母と子


 武さんとの東京での結婚生活は、それまでののんびりとした田舎での暮らしから一変しました。結婚生活にある種の期待をしていた私でしたが、暮し始めて一ヵ月でそれは失望に変わりました。まず、驚いたのは食事の時の静けさでした。それまで、騒々しい中で食事をしていた私にそれは異様な光景だったのです。まるでお通夜のようにみんなあまり口もきかず、黙々と目の前のご飯を食べるだけでした。田舎では兄が冗談を言ったり、姉が今日の出来事を話したりして、母の笑い声があったり、父の小言が始まったりでご飯を食べているのか、しゃべっているのかわからなくなることも多かったのですが、この家では口にすることといったら、ご飯やお味噌汁のお代わりだのしょう油をとってくれだのそういうことだけでした。田舎に住んでいる時は食事の時に気が滅入るなどということは一切ありませんでしたが、一番楽しいはずの食事の時間が気詰まりで陰鬱な時間になりました。

 義父の存在が私をさらに憂鬱にさせました。義父とは結婚前に何回かあったことはありましたが、挨拶程度しか口をきいたことがなく、大人しい人という印象しかありませんでした。その印象はある程度正しく、確かに義父は大人しい人でした。ただ、それには‘お酒を飲まなければ’という前提が必要になります。

 義父は朝からよく日本酒をあおりました。そして、その目はだんだんとすわり、狂気を帯びてくるのです。お酒がなくなると暴れ、夜遅くになってからも、すでに閉まっている酒屋に何度も行かされました。武さんと取っ組合いの喧嘩になったことも一度や二度ではなく、その度に女の私と叔母はただ怯え、部屋の角で体を縮めているしかなかったのです。

 一度、外で飲んでいた義父が夜中の二時頃、「毒を飲んできた。俺はもう死ぬ」と大騒ぎになったことがありました。夜遅かったため、その声は周り中に聞え、近所の人が数人、様子を見に来たほどでした。私は救急車を呼ばなくて大丈夫なのか心配になったのですが、こういったことはこれまでも数回もあったらしく、叔母さんや武さんは落ち着いていました。誰も本気にしないのがわかると義父はさらに荒れ狂いましたが、そのうち疲れたのか、いびきをかきながら寝てしまいました。武さんの話のよると、義父が毒というのはウイスキーなどの洋酒のことを指すそうです。ただ、こういったことに慣れていない私の精神は徐々に疲れていきました。

 さらに知らなくてもいいようなことまで知るようになってしまいました。それは義父と叔母の関係でした。何故、叔母がこの家で家政婦をしているのか?そして、何故、私との縁談を積極的に進めたのか?誰が言ったというわけではありませんが、言葉の端々や家庭内の雰囲気で、そういった影の部分も何となくわかるようになってしまったのです。

 義父と叔母は昔、愛人関係にあったようです。しかし、二人の仲は、もうだいぶ前から冷え切っていたみたいで、義父は叔母をこの家から追い出したいと思っていたようです。どうも、叔母はそういう事態を避けるために、私と武さんの縁談話を持ち出したらしいのです。人間とは自己保身のためには他人をも平気で利用するものなのでしょうか。

 武さんはとにかく仕事だけの人でした。父は仕事を一生懸命する男性に嫁いだ方が苦労をしなくてすむという考えで、それはある意味当たっているかもしれません。私は恐らくお金で苦労することは一生ないと思いました。店の経理を手伝って、帳簿をつけるようになってから、お金の流れがある程度わかるようになり、そんな感じを持ったのです。

 武さんはほんとによく働くし、ギャンブルもしなければ、女遊びもしない。いや、それどころか、ふつうの趣味もなければ、友人らしい人もいませんでした。とにかく仕事だけだったのです。東京に出てきて、少しは都会の文化のようなものに触れられるだろうと思っていた私はまるで勝手が違ってしまいました。

 味方になってくる人もなく、辛い日々が続きました。酒乱の義父が時折暴れること以外は特にいやなこともなかったのですが、楽しいこともありませんでした。私の心の中には虚しさという恐るべき雲が広がり、それが空を覆い尽くし、青い空も見えなければ輝く太陽も隠してしまいました。たまの休みに気晴らしに何処かに行こうと武さんを誘っても、「仕事で疲れているから」と一日中TVを見ながらごろごろと寝ていて、何処に行く気力もないようでした。彼の心は弾みを完全に失っていて、好奇心というものが磨耗しているように思いました。そして、私も自分が徐々にそういった状態になっていくのがわかり、怖くなりました。夜、寝床に入ると涙がひとりでに出ました。

 しかし、そんな空虚な生活に救世主がやってきました。それは、私のお腹の中からでした。結婚して四年目に私は身ごもりました。お医者に行って、そのことがわかったとき、私の心を覆っていた黒雲が一気に吹き飛ばされたのです。そして、青空から太陽が輝き出しました。

 しかし、木下の家でのストレスが原因になったのかもしれませんが、つわりが酷く、さらに胃潰瘍まで併発してしまいました。義父は寝込むことが多くなった私にいらつき、悪罵を面と向かって吐くようになりました。以前の私ならばそれに黙々と耐えていたことでしょう。しかし今、私のお腹の中には私の赤ちゃんがいるのです。私は武さんとも相談して、しばらく実家に戻り静養することになったのです。

 久しぶりに見る父と母は少し老けたように見えました。ふたりの顔を見たとき、自然と涙がこぼれました。一時、東京で働いていた兄も田舎に戻り、父と同じ鉄道会社に就職していました。夜には姉も遊びに来て、久しぶりに親子五人で楽しい夕食をとりました。その夜、私は母の横で休みました。一番端に寝ている父はお酒が過ぎたせいか、大いびきをかいていました。母は私に「何か、辛いことないか?」と静かな声で言いました。私は何も言えなくなり、暗い中で涙が出てきて、かろうじて「ううん」と声を搾り出しました。母は私の心の中がわかっていたのでしょう、「そうか、でも辛かったら、いつでも帰ってきてな」と消え入りそうな声でいいました。私は暗闇の中でただ泣きました。

 田舎に帰った私に時間はゆっくりと流れました。こんなにも一日が長く、ゆっくり過ぎてゆくのを感じるのは始めてでした。その時間の中で私は心身ともに癒され、回復していきました。田舎の自然、人たちに囲まれ、私は健康を取り戻しました。実家にはひと月いました。そして私は再び出産のため東京に戻ったのです。

 東京に帰ってからも義父の辛い態度はそれまでと変わりませんでした。そして私の体の調子は再び崩れていったのです。腰のだるさ、お腹の張り、そして出血などの症状が重なり、医者に行くと切迫早産との診断が下されました。さいわいそんなに重くはないようで、できるだけ安静を保つことを言われ、子宮収縮抑制剤や抗生物質を処方されました。一日の大半を寝床の中で過ごし、多くの薬を飲んでいる私に義父はかなりの嫌悪を感じたようです。毎日、罵られ、「そんなに薬ばかり飲んでいると片輪が生まれるぞ」などど酷い言葉を吐き続けました。

 それが私に大きなストレスをまた与えたようです。私は再び出血し、ついに入院することになってしまいました。予定日は中秋の頃なのに、真夏のこの時期、お腹の中にいる赤ちゃんはこの世に出ようとしていたのです。私は病室で二十四時間ウテメリンの点滴を受け、絶対安静になりました。病室のお見舞いの来るのはほとんど叔母で週に一度くらい武さんがやってきました。ただ、武さんはやってきてもほとんど会話はなく、三十分くらい居て「じゃあ」と言い残し帰って行くことがほとんどでした。義父は全く見舞いには来ませんでした。義父と顔を合わせることがないこの病室は私にとって安息所でした。

 夏が過ぎ、初秋の頃、私は男の子を出産しました。赤ちゃんが育つぎりぎりの線まで何とか持ち堪えたのです。体重は二千五百五十グラムで、未熟児ぎりぎりでした。しかし、義父が心配していたような障害は何処にもなく、五体満足で健康な赤ちゃんでした。そして名前は遥佑と名づけました。いくつか候補がありましたが、最終的に武さんが君の好きな名前をつけなさいと言ってくれたのです。心の大きな人間になってほしい、そんな願いを込めたのです。

 遥佑が産まれて、私の生活は一変しました。それまでは毎日が虚しく、そして辛く、何の生きがいも生活に見出すことができず、砂漠の中をさ迷っているような状態でした。遥佑はその砂漠の中に突如現われたオアシスだったのです。私は遥佑によって生き返ったのでした。

 生活の変化は私の気持ちの変化だけに止まりませんでした。それまではことあるごとに私に辛くあたっていた義父に私に対する遠慮が感じられるようになったのです。お酒に関することは以前とあまり変わりはありませんでしたが、私に酷い言葉を投げつけるといったことはほとんどなくなりました。それにやはり孫はかわいいらしく、それまでほとんど笑顔を見せなかった義父が、遥佑を見るときだけは優しい顔になっていました。叔母のかわいがり方はちょっと異常なほどでした。暇さえあれば枕元までいって遥佑をあやしたり、抱っこをしたりと目に入れても痛くないような感じでした。叔母は子供を持つことがなかったのでそのせいなのでしょう。私は叔母に同情し黙認いたしました。武さんの仕事一途なのは相変わらずでしたが、それでも仕事から帰ってくるとまず遥佑の顔を見に行きます。そして時折、胸に抱いて何か声をかけていました。それまで暗く陰鬱だった家庭が遥佑により、陽が差したようになりました。

 遥佑が産まれてから二年後、私は二人目の子供を産みました。また男の子で、今度は武さんが康平と名づけました。威勢がよく、呼びやすい名前を考えていたら思いついたそうです。木下の家はますます明るくなりました。

 遥佑も康平も順調に成長しました。遥佑は三才の時には買い与えた動物の絵本をまるまる一冊暗記してしまい、将来どのような天才になるのか私は胸がわくわく致しました。康平は次男だけあって要領がよく、ひょうきんで明るい子に育っていきました。義父は明るく人懐っこい次男の康平を、叔母は物静かでやさしい長男の遥佑を気に入っていたようでした。

 武さんは相変わらず仕事一途でしたから、外出するときはほとんど私と遥佑を康平の三人でした。近所の神社や公園によく三人で出掛けました。遥佑と康平はチャンバラが好きだったものですから、いつもプラスチック製の刀を持ち歩いて、広い場所に出ると二人で駆け回り、飛び回りして遊び始めるのでした。二人のそんな姿を見ていると私はふっとエアポケットに落ち込んでしまったような気分になり、元気よく遊ぶ二人の子供、そしてそれを見つめる私の三人だけの世界がそこに出現するのです。

 遥佑と康平は年が近いものですから、毎日けんかをしました。康平が遥佑のおもちゃを勝手にさわったとか、遥佑が康平にいじわるをしたとか、ささいなことで一日数回、取っ組合いをしました。私にも兄がおり、ずいぶんとけんかもしましたが、あまり取っ組合いのけんかというのはしたことがありません。男の子とはずいぶんと乱暴なものだなと始めは戸惑いました。

 しかし、様子をよく見ていると、遥佑が気を使ってけんかをしていることに気づきました。兄だから弟に負けるわけにはいかないけど、あまりやり過ぎないようにと手加減をして上手にけんかをしているのがわかりました。あるいは本人も気づかないうちにそうしているのかもしれませんが、私は子供というものは以外と賢いものだと感心いたしました。毎日の生活の中で私が子供に教えることよりも、子供に私が教えられることのほうが多いような気さえしました。

 また、子供というものは正直です。遥佑と康平は成長するにしたがい個性が出てきました。以前から康平のことのほうが気に入っていた義父はますますその傾向を強くしていきました。電車を見に線路沿いに行くときもまず康平に声をかけ、ついでという感じで遥佑を誘いました。始めは電車が見たくてついていった遥佑ですが、そのうち義父を何となく避けるような仕草を見せるようになったのです。私は当初それは義父が遥佑を疎んじているのが本人に伝わったせいだと思っていました。確かにそれもあったでしょう。しかし、遥佑が義父を避けるようになっていったのは、義父が私に辛くあたるところを見てきたからだったようです。

 ある日、義父が「遥佑も電車見に行くか?」と訊いたところ、遥佑はきっぱりとした口調で「おじいちゃん、かあちゃんいじめるから行かない」と言ったのです。このことがあってから義父の私に対する態度はさらに固くなりました。「そういうことを子供の前で言っているのか?」とまるで私が言わせているように思ったようでした。子供は何を言い出すかわかりません。しかし、この遥佑の言葉は私に勇気を与えてくれました。まさに百万の味方を得たような気分になりました。ただ、そんな遥佑もおもちゃとアイスには弱く、義父がそれらを買うことを匂わすと喜んでついていってしまうのでした。やや、頼りない味方ではありました。

 武さんの仕事も順調でした。次から次へと仕事が入り、休む暇もありませんでした。そして、私はひとつの夢を持つようになりました。お金が貯まったら、この古い家を壊してここの三階建てのビルを建てよう。そして一階は店舗と私達夫婦の部屋、二階は遥佑のフロアー、三階は康平のフロアーにするのです。やがて、遥佑と康平も結婚して私にとっての孫もできるでしょう。そして楽しく、幸せな時は永遠に流れて行くのです。そんなことを夢想して、ひとり愉しい気持ちになっていました。

 桜の花びらがひらひらと春風の中を舞い、やさしい陽がその花間からこぼれて来る中、遥佑と始めて小学校の門をくぐりました。小学校の門から校舎までは桜並木が続いており、私と遥佑は花びらが舞い散る中、手を繋いで歩きました。体に不釣合いな黒いランドセルを背負っている遥佑がとても愛おしく見えました。

 遥佑が小学校に入学した年、義父がついに入院することになりました。それまでもお酒のせいで肝臓を悪くしていて、医者からは飲み過ぎを注意されていたにもかかわらず、その量は減るということはありませんでした。そのため入院という措置になってしまったようです。義父はこの年から入退院を繰り返すようになりました。始めの頃は叔母にお酒を牛乳ビンなどに移し変えさせて、病院まで持ち込ませ、夜間に病室でこっそりと飲むというようなことをしたこともあったようです。そして少し体調がよくなり、一時退院になって家に戻ってくればまた朝からお酒を飲み始めるのでした。そしてまた肝臓を悪化させるということを繰り返しました。

 入退院を繰り返す度に義父の体調は悪くなり、ついに二十四時間の看護が必要となりました。昼はおもに叔母がそして夜間は私ができるだけ付くようにしました。ただ二人ではとても見切れませんので、家政婦さんを一人お願いしました。その家政婦さんが叔母と私のつなぎ役をやったり、夜、私の変わりに病室に泊まったりすることになりました。

 義父は始め四階の大部屋に入っていましたが、この頃になると一階の個室に移されていました。それはもう死期が近いということを意味していました。夜の病院はあまり気持ちいいものではありません。寝る時は義父のベッドの下に入っている背の低いベッドを引き出して横になるのですが、あまりよくは眠れませんでした。

 そして最後が近くなったある日、私は遥佑に夜の病院は気持ち悪くてあまりよく眠れないと愚痴をこぼしました、子供に愚痴をいうなんてとお思いになるかもしれませんが、愚痴をこぼせる相手は遥佑くらいしかいなかったのです。遥佑は私の愚痴よりも、夜の病院に興味を持ったようで、「今度、いっしょに泊まりに行っていい?」とまるで遠足にでも行くような感じで訊いてきました。ちょうど夏休みに入った頃だったし、私もその方が気は紛れると思い、「いいわよ。そのかわり手伝ってよ」と了承しました。遥佑はうれしそうに喜んでいました。

 遥佑もそれまで昼間は何回かお見舞いに来たことはあったのですが、夜は始めてということで物珍しいそうに辺りを見回していました。遥佑は言いつければ何でもよくやってくれました。いつも私が使っている介護者用のベッドにはさすがに二人は寝ることはできませんので、遥佑用にやや小振りの物を看護婦さんに言って借りました。しかし、さすがに興奮しているのかなかなか寝つけないようでした。

 しかし、消灯になると「かあちゃん、気持ち悪くないの?」と遥佑は暗くなった病室がちょっと怖くなってきたようでした。こんなところはやっぱり子供だなと思ってしまいます。その時、水の中からわいて来るようなくぐもった声が聞えてきて、私も意表をつかれ驚いてしまいました。それは、義父の声でした。「なーに?」と耳の遠くなった義父の耳元で言うと「南京虫が食べたい」と今度は以外とはっきりとした口調で言いました。「南京虫って?」と遥佑は私に訊いてきましたが、私もよくわかりません。南京虫など食べられるはずもないので、たぶん南京豆の言い間違いだったのでしょう。これが遥佑の聞いた義父の最後の言葉になりました。

 それから二週間後に義父はこの世を去りました。康平が小学校に入学し、遥佑が小学三年生になった年でした。私は肩にずっしりと乗っていた重い荷物がやっと降りた感じがしました。義父の度重なる入退院で家の経済はかなり悪化しており、私の夢も遠のいていくように思われて悲しい気分になっていたのです。こんなことをいったら悪いかもしれませんが、そういった意味でも義父の死は私にとってまた家族にとっても空から一条の光が差した感じがしたのです。

 義父の死によってもうひとつ我が家に変化がありました。叔母が田舎に帰ることになったのです。最後まで叔母と義父の関係は藪の中で、私はそれを叔母に問うことはありませんでした。義父の死により、叔母も解放されたひとりだったのかもしれません。群馬で数年前に奥さんを亡くして現在はタクシーの運転手をしながらひとり暮らしをしている男性との縁談があり、叔母はそこに嫁ぐことになったのです。

 私は叔母の幸福を心から祈らずにはいられませんでした。相手の男性は何でもうちの父の知り合いで、市街地からちょっと離れた県営のアパートに住んでいました。叔母が嫁いでしばらく経ってから遥佑と康平を連れて遊びに行ったことがありました。やさしそうな物静かな男性で私はほっと安堵いたしました。久しぶりに遥佑と康平に会えたものですから、叔母の喜びは大きく、お寿司だ、アイスだとそれは大はしゃぎでした。帰りは涙を流しながら私達三人を送ってくれました。遥佑も叔母に可愛がってもらった想い出がよみがえったようで、泣いていました。(2009.4.4)


―つづく―

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