モノローグ

序章

 いつの頃からか、生きているという実感がなくなっていました。今、こうして東北の寒村にいるのさえ、何処か遠い所の出来事のように思われ、自分の人生そのものが幻のような気さえしてくるのです。

 旅館の一室ですることもなく佇んでいましたら、ある魔術師の話を思い出しました。たぶん、誰かの小説の登場人物だったと思います。その魔術師の願いは人間を創ることでした。彼は火事で廃墟になった円形の神殿で眠り、一人の人間を創造する夢を見ようとします。細部まで完全な形で夢を見て、それを現実の世界に押し出すことが彼の望みでした。彼は心臓から主要な機関をひとつずつ夢に見て、ひとりの若者を完成させます。

 彼の息子はやがて現実の世界に解き放たれ、廃墟となった別の神殿に向かいました。ある年月の過ぎ去った頃、彼は村人によって火の上を歩いても火傷をしない人間が別の神殿にいると聞かされます。そして、彼は恐れ始めるのです。火の上を歩いても火傷をしないことにより、息子は自分が幻に過ぎないのではないかと気づくことを。

 ある日、彼の廃墟に火が迫ります。彼は自身の最後が来たことを悟り、火に向かって進みます。しかし、火に包まれた彼に苦痛はなく、安らぎと屈辱と恐怖を感じながら彼は悟るのです。自分もまた、誰かの夢の中の幻に過ぎないことを。

 僕は思うのです。僕のこれまでやってきたことは全て夢ではなかったかと。そして、この魔術師のように自分自身も誰かの夢なのではないかと。こうして手記を書いているのはそんな思いの裏返しなのかもしれません。

 いや、本当はただ時間を持て余しているだけなのです。旅館の一室に閉じこもり、ただ時間の過ぎていくのを待っています。何も観たいものもなければ、行きたいと思うところもありません。先日も仲居さんが心配になったようで「お客さん、何処か具合でも悪いんですか?」と訊いてきましたので、「大丈夫です。ちょっと書き物をしているものですから」と答えておきました。そう答えておいて何も書いていないというのも具合が悪いので、この手記を書くことにしました。

 このようなところに来て、部屋にずっと閉じこもっている客など他にはいないでしょうし、旅館側もさすがに心配になったのか、今までの宿泊料金を前払いしてほしいと言われました。僕はすぐさま快諾して女将さんに一週間分の料金を払いました。そのとき、わざと封筒に入った二十数枚の一万円札を見せました。女将さんは少し安心したような顔をして部屋を後にしましたが、返って不審を招く元になったかもしれません。

 不審を持たれたとしても、もう僕は何処にも行く気はありません。こうして静かに流れる時の中に身を置くことに、今までの人生で味わったことのない安らぎを感じているのです。この安らぎも或いは女将さんの通報で警察に踏み込まれ、破られるかもしれません。しかし、それはまたそれでいいような気もします。僕にはもう自分自身で何かを決める力はないようです。

 今はただ、この手記を書き終えるまで、もう少し、静かな時間が続いてくれればいいのです。

第一章
1

 子供の頃、住んでいた街を流れている川が台風の豪雨で氾濫したことがありました。僕の家は塗装業を営んでいましたが、その店先のガラス戸から外の景色を見ると目の前の道路は暗く沈んだ灰色に茶の絵の具を溶かしたような色彩の濁流となっていました。

 僕は思わず、靴箱にしまわれていた黄色い長靴を履いて店に下りましたが、店の中にもかなりの水が溜まっていて、履き口のすぐ近くまで没してしまいました。それでもその泥水の中をすり足で進み、ガラス戸の前まで行きました。そこには叩きつける雨と泥流となった道路という光景があり、自分を失いました。

 「英樹!」と母親の呼ぶ声がして我に帰りました。その時には、ガラス戸の隙間から流れ込んだ水が膝下くらいまで来ていて、下を見ると鮮やかだった黄色の長靴が泥水の中、微かに揺れていました。僕は母の方に向かおうとしましたが、なかなか前に進めません。母は泥水の中に裸足のまま下りてきて僕を抱き上げました。中に泥水が入った黄色い長靴は僕の足からすっぽりと脱げ落ちて、汚れた水の中に置き去りになりました。

 「ママ、長靴が」と言うと、母は「いいの」と言い、そのまま僕を風呂場まで連れて行き、タイルの上に下ろしました。そして、湯船に張られていた水を手桶で掬い何度も僕の足にかけました。タイルと水の冷たさで身の縮こまる思いでしたが、心の中には確かな温かさがありました。

 茶の間では普段はあまり口を利かない父と祖父が共同してテレビだとかの一階にある電化製品を二階に上げる作業をしていました。冷蔵庫を少し傾けてごろごろとふたりで転がしたりしていましたが、さすがに二階まで運び上げるのは無理だったのでしょう、それは階段前の廊下に置き去りになりました。その後は家族総出で細かい物を次から次へと二階に送り、最後に畳を剥がして運びました。僕は初めて見る畳の下の埃っぽい板敷きに喜び、はしゃいでいましたら父に頭をひとつ打たれました。

 階段の上から下を見ると、水嵩はさらに増して一階の床上を侵すほどになっていました。階段下に放置された冷蔵庫は白い側面が泥水に汚され寂しそうでした。また、当時は東京でも水洗トイレはまれでほとんどが汲取り式でしたが家もその例に漏れず、泥水が便ツボに流れ込み、母は後処理の心配をしていました。祖父はただ「えらい、えらい」と目を瞬かせていました。

 しかし、僕と三歳違いの弟の清二はこの非日常の世界が楽しく、ややもするとはしゃぎ気味になり同居していたおばさんにたしなめられました。この癖は三十年近く経った今でも変わらないようで、弟はどうかわかりませんが、僕は大雪だとか台風の予報が出ると未だにわくわくする気持ちを抑えることができません。その夜は一家全員、二階で身を寄せ合って過ごしましたが、楽しい気分が抜けず、なかなか寝つけなかったことを覚えています。

 台風によって河川が氾濫したこのとき以後、治水が進み下水道も整備され、もうどんなに雨が降っても川が氾濫するということはなくなりました。それはまるで僕のその後の成長の道程と重なった風景として映ります。僕の心もいつの頃からか、この川のようにつまらないものになっていきました。

 長じるにしたがって、僕は祖父とそれから特に父から疎んじられるようになっていきました。その理由は僕がいわゆる子供らしい子供でなかったからです。

 祖父はよく僕と弟の清二を散歩に連れて行きました。そして帰ってくるとよく機嫌が悪くなり、「英樹は薄情だ」と母にいい、それはお前の教育が悪いからだと責めたそうです。

 例えば散歩の途中に祖父が何かに躓いてよろけたとします。そんな時、清二はすぐに祖父に駆け寄り「おじいちゃん大丈夫?」とさも心配そうに訊いたそうですが、僕はただ黙って見ているだけでした。僕の心の中にも祖父を心配する気持ちはあったと思います。しかし、それを弟のように素直に表現することが何故か恥かしくてできませんでした。

 また祖父はよく僕たち兄弟にお菓子を買ってくれました。祖父の手に持たれている茶色の紙袋に目が止まると、清二はすぐに「おじいちゃん、何買って来たの?ちょうだい」と走り寄って行きましたが、僕にはとてもそのようなはしたないことはできませんでした。遠くではしゃいでいるふたりを静かに眺めているだけで祖父に「ほら英樹、お菓子だよ」と声を掛けられてはじめて祖父の方に歩み寄りました。

 そのようなことから僕は「冷酷」「薄情」「愛想なし」と祖父から疎んじられていったのだと思います。要するに子供は明るく愛想がいいものとすると僕はその対極にいるような存在だったのです。ただ佇んでいるだけで自分を無条件で固く抱きしめてくれるような人には懐きましが、自ら駆け寄り愛してもらうということはできませんでした。そんなわけで、家族の中で僕が心を許したのは同居しているおばさんだけでした。

 そのおばさんは浜ちゃんと皆から呼ばれていました。どうも母と遠い姻戚関係にあたる人のようですが、どういう経緯で同居するようになったのかはわかりません。当時五十代後半の体の小さな人でした。

 おばさんは僕を猫っ可愛がりしました。僕がどんないけないことをしても怒るということがなかったのです。弟のおやつを食べてしまったときも、お風呂場でおしっこをしてしまったときも「いいよ、いいよ」という具合でした。不思議なことに彼女が弟を僕のように可愛がったという記憶はないのです。

 おばさんは祖父とあまり仲が良くなく、しょっちゅう言い争いをしていました。祖父はいわゆる昔の職人気質の人で、こんなことをいうと職人さんに申し訳ないような気もしますが、お酒と女性にはだらしのない人でした。その辺りに二人の不仲の原因があったようです。祖父に甘える弟より、遠ざけられている僕の方を可愛がったのは敵の敵は味方といった心境だったのかもしれません。

 唯一の味方だったおばさんは僕が小学校一年生のとき、郷里の男性とお見合いをして嫁いで行ってしまいました。相手の男性は以前、学校の先生をしていたそうですが、おばさんと結婚した当時は学校を退職していてタクシーの運転手をしていました。優しい温和な人で初めておばさんの家に遊びに行ったときから、僕は彼にすぐ懐きジイ、ジイと呼んで、夏休みなどにおばさんの家を尋ねるのが非常な楽しみになったのでした。

 小学校三年生のときだったと思います。夏休みにおばさんの家を訪ねたときのことでした。その年はジイの前妻の娘さん夫婦も来ていました。夫妻はジイの孫娘に当たる女の子を連れていました。その子は僕よりもふたつみっつ上だったと思います。そのときも僕はいつものようにおばさんの伴侶を「ジイ、ジイ」と呼び、わがまま放題をしていましたら、ジイの娘さんが何故か泣き出してしまったのです。

 僕には状況が始めはよくわかりませんでしたが、ジイの娘さんが夫に「お父さんがかわいそう」と言っているのが聞えました。夫は「子供のしていることだから」と彼女をなだめていました。子供ながらに事態が僕にもわかりました。僕のジイに対するわがままな態度に彼女は情けなくなったのです。

 僕は大変なショックを受けました。自分の何気なくしていた行為がひとりの人間を傷つけ悲しませたのです。娘さんの夫は「子供は子供同士、外で遊んできなさい」と言って、その場の気まずい雰囲気を繕いました。僕は夫妻の子と外に遊びに行きましたが、初めて会った年上の女の子と何をしていいかさっぱりわからずただ佇むだけで、ジイの娘さんの涙が頭から離れず心は重くなるばかりでした。この時以来、ジイの娘さん夫妻と会うことが恐怖になり、夏休みにおばさんの家を訪ねるということはなくなりました。

 僕は他人というものが怖くなりました。それは自分に危害を加えられる可能性があるからでなく、自分が知らず知らずのうちに傷つけてしまうことがあるということを知ったからでした。他人と関わる、それも深く関わるというのは相当な覚悟が必要なのだと思いました。

 家の中では相変わらず、祖父との関係はあまりよくありませんでしたが、僕はそれを気に病むということはほとんどありませんでした。自分のことをよく思っていない人に嫌われてもあまり気になりませんでしたし、祖父さんと孫の間柄ですから多少ぎくしゃくしていてもそれほど深刻ということにもならなかったのです。しかし、これが実の親だと事情は違ってきます。僕と父の関係は深刻でそれは年々その深さを増して行ったのです。

 父との関係は「冷酷」「薄情」「愛想なし」に「反抗」が加わりました。そして、今考えると「反抗」のきっかけになったのではないかと思われる出来事がありました。それは僕が幼稚園の年長組になった頃でした。

 その日、母は珍しく風邪を引いて高熱を発し寝込んでいました。そのため、僕を幼稚園に送っていく人がいなくなってしまったので、その日はお休みということになり、僕はその枕もとにちょこんと座り母の顔を見ていました。親の病気というものは子供を必要以上に不安にさせるもので、このまま母が死んでしまったらどうしようなどと幼い心を痛めていました。

 階段を上がる音が聞えたかと思うと襖のところに父が立っていました。母は父の存在に気づき、「あなた、すいませんけど、湿布薬を買ってきてくれませんか?熱で関節やらが痛いものですから」と言いました。父は一言もなく部屋を出て行きました。

 しばらくすると父はまた襖のところに現れました。そして買って来た湿布薬の箱を寝ている母に投げつけたのです。四角い紙の箱は掛け布団の上を転がり、父の苛立ちが形となって見えたような気がしました。その頃はまだ浜ちゃんがいましたから母が寝込んだからといって家事が滞るということはなく、仕事の電話連絡に多少の支障があるくらいでした。父はそのことが気に食わなかったのです。

 父は仕事人間でした。かといって仕事が特別好きというわけでも、家族のため鬼になっているというわけでもありませんでした。ただ、仕事しかすることがなかったのです。父には友人と呼べる人はほとんどいませんでしたし、外でお酒を飲むということも全くなく、趣味と呼べるものもありませんでした。ただ、毎日仕事をして、家に帰ってくればビールを飲みながらテレビのナイター中継を見ていました。休日もただ一日ごろごろして、ぼんやりとテレビを見ているだけでした。

 僕は父を人間と感じたことがありません。父は機械のようでした。父から情感というものを、特に母や僕たちへの愛情を感じることはできませんでした。父も家庭の温かさといったものから遠い人でした。祖父と祖母は父がまだ十代の頃に別れてしまったようですし、父の弟は母といっしょに家を出てしまい、それ以来祖父とふたりでしばらく暮していたようですが、女手がないと何かと不便ということで経緯はわかりませんが、浜ちゃんがお手伝いという形で家に入ったようです。この浜ちゃんを通じて母とのお見合いの話しが出て結婚ということになったそうです。

 もっとも母は初め頑なに断っていたそうですが、父の押しの強さと自分の父に強く言われたため泣く泣く嫁に来たそうです。父は「結婚してくれなければ死ぬ」と自殺さえほのめかしたそうですが、その割には母を大切にするということはありませんでした。

 僕は父と会話というものをした記憶が全くありません。父が僕に言うことといったら「あとを継げ」ということくらいでした。しかし、機械の父にそんなことを言われても、ただ白々しいだけで、湿布薬事件以来知らず知らずのうちに父を避けるようになり、父の喜びそうな返事はできませんでした。

 小学校の図画工作で絵を描いていい評価をもらったとき「絵がうまいのだから、お前はペンキ屋に向いている」と父に言われ、にわかにやる気がなくなり、次の学期には評価が急降下などということもありました。

 そのうち弟まで「ペンキ屋を継ぎたくない」と言い出したため、父は「お前の真似をしているのだ」とますます僕に辛くあたるようになりました。弟と喧嘩したときその理由のいかんにかかわらず、いつも僕が怒られました。そして、僕はますます反抗的になっていくという悪循環に落ち入っていきました。

 父の折檻の仕方は拳骨か平手で僕の頭または顔を打つというものでした。小さい頃、僕は打たれるとすぐに泣いていました。しかし、小学校三年生くらいのとき、もういくら打たれても涙を見せないようにしようと固く心に思ったのです。打たれても泣かない、その方法として、心を切り離すということを覚えました。つまり打たれている自分を客観的に外から眺めるのです。 打たれている自分がいます。その外にもうひとりの自分をつくり、「あ〜ぁ、あんなに打たれたら痛いな」などと思うことにしたのです。この方法はうまくいきました。心を完全に切り離し、客観的に自分を見られるようになると大抵のことには耐えられるようになりました。この方法が後年、役に立ったことがありました。

 高校生二年生のときでした、修学旅行の夜、同じ班になった人たちから恥かしいことをされました。そのとき、この心を切り離す方法で耐えることができたのです。しかし、肉体的苦痛には強さを発揮したこの方法も精神的な苦痛には脆弱でした。

 中学生の頃、僕は大変痩せていました。身長もそれほど高くはなく、低いほうだったのですが、クラスで一番低いということはありませんでした。しかし、体重はクラスで一番軽かったのです。

 筋肉もなくヒョロヒョロとした僕に或る級友は「ヒヨワ」というあだ名を付けました。初めはこの「ヒヨワ」という意味がわかりませんでしたが、それが「脾弱」であると知ったとき、大変いやな思いがしました。「ヒヨワ」と呼ばれると、僕がいやがるということを知ると、その級友はさらに面白がって囃し立てました。

 ある日、とうとう我慢ができなくなり、その級友にめがけて黒板消しを投げつけました。運の悪いことにそれは級友の左目に当り、大怪我ということになりました。視力が一時的でしたがかなり落ちてしまったようで、その級友の両親からは火の如く攻められ、うちの親は平身低頭といった事態でした。しかし、本人同士は意外とさばさばしていて、お互いに謝り合ったりして、その後も何とかうまくやっていけました。

 また、この中学生のとき、僕は初恋をしました。その子は山口良子という名前で、「ヒヨワ」だった僕はクラスで一番体重の軽い男子だったのですが、彼女はクラスで一番体重の重い女子でした。中学校は一年ごとにクラス替えがあったのですが、彼女とは不思議なことに三年間同じクラスでした。

 僕が山口さんのことを好きになったきっかけは彼女からの間接的な告白でした。中学校二年生のとき、長野県の野辺山に修学旅行に行きました。この時も彼女と同じ班だったのですが、夜の肝試しの前に彼女の友達から「ずっとリョウちゃんのそばにいてくれる。リョウちゃん、高野くんのこと好きなのよ」と言われたのです。何でも肝試しのときに、それに託けて僕に抱き付きたいと思っているということでした。しかし、僕は恥かしくて、その夜、彼女のそばには寄らず、ひとりでどんどんと先へ、先へと歩いて行ってしまいました。この日以来、彼女を意識するようになったのです。

 山口さんは見た目はお世辞にもよくありませんでした。しかし、性格は非常にやさしく、また「顔色が悪いから、トマトとか赤い色の野菜を食べた方がいいよ」とか何かと気に掛けてくれて、徐々に彼女のことを好きになっていきました。

 下駄箱のところで待ち合わせていっしょに帰ったり、ふたりで放課後の校庭をぐるぐる周りながら話しをしたりしました。彼女と結婚したら、きっと明るくて楽しい家庭になるような気がしました。そんなことまで夢想していたのです。しかし、お互いに最後の一言は言えず、卒業の日を向かえました。

 その日は淡々と過ぎていきました。朝、下駄箱のところで偶然会ったとき、いや偶然ではなかったかもしれませんが、「高野くん、帰りに神社のところで待っていて」と山口さんは小声で言いました。卒業式も終わり、こっそりと学校の裏手にある神社に行きました。僕とは違い、友達の多い山口さんはなかなか現れず、もう帰ろうかと思い始めた頃、彼女は息を切らして走って来ました。そして、息を荒げたまま僕の前に立つと背伸びをして、いきなり僕の口にキスをしました。

 キスした後、彼女は上目使いに僕を見ていました。それはちょっと怖い感じの鋭い視線で、僕はそれに極めて動物的なものを思いました。ほんの数秒だったと思いますが、多くの時間が流れたような気がしました。

 彼女はそのまま無言でまたもと来た道を走り去っていきました。僕にとっては初めてのキスでしたが、彼女への気持ちは一気に冷めてしまいました。今まで下駄箱の前で待ち合わせたり、校庭を散歩したときの山口さんとはまるで別の人格の存在に興醒めしてしまったのです。この日が彼女と関った最後となりました。高校に入ってから帰宅する電車の中で一度だけ友人たちといっしょにいる彼女を見かけたことがあります。しかし、もうその時には何の感情も起きませんでした。

 他人の嫌がることを言って喜んだり、いきなり全く別人のように感情を露わにしたり、そんな人たちとどうやって関っていけばいいのかわからなくなっていきました。いや、もっとずっと以前から僕は他人との付き合い方がよくわからなかったのです。

 小学校に入学したとき、どうやって周りの子たちと過ごせばいいのか全くわからず、僕は途方に暮れました。ただ、嫌われるのだけは避けたいという気持ちが強く、幼い頭で思いついた方法はとにかくニコニコするということでした。何を話していいのかわからない、そんなときでもとにかくニコニコ、目が会ってもとにかくニコニコ、教師にわからない質問をされたときでもとにかくニコニコ。

 この方法は大人には通じたようでした。「高野くんはいつもにこにこしていて、あまり話さないけど、明るい」との評価を受けたのです。しかし、肝心の級友たちにはあまり効果はありませんでした。小学校3年生くらいの頃でしょうか、クラス発表会のとき、「仲の良いお友達と組んで」と先生は言いましたが、僕はどの組にも入れずひとりぼっちでした。それ以来、遠足とか、学芸会とかがあるたびに逃げ出したくなりました。学校というのは僕にとってわけのわからない恐ろしい場所でした。(2010.11.28)


―つづく―

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