母と子


 私は自分にできることを考えました。しかも、親子三人が暮らしていけなければいけません。そして以前、化粧品の販売員をしていた保坂さんのことを思い出しました。彼女は何度か家を訪れてくれて、私は彼女の勧める化粧品を買い親しくなっていきました。彼女は東京でできたほとんど最初の友人と呼べる人でした。その保坂さんは数年前に化粧品の販売員を辞め、スナックを自ら経営するようになり、私もお店を見せてもらったことをあります。スナック梓をいう店でした。

 女手ひとつで子供ふたりを育て上げるには、水商売しかないように思い、私は早速、保坂さんに電話をして事情を話し、店で使ってくれるように頼みました。彼女は以前ふたりの女性を使っていましたが、最近は独りで切り盛りをしていると聞いていたのです。何故、ふたりの女性が辞めてしまったのかはわかりませんでしたが、独りでは何かと大変なはずで、お願いすれば何とかなるような気がしました。

 しかし、保坂さんの返事は芳しくありませんでした。経験のないこと、そして水商売を甘く考えているのではないかと思われ、断られました。しかし、私は粘りました。お給料はどんなに少なくてもいいから使ってくださいと執拗に頼み、保坂さんはさすがに根負けしたようで、了承してくれました。

 夕方の五時から零時までの勤務で、酔漢の相手などできるのだろうかと心配でしたが、保坂さんのお店は立地条件が良かったのでしょう、上品なお客さんばかりで絡まれたり、迫られたりということはありませんでした。政治や経済の話題も多くて、それが返って私にはきつかったりしましたが、全く知らない世界のことを聞くことはいろいろな意味で勉強になりました。

 しかし、保坂さんは徐々に私に辛く当たるようになりました。お店の終わった後に、言葉使いやらお愛想の仕方やら相槌のうち方、笑い方、お酒の注ぎ方、煙草の火のつけ方などありとあらゆることで小言を言われました。当初は素直に聞けていたのですが、だんだんとそれは私のことを思ってのことではなく、いえ、初めはそうであったかもしれませんが、疎んじているように感じられるようになりました。正確にいえば、疎んじているというより、嫉妬に近い感情だったのかもしれません。

 私には初めての世界ですから、至らないところばかりだったと思います。しかし、それが初々しく見えたのでしょうか、お客さんの評判は悪くありませんでした。はっきり申しますと、悪くないというより、好評だったのです。知らないとか、慣れていないとかいうことは恥ずべきことではなく、いえ、返ってこの世界は初々しさの方が時には強いのかもしれません。いちばん大切なことは、当たり前になってしまいますが、一生懸命することのように思います。

 保坂さんは当初は好意から私にいろいろと教えてくれたように思いますし、ほとんど素人の私がお客さんの受けがいいことを、初めは喜んでくれていたようですが、徐々に嫉妬心のようなものが出てきてしまったようでした。

 保坂さんが辛く当たるといっても、私から頼んで働かせてもらっているわけですし、ただ、ただ耐える日々でした。それに、ここでずっと働かせてもらうつもりはありませんでした。ここのお給料では、とても子供二人を育てることはできないでしょうし、勉強して、ゆくゆくは自分の店を持つことを考えていました。

 それは意外と早くやってきました。初めて貰ったお給料はたったのといっては好意で私を雇ってくれた保坂さんに失礼にあたるかもしれませんが、三万円だったのです。確かに保坂さんからは、お給料はそれほど払えないということは聞いていましたし、私もどんなに少なくてもいいからと雇うことを渋る保坂さんに言いました。しかし、以前は若い女の子を使っていたこともありますし、店の経営状態も私の働いた感じではそれほど悪いようには思えませんでした。「どんなに少なくてもいいから…」と言ったものの、貰ったお給料の額は私の想像をはるかに下回るものでした。

 二回目のお給料を、それはちょっと増えて五万円になりましたが、貰ったくらいから不動産屋さん周りを始めました。貸店舗を探し始めたのです。しかし、なかなかいい物件は見つかりませんでした。予算も厳しい上、他人は雇わず、ひとりで店を切り盛りするつもりでしたので広さも自ずと決まってしまいます。そして、四回目のお給料の出た直後、まあまあ良さそうな店が見つかりました。

 それは住宅街の中にあり、最寄りの駅から十五分程度離れたところにあるカウンターが八席だけの小さな店でした。内装もそれほどお金をかけなくても大丈夫そうでしたし、何より賃料が安かったのです。辺りは住宅の他には小さな町工場が点在しているようなところで、ちょっと離れたところに大学の寮がありました。それほど立地条件のいいところではありませんが、親子三人食べていけるくらいは何とかなるように思いました。

 賃貸契約をして、内装の業者を頼み、保健所の営業許可や酒類の仕入れルートなど空いている時間を使って開店の準備を始めました。不思議なもので店を辞めることが決まると、保坂さんは優しくなり、接客のテクニックやら、お酒の仕入れのこつなどいろいろと教えてくれました。厄介者払いができて、ほっとしたのかもしれませんが、私にとっては唯一の頼れる人ですし、親身になってアドバイスしてくれることをうれしく思いました。五回目の給料を貰った後、私はスナック梓を辞めました。その半月後、私の店スナック愛は開店しました。

 アイという名前は愛のアイというよりも、アイウエオのアイの意味合いが強くありました。それは以前に、高校時代だったと思いますが、お友達ともし将来子供の生まれたときどんな名前をつけるかという話をしていたとき、そのお友達が初めに生まれた女の子にアイとつけて、二番目に生まれた男の子にウエオとつけるなどと冗談めかして言っていたことが頭に残っていたのです。ただ、スナック・アイではおさまりが悪いような感じもしましたので、漢字で愛とすることにしました。

 開店の日、遥佑と康平の夕飯を作ってから店に向かいました。店は家から電車で三駅、最寄りの駅から徒歩で十五分くらいのところにあり、保坂さんと田舎の両親から送られた花飾りがドアの両側を飾っていました。店内の掃除や料理の仕込み、期待と不安の入り混じったといいたいところですが、実際には不安ばかりで、それは数時間後に現実のものとなりました。

 いくら待ってもお客さんは来なかったのです。六時から十二時までの六時間、私は小さな店の中に独り佇んでいただけでした。初めの一、二時間はドキドキしながら、そして時間の経つにつれ悲しくなっていきました。閉店の片づけをしているとき、胸が苦しくなりました。「今日はまだ初日だから」と自分を励ましました。

 しかし、翌日もお客さんは来ませんでした。涙が落ちました。それは、とめどもなく出てきて、私はカウンターの中に崩れ落ちて、泣きました。場所が決定的に悪かったのだと思いました。

 周りには独り者の住むような安価なアパートもありますが、一軒家も多く、勤め人がほとんどのようのです。そういった人たちは飲みに行く場合、同僚や上司と会社近くの飲み屋に行くことが多く、わざわざ自宅近くの店にひとりで入るようなことはほとんどないように思われます。町工場の従業員さんも遅くまで仕事をしていることが多く、それから一杯というもの億劫になってしまうようで、独身の人でもコンビニでお弁当といっしょにビールでも買って自宅でテレビを見ながら…ということになり、店に足を運んでくれるということはあまり期待できそうもありません。

 二日目にして、私は絶望的な想いに駆られました。遥佑と康平、果たしてこのふたりの子供を女手ひとつで育てあげることができるのだろうか?いや、でも、まだ結論を出すには早すぎる、せめて一ヵ月がんばってみよう。それで、だめだったら、また別の仕事を探せばいいんだから。

 三日目にして、ようやくお客さんがひとり来ました。その人は近くの町工場の社長さんでしたが、彼によって私の絶望感はさらに深くなりました。
 「新しく開店したんだね。いつから?」
 「一昨日からです。貴方様が最初のお客さんです。これからも、よろしくお願いしますね」
 それから、しばらくお互いの話などとした後、アルコールによって口が滑らかになったのかもしれません、社長さんはこの店の以前のオーナーさんのことを話し始めました。
 「ママ、この店は苦戦するかもしれないよ。場所が良くないっていうことだけじゃなくてさ、以前の経営者がぼったくりとまではいかないけど、結構あこぎな商売していたからな。それから、悪いイメージが出来てしまったのか、誰がやっても長く続かないんだよ」

 そして、次に来た自称大学教授という人も
 「この店はまるで特徴がないね。焼き魚に肉じゃが、鶏のから揚げ、和風サラダ…、家で食べられるものばかりじゃない。何か特徴がないとね、こういう店は。美味しい魚を食べさせるとか、いい酒が置いてあるとかさ。ママ、考えた方がいいよ」
などと説教をし、そのくせ焼きホッケ、カボチャの煮付け、冷奴にビールと文句を言っていたわりにはいろいろと食べていきました。

 店を閉め、家に帰る電車の中、私は暗澹たる気持ちになっていました。場所が悪いだけでなく、そのようないわく付きの店で、さらに‘大学教授’さんの言っていたことももっともに思え、無力感に囚われました。保坂さんのように私は話術も堪能でなく、自分がつまらない人間に思えてきたのです。しかし、家に帰ってすでに寝ている遥佑と康平の寝顔を見ていると、また多少なりとも力が湧いてくるのでした。

 翌日の昼、武さんの入院している埼玉県にある精神病院に行きました。一週間に二度の割合で武さんの着替えなどを持って行き、先生から病状の説明を受けるのです。本人との面会は状態が落ち着いてからの方がいいということで、入院してから武さんとは会っていなかったのですが、この日は先生から「だいぶ落ち着いてきましたので、ご希望であれば面会の準備を致しますよ」と言われました。

 しかし、私は「いいえ」と断り、いつものように着替えを看護士さんに渡し、洗濯物を受け取って帰りました。武さんと会って、何を話せばいいのか…、話すことが全く思いつきませんでした。今までの生活で武さんが子供たち可愛がったり、私に愛情を感じさせるようなことを思い出すことができませんでした。彼は私たちを愛していたのだろうか?いや、私自身、彼を全く愛していなかったのです。結婚して十六年が経ち、今、ようやく私はそのことに気づき、愕然としました。自分を欺き続けた十六年だったのかもしれません。

 彼の元気な頃は、遥佑と康平のためと思い自分の気持ちを誤魔化すこともできましたが、今ではそれはもう繕うことができなくなってしまったようで、心の奥に仕舞われたものが現れてきたのです。それは、ただもう嫌悪感だけでした。体の調子の悪い時、彼に湿布薬を投げつけられた場面が浮かんできたりしました。武さんの回復を待って離婚しようと、私は決心しました。

 たとえ、彼が完治したとしても、心がこんなに離れてしまった以上、もう一度いっしょに暮らすのは無理です。そのためにも、何とか店を軌道に乗せないと…。過去を想うより、未来を考えるより、とりあえず現在を乗り切っていかなければならないのです。

 その夜、数軒先にあるうどん屋の跡取りが来てくれました。彼は三十代後半でしょうか、爽やかな感じの清潔感のある人でした。私は彼に初対面にもかかわらず、すっかり気を許してしまって、先日来られた社長さんの話などをしてしまいました。
 「ああ、古山製作所の社長さん、よく知ってますよ。うちも出前に行ったりしますからね。あの年でまだ独身なんですよ。知りませんでした?ぼったくり?それはちょっと大袈裟ですね。ここあまり場所がよくないでしょ?あ、すいません。いえ、いえ、それで前のママも頭に来たというか、あまり商売がうまくいかないんでね。ちょっと高めの料金設定にしたみたいです。いや、いや、ちょっとじゃなくて、だいぶかな?さっと稼いで、引き払うつもりだったんじゃないかな?だけど、ここら辺じゃ、そんなことしたらすぐに噂が広まって、誰も来なくなってしまいますからね。稼ぐ前に、潰れてしまったようです。古山さんはたまたま料金を高くしたときに行ってしまったみたいでね。あの人、好奇心強いから、新しい店がオープンしたなんていうとすぐに出かけて行くんですよ。その後、何人かオーナーが変わったけど、みんなあまり長く続かなかったな。いや、いや、場所だけじゃなくて、店の特色というか、そういうのがここと合わなかったというのもあるんじゃないかな?」

 私は、‘大学教授’さんのことも話しました。何しろ、オープンしてから、お客さんといえばそのふたりだけだったのですから。
 「大学教授?知りませんね。この辺りには、そんな人住んでいませんよ。かといって、この辺りまで流れて来る人もいないだろうし…。その人の言っていることは一理あるかもしれませんね。そういえば、前にここで商売をしていた人はお色気を売りにしていたり、高級酒を取り揃えたりしていたような…。だけど、ここら辺りは色気や高級酒よりも食い気じゃないかな?町工場でも独身の人、多いから。仕事の終わった後、コンビニ弁当が夕食っていうもの味気ないし、家庭料理を安く食べられる店があったら繁盛すると思うよ。ママ、この店、いいかもしれないよ。家庭料理って毎日食べても飽きが来ないでしょ?その‘大学教授’さんは特徴がないって言ったみたいだけど、十分にあるじゃない」
 「普通の家庭料理で商売になるのかしら?」
 「うーん、何かひと工夫したらいいんじゃないかな?よーし、俺、知り合い多いから連れて来てやるよ」

 いい方向に歯車が、動きだしそうな予感がしました。結婚してから、毎日、毎日、作り続けた料理が私を救ってくれようとしているのです。そして、ふいに母の顔が浮かびました。小学校二年生のとき、初めてふたりで作った油揚げと豆腐と長ネギのお味噌汁が想い出されました。私に料理を教えてくれたのは、料理する習慣をつけてくれたのは母でした。母に助けられた、そんな気持ちが強くしました。私は母の子、そして遥佑と康平は私の子です。



終章

 店にカラオケを設置しました。開店から十一年、今年、社会人になった遥佑が冬のボーナスをもとにして買ってくれたのです。同じ通りにあるうどん屋さんの跡取り、現在はもう立派なご主人になっていますけど、が来てくれてから、店はいい方向に動き出しました。

 彼は顔が広くて、昼間、うどん屋さんに来る町工場の従業員さんなどに声をかけてくれたのです。彼の言ったように、町工場は独身の人が多く、私の作る気取らない家庭料理はみんなに喜ばれました。初めてのお客さんで、私を暗い気持ちにさせた古山製作所の社長さんも、この店は特徴がないなどと散々言ってくれた‘大学教授’さんも今では大切な常連さんです。

 あ、そう、そう、‘大学教授’さんはやはり大学教授ではなくて、古本屋のご主人でした。店は相当暇なようで、毎日、棚に積まれた本を好きなだけ読めるらしく、それで博学になったようで、周りの人たちがからかって、そして少し親愛の情を込めて‘大学教授’と呼ぶようになったということです。ただ、ほんとか嘘かはわかりませんが、お酒が入ると自分は芸大の絵画科を出ているから、そのうちママの肖像画、描いてあげるなどと言ってくれますが、十年以上経った今でもまだ絵は完成していないようです。

 遥佑が社会人となってくれましたので、あとは次男の康平が独り立ちしてくれれば、私も肩の荷をやっと下ろせます。康平は英語を勉強したいということで、現在は英語の専門学校に通っていますが、どんな夢を描いているのでしょうか。長男の遥佑はコンピュータ、次男の康平は英語と私には全くわかりませんが、ふたりとも健康であればとそれだけ願っています。

 今では子供たちと無理心中をしようと考えたことが、遠い昔の夢の中の出来事のように思われ、また、こうして何とか親子三人暮らしてこれたことが、何か目に見えない力に助けられたように感じられて、不思議な気がいたします。絶望などというものは、結局、至らない私の頭の中にあった観念でしかなかったのかもしれません。がんばっていれば、いつか道はできるものなのでしょう。

 さあ、これから今日お店で出す食材をスーパーに買いに行かなくてはなりません。お通しは何にしましょうか。暮れるのにはまだ早いのに、なんだか外は暗くなってきたようです。ああ、ずいぶんと雲が広がって、今夜はひと雨ありそうです。店の終わる頃には、星は出ているでしょうか。(2009.5.30)


―終―

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