁側という木で出来た廊下にも、
いつも傍に居る二人の人間の姿が見当たらず。
 男は声を荒げる。
「ゼンガー…!?」

 いつも通りの朝の筈だった、しかし。
 不測の事態とでも呼ぶべきか。
 朝食が終わって、正にコーヒーの一杯でも口にしようかと立ち上がった瞬間。
 頃合いを見計らったかの様にぽつりと呟かれた言葉。
『今日は出掛けよう』
『出掛け…?』
 疑り深いと言うよりも信じられないといった声が漏れた。
 基本的には此の孤島から出る事の出来ない自分もなのか、と言う意味を込めて繰り返すと、青年が頷く。
 同様に男へと視線をやっても首が縦に振られ。
 支度はあっという間に整い――恐らくは前々からの計画だったのだろう――
僅かな休暇を利用して二人は男を外界へと連れ出した。
 しかも具体的には何処へ行くとも言わず。
『―――ウォーダン、美しいものを見に行くのだ』
 どうにかこうにか催促に催促を重ねて拗ねて見せた結果が此。
 答えとしては抽象的すぎて更に困ってしまう。
 意味が分からずに首を傾げた男に向かい、言葉足らずな目の前の人物を窘める様に、青年が其の後ろで笑う。
『…きっと君も…好きになる』
 予言めいた言葉だった。
 薄く微笑む彼らに連れられて辿り着いた家屋。
 連日の睡眠不足が原因なのか、いつ間にか眠っていて。
 気がつけば目的地と言った具合で、からからと軽めの音を立てる戸をくぐり、
目に入ったのは一般的には純日本風と呼ばれる低い造り。
無論そんな事を己が知る筈も無いが、けれど開かれた全ての障子から、
外の風が流れてくるこの場所はすぐさま気に入った。
寝転がると不思議な匂いのする畳と呼ばれるこの上で、
『そんな所で寝ては…風邪を引くぞ?』という言葉すら心地よく眠りを誘い。
 初めて訪れた場所にも関わらず、再び眠りに落ちてしまったのだった。

 二人のどちらかがかけてくれたのであろうと薄布を握りしめ、立ち上がる。
 視線を辺りに巡らせて、耳を澄ませた。
 決して広い家では無いのだから、何処かで必ず人の居る気配と物音がある筈―――と信じた結果が、
鼓膜に響き、すかさず走り出した。
(そう、確かにそうだと思い出したところで…!)
 言いようのない不安。
 表現しにくい想い。
 背中に流れる冷や汗や、自然と早くなる心臓の鼓動。
 怖い。―――何故?
 寒い。―――どうして?
 一人にしないで。―――もう、一人じゃないのに?
 行かないで、離れないで、傍、に…!!
 無意識的に何かに怯えているからこそ、いつも傍に誰かが在る事を求めてしまう。
「…っ…ゼンガー!」
「ウォーダン…?」
 突如現れた人影に突進されて尻餅をつく、その人の腕の中へと思わず男は飛び込んだ。
 耳に直接響く、心臓の鼓動に深く安堵のため息を溢し。
 不意に、優しく頭に触れる手。
「どうしたのだ、一体。…何か怖いものでも見たか?」
 言外に、まるで幼子だなお前は、と示唆されて男は視線を合わせぬまま背中に回した手で強く男の服を握る。
 基本的には鈍感な此の男に少々の悪態を思い浮かべつつ。
「…別に、俺は…」
(お前が居なくなったから悪いのだ)
 そう素直に言えたのならどれ程楽だろう。
 甘える事に慣れていない、己には遠い話。
「……その、…」
「……」
 虚しく口を開閉させたが、結局何も上手い言い訳が浮かばなかったので、諦めた。
 所詮無駄だと分かっている分。
 理解出来ないものを説明する事など出来ないのだから。
「…ウォーダン」
「…!」
 己が身を竦ませたのが伝わったのだろう、男は殊更優しい声音で語りかけてくる。
 矢張り、其れは幼子に言い聞かせる口調と良く似ていたが。
 己が知る範疇の話で無かった。
「いきなり走ってきて突撃するのだけは止めろ。…畳が傷付いては俺がレーツェルに怒られる」
「あ、ああ…次は絶対に気を付ける」
 ―――そう、此の屋敷の本当の主は今此処にいない最後の人物。
 背中に流れる長い金の髪と、深い森の色をした瞳を持つ青年。
 己と、今抱きついている男が最も恐れる人。
 暗に其れを示唆されて、確かにそうだと思い直した。
「もう少し落ち着く事が出来れば」
「何?」
 己の背中を撫でてくれる手は変わらないのに、声の調子が変わって、揶揄めいた音になる。
 微かに呆れた様な響きをも感じ取り、また何を言うつもりなのかと身構えた。
 年齢の割に見た目と相俟って説教が零れるのも、此の男の悪い癖だと時折思うのだが。
「…お前も桜の良さが理解出来る筈だがな…」
「馬鹿を言うな、俺だ―――」
 己とて桜という花の美しさぐらい分かっているつもりだと言おうとしたが、言葉は続かなかった。
 既に優しい腕が止まり、銀の瞳が何かを見ていると気付いた瞬間。
 夢見る様に、ぼんやりと。
 一言、が。
「…本当に綺麗だ…」
「ゼン…」

 向こうの世界で一度だけ、二人きりで出掛けた日。
 あの時の桜も酷く綺麗で。
『…此は、見事な…』
 見惚れる程の美しさを。
 踏み入れてはならない場所へ囁き寄せる力を。
 美しく在る事が魔をも引き寄せるという意味を持って理解したあの日。
(桜がお前を奪ったのか!?)
 お門違いも良い所、八つ当たりにしか過ぎないと分かっていても。
 彼の人を亡くした痛みは季節が巡る毎にやってきた。
 特に桜は。
 ―――お前の好きだった、花、だから。

「……」
「…駄目、だ…」
 剰りにもか細い呟きは、目の前の男には聞こえなかったらしい。
 知らず立ち上ってくる不安に襲われて、男は震える。
「ゼ…」
「ウォーダン、お前も―――」
「ゼン…ッ!」
「っ!?」
 髪や服についた花弁に気付かぬ程、儚げに桜を眺めていた男に。
 此処ではない何処かに、己を置いて去るなとばかりにきつく腕を背に回して、意識を引き戻そうとする。
 その勢いのまま、行くなと言う意味で軽く首筋に歯を立てた。
「ウォ…っ、お前!」
「俺はッ」
 獣のじゃれ付き合いでは無いぞと怒声が響くかと思われたのを、遮る声。
 冗談などでは無い、真剣な眼差しで。
「…!!」
「俺が欲しいのは―――っ」
 巫山戯ているのかと詰問する声も、切実な願いを求める声に掻き消えた。
 髪に付いていた花弁が、二人の視線の隙間を縫って落ちる。
 双銀の瞳と、隻眼の銀が交差し。
 ゆっくりとだが、薄い銀の瞳の奥に揺れる感情を見て取った男が言う、叱るような宥める様な音。
 己の奥にある恐怖を見抜いた、優しい其れ。
「…心配するな、俺はお前の傍に居る…」
「違う…」
「何―――」
「…ゼンガー、俺はお前の温もりが欲しいのだ…」
 呟き、そっと着物の下へ忍ばせようとしたウォーダンの手をゼンガーは己の掌で包む。
「寂しいか…ウォーダン…」
「……」
 答えずに黙って握り返された手。
 僅かに触れる事を許された指が肌から直接、体温と鼓動を伝える。
 静かな桜の枝だけが心の琴線に触れ、戸惑ったかの様に揺れていた。

<了>

   writing by みみみ

ばっくします。

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