モノローグ

第一章

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 今では状況は変わってきたかもしれませんが、僕が中学生の頃、優秀な子は公立の高等学校に進学しました。僕は勉強が全くだめだったため、私立の男子校に行くことになりました。そこで初めての中間試験で大して勉強をしなかったにもかかわらず、クラスで上位の成績を取りました。周り人たちの学力のレベルがあまりにも低かったのです。

 成績がいいと不思議なもので、中学生の頃は全く勉強などしなかったものですが、もっと上に行きたいという願望が起きてきて、家でも机に向かう時間が増えていきました。そんな僕を母は喜んでいましたが、家業を継がせたいと思っていた父は苦々しく思っていたようで、ことあるごとに勉強などどうでもいいから学校が休みのときは仕事を手伝えと口やかましく言いました。僕はそんな父をますます避けるようになり、いつか大きな裂け目ができて修復できなくなるような予感がしました。

 高校の同級生に黒木という僕と同じ中学から進学した男子がいました。彼とは中学時代に同じクラスになったことはありませんでしたが、小学三年、四年と同じクラスでまた高校で同じクラスになり、いっしょに遊ぶようになりました。

 この当時、スペースインベーダーというゲームが流行っていました。今ではあまり見かけませんが、スペースインベーダーをプレイするためには、ドリンクを注文しなければならないゲームセンターが多かったように思います。スペースインベーダーはワンプレイ百円で、上達するとワンコインで延々と遊べるため、何時間も粘るということは珍しくありませんでした。ドリンクは店側の苦肉の策だったのでしょう。

 僕はもともと、今でもそうなのですが、コンピュータゲームというものに全く興味を持てない性質で大流行しているこのゲームにも初めは何の関心もありませんでした。黒木と遊ぶとき、付合い程度に楽しむというだけでした。黒木は僕と違い、このゲームにかなりのめりこんでいました。そして、自分のお小遣いだけでは足りなくなり、僕にお金を借りるようになり、いつしかゲーム代はいつも僕が出すようになっていました。

 黒木もさすがに僕に悪いと思い始めたのか、「夏休みにアルバイトをするから、そのお金が入ったら、今度は俺が奢るからさ」と言い出しました。僕は素直にその言葉を信じました。そして、たいしてやりたくもないゲームに付合い、そのお金を出していたのです。

 夏は終わり、二学期が始まりましたが、相変わらずゲーム代は僕が払っていました。何気なく夏休み前に黒木が言った言葉を確かめてみると「バイト代でステレオ買っちゃったんだよ。冬休みになったらお年玉に入るし、またバイトするからさ。そしたら今までの分に利子を付けて返すから」と悪びれずに言いました。

 僕が黒木と付合っていたのは、同じ中学校の出身というだけの理由でした。彼に親しみを感じたこともなければ、友情を感じたこともなく、また人間的に好感を持っていたということもありませんでした。むしろ僕は黒木を軽蔑していました。特にゲーム代を払わなくなってから、その気持ちはさらに強くなり、ある種の嫌悪感までともなっていました。いっしょに遊ぶといっても、ただゲームセンターに行ってそれぞれがゲーム機に向かい合っているだけで、深みのある話しとか悩みの相談とかそういったお互いの心に鍬を入れるような作業をするといったことは一切ありませんでした。ただ、表面的な付合いだけだったのです。

 もともと僕はお金への執着心があまりないということも原因だったのでしょうが、黒木に強く抗議するということができませんでした。「ジイ」の一件以来だと思いますが、他人と深く関るのが何か恐ろしく思え、自分でも気づかないうちにそれを回避しようとしていたように思います。結局、年が開けるまで、黒木のゲーム代を立て替えていたのです。そしてちょっとしたことから、僕と黒木の見せかけの友情は壊れたのでした。

 冬休みも終わり、僕と黒木は学校帰りに繁華街にあるゲームセンターに寄りました。その頃はもうスペースインベーダーは古くなっていて、ギャラクシーとかいうミサイルのゲームが流行っていました。

 黒木は「バイト代とお年玉、親に貯金するように言われちゃってさ。何、形だけだよ。時間が経ったら下ろすからさ、そしたら今度は俺が奢るよ。それまで悪いんだけど、また貸してくれない」と下卑た笑い浮かべて言いました。「そう、だけど、今日は俺もないんだ。また、今度な」と僕はできるだけ優しく言いました。心の中はかなり波立った状態だったので、自分の気持ちを抑えるため、あえて優しい言い方になったのでした。

 しかし、黒木は仮面の下にある僕の心の表情を感じたのか「そう、もう貸す気はないんだろ」と先程とは一転した冷たい顔で言いました。「そうじゃないけど…」と僕が口篭もると、「わかったよ」と棄て台詞を吐いてさっさと独りで店を出て行きました。僕はその後を追いませんでした。これが黒木と口を利いた最後となりました。この日以降、黒木は学校で会っても僕のことを無視し、話そうとはしませんでした。他のクラスメート伝に黒木が僕のことを「気持ちの小さい男」だとか「ちょっと嫌なことがあると、すぐに機嫌が変わる」とか悪口を言っていると聞きました。しかし、他のクラスメートといる黒木を見ると、僕といっしょにいたときのような自信家ではなく、小さく萎えて見え、痛ましい感じさえして、彼を憎むどころか可哀想に思いました。

 黒木と絶交した僕の日常は静かで淡々としたものになりました。というのも僕には黒木以外に特に親しくしている友人がいなかったからです。しかし、そのことをそれほど寂しいとは感じませんでした。僕には何故か友人というものが、何処か胡散臭く思え、どうやって彼らと付合っていけばいいのかよくわからなかったのです。ですから授業が終わった後、真っ直ぐ帰宅して、後は家でテレビをぼーっと見ているといった日常はとても居心地がいいものでした。

 クラブ活動もせず、友人との付合いもほとんどなく、学校を往復するだけの毎日でした。それが要因になったとも思えませんが、学業の成績はますます良くなっていきました。二年生になって理系クラスに入った僕は大学受験を真剣に考えるようになりました。母は本心では僕に家業を継がせたくなかったようで、大学受験にも賛成でしたが、問題は父でした。しかし、その頃には父も自分の考えを押しつけるだけの強さが失われていたようです。僕の大学受験には手を上げて賛成とは行きませんでしたが、強いて反対もしないという姿勢でした。父の年をとったことを感じ、一方では寂しく思いながらも、他方では笑っていました。

 こうして晴れて何の障害もなく大学受験ということになったのですが、一生懸命勉強に励んだかというとそんなこともありませんでした。一生懸命にならないというより、一生懸命になれないという感覚でした。何一生懸命勉強して大学に行くということが、遠いことのように感じられたのです。

 成績が良かったため、大学進学者があまり出ない学校側からも期待されたのですが、結果は予想通り不合格ということになりました。当時は一年くらい浪人するのは当たり前という風潮だったので、僕も一年浪人して再度挑戦ということになりました。母の助言を入れて大手の予備校に入学しました。この頃になると家庭の中で父の影はさらに薄いものになっていました。数年前に祖父もこの世を去り、重石がなくなったこともあり、母は全てにおいて強くなっていました。

 しかし、母の期待とは裏腹に僕の心は何処か空虚でした。大学に行って将来のために勉強したり、いい仲間を作りたいという前向きな希望よりも、ただ後四年間ぶらぶらと過ごしていたいという気持ちだったのです。自分には生きていく力というものが決定的に欠けているような気がしていました。そのため、社会に出るまでの期間をできるだけ延ばして、その時期を先送りしたかったのです。

 浪人時代は僕にとって最も安らいだ日々となりました。予備校の講義は一日にあっても二つくらいでしたし、週に三、四日行けばよかったのです。多くの時間が自分だけのものとなり、僕はその中に寝そべり、ただ漂っていました。それは何とも心地いいことでした。

 予備校の英文読解の講義で黒木と顔を会わせることが度々ありました。彼もまた大学受験に失敗して浪人していたのです。しかし、もう僕と黒木は全くの他人、いや、それ以上に冷えた関係になっていました。

 全くの他人であっても、ちょっとしたことで、例えばシャープペンの芯を分けてもらったり、消しゴムを借りたりとか、声をかけることはあると思いますが、彼とはただ話しをしないだけでなく、偶然顔を会わせてもお互い素知らぬ振りをして反対方向に離れていき、席も近くに座るということはありませんでした。

 あの時、一度だけお金を貸さなかっただけで、こんなふうになってしまうとは、僕は人間というものが自分も含めて不可解であり、けち臭くもあり、悲しいものだと思いました。しかし、このようなことは日常茶飯事だということを、社会人になってから痛感することになりました。

 浪人時代は僕にとって一番安らいだ日々だったといいましたが、衝撃を受けた出来事があったのもこの時期でした。

 その日、僕は昼からの講義を受けるため、一旦予備校に向かいましたが、いつものさぼり癖が出て途中で家に引き返しました。こういうことはよくあったのですが、それまでは母には授業に出ていることにしていたため、映画館に入ったり、喫茶店に寄ったりと時間を潰してから帰宅ということだったのです。この日は何だかそれも物憂く真っ直ぐ家に向かったのですが、それが良くなかったのです。

 家には母がひとりいるはずでした。この時間なら茶の間でテレビでも見ながらのんびりとしているところですが、一階には誰もいませんでした。直感とでもいいましょうか、心の中に何かしら嫌な感覚が走りました。二階にいるのかなと思いながら、階段を一段、一段と上り始め、もう二、三段で二階という辺りで女の呻き声のようなものが聞こえ、僕の足はその場で凍りつきました。

 女の呻き声は数年前に亡くなった祖父の部屋から聞えていました。凍りつき震える足を引きずるようにして、ベランダ沿いに呻き声のする部屋に近づきました。祖父の部屋は二階の角にあり、ベランダからも出入りすることができるようになっていたのです。ベランダの行き止まりにあるガラス戸の近くまで来ると「奥さん、奥さん」と乱れた息遣いの声が聞えました。ガラス戸には薄いカーテンが掛かっていましたが、その一部分がやや捲れ上がっていて、辛うじて中の様子が見えました。

 暗い部屋の中に裸の雄と雌が重なりあって蠢いていました。雌の方は母でした。雄の方は父が使っていた職人でした。二匹は喘ぎ、そしてお互いの体を弄りあっていました。僕はそっとガラス戸から離れ、そして音を立てぬようベランダを歩き、そして二階の廊下に出て、慎重に一歩、一歩階段を下りました。一階に下りた後、店に出て靴を履き、そして、外に出ました。

 何処をどう歩いているのか、自分でもわかりませんでした。ただ、歩きました。頭の中は先程の二匹の獣に支配され、他のことは何も考えることができなくなりました。その職人は僕が小学生時代から父が使い、家に出入りしていました。大きなバイクで通勤していて、それが店の片隅に止められていて、子供の頃、僕はよくそれに跨り遊んでいました。そんな時、両親がいないとこの職人は僕を抱き抱え、外に出て、道路に信号待ちで止まっている車の排気管のところに僕の顔を持っていき、車の排気ガスを吸わせて「もう、いたずらするんじゃないぞ」と言って折檻しました。ただ、僕はそれを冗談の一種と思っていて、ケラケラと笑ったりしていました。

 ある日、僕はその職人が乗って来たばかりのバイクに跨り、アクセルを回したり、ブレーキレバーを握ったりして「ブン、ブン」などと言いながら遊んでいました。父は先に現場に向かい、母は台所で炊事をしていて、店には僕と彼だけでした。彼はいつものように僕を抱き抱え、バイクから下ろすと僕の手をまだ熱いマフラーに無言で押し付けました。それほど強く押しつけたわけではなかったので、酷いことにはなりませんでしたが、彼の苛立ち、そして怒りを感じ、それ以来バイクはもちろん彼に近づくということもしなくなりました。

 人間は身に付けたもの、それは必ずしても洋服や帽子や靴といったものばかりでなく、例えば教養だとか、人好きのする表情だとか、お体裁の言葉だとか、処世術だとか、そういったものを全て引っぺがして現れるその正体は極めて動物的なものではないかと考えるようになりました。母と職人の情事はその象徴的な出来事のように思えました。

 歩き疲れて、家に戻ったとき、そこにはいつもの日常が戻っていました。母はお台所で夕飯を作り、不倫職人は店で家具にニスを塗っていました。僕は何事も無いように「ただいま」と言い、二階に上がりました。祖父の部屋に入ると、そこにも何もありませんでした。ベランダ側にあるドアの窓からカーテン越しに夕日が畳にこぼれおちて、部屋全体が静かに眠っているようでした。

 自分の部屋に戻り、勉強でもして気分を変えようと机に向かいましたが気が入りませんでした。あの場面が頭の中を支配して、どうしようもなくなっていたのです。僕はまた二匹の動物が裸体を絡ませていた祖父の部屋に行きました。そして、ジーンズのジッパーを下げてそこから手を入れ性器を摩りました。

 「ご飯、出来たよ」と下から母の声がして、一階に下りるとすでに不倫職人は帰った後で、父が現場から戻って来て食卓についていました。父を見ても同情の気持ちは起きず、この場から消えてほしいような気持ちになりました。

 僕は母と職人のことを深く考えることは止めました。つまり、いつからそういった関係になったのかとか、最初に誘ったのはどちらからだったのかとか、恋愛感情はあったのかとか、そういったことが頭に浮かぶとそれを叩き壊しました。ただ、あの場面だけは未だに頭から消し去ることができません。

 そして、この時期、我が家では別の問題が持ち上がっていました。高校に入学したばかりの弟の清二が不登校になってしまったのです。

 僕よりはるかに快活で陽気で人付き合いもよかった清二が何故不登校になってしまったかというと、どうも学校でのいじめが原因だったようです。どのようないじめを受けたのか清二は口にしませんでしたが、母に学校へ行かないわけを訊かれ、そのようなことを匂わせました。ただ、不登校といっても全く学校に行かなくなってしまったわけではなく、三日行って三日休むとか、一週間行って一週間休むとかいった感じで、中途半端な不登校でした。

 そのうち清二はスパルタ教育で有名なあるヨットスクールに学校を止めて入ると言い出しました。弟はそれまでヨットなどに、いやマリンスポーツそのものに興味を示したことなどなく、さらに僕と同じくカナヅチのため、ライフジャッケットを着用はするのでしょうが、海でのスポーツを好むはずなどないのです。その弟がそんなことを言い出したということは、マスコミなどで報道されていたヨットスクールのスパルタ教育に何がしかの助けを求めてとしか考えられませんでした。

 当然、母は猛反対しました。しかし、清二の決意は固く、また不登校の長引いていく傾向にありましたので、学校を止めずに休学という形でというところまで母は妥協しました。しかし、清二はあくまでも学校を止めると言って聞かず、そんな押し問答をしているときにそのヨットスクールで生徒さんの死亡事故が起き、この話しはなしになりました。

 清二の不登校は夏休み前には直りました。弟を立ち直らせたものは新しい友人でした。その子は金田といい、弟と同じく洋楽が好きで、それがもとで親しくなっていったようです。ふたりでタバコを吸いながら街を歩いているところに出くわしたこともありますが、とても仲が良さそうでした。そのときは弟も僕もお互い気まずく、兄弟でありながら何も言葉を発せず、まるで他人みたいにちょこんと頭を下げただけでした。たぶん、金田君には僕が清二の兄とはわからなかったでしょう。

 僕は弟に対して大きな敗北感を感じました。父にも、母にも、そして祖父にも、弟の方が僕より好かれ、可愛がられていました。それは今、考えてみると当たり前で、弟は優しい人間でした。僕は高校一年生の冬に、風邪をこじらせて肺炎になって入院したことがあります。中学二年生の時から、僕はラジオで放送されていた全米のポップミュージックのランキングトップテンをノートに付けていました。入院ということになってしまったのですから、その間チャートを付けることはできませんでした。

 しかし、退院して家に帰り、そのノート開けて見ると、拙い字でチャートが付けられていました。弟でした。彼の優しさに、目の開かせられる思いでした。しかし、僕はそんな弟を見下していたのです。反抗もせず、みんなに愛敬を振り撒いて人気を得ている弟を密かに軽蔑していたのです。ですから、彼がどんなに家族の中で人気があろうと、それに対して劣等感を抱くということはありませんでした。

 僕の敗北感は金田君という友人を得た弟に対してのものでした。高校時代の僕は黒木という人を利用することしか考えていないような下らない友人しか得ることができなかったのに対し、弟は‘親友’と呼べるような友をつくることができたのです。このとき初めて弟の方が僕よりも人間的に優れているのではないかということに気づき、決定的な劣等感を感じました。そして、それはだんだんと屈折したものになっていきました。

 大学入試が近づいて来ても、受験勉強に熱が入るということはありませんでした。今日は一生懸命勉強しようと机には向かうのですが、だめなのです。何故か身が入らず、高校二年生の修学旅行の夜に級友たちから受けた辱めや、裸体で蠢いていた母と職人のことなどが思い出されたりして、自分を辱めました。自分には何かを一所懸命やる、本気になるといった能力が欠けているのではないかと思いました。

 このような状態でしたが、ひとつだけ決めていたことがありました。受験に失敗したら自殺しようと思っていたのです。大学受験に失敗した後、一体どうすればいいのか僕にはさっぱりわからなかったのです。どういう風に生きていけばいいのか、わからなかったのです。もし受験に失敗したら、その後のことは何も考えられず、もう死ぬしかないと思いました。

 自殺する場所も決めていました。東京の西部にある高尾山というハイキングで有名な低い山です。もし掲示板に自分の受験番号を発見できなかったら、その足で高尾山まで行き、ハイキングコースを歩き、何処か適当な所から山中に分け行って、ズボンのベルトを外して適当な木にかけて首を吊ろうと思いました。できれば、死体が発見されないようにできるだけ奥に踏み込むつもりでした。

 これだけの覚悟をしていたのにもかかわらず、勉強に集中するということもなく時間だけが過ぎていったように思います。或いは自殺を決意することによって、知らず知らずのうちに僕は自分のやる気を引き出そうとしたのかもしれません。しかし、後の橋を焼き切ってもなお、僕はその前でただ佇んでいるだけでした。

 低い雨雲が垂れ込めた二月の下旬、僕は飯田橋にある大学の掲示板の前にいました。そこには何度見ても自分の受験番号はありませんでした。何もかもがわからなくなりました。悲しいというより、心にぽっかりと穴が空いてしまいました。大学を後にし、決めていたことを決行しようと思いました。

 しかし、僕の足は最寄駅の飯田橋ではなく、その反対側にある市谷に向かったのです。ちょっとだけ考える時間がほしくなったのです。しかし、もう何も考えられませんでした。市谷駅までには心が決まるだろうと思っていたのですが、切符券売機の前に立ってもまだ迷っていました。

 いくらの切符を買えばいいのかわからず、とりあえず一番安い初乗りの料金を券売機に投入しました。高尾駅で清算すればいいと思いました。電車に乗り、ドアの横に立って窓越しに流れる風景を見ていました。低く垂れこめていた雲の隙間から一筋の光が地上に落ちていました。その光をぼんやりと見ていると、自分には自殺などとてもできないことがわかりました。大学受験に失敗したら自殺するという決意さえ、本気でなかったことに今更ながら気づきました。

 家に着き、母に「不合格だった」と報告してから自分の部屋に入り、ふとんを被って泣きました。今までにないくらい泣きました。しかし、何故泣いているのか、自分でもよくわかりませんでした。何事にも本気になれない自分が情けないからか、不合格がショックだったのか、とにかくよくわからなかったのです。ただ、この時、またひとつ生きていくうえで必要なこと学んだのです。それは、演じるということです。「泣く」ということで、何も言わなくても僕が期待する以上の効果が家族に伝わりました。

 母はほとんど気力を失っていた僕の変わりに進路を考えてくれました。それは専門学校に行くことでした。何か興味のあるものを学んで技術を付けてから社会に出たほうがいいと考えたようです。僕は理系でしたので、その頃、パソコンが少しずつ広まり始めていて、将来の有望なのはコンピュータ技術者だと思いました。僕は情報処理の学科に行きたいと思いました。しかし、母は大手電機メーカーに勤めている知り合いから「男の子だったら、電子工学の方がいい」と言われ、定見のなかった僕は或る専門学校の電子工学科に入学することになったのです。

 今、考えると、この時、父はどうしていたのだろうと思います。前はあれだけ「あとを継げ」と言っていたのに、この頃、僕の進路に関しては全くの蚊帳の外で、父の影はほとんどなくなっていました。

 前に「いつか大きな裂け目ができて修復できなくなるような予感がする」と書きました。それは何かの出来事をきっかけにして起こるものと思っていました。しかし、それはそんな劇的な形でなく、静かにそして陰気に進行していたのです。特に何事もありませんでしたが、父と僕の間は水が長い年月をかけて岩盤を浸食していくように、深い溝ができていたのです。

 大学受験に失敗したとき、父のあとを継ぐという選択肢もあったと思います。しかし、その頃には父と僕は、(幼い頃から父と楽しく会話をしたという記憶もありませんが)ほとんど口を利かない間柄になっていました。真ともに会話もできない機械のような父のあとを継ぐなどということは、僕自身も機械のような血の通わない人間になってしまいそうで嫌でした。しかし、この時、もし父のあとを継いでいたら、その後起こったいろいろな災厄を避けられたかもしれません。

 四月から僕は晴れて電子工学科の学生ということになったのですが、後悔するのに一月もかかりませんでした。ほとんどの講義の内容がちんぷんかんぷんでよくわからないのです。電気回路とか、電気磁気学とかは何となくまだついていけたのですが、電子回路やIC回路になるともうだめで、空中線及び電波伝搬やFORTRN77とかになるともう何のことだがさっぱりという状態でした。電子工学科の学生でありながら、一番面白かった授業が倫理哲学でした。

 講義の間は大人しく席に座り、黒板をしっかりとノートに取り、試験の時は丸暗記という体たらくでした。毎日、毎日、架空の演技をしているようなもので、虚無感が心を覆い尽くしていきました。

 また、この頃から厄介な人物が頻繁に僕の家に来るようになりました。その人物とは明夫という従兄でした。彼は母の兄の長男で僕と同い年です。母の実家は群馬ですが、彼もその家で生まれ、僕と弟もよく子供の頃は夏休みなどに遊びに行ったりしました。高校に入った頃から疎遠になっていたのですが、明夫はストレートで東京の大学に合格して、池袋で下宿していたのです。ただ、僕が浪人中ということもあり、勉強の邪魔をしても悪いからと来ることを遠慮していたようです。僕が専門学校に入学したことにより、気がねがなくなり過度の訪問ということになりました。慣れない東京の独り暮らしのため、寂しいということもあったかもしれませんが、母の作る家庭料理は彼にとっては魅力だったのでしょう。

 僕も初めから明夫の訪問を迷惑に思っていたわけではありませんでした。いや、むしろ楽しみにしていたくらいなのです。小学生時代から中学生時代にかけては彼とよく遊びました。夏休みに僕や弟が群馬に行ったり、明夫を東京に来たりと、毎年のように交流がありました。男三人揃うと大抵悪いことをして、イチゴ狩りに行った時など、ビニールハウスの中で走り回り、農家の人達に「出ていってくれ」と追い出されたこともあります。

 始めの頃、彼が訪ねてくると、だいたいそのような昔話に花が咲き、寝床で明け方まで話していることもよくありました。しかし、だんだんと僕は彼に対して劣等感を持つようになっていきました。彼は意識していなかったのかもしれませんが、よくよく突き詰めて行くと結局は彼自身の自慢話ばかりになっていて、徐々にそれが鼻について、疎ましく思うようになっていったのです。

 「英樹、もう経験あるんだろ?」と言われ、僕はまだ童貞でしたが「うん」と返事をすると「そうだよな、十九でなかったら、おかしいよ。俺、この前な…」とあまり聞きたくもない話を延々されたりして狸寝入りをして逃げることも度々でした。

 しかし、僕は自分の気持ちを明夫に言うことはありませんでした。聞きたくもない話をさも面白そうに相槌を打ち、適当に質問などをして、いい友人という役を演じていたのです。何処までが本当の自分で、何処からが演技をしている自分なのか、その境界はよくわかりませんでした。そして、本当の自分は何処にもいないような感覚がしていました。(2010.12.11)


―つづく―

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