思うこと 第118話 2006年7月31日 記
夏の読書ーその1ー
『風の男 白州次郎』とその関連本
今年1月8日の「思うこと第56話 2006年の“年の初め”の読書 ーその1ー 」から始まって、1月30日の「思うこと第67話 2006年の“年の初め”の読書 ーその11(最終回)ー 」、それに引き続く「思うこと 第69話〜71話」の友人からのコメント、「思うこと 第75話」の「プロのコメント」、そして「思うこと 第79話」の「やってよかった新春読書」の新春読書シリーズは、思い出しても楽しい息抜きのシリーズであった。 今回、梅雨明けの猛暑を迎え、『夏の読書』のタイトルで最近読んだ本にコメントを添えたい。
まず、取り上げたいのが、『白州 次郎』シリーズである。NHKテレビで『白州 次郎』の特集番組があり、もう少し詳しく知りたいと思って、ネットのアマゾンで下の写真の13冊の本を注文した。
内容が極めて面白かったので、出張の移動中などを利用しながら読んだ。 当然ながら、走り読みした本もあるが、多くは、結構楽しみながら熟読した。
白州 次郎氏もその妻・白州正子氏も人並みはずれた人物である。 白州次郎氏は、自分とは全く異質の、まねようと思っても絶対まねのできない、そういう“生い立ち”と“性格”を有している。 白洲家は、摂津国三田藩(現、兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で氏の祖父・白洲退蔵は三田藩儒であったが、藩主九鬼隆義に抜擢され、藩政改革を完璧に成功させている。 明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めている。 氏の父・白州文平は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績を経て綿貿易で巨万の富を築いた。 白州次郎は神戸一中時代にすでに父・文平からペイジ・グレンブルックなどの高級外国車をもらい、それを乗り回し、小遣いも常識はずれの巨額で、サッカー部・野球部に所属し、手のつけられない乱暴者として恐れられていたようである。 父・文平は、次郎17歳の時に次郎を英国ケンブリッジ大学に留学させ、この時も桁外れのお金を送金し続け、次郎はここでもベントレーとブガッティーを乗り回しながら、9年間の充実した留学生活をさせてもらっている。 一時マルクス・レーニンの思想にも傾倒した時期もあったようであるが、この9年間に、英国の文化を学び、世界的視野を培っている。 ケンブリッジ時代の親友、英国貴族のロビン・ビングとは終生の友情を結んでいる。 この9年間の留学から、たぐい稀なる“男”白州次郎が誕生したといえよう。 1928年、次郎26歳の時、実家の白州商店が倒産し、父・文平は次郎に帰国を命じた。 父・文平は帰国一年後の次郎の結婚式には、結婚祝いに当時東京では2台しか走っていなかった高級車ランチアを送っているから、倒産したとはいえ、やはり資産を相当に持っていたようである。 さて、次郎が結婚した相手の樺山正子(結婚時、19歳)もまた、すごい“生い立ち”の持ち主である。 正子夫人の祖父、樺山資紀氏は薩摩藩士で、薩英戦争、戊辰戦争に従軍している。明治4年(1871)陸軍少佐に任官し、征台の役にも従軍している。 西南戦争では熊本鎮台参謀長として活躍。 近衛参謀長、警視総監兼陸軍少将。7年(1874)海軍に転じ、16年(1883)海軍大輔、19年(1886)海軍次官となっている。 日清戦争時は海軍軍令部長、28年(1895)海軍大将、初代台湾総督となり、以後枢密顧問官、第2次松方内閣内相、第2次山県内閣文相等を歴任している。 正子夫人の父・樺山愛輔は、13歳で渡米し、アーマスト大学卒業後、ドイツのボン大学に学んだ。 帰国後は国際文化人として多くの企業や団体で活躍し、25年間貴族院議員を務めている。 正子夫人は、幼時より能に親しみ、14歳で女性として初めて能の舞台に立っている。 その後、アメリカのハートリッジ・スクールに留学していたが、父・愛輔の関係していた18銀行が倒産したために、兄・樺山丑二(当時やはりアメリカのプリンストン大学に留学中)とともに帰国した。 同じ時期に、同じように実家の倒産の余波を受けて帰国した白州次郎と樺山丑二は交友がはじまり、丑二の紹介で次郎は正子に会い、二人は一目ぼれで結婚してたという。
このような、並外れた“生い立ち”の2人は、やはり、並外れた、すざましい一生を、それぞれ送っている。詳しくは、ぜひ、この写真の文庫本を読んでほしいが、敗戦、そして占領下の状況で、白州次郎は吉田首相に請われ、持ち前の英語力と“肝”でGHQと渡り合い、戦後の日本に道筋をつけてくれたのであった。 一方、能や骨董に造詣が深い正子夫人は、日本の美についての随筆を多く著したのであった。 私とはまるで異なる世界の、すざまじい生き様に、感嘆させてもらった。