映画の入浴シーン

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 口にするのをはばかるのが「濡れ場」という言葉だ。濡れるといってもにわか雨に濡れたり、豪雨でびしょ濡れになるわけでもない。互いの汗でと言えばわかるだろうか。映画で観客をひきつけるひとつの見せ場で、若いころは他のシーンは居眠りしても真剣に眺めた。

 先日読んだ『アグネス・ラムのいた時代』の中に、日活ロマンポルノが熱く語られていた。週刊誌の真中に無修正の裸体が堂々と掲載される昨今とちがって、性の描写が芸術か猥褻(わいせつ)かが裁判で争われた時代だった。

 ともあれ、洋画では熊や牛のぶつかりあいのようなシーンが多かった。ベットのきしむ音まで拡大され動きがはげしさを表現するのも大げさだった。でも、文学指向が強かったわたしはそんな即物的な描写より入浴シーンのほうで想像力を鍛えた。

 1回ごとに荒い流すバスにつかる女性のしぐさの描写だけでも映画の濡れ場になった。今からみればそんなものでよく満足したものだと笑われるはずだ。でも、足りないものを補って想像させるのが芸術だし、そういうお約束に通じるのも映画ファンのたしなみだった。

 想像力は人間に欠かせないものだ。また、それをコントロールできるのも人間の理性である。それを忘れて妄想だけしかできないのは訓練が足りない。何でもさらせばいいというのは想像力が欠ける。その点ではロマンポルノは芸術的だった。だからといって、のぞきや痴漢をしないでほしい。



【ふろく】

 どうでもいい本を買い集めて読み直し、その一部を「本の紹介」に掲載しています。紹介ついでに転載します




     書かれた時代と過ごした時間
      「アグネス・ラムがいた時代」を読んで
2007/04/12
                  

 むかしの音楽を振り返るために1960から80年代を10年単位ごとにまとめた本や雑誌を買い集めている。自分が過ごした時間はこんなものじゃなかったというズレがつきまとう。先日読んだ『アグネス・ラムがいた時代』(長友健二・長田美穂著、中公新書ラクレ、2007年)に掲載されている二人のアグネスの写真にしてもこんなものだったかという虚脱感と当時に漂ったオーラの違いがつきまとう。それは現在から過去を振り返った産物であり、書き手や編集者の思い入れや判断の産物だからだろう。

 過去を振り返るのは楽しいものではない。その時に感じたものを現在の判断フィルターにかけてしまい、同じ自分が別人に映るからだ。無意識に美化したり断罪することもつきまとう。でも、家族や他人に伝えるときにはそういうフィルターを通して語るしかない。整理がつかないものを語ることは無理だし、まとまりがつかないもを語られても聞かされる相手は迷惑だろう。

 ここで持ち出した『アグネス・ラムがいた時代』はアイドル論ではなく、主な社会現象を写真を通じて語る。1975年から1980年代を、昨年亡くなった長友健二という広告写真家が撮影した写真と文章で次の5つのテーマで語る。いずれもわたしには懐かしい思い出がつきまとう話題だ。
       (1)アグネス旋風(ブーム)が日本を席巻したころ
       (2)ヌード写真(グラビア)とロマンポルノが熱かったころ
       (3)映画俳優(スター)たちとの出会いと別れ
       (4)渡辺(ナベ)プロの絶頂期
       (5)フォークソング、キャンディーズ、そして80年代へ

 この中で一番懐かしかったのは、今ではとっくに忘れられた(2)の日活ロマンポルノである。それは斜陽化する映画産業の活路でありアダ花だったにせよ、ワイセツ(猥褻)とは何かとかの論争を提起し、セックス描写だけでないロマンがただよっていた。グラビアアイドルとは違った演技もあった。それは今のようにヘアー丸出しとは異なる裸体だった。それが演技より女優の容貌に依存するようになって衰退したのも皮肉である。これも娯楽の変化の反映なのだろう。

 そして、音楽と関わる話題も多い。(4)には天地真理やアグネス・チャン、(5)には井上陽水・吉田拓郎・泉谷しげる・ガロ・グレープそしてキャンディーズの写真も多数掲載されている。そこにはテレビの音楽番組を仕切っていた渡辺プロとフォーク歌手の売り込みかたも紹介されていておもしろい。

 とはいえ、こういうものを持ち出してあれこれ語るのは気がひける。熱を込めて語る話でもないし、解説を加えるほど誤解される内容である。過ぎてしまえば語るのをためらうのが映画や音楽につきまとうようだ。でも、それを熱く語り、写真に見取れたのも否定できない通り過ごした時間に変わりはない。ともあれ、自分から口にするのはためらうものの無視できない内容がたっぷり掲載されている本である。