モノローグ

第二章

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 専門学校は高校以上に友人を作るのが難しい環境でした。一クラスは七十人以上いましたし、授業は大きな教室で行われていましたから、周りに座る顔ぶれは毎日違っていました。そのうち、各々の定位置というものが決まってきたようで、毎日同じような場所に座っていますと、周りも同じような人になってきました。しかし、僕は人見知りが激しく、その人たちに自分からなかなか声をかけられなかったため、八月の夏休みが終わっても気軽に話せる友人はひとりもいませんでした。状況が変わったのは九月の新学期が始まってからでした。

 新学期になり、新しい科目として実験が加わりました。実験は四、五名のグループに分かれて行なわれ、その組み分けは出席簿順だったため、毎回決まった人たちと同じ時間を共有するため必然的に会話がうまれ、そのうちのひとりの津島という僕と同じ年齢の北海道出身の男と親しくなり、その流れで彼の友人だった西田と伊丹とも徐々に仲良くなっていきました。

 一緒に昼食を取りに行ったり、学校帰りに喫茶店に寄ったりと、四人で行動することが増えていきました。数人で行動することによって、それまでは全く縁のなかった場所に踏み込むことができました。お恥ずかしい話ですが、誰とも満足に口を利けず、独りのときは昼食といえば専ら学食で三百九十円のてんぷらうどんでしたが、四人になってからはそれが学校近くにある中華屋の肉野菜炒め定食になったりしましたし、授業が終われば一目散に帰宅していたのが、喫茶店に寄って他愛のないことを話したり、ゲームセンターに入って無駄使いをしたり、本屋によって参考書を物色したりしました。独りでいるときの自由さは失われましたが、行動範囲は広がり、それは好ましく思えました。

 一緒にいる時間が増えてくると、それぞれの個性もわかってきました。僕と津島は比較的考えが近く、虚無的であり、乾いたものの見方をすることが多かったように思います。それに対して西田は何に対しても生真面目に考える方で、よく僕と津島は彼に説教を受けていました。学生の一番の関心事である就職に対しても、僕と津島は転職するのは当たり前で、二十歳そこそこで自分に本当にあっているものなどわかるはずがないと考えていたのに対して、西田は始めから転職を前提とした就職などするべきではないと言っていました。伊丹は他の三人に対してひとつ年下ということもあったかもしれませんが、あまり自分の考えを言わない方で、何を考えているのかよくわからないタイプでした。

 津島は講義に出る回数も少なく、専門学校に通っているのは故郷にいる親に対するアリバイのようなものだと考えていたようで、学校での勉強はあまり実社会では役に立たないと高言していました。西田はそんなこと本人のためにならないからしない方がいいと言っていましたが、講義では代返、ノートを貸したりと僕は彼のためにいろいろとやりました。いや、実際は彼のためというよりも、自分のためでした。西田のいうように津島のことを思えば、このようなことはしない方がいいでしょう。しかし、僕は津島によく思われたいという一心で、彼から言われたことを忠実にやっていました。

 西田はとにかく真面目で、自分に対するだけではく、他人に対してもそれを求めました。性格的にはまるで水と油ほどの違いがあった津島と西田でしたが、そんなふたりが友人として仲良くやれたのは、漠然とした言い方になってしまいますが、西田が津島の持っている自由な雰囲気に惹かれたということがあったと思いますし、津島も西田の生真面目さにおかしみを感じていたのでしょう。

 津島の唯一の自慢といっていいのは、大型二輪の免許を持っていたことでした。彼はまだ北海道にいた頃、バイクで故郷の函館から広島まで一気に走り、広島市内の喫茶店に入り、コーヒー一杯を注文して、それを飲み、またバイクに乗り、今度は一気に函館まで帰るという遊びをしたことがあると話したことがありました。
 「何でそんなことしたの?」と訊くと
 「別にわけなんかないよ。そうしたかったから」と彼は応えました。

 僕はこの全く意味がなく、生産性もない行為を堂々と行える津島に憧れに近い気持ちを感じました。それは、彼は自由だということでした。行動というものは、通常、意味に束縛されています。行動するとき、そこには常に、例えば将来のためとか、家族のためとか、健康のためとか、趣味だからとか意味性が付帯されるのです。人が眉をひそめるような行動を行え、また、それを堂々と話せる人間に僕は畏敬の念を禁じえません。

 僕は津島の影響からか、バイクの免許がほしくなりました。そして両親にそのことを相談しました。バイト代だけでは、どうしても足りなかったのです。しかし、それは両親の、特に母の反対にあい、できなくなりました。車ならいいけど、バイクは危ないから止めた方がいいと母は心配をしていました。

 だけど、僕は諦め切れず、友人たちにそのことを相談しました。津島には
 「それだったら、バイトの時間増やすとか、もうひとつ別のバイトをするとかすればいいじゃん」と簡単に言われましたが、バイトの時間を増やせば学業にも影響が出そうな気がして、今ひとつ踏み切ることができずにいたのです。
 「働き出してから、取ってもいいんじゃないの?」と西田が言うと
 「馬鹿だな。実際に会社に入ったら、もっと時間的にきつくなるよ。どうしてもほしかったら、今取らないと」と津島は強く言いました。僕は津島に刺激され、自動車教習場をいろいろと調べ、バイトを週に数時間増やせば何とかなりそうなところを見つけました。しかし、いざという時、バイクの免許の話しをしたときの母の心配そうな顔が脳裏に浮かんできて、終に申し込むことができませんでした。

 僕は自分を支配している見えない糸の存在を感じ始めていました。川島さんと別れることになったのも、バイクの免許を取るのを止めたのも、その糸に操られた結果のように思えるのです。そして、その糸の端を握っているのは母でした。

 川島さんのことを明夫に言ったのは、母以外考えられませんでしたし、バイクの免許に関しては直接反対しました。どちらも最終的に決断したのは僕です。しかし、母の意図の香り嗅ぎ、その通りに踊る自分は、結局、母の掌から逃れられない囚人なのかもしれないと思いました。

 津島たちと仲良くなってから、僕は酒の味を覚えました。みんなお金があまりなかったため、ほとんど津島の借りているアパートの一室に集って安いウィスキーをコーラで割ったりして飲んでいました。四人の中で津島だけがひとり暮らしをしており、他の三人は親元から学校に通っていたため、自然と彼の部屋が溜まり場になったのです。大型自動二輪の免許を持っていることを自慢するほどバイク好きな津島でしたが、現在は所有しておらず、部屋の中にはキャブレターなど解体したエンジン内の部品が灯油漬けになっていました。部屋の隅には、漫画を中心として多くの書物が乱雑に積み上げられていたりして、以外と彼の読書量の多いことに僕は感心しました。

 酒を飲んでの話題は西田が中心になった時は、就職に関することがほとんどで、津島が中心になるとそれが女とバイクと人生に変わりました。僕はあまり話題を提供するということはなく、伊丹に至ってはまだ未成年というわけでもなかったと思いますが、ひとりジュースを飲んでみんなの話しを聞いてにやにやと笑っているだけでした。僕はどうもこの伊丹が苦手で、ふたりきりになったときなど、話題がほとんど見つからず、気まずい思いを何度もしました。

 一度だけ僕は川島さんとのことをやや話を変えて、酒の席で話したことがあります。同じ年頃の彼らの意見が聞きたかったのです。
 「従弟の言葉で気持ちが冷めたっていうのは、ちょっとわかる気がするよ。自分ではダイヤモンドだと思っていたものが他人からはただの石にしか見えなかったんだからな」と西田は共感を示してくれましたが、津島はそれを一蹴しました。
 「結局、お前は他人に対してカッコつけたかっただけじゃないの?他人に‘いい女と付合っているな’と言われたいんじゃないの?女は他人に見せびらかすアクセサリーじゃないんだぜ。自分さえ良ければ、他人が何て言ったっていいじゃんか。彼女のことを信じられなかったっていうけど、それだって自分が傷つくのがいやなだけだったんじゃないのか。ほんとに好きだったら、どんなことがあっても信じろ。それができなかったっていうのは、それだけの関係だったということだよ」
 「まあ、津島の言っていることは、正論だと思うけど、現実となるとそうもいかないだろう。人なんてそんなに強くもないし、きれいでもないだろう」と西田が言い、コーラ割のウィスキーを一口苦い顔をして飲みました。
 「弱いから、信じるんじゃないか」と一番酒に強い津島はウィスキーのオンザロックを掌で転がしながら言いました。就職に関してはいい加減な津島でしたが、女のことになると真面目で彼の新しい一面を見たような気になりました。このとき、普段はただ話しを聞いているだけの伊丹が、持っていたコーラをテーブルの上に置いてぽつぽつと話し始めました。
 「俺、だめなんだよな。女の人と仲良くなって、付合うようになって、しばらくすると気持ちのすれ違いっていうか、例えば俺が無性に会いたいと思っているのに、相手はそうでもなかったり、プレゼントを送っても、俺が期待していたほど喜んでくれなかったり、何処かに遊びに連れて行ってあげても、あまり楽しそうでなかったりしてさ。そいうのを見ると相手を無性に傷つけたくなってしまう。そして、とても冷酷なやり方で、相手に最もダメージの大きなやり方で別れたいって衝動が起きて…」
 この話しは全くの架空ではなく、伊丹には実際に付合っている女性がいるようでした。

 「まだ、ガキなんだよ」と津島が吐き棄てるように言いました。彼はウィスキーをオンザロックでぐいぐいと飲んでいましたので、かなり酔いも回っているらしく目が据わっていました。
 「伊丹、お前はただ自分の欲望を相手に押しつけているだけだよ。自分が会いたいから、会え、プレゼント送ったから喜べ、面白い所に連れて行ってやるから楽しい顔をしろと言っているのと変わらないだろ。相手にしてみれば、お前が会いたいっていっても疲れているかもしれないし、用事があるかもしれない。プレゼントだって、遊びに行くんだって、気持ちの弾んでいるのはお前だけで、相手はさしてうれしくないかもしれないだろ。お前としては、うれしくなくてもうれしそうな顔をしろっていうことかもしれないけどな」いつも他人に対してズケズケとものをいう津島ですが、酒が入っていたため、その傾向はさらに強くなったようです。
 「何もそんなことは言わないよ。だけど、付き合っていくには演技することも必要だと思う。エチケットみたいなものさ。例えばプレゼントをもらってさ、それがうれしいものでなくても、一応喜ぶ振りくらいはしないとね」
 「お前何か勘違いしていないか。プレゼントをもらうっていうことは、プレゼントそのものよりも、その行為がうれしいんだろ?遊びに行くのだって、場所そのものじゃなくて、いっしょに行くことが楽しいんだろ?だから、別に演技なんかする必要はないよ。もし、男と女の間でそういった演技をする必要があるとしたら、それはもう終わりっていうことだ」
「終りって…。おい、そんなに簡単に結論だすなよ」と西田がやや険悪になってしまった雰囲気を和らげようと冗談っぽく言いました。
 「伊丹と彼女が終わりって言っているんじゃないだろ。一般論としてさ。それに伊丹の彼女は演技なんかしていないんだから、まあ、当分は大丈夫じゃないか。でも、伊丹、ほんとに大人にならないと、いつかお前、自分の気持ちのコントロールを失って、やばいことになるよ」津島はさらにアルコールが回ったようで、やや呂律も危うくなっていました。
 「おい、おい、伊丹はそんな女に暴力をふるうようなタイプじゃないだろ。心配しなくても大丈夫だよ。それよりお前は大丈夫なのか?」西田は酔いの回っている津島に呆れるように言いました。しかし、津島のこの言葉が後年、不幸な形で現実となるとは、この時は全く思いもしなかったのです。

 専門学校の二年間は早く流れて行きました。就職に対する考えはかなりの違いがあった僕たち四人でしたが、学業に問題ありという点では一致していたように思います。始めから学校の勉強に何も期待していなかった津島は別としても、僕は試験の成績を何とかまとめていましたが、それはほとんど丸暗記の産物で実際の理論となるとちんぷんかんぷんという状態がずっと続いていましたし、四人の中で一番学業が優秀だった西田も大して僕と変わらない状況だったようで、彼も大学受験の時に身に付けたテクニックで何とか乗り切っているだけでした。四人の中で唯一、大学受験をしていない伊丹は別の考えを持っているようでした。

 専門学校は専門過程の二年ですが、さらに高い知識を身につけたいと考える人のために修士過程というものがあり、もう一年学業を続けられるようになっていました。伊丹はその修士過程に進学することを考えていました。

 しかし、彼の成績はただの丸暗記と受験テクニックで何とか試験を乗り切っている僕や西田にはるかに及ばず、試験前の一夜漬けの津島より若干上というくらいだったのです。伊丹がもっと深く電子工学の知識を身に付けたいと本気で思っているとは思えませんでした。彼は僕が大学に行きたかった本当の理由と同じく、もう少し自分を宙ぶらりんの状態にしておきたいと考えているのではないかと思いました。

 伊丹が進学することを決めたとき、皆の反応はまちまちでした。机の上の勉強に何の意味もないと考えていた津島は、彼の進学する理由を僕と同じように思っているようで、本人には直接言いませんでしたが、一年を無駄にするようなものだと呆れ顔でしたが、西田は自分も大学受験で浪人していなければ、もう一年勉強したかったと伊丹を羨ましがっていました。しかし、僕はそういう感情がおきませんでした。モラトリアムを続けたいがために大学進学を考えていた人間としては不思議なのですが、この時は早く社会に出て働きたいという気持ちが強くなっていたのです。

 何故そんな気持ちになったのかというと、働いて多少なりとも家計に入れて少しでも両親を楽にさせたいとか、自分で稼いだお金を自由に使ってみたいとか、そういう前向きなものではなく、ほとんど強制的に人との関りができると思ったからです。

 学生時代というのは、能動的でないとなかなか友人というものはできません。専門学校で僕は何とか四人の友人を得ることができましたが、それは実験の時間があったからで、もしそれがなければ僕は二年間誰ともまともに口を利かずに卒業ということになっていたかもしれないのです。

 しかし、働き出せば、上司から仕事を教わったり、指示を受けたり、また自分から質問したり、または失敗して怒られたりと、否応なく必ず誰かと話さないといけなくなるのです。僕が人間関係においてどんなに消極的な人間であっても、最低限の会話というものをしなくてはいけなくなります。もうだんまりのまま、過ごすこともなくなります。それが、僕には好ましいことだと思えてきました。

 僕は小学校時代から、ほとんど友人というものを持つことができませんでした。会社でも友人と呼べるような人との関係は得られないかもしれません、しかし、少なくても、もう誰からも相手にされず、放って置かれるということはなくなるのです。どんな形であり、誰かは声をかけてくれるでしょう。それが僕にとって待ち遠しいものに思えてきたのです。

 最初に会社訪問したのは大手電機メーカーの研究所でした。ここを選んだ理由は、まず親会社が大きかったこと、そして研究所だから納期からもある程度自由ではないかと思ったことでした。もちろん僕が研究者になるわけではありません。職種は研究者の助手でした。それも、自分には最適なのではないかと考えました。研究者にいわれる通り、「わかりました」「わかりました」と仕事をすればいいのですから、あまり自分の頭で考えることもなく、責任もそれほど重くないような気がしました。

 学校の学生科を通して、先方の指示により会社訪問の日にちを決めました。会社訪問の日、通された会議室にはすでに十数人の男性が慣れない背広姿で座っていました。本来なら先方から仕事の内容や職場の案内などいろいろ話しを聞くだけのはずなのですが、担当の人からいきなり適性検査を行ないますと言われ、用紙が配られました。そして、それを終えると、今度はひとりひとり別室に呼ばれ、その中で仕事の内容が話され、自宅からここまで何分かかったかとか、今まで重い病気をしたことがあるかとか、簡単な面接が行なわれました。僕は会社というものの怖さを感じました。

 するとその夜、その会社の担当者から自宅に電話がかかってきて、今度は何月何日の何時にいらしてくださいと言われました。どうやら、僕は一時試験というものをパスしたようで、少し緊張して指定された日時にその会社に行きました。前回よりも人数は若干減っていて、あの適性検査で落された人もいたことを知りました。

 今度は本格的な試験がありました。といっても高校レベルの英・数・国の問題で、その後また別室にひとりひとり呼ばれ面接がありました。そして、それが終わるとまた全員が会議室に集められ。担当の人が「合格者だけ、二日後に電話連絡します。電話がない場合は、ご縁がなかったものと思ってください」と言いました。僕はますます会社の恐ろしさを思いました。

 二日後、家に電話はありませんでした。そして、もしかしたらと思ったその次の日も電話はありませんでした。入社試験に落ちたということです。大学受験の時のように掲示板に合格者が発表されるような形式だと結果がどうであれ、さっぱりした気分になりますが、時間の経過によって不合格がわかるというのはどうも釈然とせず、いつまでもいやな気持ちが続きました。

 次に会社訪問にいったところは、測定器を作っている小さな会社でした。ここは応募者を数人集めて説明するという形式ではなく、こちらの都合のいい日時に合わせてくれました。会社は自社ビルでしたが、古くこじんまりとした暗い感じの建物でした。担当者は小太りの人の良さそうな中年の男性で、社内を一通り案内してくれました。中は雑然としていて、いろいろな電子部品や書類が乱雑に机の上に置かれていて、働いている人も前に入っていた社会問題を考えるサークルで同じ合宿に参加した人のように暗く冴えない感じの人ばかりでした。帰り際に「それで、応募しますか」と小太りの担当者に訊かれました。印象が悪く、全く乗り気ではありませんでしたが、断ることができず、つい「応募します」と言ってしまいました。すると、「それでは、何月何日の何時に試験を行ないますので、いらしてください」と言われました。

 しかし、その日、僕はその会社に行きませんでした。全くもって、社会人失格なのですが、前々からあまり乗り気ではなかったため、気が重くなり、先方に断りの電話も入れず、約束をすっぽかしてしまったのです。

 約束の時間を一時間ほど過ぎた時、家に採用の担当者から電話がありました。その電話は母が取次ぎました。担当者は「今日、いらっしゃる予定でしたけど、どうなさいました」とひどく丁寧な物言いでした。僕は何と応えていいのか困りましたが「すいません。よく考えて見たのですが、自分には合わないような気がしまして。応募を辞退させてください」と言いました。担当者は特に僕を責めるでもなく、快く了承してくれました。後から母に事情を訊かれました。僕はただ、「前に会社訪問に行ったところだけど、自分に合わない気がするので入社試験を辞退した」と言いました。母は「電話まで掛けて来てくれたのだから、期待されていたんじゃないの」とちょっと残念そうに言いました。就職まで母に干渉されたような気分になり、自分のしたことの自己嫌悪も重なって、ますます気が重くなりました。

 この頃になると、教室のあちらこちらで何処其処の会社に内定したとかいう話しが聞けるようになりました。学業は平凡ながらも人間的に会社員向きの西田はすでに中堅の電子機器メーカーに就職が内定していました。ただ学校に通っているだけという津島は学校の求人には目もくれず、独自の就職活動を展開していました。津島が学校の求人をあてにしなかったのには理由がありました。

 もちろん彼が電子工学などというものに全く関心がなく、それに関連した企業への就職を望んでいなかったというのが一番大きな理由かもしれませんが、学校に寄せられる求人を利用するには厄介な仕組みがあったのです。まず、校内に貼り出された求人票の会社に勝手に応募することはできませんでした。必ず、学生科を通さないといけなかったのです。そして一度の二社以上の応募もできません。一社ずつ受け、その結果が出てからでないと次の行動は取れませんでした。さらに、試験を受け、採用となった場合、原則的に辞退することは許されていませんでした。もし、しかるべき理由もないのに辞退すれば、次から学生科を通しての応募はできなくなり、独自で就職先を探すしかなくなるのです。したがって学校に寄せられた会社の求人に応募する場合、大変まどろっこしい過程を踏んで行くことになります。

 それにしても、就職というのは本当に博打だと思いました。二十代前半で自分に適した仕事を分かっている人などいるのでしょうか?恐らく、そんな人間はほんの一握りだと思います。僕はファーストフードのアルバイトの経験から自分は接客業に向いていないことはわかっていましたし、営業はさらに向いていないでしょう。不特定多数の人間と接する必要のない技術や生産は僕には合っているかもしれないと思いました。

 しかし、それだって接客業や営業よりはましという程度なのかもしれないし、自分はもしかしたら先の入社試験をすっぽかしたことに象徴されるように、社会人そのものに向いていないような気もしました。自分が何に向いているのかもわからず、仕事を探しているのですから、これはもう喜劇です。

 次の会社は自分の受かりそうなところを選びました。今までの会社の求人数は一人だったので、今度はそれが五人になっているところにしたのです。学校に寄せられる企業の求人はそのほとんどが一人または二人ですから、五人というのはかなり広き門というわけです。しかし、後から考えてみると、この五人というのも会社側の事情があったのです。

 求人票によると、この会社の業務は電子開発、宇宙開発、そしてソフト開発となっていました。社名は日本セレックといい上記の三つの業務を英語にして、そのアルファベットを組み合わせるとこういう名前になるそうです。会社訪問に行くと、ソフト開発をしている部屋に通されました。それほど広くない部屋には、コンピュータの端末がずらっと並び、僕の胸は高まりました。何でもマルチビジョンや漁船に搭載する魚群探知器などのソフトを開発しているとのことでした。しかし、ソフト開発はこの会社のほんの一部で、中心は電子開発と宇宙開発の業務でした。日本セレックという会社の本質は、大手電機メーカーの協力会社でした。会社訪問の後、僕は応募することを決め、数日後に健康診断書を提出し、筆記試験と面接を受けました。そして、あっけなく内定ということになりました。

 三月になるともうほとんど授業はなく、後は卒業を待つだけという状況で、西田は車の運転免許を取りにほとんど毎日、教習所通いをしていました。まだ、就職の決まっていなかった津島も中古自動車の販売会社に採用されました。学業と全く関係ない職種に就くとは彼らしいやり方で、感心するやら、呆れるやらで、一足先に春が来たような気分になりました。さて、僕も残り一月、のんびりしようかと思っていたところ、就職の内定した日本セレックの担当者から電話が自宅にかかって来ました。その内容は、本来四月からの勤務を一月前倒しして、三月から働いてくれないかというものでした。

 まだ学生の身分でありながら、正式に働くというのは学校で許されていないので三月中はアルバイトという名目にして、給料も時給制になるとのことでした。一月のんびりしたいと思っていた僕は、当然ながらそんなことを頼まれるのは迷惑でしたが、断れば内定が取り消されることも有り得るような気がして、承諾してしまいました。

 指定された日にスーツを着て会社に出社すると、僕の他に四名の新入社員が同様のことを頼まれたようで、みんな揃って職場になる大手電気メーカーのF工場に行きました。その工場は従業員が一万六千人という巨大さで、建物は三十近くありました。僕たちは十五工場という五階建ての建物の中に連れて行かれました。中はコンクリートが剥き出しの壁で、映画で見た軍事要塞を想像させるような作りで人の多さもあり、圧倒されました。

 第一技術部という大型コンピュータの設計をしている部署が僕たちの職場でした。そこで先方の上司と引き合わされ、簡単な自己紹介をして、来週の月曜日から勤務ということになりました。三月末は年度末に当るため、非常に忙しく、誰の手でも借りたいという状況のようで、僕たち学生が引っ張り出されたというわけでした。

 あれだけ働くことを望んでいたのに、いざとなると急に憂鬱な気持ちになってしまい、帰りの電車の中で通勤の経路や時間を話し合っている他の人たちと離れ、ただぼんやりと車窓から流れる風景を見ていました。そういえば、以前にもこのような情景に自分がいたことに気づきました。そうです、大学受験に失敗して自殺しようと思った時です。あの時も僕は電車の車窓から流れる街の風景をぼんやり見ていました。あの時とこの時、どちらも気分は重く沈んでいました。しかし、同じ暗さでもあの時の心の風景は夜明け前だったのに対して、この時は夕暮れだったのです。

 自宅に戻っても憂鬱な気持ちは続き、こんなことならたとえ内定が取り消しになっても、三月からの勤務を断ればよかったと思い続けていました。しかし、結局、僕は三月から働くということはありませんでした。天の助けなどといったら真におかしいのですが、IC回路という科目で赤点を取ってしまい、補習授業を受けた上、追試ということになったのです。

 落した科目があるので補習授業を受けなくてはならなくなった、このことを理由にして、三月からの勤務を断ろうと考えました。そして、すぐに会社の担当者に電話したのです。会社の担当者は「入社試験の成績が良かった人を選抜したんです。高野君は優秀だからぜひとも早く仕事に慣れてほしいと思っているんだけど。補習授業がある時は勤務しなくていいから、何とかならないだろうか」と言われました。

 しかし、僕は「補習の後、再試験があり、これに落ちてしまうと卒業できなくなってしまいますので、勉強に集中したいのですが」としぶとく粘りました。この時、実は内定の取り消しさえ、覚悟していたのです。いや、ひょっとしたら、それを望んでいたのかもしれません。

 担当者もここまで言われれば仕方ないと思ったのか、すんなりと四月からの勤務でいいと承諾してくれました。僕は小躍りしたいような気分でした。これで、一ヶ月何もしなくていい時間が取れると思ったのです。補習授業などは、ただの形式だけで、追試も補習授業に出れば全員が合格できるようになっているのですから、全くのセレモニーでしかありませんでした。

 IC回路の補修授業には十数人が参加していました。クラス内で見かける顔もあり、また他のクラスの全く知らない人もいました。その中のひとりに、学生には珍しくスーツ姿で授業に出ている男性の顔を見た時、恥かしさを感じました。ちょっと前まで、彼の顔を全く知りませんでした。その男性を初めて見たのは日本セレックから呼び出しを受けたときです。彼は三月からの勤務を要請された五人の内のひとりだったのです。

 僕は彼の目を恐れました。そして、補修の教室内や学校の廊下など、できるだけ彼の眼の届かないところに身を潜ませていました。しかし、ある日、補修の教室に向かう廊下で、後から彼に声をかけられました。

 あまりの気まずさに、体が凍りついたように感じました。僕は振り返り、小学生の時に身につけたニコニコ顔で恐る恐る対応しました。あまり親しくない人に自分から積極的に話しかけるということはこれまでほとんどありませんでしたが、この時は彼にどうして三月からの勤務を断ったのかを訊かれるのが怖くて、質問攻めにしたのでした。しかし、それはかえって僕に劣等感を覚えさせました。

 彼はIC回路の他、さらにもう一科目落していて二科目の補習授業と追試があると言いました。それにもかかわらず、三月からの勤務を受諾したのです。補習と追試の時間は学校に出て、それが終わった後、会社に出勤して仕事をしているということでした。

 彼は僕が補習を口実にして、勤務を辞退したことも知っていました。それに関して、非難するようなことは言いませんでしたが、彼の表情から、僕を蔑んでいるのが伺えました。会社側からの要求は決して正当なものではないと思っていました。しかし、現実に、それを忠実に履行している人物を目の前にしたとき、自分はとても劣った人間なのではないかと思いました。補習授業に出ながら、勤務することは十分に可能でした。それを何の考えもなく、ただしばらくの間のんびりしたいという理由だけで拒否してしまった自分が醜く思えました。このことは小さな疵となって心の中に後々まで残りました。

 卒業式は日本武道館で行なわれました。それはほとんど形式的なもので、在校生による送辞も、卒業生による答辞も、空虚な文字の羅列でした。また、それらを読み上げた人も、卒業証書を受け取るクラスの代表者も、何時の間にか知らない誰かに決まっていて、自分とは関係ないところで物事が進んでいました。まるで世の中の縮図を見たような気になりました。自分の席はあるけれど、そこに僕はいてもいなくてもどちらでもいいような感覚でした。この無力感はこの先ずっと僕について離れることはなくなりました。

 卒業式が終わった後、僕たちはいつものように津島のアパートの部屋に集り、お酒を飲みました。珍しく鉄板を出し、その上で肉やら野菜やらを焼いて、いつものウイスキーのコーラ割りやビールなどといっしょに食べました。話しはまず就職のことになり、僕と津島が転職を前提として就職したことに、西田は反発しました。
 「お前たちの考えは、絶対間違っているよ。始めからそんなこと考えないで、そこで精一杯がんばることをまず考えるべきだろ。それで、どうしても自分に合わないと思ったらその時、転職を考えればいいんだよ」
 「それだったら、お前は最初にやった女と結婚するのか?そんなことないだろ。何人かとやって、これだと思ったら一緒になればいいじゃんか。女でも仕事でも、一番目に最良のものと出会う確率なんてほとんどゼロだぜ」
 「そんなこといったら、一生何にもなれないし、結婚もできないだろ。これは違う、あれも違う、そのうち自分に合うものに出会うはずだなんて考えはだめだよ。合っていても、いなくても、何かの縁だと思って、そこでがんばるのが本当だろ」
 「一生探し続けてもいいじゃないか?本人がそれでいいと思っているなら。まあ、俺はそんなことはしないだろうけどな。ただ、ある年齢になるまでは、いろいろとやってみるつもりだけどな」

 西田の考えと津島の考えは、全く違っていましたが、僕には諦めがあったのです。最初に入った会社が自分に合うということはないという諦めです。いや、そもそも自分に合った会社などあるのだろうかと思っていました。どう考えてもそんな会社はなさそうです。あとは、何処で妥協するかですが、少なくても一社目でしようとは思いませんでした。

 津島は西田と議論するのがだんだんと面倒臭くなってきたようで、適当に話しを合わせて後はどうでもいいような話になりました。しばらくすると僕はお酒に酔ってしまったのか、うとうととしてきてしまい、その場で横になりました。どのくらいの時間が経ったのかは、わかりません。恐らくそれほど時間は経っていなかったでしょう。何やら、三人の相談するような声で目が覚めました。しかし、起き出すのも面倒臭い気がして、僕は声をかけず、寝た振りを続けました。

 「車の免許はもう取れたのかよ」と津島の声がしました。
 「ああ、やっと先週取れた。この前は親父の車でちょっと練習したよ」とそれに西田の応えた声がしました。
 「そうか、じゃー大丈夫だな。伊丹、お前の彼女の友達はOKなんだろうな?」
 「もう話はついてる。泊まりはダメだけど、日帰りドライブならいいって」
 卒業旅行の相談のようですが、男だけでなく、伊丹の彼女の友達も来るようで、楽しいことになりそうでした。僕は目を覚ます頃合いを見計らっていました。
 「でも六人ということになると、普通の乗用車タイプじゃ無理だろ」不安そうな西田の声がしました。六という数字に僕の心は重く沈んでいきました。
 「ワンボックスだな。ワンボックスだって同じだよ。普通免許で運転できるんだから。まあ、ちょっと慣れは必要かもしれないけど、ノーズがない分、慣れれば楽だよ。それに込み入ったところは俺が運転するからさ」
 「でも車体が大きいから。親父の車も普通のセダンだし、免許取り立てでも大丈夫かな?」
 「全然問題ないよ。それにワンボックスだったら二人ずつ三列で座れば、ぴったりだろ」

 話の様子から、このことはかなり以前から計画されていたようで、後は日時、行き場所などが三人で話し合われていました。たまに笑い声を誰かが発したりして、その度にまた誰かが僕の顔をのぞき込む気配がしました。

 早くこの場から立ち去りたいと思いました。しかし、僕は狸寝入りを翌朝まで続け、ほとんど一睡もできないまま西田といっしょに帰路につきました。無残な心を隠し、普段と変わらない友人の役を演じ続けたのでした。

 朝の陽は意外と眩しく、それはまるで舞台上にいる演者を照らすスポットライトのようにわざとらしい光と僕に投げかけていました。駅に着き、西田と分かれました。駅の構内は薄暗く、僕はやっと舞台を降りたような気持ちになりました。(2011.1.15)


―つづく―

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