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【 散り逝く花びらのように、枯れ逝く泉のように、終わり逝く世界のように 】 |
『ゼンガー、エルザム』
『隊長』
其れ程遠くない昔の記憶で、亡くなった彼の人が笑っている。
此方へおいでと手を招きながら。
此も桜の季節だったか?
(あの人も桜が好きな人だったからな…)
今思えば何も知らない時間だった、別離の苦しみも、喪失の痛みも。
『…慣れていないのであれば最初からそう言えば良かったものを―――無理強いをさせてしまったな、すまん』
急ぎ足で駆けつけた二人に、この場での敬礼はしなくて良い、堅苦しくなるからなと手を振り。
視線を己に見据えて放たれた言葉に恐縮した。
階級だけの問題ではなくて、己自らが尊敬する人に頭を下げられていると思い。
『い、いえそんな事は…!!』
『ゼンガー・ゾンボルト大尉』
慌てて其の言葉を否定しようとしたが最後、穏やかだが意志の強い上官の瞳に射抜かれる。
年齢の割に落ち着いていて、柔和な雰囲気を持つ此の人が時折見せる厳格な軍人としての瞳。
鋭い制止の言葉。
(此は夢だ)
大きく心臓が脈打った、心の奥底からの声で。
望郷の念に囚われる事無かれと。
『忘れるな。いつかお前達が部隊を率いる立場に立った時、お前達の一挙一動作が見張られている事を。
其れは決して上官達などでは無く、お前達の指揮下にある部下からの視線だ』
『はい…』
『上意下達が我らに与えられた不可侵の掟であったとしても』
一度言葉を切り、そっと光の眩しさに合わせて細められた瞳は戦場の悲しみを見ているのだろうか。
此の部隊が編成された事の意味を。
そして軍人としてはどちらかと言えば致命的な今からの言葉を発する事も。
薄桃の風の中に、宴の戯れとして隠してしまおうかと。
(貴方らしい、言い方だ)
『……』
『…!』
上官からの言葉を待つ極度の緊張の中、背中に触れてくれた手があった。
―――しっかりしろ。
黙って何も言わずに支えてくれる手。
己よりも細くて小さいのに、強い意思が込められたもの。
『お前の命はお前だけのものでは無いのだから』
『は…はい!』
苦笑しながら付け加えた言葉は、老人は何でも大げさにしたがるのだよ、と嘯いたもの。
何故いつも貴方は上官という枠組みではなく、親身に接してくれるのだろう。
(剰り思い出したくは、無い)
心の悲鳴も桜の宴の中では届かない。
何故なら。
此は。
『白湯でも飲んで誤魔化せばいい、酔っぱらいには気を付ける事。以上だ』
『…あ、はい、了解しました』
そう言って、此方へ近付いてきていた明らかな酔っぱらい集団の中へと紛れ込む。
白湯か、と己の口内で反芻させて想う。
先程も己がきちんと宣告しておかなかった事を自らの気遣いが足りないという意味で謝罪した。
物心付く頃には軍人生活を叩き込まれた身にあっては父性など感じる日常は程遠く。
もし己に父親という存在が在れば、貴方の様な―――。
『…大佐…ッ!?』
一瞬で視界が暗黒の宇宙空間へと変化し、そして。
燃えていく、全てが。
喉から搾り取る様に掠れ出た声が己のものであるとは気付かずに。
無力さを嘆いていた。
(夢だと分かっていても)
痛い。
辛い。
癒える事の無い傷。
其れは消えてしまったのではなくて、意識しなくなっただけ。
『…ゼンガー…』
『た、い……』
押し殺した筈の涙が溢れてしまった時。
優しく抱きとめてくれた腕があった。
空虚な闇から己を連れ戻そうとしてくれた手。
有難う。
傍に居てくれて。
有難う。
支えて貰ってばかりで。
有難う。
何度言っても足りないけれど。
『…す、好きだ……』
言葉にする事が上手く出来ないから、貴方に触れている。
無駄に大きな腕でも、貴方を抱きしめる事が出来るから。
極東の島国には珍しい色。
癖の強い銀の髪と、瞼の下から顕れた銀の瞳。
其の人物の職業を思わせる武人然とした厳めしい顔つきも、眠りの間だけは少し穏やかに。
小鳥の囀りと、春の麗らかな昼下がりに負けて、つい眠ってしまったのだった。
ゆっくりと目を開ければ其処には見慣れぬ景色が広がっており。
男は暫く茫様と視線を漂わせて居たが、徐々に寝起きの頭にもまともな思考が回転し始める。
(…そうか、此処は…)
日本にある彼の、愛する親友の別邸。
俗に縁側と呼ばれる場所で今時在るのが珍しい庭に視線を移すと、薄桃の花を枝に咲かせた樹が一本。
未だ蕾が残っている辺りから察するならば八分咲きとと言った所か―――夢で思い出した記憶で、
微かに痛みを覚えた心。疾うに納得し、今更何を思う事が在ろう其の記憶とて、糧に成り得る。
強かに、感情を御する事の出来る軍人へと。
上手くそれから意識を逸らし、目の前の事態に対処する。
麻痺に近いかも知れないなと自嘲して。
「うー…」
寝返りをうち、低めの声が膝元から聞こえ。
突然、意識が現実へと切り替わった。
己と瓜二つでありながら、己が何者であるかを忘れ去った男は、酷くあどけない容貌をしている。
左目の大きく引き攣れた疵痕も今の雰囲気に緩和され。
古きこの国の家造りで出来た間取りは己にとって少々小さく、
時折――部屋へ入る時には頭を下げなければならない事を忘れ――桟に額をぶつけたりしたものだ。
「ふふ…」
最も今は縁側で眠る己に瓜二つの男は未だにぶつけている様なので、思わず笑いが零れ。
まるで子どもと呼ぶに相応しい動作で。
なかなか其の癖を覚える事が出来ずに、ぶつけては痛みを堪え。
拗ねてしまう。
最早一連の決まり事に成りつつある此の家での事項に思いを馳せて、男は笑ったのだった。
「何を、笑っているのかな?」
「…エルザム」
不意に呼びかけられて振り向くと肩に触れる細い指。
己の身体をいとも簡単に籠絡させ、そして決断を迫り、その後を支えてくれた手。
慣れ親しんだ感触とはいえ、急な事態には反射的に驚いてしまう。
良く見知った気配だというのに背後に立たれようともなかなか気付く事が出来ないというのも困る。
「さては…何か悪巧みでも?」
長い金糸の髪には軽くウェーブが掛かっていて、縁側を通り抜ける風に揺られ。
咲き誇る木々の合間を歩く時に、彼の髪の毛に引っかかる花弁もあった。
しかし取ろうとすると何故か決まって彼は気付く。
振り向き。
「そう見えたか?」
「ああ」
今と同じように笑うのだ。
青年はクスリと小さく笑い、男もそれにつられて笑った。
悪戯好きの瞳をして。
森の色、深緑の瞳が。
「酒に弱い君の事だ、桜に酔ったとでも言うつもりか?」
椰愉めいた口調に男は黙っていたが銀の瞳を細めて呟く。
―――其れなら其れでも構わない。
体質的に全く酒を受け付けない此の身には、酔う手段が無いのだから。
ならばせめてもと、桜に酔いを求めても良いだろう? と。
そんな意味を込めて呟く。
「綺麗だな…」
「お褒めに預かり光栄至極」
己の胸中などお見通しか。
矢張芝居がかった台詞を口にし、青年も男と同じ場所へと深い緑の瞳を投げる。
肩肘の張っていない自然体でありながらも、きっと隙のない心。
(いつでも心を見抜かれるのは俺ばかりで、俺はお前の気持ちを掴む事が出来ない)
不公平だな、と嘆息しながら。
「もし本当に桜に酔ったならば……」
「?」
突然会話を一つ前へ戻す男の言葉に青年は肩から手を離して隣に腰を下ろす。
「お前が止めてくれるだろう?」
「…さて…酔った君を眺めるのも又一興だと思うのだが、な?」
「…趣味の悪い」
「私が傍に居るというのに桜に酔う君が悪い」
折角の頼み事もアッサリと流されてしまい、僅かに眉を顰めて呆れ気味に言った男の言葉を青年は切って返した。
そのまま男の方へと身体を傾けて、凭れかかるような姿勢を取る。
男の肩に、青年の体重が加わり。
「ゼンガー」
「ん?」
「……」
「……」
名を呼ばれ、返事をしたのだが続く言葉は無い。
何となく耳から届いた青年の雰囲気から、今は何も話すべきでは無いのだろうと。
言葉を口に乗せるべき時では無いのだろうと。
男はそう判断した。
良く晴れた春の日に吹く風は少し強い。
それ故に桜は薄桃の花びらを散らしてゆく、其の姿は花嵐。
静かに艶やかに、儚く舞い散る光景は昼下がりの閑な陽光に溶けるかの様。
縁側で寝る男にもう一枚何かかけてやるかと立ち上がろうとした瞬間。
「ん…」
「!」
「……」
眠る者は寝返りをうち、立ち上がろうとした者は一瞬手で視界を覆う。
そんな、一陣の強い風。
直ぐに止んでしまう、不思議な。
大きな肩に凭れていた者はゆっくりと瞼を下ろし、言った。
「…戦場で散る命は此よりも尚儚いな…」
「……」
青年の封じ込めた心の琴線は刹那斯うやって表に出てくる。
強いが故に脆く、率いる立場に在るからこそ漏らす事の出来ない弱音を。
一つ間違えば聞き逃してしまいそうな程密やかに。
無言の肯定をした男に青年は袖を引き、腕の中に滑り込むと囁く。
小さくて、か細い、ささやかな願い。
(桜に酔う君であれば、春をもっと楽しみに出来たかも知れないな)
唇から漏れた笑みは吐息の如く。
悪戯な春の装い。
「ゼンガー…」
「何だ?」
「…強く、抱いてくれるか…? でないと……」
「?」
「君が分からなくなりそうだ」
「!?」
甘えている様でも自嘲している青年を強く抱きしめ。
此の青年が抱えている闇の深さをこんな風にして、垣間見せられる事を辛いと感じつつも。
遠い心に向かって男は名を呼んだ。
「エルザム、お前が桜に酔ってしまったのか…?」
「…ふふ、だとしたら君の次の行動を楽しみにしようか…」
「…好きにしろ」
まさか君が私を放って置く筈がないだろう?
と、つまりは言いたいのか。
相も変わらず回り諄い形でしか甘える事を知らず、お互いに不器用な愛し方しか出来ない。
(其れでも良いだろう、其れしか出来ないのだから)
もう何度結論付けたか分からない己と彼の距離感を。
想っていると。
青年は自らの服に零れてきた花弁を、そっと男の鎖骨に置いて首筋に唇を寄せる。
同じく男も又、青年の髪に付いた花弁を払おうとした。
「…エルザム…」
「いつかは散る命だ、だからこそ―――」
少し悲しげな声でそう言う青年を男は抱きしめる。
だからこそ?
途切れた言葉の意味を感じ取り、回された腕の力は自然と強くなった。
<了>
writing by みみみ
ばっくします。
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