母と子


 東京に嫁いで初めて親子四人の生活が始まりました。これから新しい生活が始まると思った矢先、今度は私自身が病魔に襲われてしまったのです。風邪に似た症状で軽い咳が続き、胸に軽い痛みがあり、午後になる三十七度台の微熱が毎日のように出るようになりました。それほど大したこともないと思っていたので、医者にも行かなかったのですが、症状はよくなりませんでした。そのうちどうにもだるくてしかたなくなってきたので、近所の病院に行きました。そこの医者もたぶん風邪でしょうということで、お薬を出してもらったのですが、症状は一向に改善されませんでした。

 三十七度台前半だった熱は三十八度台後半まで上がるようになりました。さすがに医者もこれはおかしいということになり、胸部X線の検査を行ないました。そして肋膜炎にかかっていることがわかったのです。医者は入院をすすめましたが、私はできれば入院はしたくありませんでした。叔母はもう田舎に帰ってしまったため、家で女は私だけなのです。武さんは家事などいっさいしない人でした。私が入院してしまえば、家はどうなるかわかりません。遥佑や康平も寂しく感じるのではないかと思い、できれば通いながら自宅で治療したいと医者に申し出ました。医者は渋い顔をしていましたが、その後の注射器で胸膜腔を刺して液を取る検査で菌は外に出ていないことがわかったので私の希望通りになりました。

 それから三日に一度の割合で通院をして、ストレプトマイシン等の抗生物質を注射する治療が始まりました。熱は一日中続き、夕方に近づくにつれて高くなり、最低限の家事をする以外はずっと床についたままになっていました。義父の時に頼んだ家政婦さんにまた来てもらい、ほとんどの家事を代行してもらいました。そんな私に武さんが苛立っているのがわかりました。口には出しませんでしたが、私への態度は明らかにそれを示していました。店のこともできなくなり、武さんの負担が増えたせいかもしれませんが、ほとんど何もせずに寝ている私を疎ましく感じたのでしょう。それがはっきりと現われたことがありました。

 私は毎日、床についている為、体の筋肉が硬直し張って痛みました。私はある朝、武さんにその張りを少しでも抑えるため貼り薬を買ってきてくれるように頼んだのです。枕元にはたまたま風邪を引いて小学校を休んだ遥佑が座っていました。しばらくすると武さんは貼り薬を買ってきてくれました。しかし、それを遠くの方から立ったまま、私めがけて投げつけたのです。そして、何も言わず、部屋を出て仕事に行ってしまいました。私は何とも情けない気持ちになり、涙がこぼれそうになりましたが、枕元に遥佑がいるのでかろうじて堪えました。しかし、その行為を遥佑も見ていたのです。まだ小さい遥佑の心にその行為はしっかり焼き付けられたようでした。遥佑はこの出来事にかなりの衝撃を受けたのです。そして、この日を境にして遥佑の武さんに対する態度が変わっていき、何かにつけ反抗的な態度を見せるようになりました。

 そのような日々が三ヶ月も続きました。腋の下の肋骨と肋骨の間に太い針を刺し、胸膜に溜まった水を抜いたこともありました。その痛さは激しく、辛いものでした。医者はもしまた水が多く溜まるようだったら、同じことをしないといけないと私に言いました。私は天に願いました。その願いが通じたのでしょうか、針を刺したのはその一回だけですみました。

 治療を始めてから四ヶ月目に入った頃から、それまで三日に一回の割合だった抗生物質の注射が一週間に一回になりました。微熱は続いていましたが、高熱の出ることはほとんどなくなり、体はだいぶ楽になりました。そして治療から半年後、やっと完治することができました。不思議なもので、肋膜炎になる前は冬場など毎年のように酷い風邪を引いたりしていましが、これ以降、ほとんどそういったことはなくなり、全くの健康体になりました。これでやっと幸せ生活が送れる、そう思いました。武さんの仕事も順調で、生活にゆとりもできて親子四人に笑顔の浮かぶようになりました。しかし、そんな日々は長くは続きませんでした。

 それは突然、やってきました。子供たちが夏休みに入り、しばらく経った頃でした。武さんから家族みんなで旅行へ行こうと言われました。結婚して十年以上経ちますが、武さんからそのようなことを言われたのは初めてで、面喰ってしまいました。うれしいというよりも何かおかしい気がしたのですが、武さんの話を聞いているとだんだんと怖いような気持ちになっていきました。

 「みんなで沖縄に行ってから、次に北海道に行ってみよう」などと威勢のいいことを言っていたので、恐らく半分は冗談で言っているものと思いました。しかし、それは決して冗談などではなく、彼の中では本気の話だったのです。「沖縄、北海道」と言っていた翌日にはもう「群馬のおまえの実家に行ってから、長野に行って…」と前日とは全く違う話を始め、それを本人はわかっていない様子でした。私が「昨日は違うこと言ってましたけど?」と訊くと、「お前は俺にたてつくのか」と急に怒り出し、その目は狂気を帯びていて身震いしました。

 数日経って、私は武さんが精神に異常を来しているという結論を出さざるを得なくなりました。何か少しでも口ごたえをすると怒り出すので、私は子供たちに「お父さんに何を言われても‘はい’‘はい’って言うのよ」と注意しました。子供は正直ですから「お父さんの言っていることおかしいよ」などと言い出しかねません。その時、武さんがどのような行動に出るのかわからず、怖かったのです。「かあちゃんどうして?」と遥佑は訊いてきましたが、「どうしてもよ。お願いね」とだけ言いました。

 「おやじ、何かおかしくないですか?」と雇っている職人さんたちからも言われるようになりました。それまでは必要以外のことはほとんど話さず、指示を出して後は黙々と自分は仕事をしていたのにここ数日は、やたら喋りまくり、話は次から次へと飛んで何の話題だったかもわからなくなるくらいで、さらに指示も滅茶苦茶で、仕事にも頻繁に口を出すようになり、それも的外れなことばかりなので、訊き返したりすると急に怒り出したりと全く人が変ってしまったそうで、ほとんど仕事にならないと嘆いていました。

 「現場に行くまでの車の運転も危なくてね。俺がやりますよっていうと怒り出すし。まあ、何とかうまいこと言って、おやじには運転させないようにしてますけどね。早いとこ病院に連れて行った方がいいですよ」と職人さんたちから言われました。

 病院に連れて行く…これは非常に難しいことでした。私は思い切って「最近のあなたちょっとおかしいわ。病院に行って診てもらいましょうよ」と言うと、「ふざけるな!俺は正常だ!」とまた烈火の如く怒りだすので、怖くなり何も言えなくなりました。そうしているうちに武さんの行動はさらに異常になっていきました。

 それまでは音楽など全く関心はなかったのに、流行っているディスコミュージックのレコードをたくさん買ってきて、それをほとんど一晩中かけ踊り続けることもありました。真夜中に踊っている武さんの姿を見ると、私自身気が変になってしまいそうで、深い絶望感に囚われるようになりました。

 不測の事態も考えられ、とにかく早く病院に連れていくほかありません。今まで、武さんの病気については何も説明していなかった遥佑と康平にも、「お父さん、心の病気になってしまったみたいなの。だから、そのつもりで接してね。何があっても反抗しないでね」と言いました。父がおかしいということは、小学校五年生になっていた遥佑にはわかっていたようで、ただ「わかった」と言いました。

 私は実家に電話して父に話しました。武さんを病院に連れて行けるのは父しかいないように思ったのです。さすがに父は驚き、それでもすぐに行くと翌日には東京まで出てきてくれました。浅草駅で待ち合わせをし、近くの喫茶店で電話では話せなかった武さんの様子を聞いてもらいました。車の運転をしたがること、ちょっとのことで人の変わったように怒ること、また、何をしでかすかわからないことなどから、一刻も早く、できれば今日、明日中にも病院に連れて行こうということになりました。

 「紀子、ちゃんと食べているのか?」ひとしきり話を終えた後、私の顔を見て父が言いました。
 「大丈夫よ。あまり食欲はないけどね」私は努めて明るく言いました。
 「そうか。紀子が倒れたら子供たちが可哀想だからな。食べたくなくても、何か口に入れるんだぞ」父の小言は本当に懐かしい感じがいたしました。

 父の顔を見た武さんは初めいつもにない喜色を示しましたが、それはすぐに嫌悪へと変わりました。ただ、やはり父に頼んだことは正解だったようで、怒りを露わにするということはなく、黙って父の話を聞いていました。心の病気とは言っても完全に狂ってしまったわけではなく、最低限の抑制は働いているようで少し安心いたしました。

 しかし、病院で診察を受けることを納得させることはなかなかできませんでした。「自分は何処も悪くない。正常だ」の一点張りで、父も苦労しました。私がちょっとでも口をはさむと、いきなり声を荒げるので、ただ父に任せるしかありませんでした。父の粘り強い説得のおかげで、やっと病院に行くことを納得してくれました。

 父に連れ添ってもらい、タクシーで近くにある大学病院に行きました。診察室に入るとそこには見習いの学生なのでしょうか、大勢の人がいました。そして彼らは先生の質問に武さんがとんちんかんな応えをするたびに声をあげて笑いました。私は、情けなさと怒りで涙が落ちそうになりました。

 医者になる資格のない人たちだと思いました。患者やその家族の苦しみを理解できないような人たちに本物の医療を行うことができるのでしょうか?「もう結構です」と何度も叫ぼうかと思いました。しかし、今となってはこのような人たちでも頼るしかないのです。

 武さんの病気は躁うつ病と診断されました。躁状態だと行動に抑制が効かないため、何をしでかすかわからず、すぐに入院した方がいいということになりましたが、当人は病気ではないと思っているので入院を拒否し、「俺は正常だ」と言い出して暴れ出しました。先ほどまで笑っていた数人の研修医によって武さんは押さえつけられ、その怒りで歪んだ顔を見ていると恐ろしいというよりも憐れで、心はひたすらに重く、そして破れそうになりました。

 本人が入院に同意しないため、家族の同意による医療保護入院ということになり、埼玉県にある精神病院に送られることになりました。家族では無理ということで、武さんは薬によって大人しくさせられ、病院関係者によって移送されたのです。翌日、私は父といっしょに着替えなどを持ってこの埼玉にある病院に行きました。

 病棟への出入り口の施錠を見たとき、私は絶望的な気持ちになりました。閉鎖病棟、それはまるで別の世界でした。今までも遠かった武さんがさらに遠くに行ってしまったように感じられ、ひとり大海原に取り残されたような心細い気持になりました。近くに父がいなければ、その場にへたり込んでしまったかもしれません。

 武さんはまだ落ち着かないということで面会はせずに着替えなど身の回りの物を置いて病院を後にしました。
 「すまんかったな」ぽつりと父が言いました。何を言っているのか初めはわかりませんでしたが、武さんとの結婚を強引に進めたのは父であり、そのことを気に病んでいるようでした。私は何も言葉を返しませんでした。「そんなことないよ」と言おうと思いました。しかし、どうしてもそれは口から出ませんでした。

 「力になるから、何でも言ってこいよ」と父は言い、そのまま群馬へ帰っていきました。ひとりになると、それまで心の奥に仕舞われていた感情が私に襲いかかってきました。果てしない暗闇の中にひとり取り残されたような気持ちで、どうやって家まで帰ったのかさえわかりませんでした。

 家に帰ると現実が私に圧し掛かってきました。自営業のため、保障などといったものはなく、働かなければお金は一切入ってきません。今、ふたりの職人さんがやっている仕事が終われば、彼らは他の店に移ることになっていて、それ以降は無収入になるのです。父は力になるとは言ってくれましたが、私たち親子の面倒までみられる力はありませんし、実家に帰るにしても今は兄夫婦が中心となっていて、彼らの生活もあることですし、厄介になることなどできるはずもありません。

 働くといっても、高校を卒業した後数年、時計メーカーで工員をしただけで、嫁いで東京に出てきてからは店の帳簿をつけていたとはいえ、基本的にはずっと専業主婦でしたから会社勤めなど無理でしょうし、スーパーなどで働くにしても、ふたりの子供を育てていけるだけのお給料はもらえないでしょう。今ある多少の蓄えが尽きれば、私たち親子三人、どうやって生きていったらいいのか、そんなことをぐるぐると考えていたら、わけがわからなくなりました。

 夕方になってから、降り出した雨は夜になってから雷を伴いさらに強くなり、私を絶望の淵へと押し流していきました。十時を過ぎた頃、私は子供部屋に行きました。ふたりとも寝ていましたが、ある相談をするため遥佑だけ起こしました。ただならぬ雰囲気を感じたのでしょう、遥佑は怪訝な顔つきをしていました。

 「みんなで死のう」私は長男の遥佑の目を見つめて言いました。遥佑の横に引かれているふとんの上にはタオルケットをお腹の上にちょこんと掛けて、小さな額に汗をかきながら次男の康平が天使のようなあどけない表情をして眠っていました。
 「死ぬなら、自分ひとりで死んで!僕と康平は生きる」遥佑から思いもかけない応えが帰ってきました。遥佑の瞳は真っ直ぐでした。そう、ほんとに真っ直ぐでした。その目を見て、私は我に返った気がしました。自分がとんでなく恥ずかしく思え、体が震えました。

 静寂の支配する中、微かに外の雨音が聞こえました。
 「かあちゃんも生きよう」静寂を破って遥佑の声が遠くから聞こえたような気がしました。
 「かあちゃんもいっしょに生きよう」と今度はすぐ近くで遥佑の声が聞こえました。それは遥佑の声でしたが、しかし、私にはそれが天使の、小さな神様の声に思えました。
 「ごめんね。かあちゃん、おかしくなっていたんだよ。ごめんね。みんないっしょに生きようね」遥佑の真っ直ぐな瞳を見つめて言いました。それは遥佑に言ったというより、自分自身に言い聞かせた言葉でした。(2009.4.19)


―つづく―

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