旅について(続ける弁解)
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【まえがき】
この文は、かつて作った『たかがクルマ、そしてパーソナル無線』(1985年3月発行)の第2部「クルマの旅を企画する」の序論です。旅に対する考え方は多少変化していますが、今もって大筋は変わらないので要点のみまとめました。。家族との旅はこれをベースに続けています。
昔の仲間と私
今はどう考えているかは分からないものの、学生時代の仲間の一人に旅にこだわる男がいた。当時の仲間はめったに旅行する者はいなかったが、この男だけは山を歩いたり、旅行ばかりしていた。酔うたびに頑固さとしつこさが増して私も閉口させられたものだ。「旅と旅行は区別しなければならない」とか、「お仕着せを排除するのが旅だ」と彼は息巻いたものだ。その頃の仲間は、東京へ出向いてきた者ばかりであった。
私にはそれが理解できなかった。『恵まれた人間が勝手なことをほざきやがって』と腹立ちを覚え、エリート(選民)意識に反撥したものである。学生運動の活発な時代に、親のすねをかじって、旅や旅行に出かけること自体が私には気に食わなかった。しかし、キャンプや旅行や山歩きをしていた頃の私は、この男と同じことを口にしたようである。ひとつのことに夢中になると、こだわりが昂じて独断的になりがちだ。
日常を刺激する営みの一つ
私にとって、旅は日常を刺激する営みの一つに過ぎない。毎日の営みは、たとえ変化があろうとも、忽ち当然のこととみなされがちである。そして、慣れ親しむうちに変化を拒み、自分以外の人々の存在を無視したり、忘れてしまいがちだ。
私は、毎日の営みをありふれた、つまらぬものと言って済ませたくない。過ぎてしまえば他愛も無く、そうなるべきかのように映ることも私なりに悩み、苦しんでの営みだからだ。現実を蔑視したり無視して、彼岸を美化したり理想化するのは誤りではなかろうか。
しかし、日常に留まるだけでは息が詰まるから、私は刺激を求める。旅はその営みの一つに過ぎない。
大義名分はいらない
ともすれば、旅に「冒険」とか「修養」という大義名分をつけ、正当化したくなるものだが、私はそれを排除したい。出かけたい、やりたいと感ずるから旅に出るだけだ。いつもそれが楽しいことばかりではないが、自分が決めたから耐える。
楽しさは、辛さとの対比から生ずるものでなく、辛さを含みつつ何かをやり遂げたという自己満足に過ぎないのではなかろうか。五年間夢中になった山歩きにしても、楽しさよりも辛さの方が多かった。『どうしてこんなものに』と仲間の後を歩きながら、自分を何度も罵った私にはそう思えてならない。
また、「自然との触れ合い」とか、「異郷との交わり」から生ずる《情念》を旅と呼びがちである。それは、「旅行」や「スポーツ」それに「レジャー」と区別して使われる。しかし、それは日常蔑視と旅の美化だけであって、不毛な区分ではなかろうか。
上っ面だけを撫でて欲しくない
こういう人たちと別なタイプの人もいる。この手の人たちはセッカチだ。旅に何かを求め、何かを直に感じたり、得ないと気が済まない人々である。物珍しい習俗とか、遺物を見学したり、観光地に出向くだけで満足するのもよかろう。しかし、それだけでは上っ面を撫でているだけのような気がする。
旅に限らず、興味の無い人に「なぜそんな」とか、「どうして」と問われても言葉にならないこともある。「ああすれば」とか「こうしたら」と分かりきったものも無く、ただ何となくひかれてしまうものは誰にもあるはずなのに、どうしてこんな質問が出てくるかが私には分からない。自分にも分からないことは多いし、たとえ分かっていても理解させようとする気が起こらないことも多いからだ。
私の旅は仲間や家族に助けられてきた
私は一人旅を好まない。山歩きに夢中だった頃でも、単独行は二度しかしなかった。クルマにのめるようになって、一人でドライブに出かけることも多くなったが、やはり一人では物足りない。
一人旅は自分を卑屈にさせる。味わずに済むものをあえて行うほど私は強くない。人間はちっぽけな存在である。時には独りでいたいと思うものの、いざ一人になると、寂しさに襲われて、急に人が恋しくなるものだ。山を独りで歩いて味わって以来、強がりを口に出来なくなった。
私は、先程、楽しさは自己満足だと綴った。しかし、それは決して一人でやることの楽しさではないのだ。私の旅は、いつも仲間と一緒に行ってきたが、そこに私なりの楽しみを発見し、それを味わってきたからだ。仲間に世話を焼いてもらったし、もし私一人だったら決して出来なかったことも行えたと思う。
煽るつもりはないけれど
やさしさや楽しさを並べ立てて旅を勧める気は私にはない。まして、教訓を並べてやる気を削ぐ気も無い。自分の楽しみは自分で発見し、育てていけばいいのである。
私が言いたいことは、上っ面だけを撫でて分かった振りをして欲しくないというだけである。
旅に多くを望み、乗り物の中で他人と触れ合うことを重視する人にはクルマは向かない。また、縦走を好む人にもクルマは乗り捨てることが出来ないから不向きである。しかし、クルマに向き不向きがあることと旅の内容は別のことだろう。
「何を利用するか」ということより、「何を感じ、味わうか」という ほうが旅の本来的なものと私は考える。だから、クルマと旅は両立しないとも思わない。時間、予算、メンバーの体力、人員、それに荷物を考慮して有利なときにクルマを利用する。
最後に好きな詩を
どうしても旅に出られないとき、私が口ずさんだ詩を紹介したい。これは、学生時代に《赤い鳥》というグループがヒットさせた懐かしい唄に使われた。
落ちて来たら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう
(黒田三郎「紙風船」・詩集『もっと高く』より)