モノローグ

第二章

1

 「すいません。ちょっとお時間頂けますか?」
真夏のように強烈だった陽が傾いた六月の夕暮れ時、専門学校からの帰りに駅前で若い女性に声を掛けられました。
 「何でしょうか?」と面度臭そうに応えると
 「私、社会問題を考えるサークルに所属している者ですが、今、社会で起きているいろいろなことに興味ありませんか?」と明るく積極的に訊いてきました。浅黒く、彫りの深い顔立ちは南方の人を想像させました。いつもでしたら「急いでいるもので」と言って、足早に立ち去るところですが、相手の雰囲気についつい引き込まれてしまったようで、
 「興味ないこともないですけど」と言ってしまいました。その女性はその言葉を待っていたように
 「そうですか。私たちのサークルはただ今起きている社会問題を考えるだけでなく、実際に実践していこうというサークルなんです。この駅前もメンバーが定期的に掃除しているんですよ」と言いました。彼女のあまりにもポジティブな語気に、僕は少し疲れて来たので何とかこの場から逃げようと思いましたが、それを察したのか相手は全く意表をつく質問をして来ました。
 「あのー、よかったら誕生日を教えてくれませんか?」
 「十月七日ですけど」と僕は無防備に答えてしまいました。
 「えー、そうなんですか!私と同じですよ」と彼女は弾んだ声を上げました。僕はあまりにもありきたりな対応に絶句してしまいました。彼女は僕の表情から疑念を強く感じ取ったのでしょうか、
 「うそじゃありませんよ。天秤座でしょ?」と即座に星座まで言い、疑いを晴らそうとしました。
 「私、何となく、自分と同じてんびん座の人って感覚でわかるんですよ。てんびん座の人って、人に対しても、物事に対しても、平衡感覚に優れているというか、公平でしょ。あなたもそのような気がしたものですから、お誕生日を訊いたのです」とオカルトめいたことを言い、少し気味が悪くなりましたが、このようなネガティブな感情は後に別のものに変化する場合もあるようです。

 彼女は若い女性ですが、大変若いかと言われるとちょっと微妙で、あまり軽はずみに嘘を言うような感じもしなかったので、とりあえず僕は彼女の言葉を信じることにしました。しかし、そのようなサークルに関るつもりは毛頭なかったので、何とか断ろうとすると、いきなりまた別の話題を持ち出して来ました。
 「田中角栄ってどう思います?」あまりに意外で、あまりにどうでもいい質問なので、ついつい僕の応えもいい加減になりました。
 「ダーティ・ヒーローは作っちゃいけないと思いますね」
 「確かにそうですが、でも功績の部分も評価しないといけないんじゃないでしょうか?人は一面だけではないですからね」と正論を堂々と言うので、僕はますます逃げたくなりました。しかし、彼女は僕のそんな気持ちにはおかまいなしに、話しをどんどん進めて行きました。
 「この近くにサークルの勉強場がありますので、ちょっと様子だけでも見ていきませんか?初めの三回の講習は無料ですので、それだけ受けて頂いて興味がなければ止めていただいて一向にかまいませんから」と真摯に言われると、断れなくなってしまい、とりあえず暇ですし、サークルの様子だけでも覗いて行こうかと思い、彼女の後に従いました。やはり、僕には嫌なことをきっぱりと断るという能力が欠けているようです。

 そのサークルは古びたマンションの一階にありました。陰気なクリーム色の鉄製のドアを開け、玄関で靴を脱ぎました。玄関を上がったところに受け付けの小さなテーブルがあり、そこに座っている柔和な感じの中年の女性にノートを渡され、住所、氏名、電話番号を記帳するように言われ、それを終えると灰色のカーペットの敷いてある部屋に通されました。その部屋は真中にやや大きめのテーブルが置いてあり、その他にパーテーションで三つ小部屋に仕切られていました。

 そこで僕を案内して来た女性から、部屋の中にいた別の女性に担当が変わり、僕はちょっと不安を覚えました。
 「まず、今日は初回ですからビデオを見てもらいます。時間は四十五分くらいです。お時間、大丈夫ですよね?」とその女性は言い、僕の返事を待たずに小部屋のひとつに僕を入れようとしました。
 「ビデオを見終わったら、帰っていいのですか?」と僕が訊くと
 「ええ、かまいませんよ。初めは三回ビデオを見てもらいます。今日三本一気に見てもかまいませんし、また次でもいいです。ただ、三本見たら、感想文を書いてもらいます。そして、その後、正式な入会となります」と慣れた口調で言いました。
 「初めの人の話だと、初めの三回の講習は無料で、その後、興味がなければ入会しなくてもいいということでしたけど」
 「ええ、そうですよ。ただ、入会を希望しない場合でも感想文だけは書いてください」

少し、話のニュアンスが違ってきたような感じもしましたが、僕はとりあえず、そのビデオというやつを見ることにしました。

 個室に入り、しばらくすると目の前のテレビに画像が映り始めました。その内容は陳腐なものでした。キリスト教を生き方の基盤として、いろいろな問題を考えていくといったもので、このサークルの本質は宗教なのだなとわかりました。約四十五分のビデオが終わり、小部屋から出ますと仮会員証のようなものを渡されました。そこには僕の名前と生年月日が手書きで書かれ、講一から講三という文字が黒枠に区切られて印刷されていて、その講一のところに済というスタンプが赤いインクで押されていました。
 「続き、見て行かれます?」と担当の女性が言いました。
 「いえ、ちょっと疲れたので、また今度にします。次はいつ来ればいいのでしょうか?」と僕が訊くと
 「いつでも、ご都合のいいときでかまいませんよ。そのカードも忘れずに持ってきてくださいね。それでは、お疲れ様でした」とにこやかな表情で応えました。

 マンションを後にした僕の心の中には、あの僕と誕生日が同じだという女にうまくやられたなという気持ちもありましたが、これから何かが始まるかもしれないという少しの期待もありました。いや、それ以上に学校に行っても誰も友人がいない僕は、無言のまま過ぎていく日々に虚しさを感じていたのかもしれません。誰ひとりとも会話を交わさず、一日授業を受け、帰宅するだけの毎日だったのです。家を出てから帰るまで一言も話さない日もありました。心の奥底では誰かに助けてもらいたかったのでしょう。ビデオの内容はあまりにも陳腐でしたが、もう二回見てみようと思いました。そして、その二日後、僕はまた怪しげなマンションの一室に行きました。

 二本目のビデオはキリストの生涯をわかりやすくまとめたものでした。ますます、宗教色が強くなり、少し拒否反応が出てきましたが、その次の日、最後のビデオに見に行きました。最後のビデオは完全なサークルの宣伝で、あまりに空虚なものでした。何かが始まるかもしれないという希望は萎んでいきました。三本目のビデオを見終わった後、感想文を書くように言われました。そこに‘空理空論’とだけ書こうとも思いましたが、それではあまりに身も蓋もないので、ちょっと前に読んでいたドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で登場人物のイワンが展開する劇詩‘大審問官’から覚えていた箇所を適当にわけもわからず引用して仕上げました。

 どうせもう二度と会うことのない人たちなのだから見栄など張る必要もないのですが、少しでも自分をよく見せようとするいやらしさが出てしまいました。それがいけなかったのです。その感想文を読んだ担当の女性とちょっとした口論になってしまい、さらにわけがわからなくなり、はっきりと入会の意思がないと断ることもできず、「ちょっと用事がありますので」と曖昧のまま、部屋をあとにしました。それで、もう終わりかと思っていましたら、まだ続きがあったのです。

 その夜の七時過ぎのことです。「川島さん、という人から電話よ」と母に言われました。川島さんなどという人に僕は全く覚えがなく、しかも訊くと女性とのことで何かの勧誘かと思って電話に出ました。「どちら様でしょうか?」と僕が訊くと、相手はそれをわかっていたようで、「駅で会った誕生日が同じ女です」と陽気な声で言いました。駅で僕に声をかけたあのサークルの女性だったのです。

 僕がサークルに入会しなかったことについての話しかと思いましたが、彼女は意識的かもしれませんがそのことを言わず、話したいのでこれから会えないかと誘ってきました。時間も時間ですし、面倒臭かったのですが結局彼女に押し切られて駅の改札口で会うことになりました。

 駅に着いたのは八時ちょっと前でした。川島さんは改札口のところで僕を見ると手を振りました。チェックの半袖のシャツにジーンズという清楚な雰囲気でにこやかに笑っている彼女を見ると、一瞬にして心が緩みました。ありきたりの挨拶をした後、彼女はあくまでも明るく
 「訊いたわ、急に帰っちゃったんですって?」とちょっと冗談っぽく僕を非難するような口調で言いました。よく考えてみれば、彼女といっしょにいた時間は駅で勧誘されてから、あのマンションの一室に案内されるまでですから、十数分といったところでしょうか。それなのに、もう長年の友人のような口調で話しかけてきました。僕はそのテクニックに知らず知らずのうちに絡めとられていったのです。
 「いや、ほんとに用事があったんですよ」
 「そう、ちょっと喫茶店にでも行って話さない?」
 「うーん、どうしようかな…」と僕が迷っていると
 「私のアパートの方がいいかしらね。そっちの方が周りに気兼ねもしなくて済むし」と彼女はいたずらっぽく微笑みました。ちょっとした興奮が心の中に起きました。

 彼女のアパートは駅から少し離れた寂しい路地にありました。若い女性が住むには相応しくないほど古く、二階ある彼女の部屋へ上がる階段は一歩足を踏み出すたびにいやな音を立てました。ドアの横に置かれた洗濯機が寂しそうでした。部屋の中には狭いながらも炊事場はありましたが、風呂はついておらず六畳一間でした。そのわりには物が多く、不自然な印象を受けました。  「狭くてごめんなさいね」と彼女は言い、コーヒーを入れてくれました。
 「高野君に駅で声をかけたの、もうひとつ理由があったんですよ。高野君、私の弟によく似ていたものだから…」と彼女はしんみりと話し出しました。誕生日の次は弟と、あまりに出来過ぎた話しにさすがに呆れました。しらけ切った気持ちを繕うために、
 「川島さんはどちらの出身なんですか?」などと訊いてみました。
 「鹿児島県の与論島。知ってる?」
 「何となく。それで弟さんは、こちらに出て来ているんですか?」
 彼女の表情が悲しげになりました。
 「いいえ…。弟は昨年の夏に事故で亡くなったんです。まだ、十八歳でした」
 「すいません」
 「いえ、いいの」
 彼女の話が何処まで本当なのかわからなくなりました。弟に僕が似ているという嘘はつけるでしょうが、果たしてその弟が昨年の夏に死んだなどという嘘がつけるだろうか、 それは本当なのではないだろうか、とすると僕が死んだ弟に似ているというのも或いは…などと考えてしまい、僕の頭は混乱するばかりでした。

 「弟が死んだとき、ほんとに悲しかった。何故、まだ若いのに、まだ何も知らないのに、何も悪いこともしていないのにと神様を恨んだ。というより、そんなものこの世に存在しないんだと思ったわ。だって、神様がいたら、そんな理不尽なことするはずないじゃない。何の罪もない若者の命を奪って、その反面、悪い人はうようよ生きているんだから。毎日がほんとに辛くて、辛くて…、恨んで、憎んで。だけど、そんなこといくら続けたって何の救いにもならないのよ。恨んでも、憎んでも救いにはならないのよ。そんなとき、今のサークルと出会ったの。そしてわかったのよ。結局、人間を救ってくれるのは愛だけなんだって。ただ、愛することだけなんだって。弟が死んだこと、それには、私たちには窺い知れないような意味があったのだと考えるようになったの。そしたら、楽になれた。恨みや悲しみが消えていって、楽になれたの」
 彼女の話を全て納得したわけでなく、反駁したい気持ちもありました。しかし、それはとてもできませんでした。反駁どころか、安易な同情さえもできない気がしました。僕は何も言えなくなりました。

 「高野君を駅で見かけたとき、ほんとに弟のような気がしたの。人間、一生の間に出会える人の数なんて決まっているの。その中で高野君と出会えたっていうのは、何か意味があると思ったの。そう、きっと意味があるの」と彼女は言い、僕の唇に唇を重ねてきました。キスをしたのは、あの中学校の卒業式の日以来でした。しかも、どちらとも女性の方から唇を奪われたのです。川島さんの話しではありませんが、その偶然の一致に僕は何かの運命的なものさえ感じました。ただ違ったのは、中学生のときのキスは子供のものでしたが、このときのキスは大人のものでした。僕と彼女は男と女の関係になりました。

 川島さんは高校を卒業した後、東京の短大に通うため上京、短大卒業後は都内にある測器メーカーに事務員として就職したそうです。二十五歳で僕よりも六歳も年上だと行為の後、知りました。僕にとって‘初体験’ということになったのですが、まことにあっけないもので、自分でも情けないやら表し抜けするやらで、こんなことを自慢しに来る従兄の明夫がますます馬鹿に思えて来ました。

 この翌日、僕はサークルに入会するため、あのマンション一室を訪ねました。
 「そうですか。ありがとうございます。感想文を読んで高野さんはきっと有用な人材になってくれると思っていたものですからね。それでは、まず週末に行なわれる合宿に参加して頂きます。都合はどうでしょうか?今週の金曜日の夜から日曜日の夕方までなのですが、河口湖まで行っていただきますが。そうですか、大丈夫ですか。わかりました。それでは、入会の手続きに入りましょう」ということで、僕は入会費、年会費、そして週末に行なわれるという合宿の参加費を払いました。その金額は当時アルバイトをしていた学校近くにあるファーストフード店での約一月分のバイト料に相当していました。しかし、それほど抵抗もなく、僕はよくわからないサークルの一員になってしまいました。

 その週の金曜日の夜七時、僕は‘合宿’に参加するため二日分の着替えを持って、マンションの一室を訪ねました。マンションの前の道路にはグレーのバンが二台止まっていました。部屋に入ると、僕以外の参加者はみんなもう来ていて、僕が到着するのを待っている状態でした。僕以外の新人の参加者は五名居ましたが、全員男性で、みんな社会人でした。他に講師だと思われる男性二人と女性二人が同伴しました。

 太っていたり、痩せていたり、度の強そうなメガネをかけていたり、服装も流行遅れというより、その外にあるようなもので、みんな暗く、彼女がいると思えるような人はひとりもいませんでした。まだ、ほとんど言葉を交わしていませんでしたが、僕は彼らに嫌悪感を覚えました。それは鏡に映ったみすぼらしい自分の姿をみているような感覚でした。目を逸らしたいにもかかわらず、彼らの誰かは必ず僕の視野の中にいました。彼らはみな一様に自信がなく、情けなさそうでした。しかし、決して醜くはありませんでした。あの高校時代の‘友人’黒木のように他人を利用することだけしか考えていないような狡猾さは感じられず、外見とは裏腹に彼らを汚いとは感じませんでした。

 河口湖に着いたときはもう十時を回っていました。合宿先はあまりきれいとはいえないような民宿で、僕たち五人は「遅くなり過ぎた」という理由で風呂にも入れず、高速道路のサービスエリアでとったうどんが夕食だったようで、大部屋で雑魚寝ということになりました。それでも、誰からも不平・不満が出ず、羊の群れご一向様という雰囲気でした。

 この合宿は後から考えても下らないもので、教育的意味は何も感じられず、ただサークルの資金集めの一環だったような気がします。やったことといえば、翌朝、ランニングをして、その後キリスト教をベースにしたお話が講師からされ、それに対する感想文を書き、後は新規会員を勧誘する重要性とそのテクニックが述べられただけでした。

 新規会員の勧誘のテクニックについての話しで、「男性は女性が勧誘し」というところで思わず苦笑がでました。何かが変わるかもしれないという淡い期待は、春の雪のように儚く消えていきました。
 合宿から帰って、さらに失望は強くなりました。それはサークルの性格が社会問題を考える集団というより、いわゆる宗教団体だということに気づいたというだけではなく、僕たちの役割で最重要なのが新規会員の勧誘だということがわかってきたからです。恐らく宗教団体でも、まだ真面目に真理を追究するというものだったら、失望は少なかったかもしれませんし、場合によっては熱意を持って活動できたかもしれません。しかし、新規開拓が最重要となると、これはもうお金儲け以外の何物でもないように思いました。

 僕はまだ若いため、勧誘にはあまり向かないということになったらしく、専ら駅の清掃などのボランティア活動をやらされました。僕といっしょに合宿に参加していた度の強そうなメガネをかけた小男が駅前で声かけをしていましたが、全くうまくいかないようでした。他人のことは言えませんが、小柄で貧相で影の薄そうなメガネ男についてくる人間などいるはずもなく、彼は落ち込んでいました。
 「全くだめだよ。ひとりも話しを聞こうともしてくれないよ。自分だけよければいいっていう奴が多いからね。俺は高野君のように駅の清掃でもやっていた方が合ってるよ」
 「でも、勧誘しないと認められないんでしょう?」
 「そうらしいよ。多くの人を勧誘した人が、上へ、上へと登っていくシステムだからね。多くの人を会員にするということは、それだけ救われる人を増やしたということになるからね」と彼は言い、サークルのことを純心に考えているようでした。僕は彼に呆れる思いがしましたが、その一方でうらやましくもありました。僕には彼のように一生懸命何かに取り組むということが、できませんでした。何をやってもその上っ面を滑っているだけのようで、そんな自分が片輪のように思われて仕方ありませんでした。例え偽りのものでも、それに没頭できる彼に劣等感を抱き、自分が非常につまらない存在に思えてきました。

 結局、その後、僕はそのサークルに出入りしなくなりました。一週間くらい顔を出さないと川島さんから、また電話がありました。会員になってからわかりましたが、自分が勧誘した会員に対しては責任を持たなければならなかったのです。したがって、もし僕が早期に退会してしまうと、それは川島さんの失点となってしまうわけです。

 「高野君、最近サークル出てないようね」と彼女のアパートに呼ばれ、また男女のことをしました。それでも、僕はサークルには行きませんでした。しかし、彼女との関係は定期的なものとなっていきました。彼女は自分の責任を回避するため、男女のことを行なっているのではないかと考えていましたが、それもわからなくなりました。或いは彼女が言ったように、彼女の亡くなった弟に僕が本当に似ていて、こういうことが続いているのかもしれないと思うこともありましたが、果たして自分の弟に似ている男とそういった行為を持つだろうかという疑念もありました。しかし、初めはあっけなく拍子抜けした行為も回数を重ねるうちに僕はのめり込むようになり、彼女から電話があれば何時でも出掛けていき、彼女のアパート、そして時にはラブホテルで唇を合わせ、体を重ねました。

 そのことが何処をどう伝わったのか、或る週末、従兄の明夫が僕を訪ねてきて、
 「最近、彼女できたらしいじゃん」と訊いてきました。僕は正直に彼女との出会いから話しました。すると彼は急に目を輝かせて
 「それってゲンリケンじゃないの?」と言いました。「ゲンリケン」というのは、どうも僕が一時会員になっていたあのサークルのことのようでした。間の抜けた話しですが、今のいままで僕は自分が会員になったサークルの正式な名称を知らなかったのです。川島さんも担当の女性も「社会問題を考えるサークル」と言っていただけでしたし、たまに見かけたロゴなどもアルファベットで書かれていたため、それが何の略かもわからず、また自ら知ろうともしませんでした。明夫が言った「ゲンリケン」というのを漢字では「原理研」と書くのでしょうか、これも何かの略になっているはずで、そのことを素直に訊けばいいのですが、それができないのもまた自分の性分で、結局最後はいつもの知ったかぶりとなりました。

 「ゲンリケン。そうかな?」
 「そうだよ、話しを聞いて確信した。それは間違いなくゲンリケンだよ。韓国の何とかっていうのが教祖で、ここのところ日本でも活動が活発になってきているんだよ」と明夫はゲンリケンのことをいろいろと僕に話しました。その説明を聞く限りでは、僕が入会したサークルはゲンリケンとは全く無関係という気がしました。どう考えても、あのうらぶれた感じは、そんな国際的な組織とはとても思えませんでした。かといって、反論できるだけの知識はなく、僕はただ頷きました。
 「その、川島とかいう女もベタだな。同じ誕生日に、死んだ弟に似ているって」と明夫は言い、嘲笑しました。
 「英樹、お前、まさか本気でそのことを信じて付合ってるわけじゃないだろ?」と言って、明夫は、黙っている僕の顔を覗き込みました。僕はその顔を見て
 「まさか…」と心と反対のことを言いました。
 「そうだよな」と明夫は言い、さも当たり前の口振りで「その女、二十五歳だっけ?宗教にのめり込んでいる年増の女と付合うはずないもんな。ただ、やれるから会ってるだけだろ?」川島さんに感じ始めていたある想いは、一気に吹き飛びました。川島さんが急につまらない女に思えてきてしまったのです。

 中学生の頃、芥川龍之介の「芋粥」という小説を読んだことがあります。芋粥を飽きるほど飲んでみたいと思っていた五位が、その願いを知った利人によって芋粥が大釜五つ、六つに煮られているのを見て食欲をなくし、ほとんど食べられなくなってしまうという話ですが、この時の僕と明夫の関係は正に五位と利人のように感じられました。僕はこの日以来、川島さんと会うのを止めました。

 川島さんから電話がきたら、「宗教の勧誘だから、いないと言ってくれ」と母に頼み、居留守をつかいました。母は特に事情を深く訊かず、僕の申し出を受け入れました。そのことによって、明夫に彼女のことを伝えたのは母だったのだなと思いました。 母は度々夜僕にかかってくる女性からの電話が気になっていたのでしょう。そして、部屋の掃除のときなどに、ひょっとしたらサークルの印刷物などを見たのかもしれません。自分でそのことを訊くことが躊躇われ、従兄だったら友達感覚で話せるし、頼んだということだったのでしょう。明夫は好奇心とある種の嫉妬心から、どうなっているのか興味が掻き立てられ母の依頼を受けたと思われます。

 川島さんからは、ほとんど一日おきくらいに電話がありましたが、ずっと僕は留守ということで何かを感じたようです。その後、全く電話はなくなりました。そして一週間が過ぎた頃、彼女から一通の手紙が来ました。

 拝啓、お元気ですか?
 高野さんにお会いしたのは、確かまだ梅雨の時期でしたけど、真夏のような暑さだった日の夕暮れでしたね。紫陽花の季節から、向日葵の季節になり、今はもうあのような日が毎日続くような時期になりました。高野さん、夏バテは大丈夫ですか?あまり食が太くないので、少し心配です。しっかりと物を食べるようにしてくださいね。
 学校の勉強の方は順調にいっていますか?仲のいいお友達はできましたか?
高野さんは人見知りすることがあるから、時間はかかるかもしれませんが、人間的には優しい人だから、きっといいお仲間ができると思いますよ。
 最近、さっぱり姿を見せなくなりましたが、もう、サークルの方には顔を出しては頂けないのでしょうか?ここのところ、連絡がとれなくなり、心配しています。何か、心の中で迷いを生じた結果なのでしょうか?その迷いは私に関してのことなのでしょうね。
 私も今まで、いろいろと迷い苦しみました。このことは以前にも話しましたね、結局、人を救えるのは愛だけだと…。
愛、そして‘出会い’、人に会うことによって愛は生まれます。そして、信じることによって愛は育つと思います。神を信じる、人を信じる、難しいことかもしれません。
 疑うことは悪魔の技で、何故、高野さんがそのようなものに取り憑かれてしまったのか、私には窺い知ることはできませんが、きっといつか目が覚める日が来ると思います。その時、私は高野さんのそばにいることはできないでしょうが…。
 信じることによって育つ愛は、疑うことによって死んでいきます。信じることは時に、辛く、苦しく、悲しく、そして忍耐のいることです。だけど、それができたとき、愛は命を与えられるのではないでしょうか?
 私は、高野さんに嘘をついたことは一度もありません。高野さんは疑ったのかもしれませんが、誕生日のことも、弟のことも全てほんとうです。
 私は、高野さんと出会ったことに、何か運命的なものさえ感じました。自分と全く同じ誕生日で死んでしまった弟に似た人が目の前に現れたのですから。
 高野さんがサークルを脱会すれば、私の成績に響くことは確かです。けれど、自分の立場を守るだけの理由で、高野さんとこのような関係になったのではありません。
 サークルを続けるか、辞めるかは全く高野さんの自由です。それについて、私は何もいいません。
 ただ、これまでの高野さんとの日々に嘘はありませんでした。これだけは、信じてください。

 それでは、さようなら。
 これからもお元気で。

 敬具

 手紙を読み、僕の気持ちは再び乱れ始めました。そして、抑えようのない感情が込み上げて来ました。その日の夜、僕は初めて自ら彼女のアパートを訪ねました。
部屋のドアをノックすると、「どなたですか?」と中から女性の人の声がしました。僕の心臓はその運動を速めました。
 「僕です」とやや震える声で言いました。ドアの近くに人の気配がしました。そして、もう一度「どなたですか?」と部屋の中から声がしました。
 「高野です」と今度は自分の名前を言いました。川島さんは僕が訪ねてくるとは予測していなかったのだと思いました。しばらくしてやっとドアが控え目に開きました。そのわずかな隙間から若い女性の顔が覗きました。しかし、彼女は川島さんではありませんでした。
 「どのような、ご用件でしょうか?」とその女性は言いました。
 「あのー、川島さんっていう女性がここに住んでいませんか?」と僅かに開いているドアの反対側にいる女性に問いかけました。何が起きたのかわからず、当惑しました。それはドアの向こう側にいる女性も同じようでしたが、耳をすますと、彼女が奥にいる誰かと小さな声で話しているのが聞えました。僕は川島さんが奥にいるものと思い、
 「川島さん、いるんでしょう」とドアの近くにいる女性を無視して、奥の人に声をかけました。
 「大きな声、出さないでください。近所迷惑ですよ。川島さんは今いません」ドアの反対側にいる女性は慌てて言いました。
 「でも、奥に誰かいるではないですか」
 「いますけど、川島さんじゃありません」とそこまで言うと、また奥からひそひそ声が聞こえてきて、ドアのそばにいる女性はそれに対して「わかったわ」と返事をしました。
「高野さんですよね。お名前は川島さんから聞いていました。ここではなんですから、部屋に上がってください」ドアチェーンが外され、久しぶりに川島さんの部屋に上がりました。しかし、今までと特に変わったところは見受けられませんでしたが、奥にいた人は川島さんではなく、やや年のいった、三十代前半くらいの地味な感じの女性でした。僕は彼女に挨拶をし、彼女も僕に返礼しました。

 「ここは、川島さんの部屋ではないんですか?」と僕はドアの外にいたときと同じ質問を繰り返しました。
 「川島さんの部屋ですよ」と奥にいた三十路の女が言いました。「だけど、私たちの部屋でもあるんです」
 「どういうことですか?」
 「私たちルームメイトなんです。三人でここにいっしょに住んでいるんです」
 「三人で?」僕は驚きました。六畳一間に三人。初めてこの部屋に入ったとき、確かにひとりにしては物が多いとは感じましたが、三人となると少なすぎるように思えました。僕が何も言えないでいると、若い方の女性が
 「部屋はサークルの方で借りてくれているんです。そこに私たちは住まわせてもらっているんです」
 「あなたたちも、川島さんと同じサークルに入っているんですか?」
 「そうですよ。いっしょに暮せば勉強もいっしょにできるし、何かと便利でしょ」とまた三十路の女が言いました。
 「でも、前に僕が来たときは…」と僕が言いかけると、三十路の女が引き取って
 「そのときは、私たちが気を使って部屋を空けたんですよ。高野さんは大切な人だったんですからね」と皮肉たっぷりに言いました。若い方の女性は、心配そうな顔をして三十路の女を見ていました。しかし、彼女はそんなことは気にかからないようで、話しを続けました。
 「だってそうでしょ?サークルに来たり、来なかったり、入らないと言ったり、入ると言ったり。そして急に辞めてしまうんですから、勧誘員としてはいい迷惑ですよ。川島さんも困ってましたよ。いろいろとがんばってましたよ。そして、もうだめと諦めた頃になって、またこうしてやって来て、どういうつもりなんですか?」三十路の女の言葉にはだんだんと怒りがこもっていきました。僕はそれに応えず
 「川島さんは、今、何処にいるんですか?」と訊きました。
「たぶん、サークルの方だと思います」と若い方の女性が言いました。するとまた三十路の女が引き取って
「あなたのことじゃないんですか?もともとあまり成績がよくない上に、今度のことですからね。辞めるにしたって、順序っていうものがあるでしょ、子供じゃないんだから。辞めたいからっていきなり辞めるなんて、大人の社会じゃ通用しませんよ」と言い、暗くなった僕の表情を見てまた言葉を続けました。

 「もしかしたら、あなた川島さんに何か別の感情を持っていたんじゃない?とんだ、勘違いね。川島さんはあなたをサークルに入れるためにやっていただけですよ。あなたに何の想いもありませんよ。だから、もう二度とここには来ないでちょうだい」 僕は逃げるように部屋を後にしました。そして、後悔しました。明夫の言ったように、割り切っていたらと思いました。自分を本当に情けなく思いました。格好悪く思いました。そして辛くなりました。辛くなったのは、川島さんからきた手紙と、あの三十路女の言葉の溝をどうやっても埋めることができなかったからです。そして、この時以降、僕は川島さんと連絡をとることはありませんでした。

 現在の僕には微かな後悔があります。この時、あの嫌味な三十路女の言葉のでたらめの可能性を何故、考えなかったのか、また、僕が明夫についたような種類の嘘を、川島さんがあの三十路女についた可能性を何故、思わなかったのかと…。この溝は十数年経った今でも埋まっていません。(2010.12.29)


―つづく―

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