思うこと 第205話             2007年4月24日        

会長からのメッセージ


 4月1日から財団法人慈愛会の会長の仕事に就き、4月2日には奄美大島に飛び、財団法人慈愛会奄美病院を視察したことについては、『思うこと第199話』で述べた。2週間後の4月17日にも再び奄美病院を訪れ、

全職員を前に約50分間の講演をした。

このタイトルに引き続くスライド(下)で、私の両親とも奄美出身であることを話した。

父の祖先は代々龍郷の戸口である。安徳天皇は平家物語では壇ノ浦で崩御されたことになっているが、島の伝承によると平家の船団に擁されて喜界島に生き延びたとされている。喜界島に集結した軍団は、三年間本島の様子をうかがった後、平資盛、有盛、行盛の三卿は奄美本島を3方から一挙に攻め、本島を完全に制覇した。この時行盛卿に率いられた軍団が上陸したのが戸口である。極めて短期間(2ヶ月足らず)で全島を制覇し、行盛卿は戸口に城を築き、ここを居城とし、住用までの地域を支配した。現在、戸口部落の中に小高い丘がありこの岡の頂に行盛神社があるのだが、ここが居城跡と伝承されている。ここからは、平家ゆかりの藤原の銘の入った陶器などが出土しているとのことである。私も、もう少し時間にゆとりが出たら、この伝承がどれほどの根拠があるか調べてみようと思っている。(その時は、またこのホームページで報告させてもらいます。)この伝承が本当なら、我々、戸口の村人達は、縄文民族である土着民族と弥生民族である平家との混血の末裔である可能性が高い。
一方、母親の出身地の芝は30〜40戸ほど(?)のとても小さな部落であるが、ここから、明治時代に極めて多くの英傑・俊才を輩出したことで名高い部落である。系図によると源氏の末裔となっているが、系図を都合のいいように作成する慣習のあることを考えると、これは鵜呑みには出来ない。母の父の豊島栄は奄美の農業振興の父と言われ、名瀬のおがみ山中腹に胸像が立っている。豊島家が興した信用金庫は戦前は奄美で一番の金融機関であったとのこと。
ともあれ、私は奄美に来るたび血が騒ぐのは、祖先の血のなせることと思われる。
話が余談にそれたが、私は講演では、3月31日に行った市民公開講座とほぼ同じ内容を話した。最後に、私は、会長からのメッセージを伝えた(下スライド)。

私は、慈愛会の全職員に同じメッセージ
『患者様から見て、日本一の病院に』を届けたいと思っている。『日本中どこをさがしても、この病院以上に良い病院はない、と全ての患者様に思っていただける、そういう病院にしよう!』というメッセージである。私は、必ず出来ると思っている。それを可能にするポテンシーをこの病院はハード面でもソフト面でも持っている。
この下の写真は、私の講演が終わった後、急遽、カメラを取ってきてもらって私が撮った講演会場の写真で、講演が済んでリラックスしているところであるが、講演の最中は皆、目を輝かせて聴いてくれていたのが印象的であった。

最前列の白衣の方が安野院長で、先生のリーダーシップのもとで、病院全体が熱気にあふれているのを感じたのであった。
私はその夜、ここで働いてくださっているスタッフの医師の方々と夕食をともに取りながら歓談したが、とても多彩な顔ぶれに驚いたのであった。私も自己紹介したが、常勤医師11名全員からも自己紹介を受け、私は、何故、かくも有能な方々が、かくも多数、この離島の奄美病院に集まっていただけたのかと、驚くと同時に感嘆した。安野院長は慶応大学で剣道部の主将で活躍された方で、私の親友の丸田俊彦君は同じ慶応大学剣道部の後輩にあたり、同君のことを良く知っておられ、同君をとても評価しておられた。剣道の達人に優れたリーダーが多いことはよく知られていることである。また、ほかのスタッフの方々も、大分大学の一期生で生粋の精神科専門医として情熱を持って精神科医療に打ち込んでおられる方、あるいは、慈恵医大出身の江戸っ子で、熱く燃えて精神科医療に取り組んでおられ、放射線科の専門医でもある方、あるいは、奄美和光園の園長として活躍された後、今は精神保険指定医もとられ、この病院で頑張っておられる方、あるいは、沖縄県出身の精神科専門医で、奄美病院で診療に打ち込む傍ら、私と同様アラスカをはじめ外国でのチャレンジ旅行も楽しんでおられる方、あるいは、京都出身の琉大卒の精神科専門医で、奄美ならびにこの病院が好きになり、ここでもう7年間頑張っておられる方、あるいはまた、奄美生まれの奄美育ちで、現在、精神保健指定医取得をめざしてこの病院で頑張っておられる方、あるいは、国立東京第2病院で呼吸器と循環器の専門医として活躍され、メイヨークリニックにも留学され、多剤耐性結核菌遺伝子研究で業績を上げられ、その縁で、国立療養所奄美和光園の園長として活躍され、幾多の業績を上げられた後、奄美病院に情熱を傾けてくださっている方、あるいは、東京大学医学部を卒業された後、長年(22年間)米国で精神科の臨床医として活躍され、今村英仁理事長が三顧の礼をもって奄美病院にお迎えした方、あるいはまた、入院を機に医師を志し、兵庫大学卒業後精神科診療に情熱を傾けている青年医師、あるいはまた、鹿児島大学精神科教室で研鑽後、故・今村一英先生(今村英仁理事長の父)との縁で慈愛会の精神科病院一筋に頑張ってこられ、喜界出身のため月に一度喜界島に無料で診療に出かけ、島の方々から感謝されている方と、ともかく、びっくりするほど多士済々の顔ぶれであった。この11人のスタッフのうち7人が精神保健指定医の資格を持っておられ、この病院で取得された方も多い。やはり、この様に優秀なスタッフが集まっている職場で、かつ、数多くの患者さんの診療にあたる現場であるので、ここで働くと精神保健指定医の資格をとりやすく、優秀なスタッフが集まるという好循環が生まれていると思った。もちろん、奄美の風土が人を住み着きたいという気ににさせることも大きな要因かも知れない。医師だけでなく、看護師も津留看護師長のもとに優秀な看護師が集まっており、またコメディカル部門もしかりで、そして何より、窪田事務長以下の事務部門がしっかり病院を守っており、私は、このようなすばらしい病院で会長として一緒に夢を追うことが出来ることを、嬉しく思ったのであった。もっとも、皆で力を合わせて頑張らない限り、夢は達成できないことは言うまでもないが、頑張りさえすれば、『患者様から見て日本一の病院』になるのも夢ではないと確信させてもらったのであった。