モノローグ

第三章

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 四月一日、D町のビルの一角にある日本セレックの本社に初出社しました。新入社員は全部で三十人ほど、三月から勤務している人たちの姿も見えましたが、彼らは社長や電子開発部、宇宙開発部、そしてソフト開発部それぞれの部長の訓示などを聞いた後、記念撮影を済ますと出向先のF工場へと戻っていきました。

 僕は彼らに、特に同じ専門学校出身のあのIC工学の赤点仲間に、ある気恥ずかしさを感じ、まともに顔を見ることができませんでした。だから、彼らが出向先に戻って行った時、ほっとしたような気持ちになりました。

 入社式の後、社内研修が始まりました。研修担当の社員から社会人としての心構えなど退屈な話が続きその日は終わり、翌日からは正しい挨拶の仕方や電話の応対など‘実践的’な内容になりました。そのうち、小グループに分かれての討議や、簡単な研究発表などがあり、一週間ほどで研修は終了となったのですが、その最後に各自ひとりひとり他人を笑わせる話をすることになりました。担当者の話によりますと、他人を笑わせるというのはかなりの技術を要するそうで、研修の締めくくりには恰好の課題とのことでした。

 家族や友人との面白いエピソードや街で見かけたおかしな風景など、それぞれの話しのうまさに焦りを感じました。僕には他人を笑わせる話など何一つ思い浮ばず、ただもう気持ちばかりが緊張して、お腹なども痛くなり始めていたのです。徐々に発言の順番が近づいてきて、手足が少しずつ震えてきました。大勢の前で話しをするなど自分には最も苦手なことですし、しかもそれが笑い話となるともう絶望的な気分になりました。

 とにかく、何とか取り繕わなくては…と考えているうちに、ひとつだけ頭に思い浮んだことがありました。高校生のとき、通学の電車の中で便意をもようしてしまい、ついには女子便所に駆け込んだときの話です。後から考えれば、このような場で下ネタを話すのはあまり褒められたことではなく、いえ、それはもうほとんど禁忌なのでしょうが、この時はただもう切羽詰っていてそれしか頭に浮かばなかったのです。

 「それでは、次、高野君。どうぞ」と研修担当の社員さんから声がかかり、僕は夢中で話し始めました。
 「高校二年生の時のことです。その…、朝、通学の電車に乗っていたら、急に、その…便意をもようしてしまいました。学校の最寄り駅までは何とか持ち堪えたのですが、学校まではもたないという状況になりまして…、その、えーっと…駅の男子トイレに駆け込みました。それで…、その、男子トイレには、その、大の方がひとつしかなく…」としゃべっているうちに声も震えだし、全くテンポのない話しになってしまい、周りの人たちが白け切っているのが感じられました。もう止めたい気持ちでしたが、この話しの肝はまだこの先だと自分に言い聞かせ続けたのです。

 「その、大の方はひとつしかなく、そのドアを開けると、その、先客がいて、その、サラリーマンが尻を剥き出しにして座っていて、僕は慌てて、ドアを閉め慌ててトイレの外に飛び出しました。それで、その…えーっと、その時にはもうほとんど我慢できなくなっていて、すぐ横を見ると女子トイレがあったものですから、何も考えずに飛び込んでしまいました。女子トイレの方は、その、大の方が五つほどあって、どれも開いていて、僕は、その一番入口に近い個室に飛び込みました。そして、その、用をたしたわけですが、その、えー、」ここで不覚にも自分で笑ってしまいました。こういう話はできるだけ冷静に話すのがいいのでしょうが、落ち着きを失っていました。周りの冷ややかなそして憐れみを含んだ視線に居た堪れない気持ちになりました。

 「すいません、その、えー、用をたすまでは、ただもうそのことだけ思っていたものですから、女子トイレに入るということがどういうことかなどと考えている余裕はなかったのですが、出すものを出してしまうと、途端に頭が冷静になり、急にまずいなという気持ちになって、もし、誰かと会ってしまったらと考え、なかなか出られなくなってしまったのです。その、僕は、その、辺りの雰囲気を個室の中から伺って、何も音もしなかったので思い切ってドアを開けて外に出て、手洗いのところを通り過ぎようとしたとき、その、…」とまたここで笑ってしまいました。もう、周りは早く止めろというような雰囲気で、研修担当の社員さんも悲しい視線を僕に送っていました。

 「すいません、その、えーっと、手洗いのところを通り過ぎようとしたとき、中年の女性が入って来て、ばったり会ってしまって、その、女性は、何か言おうとしたようですが、僕は足早にその場を立ち去り、騒ぎにはなりませんでした。いや、その、以上です」と大したオチもなく、僕の話しは終わりました。数人の人がお情けのように笑ってくれた以外は、辺りは静まり返って、担当の社員さんも、何事もなかったように「それでは次、池田くん。どうぞ」と研修を進めていきました。これだけ苦しんだのです、せめて何か一言、どんな言葉でもかまわないからコメントが欲しかったのです。そうすれば、多少、救われるところもあったように思います。無視、それは一番厳しい仕打ちでした。ただ、後悔と恥かしさを残し、一週間の研修期間は終わりました。

 翌日から新入社員はそれぞれの職場に散って行きました。僕は三月に一度連れてこられた大手電気メーカーのF工場へ出向となりました。職場は前に来た時と同じ十五工場でしたが、配属は第一技術部ではなく、回路技術部というところでした。僕の他に池田と保科という新入社員が同じ勤務となりました。それまで、日本セレックからの社員がいなかった部署で、僕たち三人は先輩のいないところで働くことになったのです。日本セレックの出向社員にはそれぞれの部署で所属長という人がいましたが、それまで誰もいなかった回路技術部は三人の中で一年だけ僕が年長ということで自動的にそれに決まってしまいました。後からわかったことですが、この所属長というのはほとんど雑用係で、みんなのタイムカードを配ったり、まとめたり、欠勤や有給休暇の届出をしたりとそんなことばかりでした。月に一回の割合で所属長会議というのに出なくてはならず、その時は決まって具合が悪くなるのでした。

 僕は実験チームで働くことになりました。実験チームは僕を含めて四人で、上司は鈴木さんという三十五歳の男性で主任代理という肩書きになっていました。そして、その下の友近さん、さらにNSNという協力会社から出向で来ている鈴木君、彼は僕よりひとつ年下の二十一歳でした。仕事はICや基盤の評価で、ICを液体窒素で冷やしたり、またはヒーターで加熱したりして、その時の電気的特性を調べたり、実験用の基盤を設計したりすることでした。働き出した当初、僕は主に友近さんの実験の助手を務めました。

 友近さんは三十二歳の独身男性で、旅行が好きなようでした。仕事の合間に、自分が行ったことのある地方の話をしてくれました。「そのうち温泉にでも行こうよ」などと言ってくれて、気さくな人のようでした。こういうのは大抵社交辞令なので、僕も気楽に「いいですね」などと適当に返事をしていました。

 しばらく経って、不思議に思えてきたのは、女性の技術職がひとりもいないことでした。女性社員は男性社員に比べて圧倒的に少なく、彼女たちは技術者として存在しているのではなくて、技術補助という形でした。男子社員に頼まれてワープロでレポートを作成したり、コピーをとったり、備品を揃えたり、お茶を入れたりするのが彼女たちの仕事でした。学生時代は男女平等などということを意識するまでもなく何の差別も感じませんでしたが、会社に入るとそこには、時間が二十年も三十年も前に遡ったような世界がありました。

 日本セレックの所属長会議でも女性の技術者のことが話題になったことがありました。ある所属長の人が、これからは女性の技術者を採用するようにした方がいいのではないかというようなことを言ったのです。それに対して部長は「女子は結婚すればすぐに辞めてしまうし、月に一度面倒臭いこともあるしな」と言って笑い飛ばしました。これが会社というものの実体かと思うと、情けなくなりました。世の中、当たり前のことが当たり前に実行されれば、何か特別なことをしなくても、それだけで十分に良くなるような気がしました。

 もうひとつ感じたことは、若い人ばかりだなということです。出向先の大手電気メーカーの社員さんには年のいった人もそれなりの割合でいましたが、協力会社の人たちは一番年のいった人でも三十代前半でほとんどが二十代、それも前半の人ばかりでした。このときはコンピュータ関係の仕事だから若い人ばかりなのかなと単純に考えていました。

 働き始めてある期間が過ぎ、さらにおかしいことがありました。それは残業が義務付けられていたことです。最初の一ヶ月くらいはほとんどマニュアルを読む毎日で、たまに仕事を頼まれても、定時で帰るということを繰り返していましたが、徐々に仕事の分量が増えていき、残業することも多くなりました。部署のほとんどの男性社員はだいたい夜十時まで働いていたのです。

 では、そんなに仕事があったのかというとそんなことはなく、中には定時内はほとんど仕事をせず、十七時半くらいからぼちぼち作業を開始するなどという人もいましたし、また夜九時以降はほとんど何もせず、周りの人たちと一時間雑談をして十時に帰っていくという人も多くいました。残業など全くする必要はなかったのですが、会社の方針というよりは職場の慣習のようで、みんなそれに黙々と従っていました。

 勤務を始めて三ヶ月が経った頃、鈴木主任代理から「高野くんもそろそろ月七十時間くらい残業してくれよ」と言われました。七十時間の残業といえば週に四日は十時まで残業して、その上月二回の休日出勤をするくらいの時間です。何故、そこまで働かないといけないのかわからないまま、僕は会社という得体の知れない歯車に巻き込まれていきました。毎日、毎日、コピー取りとお茶くみを繰り返す女に、遅くまで働き続ける男、それはまるで何処か他所の自分とは関係ない場所で起きている出来事のようでした。僕と彼らの乖離は日に日に広がり、自分はただ、架空の空間を漂っている埃のように思えてきました。

 僕は舞台上を舞っているただの埃のような存在でしたが、相棒の鈴木君は厳しい観客でした。ある日、鈴木君は上司の鈴木さんに
 「どうがんばっても定時内で終わらず残業になってしまうような作業は、その納期設定に問題があります。定時内の作業だけで終わるように、納期を決めるべきではないでしょうか?」と面と向かって言っていました。鈴木さんは
 「君の言っていることは正論だけど、会社にはそんなこと言っても通用しないからな」と困ったような表情で応えていました。どうも鈴木さんと鈴木君は割合と何でも話せる間柄らしく、相棒はよく難題をふっかけていました。僕も隣でよく聞いていましたが彼の言っていることは一応筋が通っているように思いました。しかし、彼が立派なのは口だけで、実態は遅刻大魔王といわれるくらい遅刻が多く、あまり実がともなっていませんでした。酷いときなどは夕方の五時くらいに出社してきたこともありますが、それでも鈴木さんはあまりきついことを言わず、むしろ「よく来たな」と褒めたりしていて、出来の悪い子供ほど可愛いものだなどと周囲には言っていたそうです。

 その年の十一月、鈴木君がバイク事故を起しました。事故の程度は軽いもので、翌日には手首に包帯を巻いて出勤していましたが、それによって僕もCADの仕事をすることになってしまったのです。

 実験用の基盤の設計にうちのチームはCADを使い、それを鈴木君が担当していました。そのうち高野君にもやってもらうと、鈴木さんは言っていたのですが、鈴木君のバイク事故により、「あいつは、いつバイク事故で死ぬかわからないから、まだ生きているうちに習っておいた方がいい」ということで僕もその仕事をすることになったわけです。

 CADはコンピュータによる設計支援でうちのチームでは図面の作図をそれで行なっていました。当時は手書きによる図面の作図からCADへの移行期だったと思います。鈴木さんは「手書きでは一週間かかるものが、CADだと数時間でできる」などと言っていました。それは少し過大評価でしたが、五日かかるものが二日程度になったことは確かでした。それではその空いた三日分はどうなったのでしょうか?労働者はコンピュータの出現によって解放されたのでしょうか?答えはNOです。空いた三日分に別の仕事が入っただけでした。

 CADにより、従来より早く仕事は上がるようになりました。しかし、それは僕たちを解放するものでなく、ただ単に仕事量が増え、歯車の回転が速くなっただけでした。解放されるどころか、ますます仕事に追われ、束縛されていったのです。このことを考えると今でも絶望的な気持ちになります。世の中の進む速度はますます上がり、人間はそれによってますます締め付けられていくのです。

 しばらくは鈴木君が中心になって基盤の設計は行なわれていました。しかし、遅刻大魔王だったり、バイクでのケガだったりと、鈴木さんに言わせると「問題の多いヤツ」だったため、徐々に中心は僕に移っていきました。当然、鈴木君としては面白くなかったようで、彼の勤怠はさらに酷くなって行きました。

 働き始めて一年が過ぎた四月の中旬に、「高野くん、ゴールデンウィーク、温泉に行こうよ」友近さんに言われました。昨年、いっしょに実験をしていた頃、そんな話しがありましたが、てっきり社交辞令だと思っていたので、すっかり忘れていました。
 「温泉ですか?」と訊き返すと、「そう、温泉」と友近さんはにこにこ笑っていました。僕はあまり旅行に行ったこともなく、それほど気が進んだわけではありませんでしたが、鈴木君との関係は仕事以外ほとんど口も利かないという状態になっていましたし、家の方でも問題が起きていてあまり自宅に居たくない気分でした。

 家での問題というのは、不倫職人が連れてきた五十代半ばの横山さんという職人さんが仕事中に屋根から足を滑らせて落ちたとかで、腰骨を折ってしまったのです。横山さんの家族は、父の仕事のさせ方に問題があったと主張して補償を求めて来ました。そのことで、いろいろと揉めていたのです。そんなわけで、友近さんの熱心さにも負け、「それじゃー、お供します」ということになりました。

 「H温泉っていう福島県にある温泉に行こうか?風情があっていいよ」と友近さんは言いましたが、僕は全くその方面には詳しくなく、ただ「お任せします」と応えました。

 H温泉は福島県の会津若松から只見線に乗ってH駅で下車し、只見川を見ながらのぶらぶら歩きで二十分くらいのところにありました。昔ながらの鄙びた感じの宿で二階の廊下は歩くとみしみしと音を立て、床が抜けてしまうのではないかという不安を覚えたほどでした。廊下のガラス戸からはきれいな湖が見えました。これはダムによってできた人工湖ということでしたが、あまりの景色のよさに心が弾みました。廊下の反対側にはいくつもの襖があり、そこが客室になっているのですが、社会からはみ出てしまったような疲れた感じの中年男性が廊下に長椅子を出して寝そべっていたりして不思議な解放感のある空間でした。

 「早くお風呂あがってください。夕方になると地元の人がたくさん入りに来ますからね」と部屋まで案内してくれた仲居さんに言われ、友近さんと僕は荷物を置くとすぐに温泉に向かいました。

 温泉は長い渡り廊下を下った先にありました。何と男女混浴でやや年のいった女の人がすでに数人入っていました。いくら年がいっているといっても、僕は混浴など初めてですし、気後れしてしまって
 「友近さん、僕、後にしますよ」と言いますと
 「だめ、だめ、今、入らないと。後になるともっと女の人も増えるし、年齢もちょっと若くなるから。今は婆さんばかりだから、気兼ねしなくていいよ」と言われ、あまり気は乗りませんでしたが、服を脱いで湯に浸かりました。しかし、周りばかりが気になって、とても湯を楽しむ気分になれず、友近さんを残して早々に上がってしまいました。部屋に戻って三十分くらい経ってから、友近さんが上気した顔で戻ってきました。
 「いや、いい湯だった。高野くんももっとゆっくり入らないと。明日の朝、また行こうよ。朝なら空いているから」と余裕の表情で言いました。

 夕飯にビールなどをたのみ、ほとんど初めて友近さんとゆっくりと語り合いました。友近さんは温泉好きらしく、年に五、六回は旅に出るそうですが、ほとんど独り旅だということでした。たまには相棒のいる旅をしたくなったから、僕を誘ったとちょっと照れていました。ただ、疑問がありました。何故、僕を誘ったのかということです。彼女はいないということですが、それでも学生時代の友達とか、或いは会社の同僚だとか、適当な人物がいるような気がしました。

 「大学以前の友人との付合いは、今は一切ないな。そう、勉強ばかりしていたから、あまり遊んだっていう記憶もないしね。大学の時の友人とはよく飲んだりするよ。だけど、みんなそれなりのところに勤めて、バリバリやっているから、愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたりするような間柄じゃないんだ。そんなこと言ったら、見下されるからね。会社の同僚なんていったら、尚更、本音では話せないよ。それが、どう誰に伝わるかわからないしさ」

 本音を誰にも話せないエリートの孤独を感じました。しかし、次の言葉を聞いたとき、彼への同情は消えました。
「独りで行けば誰に気兼ねをすることもないし、ゆっくりできていいよ。でも、話し相手がいないっていうのも寂しいからね。気を張らなくて済む、当り障りのない同行者がいたらと。たまにはそういうのもいいかなと思ってさ」

 ここにも敵がいました。毒にも薬にもならない人間、彼が求めていたのは、そんなどうでもいい人間だったのです。恐らく温泉に入って、ビールを飲んで酔いが回り、つい本音が出てしまったのでしょう。僕はやはり舞台の上を舞っている埃でした。

 翌朝、僕はひとり早く起き、温泉に行きました。まだ、朝早かったせいか入浴していた人は、廊下に長椅子を出して寝そべっていた男性だけでした。
 「おはようございます」と声をかけると、「おはよう」と返ってきました。
 「どちらから?」とその男性が訪ねて来ました。
 「東京からです」と言うと、「私も」と応えました。
 「学生さん?」とその男性に尋ねられました。社会人になって二年目なのに、学生と間違われるのはあまり好ましくは思えませんでした。僕はそれでも愛想よく、社会人ですと言いました。
 「大きな会社に勤めている?」とその中年男性は唐突に訊いてきました。質問の意図がよくわからず、何と答えていいのか困りました。大手企業に出向している身では余計に答えづらく、自分の所属している会社は小さいですが、働いているところは大企業なので「ええ、まあ」と曖昧に答えました。
 「そうかい、それはいいね。勤めるなら、やっぱり大企業だよ」と中年男性は言って、手で湯を掬い顔にかけました。そして、ふうと一息ため息をつくと、
 「いい湯でしょ。この宿に来ると安らぐね。私には、こういう所が合っているんだろうな。自分と似ているからかな」と淡々とした調子で彼が言いました。この疲れた感じの中年男性に自分の未来を見る気がしました。そして、初めて自分はこういった鄙びた所に何ともいえない安堵感を覚えるということを知りました。この時、以来、休みの日には、ひとりでぽつぽつと旅に出るようになりました。

 その日は会津若松まで戻りそこで一泊して、翌日、市内見物をした後、帰りました。家に戻ると、まだ横山さんとの話し合いはまだついていませんでした。母と横山さんの代理人のような立場になっていた不倫職人が主に話し合っていて、父は完全に蚊帳の外という状態でした。母と不倫職人が父を話し合いの場から締め出したという側面もあったかもしれませんが、父に自ら問題の解決に積極的に動こうという姿勢は見えませんでした。年から来る気力の衰え、始めはそう思いました。しかし、その観測は違っているような気がして来ました。

 僕が高校三年生のとき、進路のことで当然口やかましく介入してくると思っていた父はほとんど自分の意見を言わず、母に任せ切りでした。その時、父の年のとったことを感じましたが、それはただ年のせいばかりでもなかったのかもしれなかったとこの時思いました。

 父はやはり機械だったのです。ただ、仕事をするだけの機械だったのです。それ以外のこと、特に厄介な問題については関り合いたくなかったのでしょう。皆と話し合って、問題を解決するといった能力が父には欠けていたのです。母と職人の不倫も或いは感づいていたのかもしれません。しかし、事を荒立てることは父にとって面倒臭く、また、それに続く話し合いも煩わしいだけだったのでしょう。

 しばらくして、母と不倫職人の間で一定の合意ができ、それを横山さんの家族も受け入れたようでした。その間も父は黙々と朝から晩まで仕事だけを続けていました。

 僕は父への反発から、仕事に対してある嫌悪感を覚えるようになっていました。特に長時間労働に関しては、それを強要する人間を含めて、激しい憎悪がありました。しかし、それを強要されたとき、別の人格を演じるという方法で自分の大切な部分を守ろうとしたのです。

 仕事の中心が僕に移り、鈴木君に嫌われたことが引き鉄となり、会社の中で人に好かれる必要はない、どうせ嫌われるならとことんやってみようという気になりました。それまで一歩下がって弾の当たるのを何とか避けていたのを、一歩踏み出して射ちに行くようにしたのです。その一歩踏み出した人物は別の人格を演じている僕の分身、云わばマネキンのようなものなのですから、それにいくら弾が当たろうとその影にいる自分は無傷というわけです。

 CADのコンピュータは予約制でした。三台端末があり、そのうち二台はまだ白黒のディスプレイだったのですが、僕はカラーを優先的に使えるようにCAD部の担当者(といっても彼はまだ高卒で入って二年目の男性でした)にコーヒーを頻繁に奢り、それとなくそういうことにしてもらいました。図面を出力する静電プロッターという機械も各部署が均等に使えるようにと個人の予約は一日二時間以内と決められていましたが、それも高野・鈴木(稔)・友近・鈴木(達)とうちのチーム全員の名前を使い一日八時間独占してしまうというようなこともしました。

 さらに、CAD室では前の使用者が後の使用者の予約時刻に多少時間がずれ込んだ場合、当事者同士が話し合って融通しあっていましたが、自分の時間にずれ込んだ人が出たとき僕は上司の名前を使い、きっぱりと使用を止めさせたこともありました。子供のケンカに親を出すようなもので、これは周囲の大顰蹙を買いましたが、それでも鉄面皮を通しました。

 そのようなことを続けるうちに、僕の悪名は定着していき、終いにはトイレに「高野辞めろ」とか「高野死ね」などと落書きまでされるようになりました。CAD室で働いている人のみならず、他の協力会社の人たちからも目に見えて避けられるようになり、新人が入ってくると「ああいう風になってはだめだ」と悪い見本にされているようでした。

 ほとんど四面楚歌といった状態でしたが、それでも僕が何とかやれたのは演技に徹していたということもありますが、ただひとり理解をしてくれていた人がいたからです。それは上司の鈴木さんでした。鈴木さんはただ理解するだけでなく、「仕事を進めるためには、できることは何でもやれ」と後押しさえしていました。大顰蹙を買った作業を打ち切らせ事件も、鈴木さんの協力がなければできないことだったのです。

 入社して四年が経ち、その間に元号は昭和から平成へと変わり、僕も二十五歳になっていました。会社の方でも大きな変化がふたつありました。ひとつは暗黙の決め事になっていた月の残業七十時間というのが全く反転して、月二十時間以上の残業は極力しないという残業制限に変わりました。もうひとつは女性技術者の登用です。それまで備品の補充やコピー取り、ワープロ、お茶くみなどあくまで男性社員の補助だった女性が、数は微々たるものでしたが技術的な仕事に就けるようになったのです。我がCAD室にもふたりの女性社員が出入りするようになりました。

 偶然にふたりとも渡辺さんという姓で、やや大きめの方が陽子さん、ほっそりと色白な方が亜紀さんという名前でした。そして、僕はこの亜紀さんの方とすぐに親しくなりました。

 そのきっかけは僕のあまりに悪い評判でした。ふたりは大手電気会社の正社員ではなく、NSNという協力会社から出向で来ていました。仕事の相棒の鈴木君と同じ会社で、彼から僕の評判はNSNの上の方まで伝わっていたようです。CAD室への配属が決まったとき、上司の人から「あそこには他の協力会社から来ている高野っていうのがいるけど、変わり者だからあまり関らないように」と言われたそうです。体格のいい陽子さんは上司の忠告を守ったわけですが、亜紀さんの方は逆に興味がわいたそうで、面識ができ馴染んでくると、いろいろ話しかけて来ました。蓼食う虫も好き好きと言いますが、ほんとに世の中何が幸運に、いや、また不幸に繋がるかわかりません。この場合も時間の経過とともに、後者の色合いが強くなっていきました。

 「高野さんのこといろいろと聞いていたけど、そんなに変わっていないですよね」と初めてふたりで飲みに行った夜、亜紀さんは言いました。色白で小柄なので若く見えた彼女でしたが、実際の年は僕より三つ上の二十八歳でした。初めて付合った川島さんも年上で、どうも年上の女性に縁があるのかなと思いました。しかし、それは僕の性格によるものだったような気がします。僕には誰かをリードするという能力が皆無でした。そのため、年下の女性を無意識のうちに敬遠していたのかもしれません、いや、むしろ向こうの方から避けていたのでしょう。

 「そんなに評判、悪いですか?」と僕が訊くと、亜紀さんは笑いながら「ええ」と言いました。
 「会社というところは怖いところです。一度何かあると、それを延々と言われ続けます。始めひとつ悪いことをしてしまうと後いくらいいことをしても、もうだめです。亜紀さんも気をつけた方がいいですよ」と僕は酔っていたのでしょう、柄にもない忠告までしました。
 「ご助言感謝します。私もそんなに評判よくないようですよ。お仲間です」
 「それは大変なことですね。何故、評判が悪くなったのでしょう?」
 「高野さんを飲みに誘ったから」と言うと悪戯っぽく笑いました。そして
 「冗談ですよ。私、もともと可愛くないタイプだから」と言いました。
 「それはそうと、高野さんってどんなことが好きなんですか?」
 「どんなことが好きって言うと?」
 「趣味みたいなことですよ」‘好きなこと’‘趣味’と言われ、困りました。よく考えてみると、僕には趣味といえるようなものはなく、特に好きなこともありませんでした。しかし、よくよく考えてみると、それらしいものもありましたので、とりあえず
 「そう、音楽を聴くのが結構好きかもしれません」と言っておきました。
 「音楽?」
 「そう、音楽っていってもクラシックとかじゃなくて、ロックとか、そういったポップミュージック。中学から高校にかけて深夜ラジオでよく聴いていて、毎週ヒットチャートをノートに付けていました。その名残で当時ほどじゃありませんが、今もよく聴きます」
 「以外ですね。私も好きですよ。ちょっと前だけど、カルチャークラブとか、デュラン・デュランとか、イギリスのバンドをよく聴いていました。今でも、好きですよ」
 「そうですか。僕もアメリカよりはイギリスです。U2とかデペッシュ・モードとか好きです。U2はアイルランドですけどね」
 ふたりの共通の話題があり、会話は盛り上がりました。この初めてのデートのとき、彼女と結婚してしまおうと思いました。

 会社に勤めはじめてしばらく経って感じたことは周りの人たちがみんな縮こまっているということでした。しかし、やがてそれはみんなそれぞれ背負っているものがあるからではないかと思うようになりました。会社での地位や家庭、自分の生活、みんなそれぞれ守らないといけないしっかりとしたものがあるのではないでしょうか。僕にはそういったものがありませんでした。そのおかげで、自由に振舞えたわけです。

 また、生きているという実感は何かと強い関係を作らないと得られないような気がします。愛している異性がいたり、仕事に一生懸命になれたり、何でも相談できるような親友がいたり、熱くなれる趣味があったり、またはギャンブルに淫したりと何かと強い関係を作ることによって生というものが目の前に見えて来るように思うのです。

 しかし、僕は全てにおいて希薄な関係しか持ち得ませんでした。もし、彼女と結婚してしまえばほとんど強制的に強い関係が生まれると思ったのです。そして、背負うものもできるわけです。そのうち生活も身に付いて、まともな人間になっていくような気がしました。

 亜紀さんを愛しているかどうかわかりませんでした。しかし、まあまあ話しも合いそうですし、人間的にも悪い人ではなさそうだし、自分の好みよりはやや体が貧弱のような気もしましたが許容できる範囲ですし、結婚相手としては、いいのではないかと思いました。あとはどうやって彼女を結婚という柵に追い込んで行くかです。

 いきなり「結婚してください」というわけにもいきませんし、お付き合いを続けながら徐々にその方向に導いていくしかないわけですが、果たしてそのような能力があるのかどうか自分でも大変疑わしく思いました。しかし、彼女が二十八歳というアドバンテージもあるわけで、楽観的に考えていました。

 またこの頃、協力会社での限界を知りました。職場では一週間の工数をマークシートに書き込み、コンピュータで管理していました。そこで不可解な残業時間等があると課長に呼び出され事情聴取となるわけですが、月曜日の朝、僕が呼び出されました。それはただ単にマークシートの書き間違いで、何事もなかったのですが、その時課長の机の上にファイルが広げられていたのです。話しをしながら、何となしに見ていると、どうもそれは協力会社に支払う人件費の表のようでした。高野、池田、保科の名前があり、その下に三十七万何某かの金額が書かれていました。

 席に戻ってから、そのことを池田に言うと
 「何だ、今頃知ったのか。ここからウチの会社に支払われる金額はみんな一律なんだよ」と冷めた表情で言いました。
 「一律といっても、勤続年数と供に上がっていくんだろ?」
 「それが、そうじゃないんだよ。十年働いた三十歳の人間も、高卒で入った十八歳の人間もここから払われるお金はいっしょなんだよ」
 「それじゃー、うちの会社で一番稼いでいるのは高卒の新人っていうことになるじゃないか」と僕が気色ばんで言うと
 「そういうこと。ここから支払われるお金は同じでも、うちの会社としては年々給料を上げていかないといけないわけだろ。だから、年を取れば取るほど、うちの会社としては美味しくなくなるわけさ」と池田は自嘲気味に言い
 「だから、何処の協力会社でも若い人ばかりだろ。高卒の新人が儲けは一番大きいからな。年を取ったらお払い箱さ」と苦笑しました。
 「そんなバカな」
 「まあ、生き残る策としては村田さんのようになることかな」
村田さんというのは、この大手電気会社に出向しているうちの社員全員のタイムカードを集めたり、会社からの連絡事項と伝えたりしているよく言えば管理者、実際は僕ら雑用係のような所属長の親玉で三十代半ばの男性でした。
 「電子開発っていったってこの工場に人を送りこんでいるだけだし、宇宙開発だって横浜にある人工衛星の一部を作っている工場に人を送りこんでいるだけだろ。自社でやっているっていったらソフト開発だけだし、ゆくゆく年を取れば自社に戻るしかなくなるわけだし、そうなったら村田さんのような管理職かソフト開発にまわるかどちらしかないわけだよ」池田はよく将来のことを考えているように思えました。しかし、それは考えるだけで具体的な行動には至っていませんでした。そして、それは僕も変わりはありませんでした。
 「そうか、ソフトか。今から勉強しておいた方がいいな」と言いながら、何もやらなかったのです。まだ年齢が二十五ということも大きかったと思います。僕にはそんなことより、亜紀さんとの関係を進めることの方に関心がありました。

 僕はまず車の免許を取りに教習所に通うようになりました。車には専門学校を卒業するとき、仲間外れにされた苦い想いが凝縮して、なかなか免許を取る気にはなれなかったのですが、車があればデートの範囲も広がりますし、何かと有用と思ったのです。休日と会社が終わった後の時間を利用して、六ヶ月後には免許が習得できました。運転免許場で合格し、免許の交付がされたその日、車のディーラーに行き、百六十万円の車を即金で買いました。即金といっても全て自分のお金ではなく、半分の八十万円は母から借りて、毎月の給料から返済するということにしました。

 車が来てから、僕たちのデートは専らドライブということになりました。電車やバスを利用するときのように時間を調べる必要もないし、天候にもほとんど左右されず、車を使ったデートは快適でした。一番の利点はふたりきりの空間ができるということでした。喫茶店や居酒屋などでどうしても周りが気になって話しづらいことでも、車の中では普通に話せるのが、僕にはうれしく、彼女との関係を深めるにも役立ったように思います。

 いっしょに秋の長野のコスモス街道を走ったり、秩父の中津川渓谷に紅葉狩りに行ったりと愉しい日々が続きました。しかし、ある日を境にして亜紀さんの態度が微妙に変わって来ました。

 その日は朝からいい天気でした。美味しい魚料理が食べたいと彼女が言ったので、伊豆半島まで車を飛ばしました。それまでの彼女でしたら、喜ぶはずだったのですが、この時は渋滞に巻き込まれ時間のかかったということもありましたが、明らかに疲れたような表情で「美味しい魚料理が食べたいなんて言わなければよかった。まさか伊豆まで来るなんて…。近くにもいい店あるでしょ」と言いました。彼女の意外な反応に、僕は戸惑いました。

 今までそれなりに晴れていた空に、少し雲がかかり出したようでした。どうも彼女には本当の僕の正体が見え始めているように思いました。会社の中で別の人格を演じて、他人に嫌われることで何とか自分の大切な部分を守っていた僕が、その虚像によって女性に好かれるとは意外なことでした。その化けの皮が剥がれ、本来の姿が剥き出しになった僕は彼女にとって何の魅力もない人間なのではないかと思うと、これまた皮肉なことで自分でも馬鹿笑いしたい気分でした。

 しかし、亜紀さんにしがみつくしかなかったのです。会社での演者の自分と、本来の自分との間に彼女のイメージを軟着陸させなくてはならないのです。僕は徐々にそのことに疲れていきました。そんな時、専門学校時代の友人だった西田から久しぶりに電話がありました。それは衝撃的な内容でした。伊丹が傷害で警察に逮捕されたというのです。

 伊丹は専門学校の修士過程に進学した後、学校の実験担当の講師になっていました。民間の企業に入り、激しい競争にさらされるより、給料は安いけど実験担当の講師の方が気楽でいいと、津島が勤めていた会社を辞めて北海道に帰ることになり、その送別会を四人で行ったとき伊丹は言っていました。あれから三年、いったい伊丹に何が起きたのかと思いましたが、それはその間に彼が変化したということではなく、学生の頃から変化できなかったためでした。

 西田の話によると、伊丹には学生時代から付合っていた女性がいたそうです。そして、彼が暴力を振るった相手はその女性ということでした。電話では詳しいことがよくわからないので、後日、西田と学生時代よく通った喫茶店で会いました。
 「一週間くらい前に伊丹から電話があってな、付合っている女性に暴力を振るってしまったというんだよ。それで、何とか示談にしたいから、力を貸してくれって言われてな。でもダメだったよ」
 「相手の女性のケガの具合はどうなんだ?」
 「それは大した事ないんだ。暴力っていっても、思わず殴ってしまったという程度だから。それよりも精神的に参っていて、曖昧な決着は許さないっていう感じだ」
 「相手の女性に会ったのか?」
 「会ったよ。伊丹とは高校時代の同級生だったらしい。高校生のときは付合っていなかったらしいけど、彼女も短大に合格して、自宅からだとちょっと遠いということでひとり暮らしを始めて、それがたまたま伊丹の家の近くだったようで道とかで顔を会わせているうちに付合うようになったらしい」
 「じゃー、もう五、六年も付合っていたのか」と僕が独り言のようにいうと、西田は眉をひそめました。
 「それが、どうも違うらしい。付合い出してから、すぐに彼女は伊丹とは合わないと感じたらしい。それで、伊丹が修士過程を終えて、学校の講師に就いて少し経って別れたというんだよ。だけど、その後も伊丹がしつこく付きまとっていて、もう疲れて、‘いい加減にして’みたいなことを強く言って、今回の事件になってしまったようなんだ」
 伊丹が学校の講師についてすぐに別れたということなら、もう三年以上経っていることになります。その間、ずっと伊丹がその女性に付きまとっていたということを想像したら、ぞっとしました。当時はまだストーカーという言葉は一般的でありませんでしたが、今では間違いなくそう呼ばれる行為でしょう。
 「学生時代に伊丹が‘付合っている女性を傷つけたくなる’とか言って、津島が‘まだガキなんだよ’って怒鳴ったことを思い出したよ。その女性の話しによると、伊丹は自分の思い通りにならないと決まって機嫌が悪くなって、急に話さなくなったり、冷たい態度を取ったりしたらしいよ」
 「津島には連絡したのか?」
 「ああ、昨日した。あいつ、今は地元の中古車販売店で働いているらしいよ。バイクが好きだったから、‘バイク屋の方がいいんじゃないか?’って訊いたら、‘バイク屋は整備もしないといけないからな。俺、オイルまみれになるのはイヤなんだ’って言ってた。車屋だと整備と営業ははっきり分かれているからいいって。いや、伊丹のことだけど、心配していたな、あいつはモノローグだって」
 「モノローグ?」
 「そう、モノローグ」

 モノローグ、独白。この言葉は僕にとっても恐ろしいものになっていきました。伊丹の事件は、被害者の女性のケガも軽微なものだったので、裁判所からも示談にするように勧められたそうです。始めは難色を示していた被害女性も伊丹がもう二度と近づかないということを条件にして応じ、双方の弁護士の間で念書、治療費、慰謝料などの取り決めがなされました。それによって伊丹は不起訴となりました。専門学校の講師の方もまだ若いということで、戒告処分で済み、続けて勤務ということになりました。

 しっくりと行かなくなった亜紀さんとの関係を修復しようとめっきりと寒くなった十二月の上旬に彼女を映画に誘いました。休日の土曜日、ふたりで渋谷に行き、映画を見てから、映画館近くのイタリア風の居酒屋に入りました。何杯か重ねるうちに、久しぶりに彼女も明るい表情を見せてくれて、僕の中にも何となく自信のようなものが生まれ、告白するのなら今だという気持ちになりました。
 「亜紀さん、俺、亜紀さんのこと好きだよ」とやや上ずった声で言いました。
 「高野くん、酔ったの?でも、ありがと」と彼女はややおどけながら、しかし、その中に少しの真面目さのようなものを感じた僕はさらに畳み掛けました。
 「もしさ、将来、結婚するようなことになったら、いっぱい旅行に行きたいと思っている」彼女の中に感じた真面目さに自信のようなものがちょっと大きくなって、今度は落ち着いた声で言うことができました。
 「私と結婚してくれるの?」といい彼女は朗らかに笑い、「そしたら、旅行は海外がいいわね」と続けて言いました。
 「いいよ、海外でも」と僕が勢いよく言うと、
 「高野くん、面白い」と彼女はまた朗らかに笑いました。その笑いは前向きなものに思え、好意的に受け取りました。空を覆いかけていた雲の隙間から星空がのぞき、月の光の差したような久しぶりに楽しい夜でした。クリスマスは仕事があり、会うことはできませんでしたが、その週末に車の室内に取り付ける小銭入れとジュースの缶立てをプレゼントされ、僕も彼女にカシミアのマフラーを贈りました。

 年が明け、初春の柔らかい陽の光が心地いい一月の中頃、亜紀さんを誘い甲府に車で行きました。彼女が大河ドラマを見ているという話をしていて、その時やっていたものが‘武田信玄’でしたので、武田神社に初詣に行き、後はいろいろと武田氏の史跡でも観ようと思ったのです。下調べを入念に行なったので、恵林寺を始めとして、信虎や三条氏の墓などを効率よく周ることができ、彼女も喜んでくれました。

 冬の短い陽はすぐに落ちて、そろそろ帰ろうということになりましたが、「甲府まで来たのだから、ホウトウを食べたい」と彼女は言い、僕は車を走らせながら道の両側に注意をはらいました。しかし、辺りはすでに暗くなっていたため、なかなかお店を見つけられず、時間だけが虚しく過ぎていきました。彼女はお腹も空き、疲れも出てきたようで、「ホウトウでなくてもいいよ」と言ってくれましたが、僕は「せっかくここまで来たのだからね。そのうち見つかるよ」とホウトウにこだわりました。

 甲府の中心街を走っていたのに、そのうち見つかると思っていた店も見つからず、隣りに目をやると亜紀さんは「もういい加減にしてよ」というような顔をして、どんよりと窓の外を遠い目で見ていました。そして「ホウトウを食べたいなんていわなければよかった」と独り言のように言いました。

 この時、初めて彼女に激しい憎悪の気持ちを感じました。それまでも、小さな苛立ちのような感情は度々起きたことはありました。しかし、この夜は、激しい言葉を吐いてしまいそうなほど心が波立ったのです。「ホウトウが食べたいというから、不案内な街で暗い中、車を運転しながら一生懸命に探しているのに、労いの言葉もなく、わがままばかり…」しかし、僕は吐き出しそうになった言葉を抑え、偶然見つけた食堂の駐車場に車を入れました。
「ホウトウはないかもしれないけど、ここにしよう」と勤めて明るく亜紀さんに言葉をかけました。彼女は「うん」と一言だけ言いました。

 その食堂はあまりきれいではなく、ラーメンやら、カレーライスやら、安いだけが取柄というような雰囲気の店でしたが、よく見るとメニューの角の方に‘ホウトウ’という文字が見えました。
「ホウトウもあるみたいだね」と僕が言うと
「そうね。それでいいわ」と疲れた感じで言いました。僕への不満を言葉でなく、態度で示しているように思えました。ふと、伊丹のことが頭に浮かびました。彼の暴力を振るった姿が想像されました。その反面、津島が西田に言った「モノローグ」という言葉が頭の中で響いていました。モノローグ、彼女もモノローグ。そして僕もまたモノローグ。

 そして、会社の方でもちょっとしたことがありました。このちょっとしたことが裂け目となって、大きく広がっていくことになったのです。

 新しい年になっても、仕事の相棒である鈴木君の態度は相変わらずでした。勤怠は直らず、何かといえば僕を非難して、自分を正当化しようとしました。そんなある日、僕は彼の態度がどうにもがまんできず、あまりに子供っぽいことですが、ハードコピーの裏に‘鈴木死’と悪戯書きをして仕事の指示などを書いて彼に渡しました。当時、同僚同士で何某氏という呼び方が流行っていたので、‘氏’と‘死’をかけたわけです。

 鈴木君は苦笑いをしていましたが頭に来ていたのでしょう、その指示書の‘鈴木死’の部分だけを破ってCAD室に放ったままにしていました。それをたまたまCAD室にやってきた鈴木さんが見てしまったのです。
 「これはどういうことだ」と訊いた鈴木さんに対して
 「高野くんが書いたんです」と鈴木君は応えました。
怖い目をして僕を見ている鈴木さんに事の成り行きを説明しました。どうやら、それで事情はわかったようでしたが、なおも鈴木君は
 「高野くんは怖いですから、気をつけた方がいいですよ」と茶化したりしました。僕はさらに説明を重ね、鈴木君の勤怠問題から話の論点が大きくずれて行きました。鈴木さんの「ふたりとも仲良くやってくれよ」という一言で、このことはおさまったように思えたのですが、三月の下旬に突如、僕は移動を言い渡されたのです。

 移動は同じ回路技術部内のもので、僕と池田の交換でした。それまで池田がやっていたシミュレーションを僕がやり、僕のやっていた実験を池田が担当することになりました。この移動は僕にとって衝撃でしたが、それは池田にとってより大きかったようです。

 シミュレーションという仕事は専門学校の情報処理科にいた彼にとってもコンピュータのキーを打つという以外に共通するところはなかったでしょう。しかし、コンピュータを相手に仕事をするということは同じで、まだ、CADの仕事だったらよかったのかもしれませんが、それはどうやら鈴木君の担当になるらしく、彼の仕事は僕が始めにやっていた実験でした。コンピュータに向かっている仕事から、今度は半田ごてを握り、液体窒素を注入したりと全く職種が変わってしまい、戸惑っていました。そのうち池田はひとつの噂を耳にしました。例の‘鈴木死’のことです。

 「お前があんなことしてくれたから、俺まで巻き添えだよ」と彼に言われ、噂のことを知りました。僕が‘鈴木死’と書いたものが、偶然、鈴木さんの目に触れて怒りを買い、この移動になったというのです。この移動は当初、協力会社の人もいろいろな仕事を経験してもらえば何かと役立つからと説明されていました。しかし、社員では当たり前になっているこの種の移動も、協力会社の社員の間ではほとんど皆無で、欠員が生じたときのみたまに行なわれるという程度でした。したがって、僕もあの‘鈴木死’の落書きが影響したのではと思ったりもしました。しかし、それが例え真実であっても、それが明らかになることは絶対にないでしょうし、考えても仕方ないことだと思って先方の説明をそのまま受け入れることにしたのです。それは、何も知らない池田も同じだったと思います。

 それが本当か嘘か誰もわからないでしょう。しかし、一旦、こういう話が真しやかに流れてしまうと、それが真実のようになってしまうのです。あの時、CAD室には僕と鈴木さんと鈴木君しかいませんでした。鈴木さんが、このような噂を流すとは思えません。鈴木君が悪意を持って、或いは面白半分に流したのだと思いました。

 僕は池田に‘鈴木死’は鈴木さんのことではなく、勤怠続きの鈴木君に腹を立てて書いたものであることを説明し、そのことは鈴木さんもわかっているといいましたが、それはもう暴風雨の中でさす傘のようなもので、ほとんど何の役に立ちませんでした。

 六月になり、池田は退職願を上司に提出しました。やはり実験の仕事に馴染めなかったのかと、胸の痛くなる想いでした。
 「シミュレーションの仕事のままだったら、もうちょっとやったかもしれないけど、実は前々から辞めることを考えていたんだ。だって、ここに居たって先行き暗いだろう。三十歳になったら、悲惨だよ。だったら早めに動いていた方がいいかなと思っていたんだ」と彼は僕に言いました。彼の退職は彼だけの問題ではなく、僕の問題でもあったのです。しかし、周りの人間は物事を安易に捉えることしかできないようでした。池田の会社を辞めた理由は移動であり、その原因を作ったのは僕であり、つまり僕が彼を退職に追い込んだという論調になっていたのです。

 会社というのは刺激的な噂があると、それが何時の間にか広まり、真実のように話される場所で、完全な村社会です。他にも池田の気持ちを聞いた人間は何人かいたようです。しかし、その人たちの口から発せられる声はあまりにも小さかったのです。 僕はほとんど村八分といった状況になりました。就職するとき、「強制的に人との関りができる。もう誰からも相手にされず、放って置かれるということはなくなり、どんな形であり、誰かは声をかけてくれる」と思いました。しかし、今、それはほとんど幻想だったことに気づきました。雑談というものを、全くしないで一日が終わってしまう日は当たり前で、時によっては「おはようございます」「お願いします」「お疲れさまです」「お先に失礼します」などという挨拶程度しか声を出さない日もありました。このような状態になり、僕はさらに亜紀さんへの依存を強めていきました。

 甲府から帰った後も、うんざりするような気持ちを抑えながら、彼女と休日に会ったりしていました。付合いだした頃は亜紀さんが僕を誘い、そのうちそれは逆転しましたが、かなりの頻度で休日をいっしょに過ごしました。しかし、この頃は断られることが多くなり、三回誘ってやっと一回会うというような状態になっていました。デートの前は重い気分になり、独りで過ごす方が気楽だと思うこともしばしばでしたが、会わずにはいられなかったのです。

 デート中に彼女のいやな部分が見えてうんざりすることもよくありました。それは彼女もそうだったかもしれません。もうただ、今までの惰性で会っているという感じでした。彼女は自分から別れ話を切り出す勇気はなく、できれば自然消滅的に交際がなくなればと思っているようでした。その日、彼女もあまり会うことに乗り気ではなく、僕が熱心に誘ったから仕方なく出てきたという感じでした。僕は倦み切ってしまったふたりの関係を一気に打開しようと試みたのです。

 その日、僕たちは車で長野県野辺山まで行きました。八ヶ岳周辺をドライブして、日本の鉄道で最高地点にある野辺山駅や電波望遠鏡がある天文台を見学して、清里で食事を取り、帰りの中央高速にのった頃にはもう辺りは暗くなっていました。

 談合坂サービスエリアでコーヒーと軽い食事を取り休憩しました。車のいいところは車内に入ってしまえば、完全な個室になるということです。ボロボロになってしまった僕たちの関係を放り出して、当初の計画を進めようと僕はしました。
 「今度は泊りがけでいっしょに旅行に行かない?」といきなり亜紀さんに言ったのです。彼女は驚き、何を言われたのかわからないというような表情をしました。
 「泊りがけって、そんなに遠く?」と彼女は戸惑い、子供のようなことを訊き返してきました。人間は驚くと痴呆のようになるのかもしれません。
 「そう、東北の遠野辺りなんていいんじゃない?亜紀さん、遠野物語の世界が好きって言っていたことあったじゃない。物語の世界を辿る旅っていうのも面白いと思うよ」と勤めて明るく言いました。彼女の反応次第では、さらにふたりの関係を深いものにしようと思っていたのです。しかし、僕の期待は裏切られました。
 「泊まりは無理よ」と彼女はぽつりと言い、車のシートに背をもたれかけ、顔を僕から背け暗い窓の外に視線を移しました。自分の表情を見られることを、そして僕を見ることを避けるためだったのでしょう。
 「そうか」僕は独り言のようにいい、車を発進させました。中央高速から一般道に下りても彼女は一言も発せず、頭をヘッドレストに預けたまま、顔を窓の方に向け眠っているようでした。彼女との関係が終わりつつあることを沈黙の中で知りました。頭の中が泥のように濁り揺れているようでした。
 「ちょっと危ないじゃない」と彼女に言われて我に返りました。ルームミラーに移っている後方の信号機は赤く光っていました。
 「赤信号、そのまま突っ切っちゃうなんて。大丈夫?休憩した方がいいんじゃない」
 「ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」と僕は謝りました。
 「もう、気をつけてよ」というと彼女は僕の方にまた背を向けました。彼女に対する静かな憎悪が心の中に再び芽生えました。彼女は今まで眠ってなどいなかったのです。僕と言葉を交わしたくないため、寝た振りをしていたのです。いえ、寝た振りなどという可愛げのあるものではなく、実際は運転している僕が見逃した赤信号にも気づいたように、彼女は小動物のように全神経を僕と周囲に配っていたのです。最早、彼女にとって僕は無条件に気を許せる人間ではなく、警戒をしなければならない危険人物になったわけです。

 こんなやり方でふたりの関係が終わったということを僕に教えようとするなんて、あまりにも卑劣ではっきりと言葉で言ってくれた方がどんなにすっきりとするかと思いました。
 車を止め、亜紀さんを車外に叩き出そうかと何度も思いました。そして、ぼんやりとした殺意が霧のように心を覆いました。しかし、僕は劣情を押さえ、彼女のアパートの前に車を止めました。
 「着いたよ」
 「ありがとう。それじゃー、運転、気をつけてね」そう言い、彼女は部屋の中に消えて行きました。これが彼女と僕の最期でした。あっけない幕切れでした。そして、次の年の春、僕は日本セレックを去ることになったのです。そのきっかけになったのは、ひとりの先輩社員の末路でした。

 亜紀さんと破局のする前の四月、ひとりの日本セレックの社員が出張先の中東から日本に戻って来ました。村松さんという三十代半ばくらいの男性でした。彼は大手電気会社の社員と共に中東のある国に葉書の郵便番号自動読み取り機の設置のため、長期の海外出張に出ていたのでした。彼は日本セレック自慢の社員で、上司からよく彼の話がなされました。「我社には中東まで技術支援に行っている社員がいる。みんなもがんばれば海外にまで活躍の場を広げることができるのだ」それは、毎日、行き場のない閉塞感に包まれながら仕事をしている人間にとって遠い世界のことでしたが、微かに見える光のようなものでもあったわけです。

 会社は帰国した彼の慰労会をもようしました。村松さんは中東でどのような仕事をしていたのか、異国での苦労話などユーモアを交えて話し、陽に焼けたその顔を僕は羨望の眼差しで見ていました。村松さんは明るい性格で、工場の廊下などで会うとにこにこした顔をしていつも元気よく声をかけてくれるような人でした。しかし、日本で帰ってきた彼に戻る職場はなかったのです。

 三十代半ばで海外勤務経験がある人間も、高卒で入ったばかりで何もできない新人も大手電気メーカーから出る人件費は同じなのですから、協力会社としては多くの給料を払っているベテラン社員は儲けが少ないわけで、出向先から早く引き上げさせたいのですが、引き上げさせてその後の仕事となると、出向している社員を管理する仕事か、唯一自社でやっているソフト開発しかありません。しかし、すでに管理者は村松さんと同年代の村田さんが担当していましたから、村松さんは帰国早々にソフト開発に回されたのです。

 「これから毎日、勉強だよ」と村松さんは明るく言って、本社に戻って行きました。しかし、それから約半年後、回覧で村松さんが今年いっぱいで退社することを知ったのです。中東まで海外出張し、あれだけ明るい表情を見せていた村松さんが半年後に退社、それは衝撃的でした。一体、彼に何があったのか、社内事情にとんと疎かった僕は、保科に訊いてみました。村松さんと私的な付合いもあった彼は
 「俺も詳しいことは知らないけど、何でも職場に溶け込めなかったようだよ。それまで中東の暑くて乾いた空気の中で機械をいじっていたのが、今度は空調のきいた静かな部屋の中でキーボードを打つだけの仕事だからな。村松さんには周りにいる人間がエイリアンに見えたんじゃないかな」と寂しそうでした。

 十二月も押し詰まった日、村松さんがお別れの挨拶をしに、F工場にやってきました。中東から帰ってきたとき健康そうに日焼けしていた顔は色がさめ、溌剌としていた表情も憔悴していました。いっぱいの空気で大空を自由に飛んでいた風船が萎み、地に落ちてしまった、そんな印象を持ちました。

 「元気そうね」と回路技術部に周って来た村松さんは僕と保科を見て明るく言いました。その明るさも自然と出てきたものではなく、無理に作り出したもので心が締めつけられました。そして
 「今からソフトの勉強しておかないとダメだよ。年をとってからではね」と付け加えました。
 「お疲れ様でした」と僕と保科が言うと
 「がんばってね」と言って、村松さんは長い廊下を第一技術部の方に去って行きました。その寂しそうな背中を見たとき、それが数年後の自分の姿と重なりました。村松さんの退社は決して他人事ではなく、僕たち出向社員全員の問題でした。今までおぼろげながら見えていたものが、いきなりその輪郭をはっきりとさせて目の前に現れた感じでした。ソフトの知識などあまりない者が独学でそれを習得するなど、趣味の範囲ではいざ知らず、実際の仕事のレベルではほとんど不可能なことで、増して三十代半ばになってからでは絶望的なことに思えました。かといって今すぐに転属願を会社に提出したとしても、受け入れられるはずもなく、結局はまだ潰しがきく若いうちに転職をするしかないという結論になりました。

 年が明けてすぐに僕は日本セレック電子開発部の部長に退職したい旨を申し出ました。しかし、池田が退職してからまだ一年も経っていなかったため、上司は何とかことをうやむやにしようと思ったようで、話し合いを何度も求めましたが、その都度いい加減な理由で先延ばしになりました。

 このままではらちが開かないと判断した僕は、「それでは、職場の上司に相談します」と言いました。直接、大手電気メーカーの仕事上の上司と話しをつけようと考えたのです。それが脅しになり、部長と話し合った結果、僕の退職の時期は三月末ということになりました。四月の入ってくる新人と入れ代わる形になったのです。

 東京の桜が開き始めた頃、僕は六年間勤めた会社を辞めました。(2011.3.8)


―つづく―

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