光州民主化運動と現在 その1

5・18民主化運動を風化させないために
全羅南道庁舎保存を求めて籠城が続く



●全羅南道庁舎

(はじめに)
 1980年に起きた5・18光州民主化運動の際に市民軍が立てこもり、戒厳軍との間で壮絶な銃撃戦を行った全羅南道庁舎が、取り壊されようとしています。
 全羅南道庁は2005年に務安郡に移転しました。庁移転後も、庁舎は歴史記念物として保存されていました。ところが光州市は、この庁舎を取り壊し、文化センターを建設しようとしています。現在、光州市は「アジア文化中心都市」構想を推進していますが、その一環として市庁舎周辺の再開発を進めようとしているのです。
 こうした動きに対して、光州民主化運動を戦った人々が反対運動を開始しました。市当局は、庁舎の移設や、一部保存・一部取り壊しなどの対案を出しました。しかし反対する市民は、「この場所に、このままでの保存されなければ意味がない」として、庁舎での籠城を続けています。
 以下は、道庁保全のための共同対策委員会へのインタビューです。



■安盛玉(アン・ソンオク)さん
道庁保全のための共同対策委員会・対外協力局長

 日本から皆さんが訪問してくださると聞いて、大変驚きました。全羅南道庁は、たいした建物ではありません。しかし歴史的な建物です。この建物を保存したいという、私たちの気持ちを尊重していただき、大変ありがとうございます。
 私は80年の5・18民主化闘争の時に、数え年で18歳の高校2年生でした。まだ幼かったので、政治とは何か、民主主義とは何か、よく分かりませんでした。しかし、軍部独裁政権、政治軍人たちが政権を握るために、市民や大学生を棍棒で殴るのを見た時に怒りがこみ上げて、石を投げ、棒を持って対抗しました。
 私が戦いに参加する決定的なきっかけとなったのは、5月21日午後1時30分の、軍による集団発砲です。映画「光州5・18」と同じように、1時30分に韓国国歌が流れました。そして3方向から、軍人たちが銃撃を開始したのです。いきなりです。そばにいたお姉さん、お兄さん、おじいさんたち40人が、いきなり死んでしまったのです。また400人ぐらいが、大けがを受けました。それを目撃して、本当に辛くなりました。
 しかし、私たちが持っているものは、ころがっている石や棒なのです。「自分たちにも銃が必要だ」と、切迫した気持ちになってきました。そこで大勢の光州市民が、光州のそばにある地域の警察署の武器庫や、予備軍の武器庫を壊して、武器を確保したのです。
 当時の光州の人口は約75万人でしたが、30万人近い市民が道庁を中心に集まりました。そこに銃が運ばれました。数えると4000丁ありました。30万人の市民が道庁に向かって行進を開始したので、軍人たちは逃げていきました。全南道庁は、全羅南道の行政の中心です。しかし市民の多さに、軍人は逃げ出したのです。そこで市民が道庁に入りました。

 いまでも私たちが、誇りを持っていることがあります。人口75万人の光州市では、当時の1日の犯罪発生件数は平均23件でした。光州抗争は10日間でした。この10日間、役所も警察もありませんでした。しかし金融機関や貴金属店での盗難、個人的な恨みによる殺人などは、1件も起きていないのです。それは光州市民の共同体意識の表れであるし、世界史的にも珍しいことでしょう。それほど光州市民は、一致団結していたのです。
 当時の報道では、私たちは「暴徒」とされていました。10日間に1件の犯罪も起きなかった事実がなければ、いまでも私たちは「暴徒」と呼ばれていたでしょう。一致団結した共同体を作ったから、いまでも誇りを持っているし、皆さんのように海外から訪問してくれる人もいるのだと思います。
 集まった市民の中には、様々な人がいました。靴磨き屋もいました。大学の教授もいました。カトリックの神父もいました。社会の様々な階層の人々が集まりましたが、みんなが平等に自分の意思を表すことができ、議論できる場所を作ることができました。この期間中に、光州では平等な世界を作ることができたのです。

 多くの虐殺がありました。しかし、その全てを語ることができません。最後の場面だけをお話します。5月26日に、軍隊が総攻撃をかけるという最後の通告がありました。軍は、「銃を捨てれば命は助かる、武器を捨てて家に帰ればいままでの行為は不問にする」、と放送を流し、チラシを配りました。道庁にはいつも400人位の人々がいました。軍の通告の後でも、道庁に残り死守しようとした人々は、157人いました。
 私は幼かったので、死ぬことが怖かった、本当は逃げたかった。しかし周りには、同じ村のお兄さんたちもいました。自分はここで死ぬのだと、覚悟を決めたのです。
 27日の早朝4時、戒厳軍の攻撃が始まりました。ヘリコプター・戦車・装甲車を使って、東西南北の各方向から攻めてきたのです。軍の攻撃で、15人が死亡し、40人が負傷しました。生き残った100人は逮捕されました。戒厳令下でしたので、軍事法廷で裁判を受けました。私は軍事法廷で、5年の刑を受けました。罪名は「国家転覆内乱罪」でした。

 この道庁の窓1つ、階段1つにも、亡くなった人々の記憶が鮮明に残っています。80年当時、実際に経験した者として、せめて私たちが生きている間だけでも、この建物を守りたい、壊されたくない。そうした気持ちで、籠城を続けています。
 ここは、歴史の辛さの現場です。ここは保存されるべきだし、未来の世代に辛い歴史が2度と起きないように伝えなければなりません。

■いくつかの質問
――あなたは当時高校生でしたが、最後まで残った高校生は何人いたのですか?
 最後に残った157人のうち、高校生は10人で2人は女子高生でした。大学生は13人で4人は女子大生でした。それ以外は市民で、女性は4人でした。市民軍には高校生や大学生も多かったのですが、最後の通告があって学生は外に出ることになりました。
 学生たちは「残る」と言ったのですが、「光州市民が最後まで屈伏しなかったことを、若いあなたたちが伝えなければいけない」と説得されました。それでも出なかったのが、この人数です。

――籠城を続けるか、外に出るか、市民軍の中で議論があったと聞いています。軍人を相手に、武器を捨てずに戦った理由はなんです?
 何百人もの死体が散乱していました。私たちは死者の犠牲を無駄にすることはできない。そうした思いでした。
 また恐怖感から銃を捨てて逃げたら、私たちは抵抗を止めたことになります。抵抗をやめることは受け入れられませんでした。抵抗精神です。

――ユ・サンオン代弁人のことを話してくれませんか。
 彼のことは、辛くて話をすることができません。でも今でも鮮明に覚えています。最後まで戦って亡くなった人たちに、生き残った私たちは負債を負っているのです。

※ユ・サンオン代弁人
 光州民衆抗争の指導的人物。代弁人とはスポークスマンのこと。大学卒業後に労働運動に参加。戒厳軍の総攻撃を前に、高校生や大学生を説得して庁舎の外に逃がし、自身は27日に戒厳軍によって射殺された。韓国民衆運動の集会冒頭で必ず歌われる歌「イムのための行進曲」は、彼をモチーフにしたもの。



●庁舎に掲げられた横断幕。


●共同対策委員会の皆さんが、籠城を続けている団結小屋。


●庁舎の周辺には、当時の写真が展示されている。


●籠城を続けている、共同対策委員会の皆さん。

■その1
■その2
■その3

●TOPへ