光州民主化運動と現在 その2
戦った市民の記憶が残る道庁舎
日本から光州市を訪れた私たちのために、特別に道庁舎の内部を見せてくれました。
案内してくれたのは、金容哲(キム・ヨンチェル)さんです。
皆さんは、「光州5・18」の映画は見ましたか? 映画に合わせて、建物を説明していきます。この建物は、最初は戒厳軍が入っていましたが、5月21日午後6時以降は市民軍が占拠しました。韓国では5月21日から27日までを、解放区といっています。軍人も警察もいない、素晴らしい共同体を作ったのです。
映画の主人公は、ユさんという実在の人物をモチーフにしています。その人が亡くなった場所が、ここです。
●ユ・サンウォン代弁人が射殺された、道庁舎2階の廊下。
こちらは、対策会議が置かれていた部屋です。市民軍の指導者たちは連日この部屋に集まり、会議を行っていました。
●市民軍の対策会議が置かれていた、道知事の事務室。
屋上に上がってみましょう。この建物には、多数の銃弾の跡が残っていましたが、いまは埋められています。
この前に見える噴水の場所で、21日に軍隊による集団銃撃が起きました。それによって市民65人が亡くなりました。それまで市民は銃を持っていませんでしたが、軍隊による集団発砲以降、市民も銃を持つようになりました。
●道庁舎前のロータリーと噴水。
あちらに見える建物には、軍隊に殺された市民を、棺に入れて安置していた場所です。ひどい死臭がしていました。
●遺体安置所となった尚武館。
21日に軍隊が退却しました。それは、あそこにある全南医科大学から市民が攻撃を始めたからです。軍の銃撃によって多くの犠牲者が出たことに、市民は怒っていたのです。そのために21日の午後6時に、軍隊は退却を始めました。それ以降27日の早朝4時まで、解放光州が成立したのです。
27日に戒厳軍の攻撃が始まった時に、市民軍も銃を持っていました。しかし市民軍は銃を撃つことはできなかったのです。それはなぜか、銃を持っていたのは、自分を守るためだからです。ですから軍人は、ほとんど亡くなりませんでした。
韓国には、予備軍があります。市民は、光州市の外にある、予備軍の武器庫から銃を持ってきました。戒厳軍の銃はM16です。高性能な銃です。しかし市民軍が持っていた銃は、M1ライフルやM1カービンなど、第2次世界大戦時ものでした。戒厳軍に比べれば、おもちゃのようなものです。
●2階の窓から、道庁舎正門と噴水を見下ろす。
5月27日の早朝には迫りくる戒厳軍を前に、この窓でも銃を持った市民が死を覚悟していたのだろう。
21日から27日までは、軍隊も警察もいませんでした。しかし、どろぼうも、強盗も、私的な殺害もありませんでした。それは本当に素晴らしいことです。それは光州市民の闘いが、経済的な問題ではなく、自由や民主化を求めるものだったからです。
最後までこの庁舎に残った市民は、公式的には約160人です。大切な自分の命を賭けて、戒厳軍と戦ったのです。私はその時学生でした。恥ずかしいことですが、私は最後には家に帰りました。でも多くの人々が、光州市民のために、民主化のために、平和のために残って戦ったのです。
政府や軍隊と戦えば、負けることはわかっていました。それでも平和と民主主義のために、戦ったのです。だから、この建物は残さなければならないのです。
●当時の写真を見ると、この階段は殺された市民の血に染まっていた。
現在のイ・ミョンバク政府は、民主化運動に対して敬意を払ってはいません。世論調査でも、「民主主義が後退している」と感じている人が増えています。もし大統領が、「この建物を残す」と決めれば、すぐに残すことができます。しかしイ大統領は、民主主義に関心がないのです。わざわざ取り壊そうとしているのです。
そこで共同対策本部の人たちが、歴史的な建物として、広島の原爆ドームのように、この場に残そうとしているのです。他の場所に移築する話もありました。しかし、それではだめなのです。この場所に、このまま保存することが必要なのです。私たちはこの場を、広島の平和公園のような場所にしたいと考えています。
パク・チョンヒ大統領が暗殺された後に、チョン・ドファンが、自分が政権を掌握するために、政治軍人たちを共謀して、クーデターを起こしました。彼らが光州を攻撃したのには、3つの理由がありました。
1つめは、この地域は、キム・デジュンの出身地だからです。チョン・ドファンは、キム・デジュンを恐れていました。
2つめは、経済的な問題です。当時の光州は、経済発展が遅れていました。政府の発表では79年当時、ソウルの労働者の1か月の賃金は750000ウォン、光州では350000ウォンでした。光州には農業などの1次産業と3次産業はありましたが、2次産業はありませんでした。ですから、事態が起きても、韓国全体の経済には影響しないだろうと考えたのです。
3つめは、地理的な要因です。80年当時は、北朝鮮と戦っていました。もし事態が起きた時に、38度線に近い場所では、北朝鮮が支援に入るかもしれませんでした。しかし38度線から遠ければ、北朝鮮の援軍が来るには時間がかかります。
またチョン・ドファンを支持する陸軍士官学校グループには、光州の出身者がいませんでした。軍部内にも、光州を襲うことに反対する者がいなかったのです。そうした条件があって、光州が選ばれました。
光州攻撃の前に、釜山などでも民衆蜂起がありましたが、その時には死者もなく鎮圧されました。しかし光州では、民衆の力が強かったのです。
光州市民が怒ったのは、戒厳軍が過激な鎮圧行動にでたからです。警察と同じような対応だったら、ここまで大きな問題にはならなかったでしょう。戒厳軍は一般の市民に、銃・警棒・ナイフなどを使って殺したのです。
ここには、市民軍の血と汗と魂が残っているのです。絶対に取り壊すわけにはいきません。後世に何を残すことができるのか、そのために、ここで座り込みをして抗議をしているのです。
朝鮮戦争でも多くの人々が亡くなりましたが、これは共産主義と民主主義の戦いでした。光州では、約160人が亡くなりました。それは民主主義国の中で起きたのです。軍人は市民を守るためのものです。しかしその軍人が、市民を殺したのです。
独裁を許さないことが、民主化運動です。光州の民主化運動は、その後、各国に影響しました。中国の天安門事件、タイ、ビルマ、パキスタン、各国で民主化運動が行われています。アジアの民主化運動の人々には、光州を学んでいる人がたくさんいます。
光州は終わっていないのです。