母と子


 「みんなで死のう」私は長男の遥佑の目を見つめて言いました。遥佑の横に引かれているふとんの上にはタオルケットをお腹の上にちょこんと掛けて、小さな額に汗をかきながら次男の康平が天使のようなあどけない表情をして眠っていました。


 私は群馬県の田舎で生まれ育ちました。父は鉄道会社で車掌を、母は小学校の教師で家庭科を教えていました。兄弟は兄がひとりと姉がひとり、私は末っ子です。母が家庭科の教師をしていたせいかもしれませんが、姉と私はよく家事を手伝いました。小学校に入った頃から母の後ろで裁縫を見たり、台所のお手伝いをするのが好きだったのです。私が生まれて始めて作った料理は油揚げと豆腐と長ネギの入ったお味噌汁で小学校二年生の時でした。小学校も高学年になると家庭科の授業が始まります。その時、教師としての母の授業を受けるのはさすがにちょっと恥ずかしく、うつむきがちに母の話しを聞いていたことが思い出されます。

 私は中学、高校と地元の公立学校に進みました。中学生の頃、熱中したのはバレーボールでした。何故、バレーボール部に入ったのか、思い出せませんが、仲のいい子が入部したとかそんな理由だったと思います。ただ、私はもともと運動神経のいい方でしたし、練習も一生懸命行いましたので、一年の冬にはレギューラーになっていました。バレーボールに明け暮れていた私は真っ黒に日焼けをしていたので、兄は黒ベエ、黒ベエと私を呼んでいました。そんなふうに私をからかっていた兄も野球に熱中していて、私以上に黒くなっていました。ただ、兄は運動神経があまりいい方ではなかったようで、試合を観にいくといつもベンチの中で大きな声を出しているだけでした。姉はスポーツには全く興味のない文学少女で三人並ぶとチョコレートクッキーの間にある生クリームのようでした。

 高校は隣の市にある男女共学の高校でした。私は毎日、家から七,八Km離れている学校まで自転車で通っていました。商業学校だったため、生徒のほとんどは女子でした。中にはそれを嘆いている生徒もいましたけど、バレーボールに夢中になっていた私はあまりそういったことに関心がありませんでした。私はまた一年生のときからレギュラーに選ばれました。授業の終わった後、毎日、毎日、暗くなるまで練習をして、夜道をチームメイトとふざけ合いながら自転車で帰り、家に上がるなり「かあさん、ご飯」と大声を上げて、女の子としては大飯を食らい、お風呂に入りながらうる覚えの歌をこれまた大声で歌い、そして眠りにつくというような毎日でした。

 大好きなバレーボールでしたけど、一度だけ足を強く捻挫してしまい歩行が困難になってしまったことがありました。このとき、普段は何かと口うるさい父が私の足の治るまで毎日、車で学校に送ってくれたのです。父の吸うたばこの煙の匂いが染み付いた車のシートを温かく感じました。

 高校を卒業した後、となりのA市にある大手の時計メーカーに工員として就職しました。私は初めのお給料と高校時代にアルバイトで貯めたお金でスクーターを買いました。高校生の時は雨の日でも自転車で通ったけど、勤めるとなかなかそういうわけにはいかなくなります。勤め始めた頃、雨の日は父の運転する車で駅まで送ってもらっていたけど、帰りは父といっしょになることはほとんどないから、駅でタクシーを拾っていたのです。

 始めはそれほど不便を感じなかったのだけど、慣れて来るととても不自由で息が詰まるような感じになりました。それに田舎の電車だから本数も少なく、高校時代のお友達や会社の同僚と仕事が終わった後何処かに遊びに行くときも制約がでてきます。それで自由に動けるスクーターを買ったのです。

 父は自分ではバイクを乗り回しているくせに、娘が健気にも通勤用にスクーターを買ったことが気に食わないようで、顔を合わせると「事故を起したらどうする」などと縁起でもないことを言い続けました。私が「そんなことばっかり言ってると、暗示にかかってほんとに事故起すよ」というと「親を脅迫する気か!お前はいつからそんな性悪な女になったんだ」などと怒りの火はさらに大きくなって、それを消化する役目はいつも母でした。

 母は基本的におとなしい人で、普段はあまり意見などを言ったりしない人でした。口煩い父に文句を言っているのを聞いたこともありません。しかし、それはただ大人しいというのとは違って、人間の大きさから来るゆとりのようなものだったように思います。父だけでなく、私たち兄妹にも声を荒げるということさえ、ほとんどなかったように思います。

 私のスクーターでの通勤はあまり長くは続きませんでした。父の言葉が暗示になってしまったのか、ある会社帰りの夜、田んぼにスクーターごと突っ込んでしまいました。田舎の夜道は明かりも少なくて、緩いカーブになっていることに気づかなかったのです。一瞬、何が起きたのかわからず、私はまだ田植え前の田んぼの中に座りこんでしばらく呆然としていました。さいわい柔らかい田んぼの土がクッションの役割をしてくれたらしく、私は泥まみれになっただけですんだのです。近く民家まで行き、事情を話して家に電話をかけました。その民家のおじさんと息子さんが私の父と兄が来る前に、田んぼに半分埋まったようになっているスクーターを引っ張り出してくれました。

 父には怒鳴られることを覚悟していたけど、泥だらけの私の体を見回して何処にもけががないか心配してくれました。私は涙がにじんできて、父の顔がよく見えませんでした。兄は私が何処にもけがをしてないと知ると、「ほんとにお前は悪運が強い。たぶん飛行機が落ちてもお前だけは生き残るんじゃないか」と破顔しました。

 父は民家の電話を借りて、母と姉に私が無事だったことを伝えました。スクーターはハンドルやミラーが曲がり、車体のプラスチックの部分が割れていました。何とか動きそうな気もしたのですが、民家の人の好意で軽トラに積んで運んでもらうことになったのです。兄とその民家の息子さんが軽トラの荷台にスクーターを積みこみました。

 帰りの車の中では父の小言が炸裂しました。「だから、言わないこっちゃっない」などと散々私を責め、子供時分に自転車で転び、けがをしたことのある兄にも火の粉がかかりました。「お前達兄妹はだいたい注意力もなければ、運動神経もない」と決めつけ、以降バイクの運転は一切禁止になってしまったのです。

 だけど、私の心は少し浮き立っていました。私の壊れたスクーターを家まで運んでくれるため軽トラを運転して私達の車の後について来てくれているあの民家の息子さんは、ちょうど私と同じくらいの年齢でちょっと格好いい感じの青年だったからです。

 家に着いた私達を母と姉が向かえてくれました。「ほんとに何処も何ともないの?」と母は心配したのですが、私はにっこりと笑ってうなずきました。兄と青年は軽トラから私の壊れたスクーターを下ろしました。それを見ていた姉は「あーあ、随分派手にやったわね」と呆れ顔でした。青年はスクーターを下ろすと、すぐに帰ろうとしたので、私は慌てて連絡先を訊きました。

 バイクの運転を禁止されてしまい、また雨の日は父に駅まで送ってもらう生活に戻りました。そして休みの日に私をたすけてくれた民家まで父といっしょに御菓子をもってお礼に行きました。「私ひとりで行く」と父には言ったのだけど、父は「そんなわけにはいかないだろう。だいいち車でないと遠いぞ」と言い、いっしょに行くことになってしまったのでした。私はこの時ほど車の免許をとっていなかったことを後悔したことはありません。

 あの息子さんは市の方に用事があるとかで外出していて、会うことはできませんでした。その後、私は何回も電話の前に立ち、ダイヤルを回そうとしました。だけど、どうしても指が動きませんでした。高校は商業高校でしたし、勤め始めてからも周りは女子工員ばかりですから、男性との接触はほとんどなく、憶してしまったのです。あの時、ダイヤルを回していたら、また別の人生があったかもしれません。

 私に大きな転機が訪れたのは二十六の時でした。父の親戚筋からお見合いの話が舞いこんできたのです。その話を持ってきたのは東京に住んでいる叔母でした。その叔母は父の義理の妹で住み込みの家政婦をしていました。私のお見合いの相手はその家の長男でした。父は始めまだ紀子には早いと、この話に乗り気ではなかったのですが、相手の家が経済的にも恵まれていて仕事も固い職業だと聞くと徐々に考えが変わりました。それは決してその家と姻戚関係を結ぶことによって自分が何か得をしようというようなものではなく、ただ私の将来のことを考えてのことだったと思います。

 私は気が進まないというより、絶対にいやでした。まだ結婚などする気もなく、自分がどういう男性を好きになるかということさえわかっていなかったのです。だから何度もこの話はお断りしてくれるように父に頼んだのですが、いきなり断るのも失礼だから会うだけ会って、その上で気に入らなければお断りをすればいいと押し切られてしまいました。

 姉はその時にはもう隣町の呉服屋さんに嫁いでいました。そのお店でお見合い用の和服を母といっしょに選びました。母は私の気持ちを理解してくれていました。会うだけあって、後は自分の気持ちに正直にすればいいからと私の固くなっていた気持ちをほぐしてくれたのです。

 お見合いは隣の市に住んでいる父方の伯母の家で行なわれました。ここは父の生まれた家でもあります。伯母は婿養子を取り、祖父母と同居していました。私は父に付き添われ、先方は東京の叔母に付き添われお見合いが始まりました。先方は塗装店を経営していて、一戸建ての家で暮しているとのことでした。同居している家族は父だけで叔母が二人の賄いをしているようでした。年は三十ということでしたが、見た目はそれよりちょっと老けて見えました。それは年のわりにはやや頭髪が薄いせいだったからかもしれません。身長は普通でしたが、仕事柄、力を使うことが多いらしく、体つきはがっちりとしていました。木下武という名前の男性でした。

 男性の好みがまだはっきりと言えない私でしたが、その男性は少なくても私の好みではないということだけはわかりました。しかし、先方はたいへん乗り気でいろいろなことを質問されました。家事をしっかりこなせる人を求めていることがわかりました。料理に関して私の自慢をする父を見て、こんなことなら料理など出来ない方がましだったと、母についてお台所仕事をしてきたことを後悔しました。

 私の答えはお見合いをする前から決まっていました。家に帰り、父にお断りの返事をしてくれるように頼んだのですが、父はもっとよく考えてみろとなかなかそれをしてくれません。父は経済的に余裕のある安定した暮しをすることが一番の幸せと考えていたようでした。先方はその条件に合っています。結婚して何年か経てばきっと幸せだと思える日が来ると私を説得しました。そうこうしているうちに先方から私を気に入ったのでまた会いたいとの連絡が入ったのです。私はお断りしてくれるように再度父に頼みましたが、父は勝手に了承の返事をしてしまい会う日時まで決まってしまったのです。今度は私が東京に出向くことになり、二人だけでの話が中心になるようだったので、その時お断りをしようと心に決めました。

 私は母に付き添われて生まれて始めて東京に行きました。そして、あまりの人の多さと、建ち並ぶビルディングに驚きました。東京とはずいぶんと騒がしい街だと思いました。しかし、その騒がしさが不快だったかというと必ずしもそんなことはなく、私の好奇心を激しく刺激していたのです。

 先方の家は東京の都心からはちょっと離れた住宅街にありました。古い家でしたが、作りはしっかりした立派な住まいでした。先方のお父さんはどうしても外せない仕事があるとかで出かけていて、この前のお見合いと同じく叔母が同席しました。しばらく、話した後、私は木下さんとふたりだけで外に出て近くの喫茶店でコーヒーを飲んだり、公園や神社を散策しました。いろいろなことを話しましたが、やはり私には合わない気がしました。話が合わないというよりも話題がないという感じだったのです。

 木下さんは東京に住んでいるにもかかわらず、私を惹きつけるような話題を何一つ持っていませんでした。ただ、仕事だけを真面目にしている人のようでした。木下さんの自宅に帰る途中、私は勇気を起して、「大変申し訳ないのですが、私にはまだ結婚は早いようなので…」と婉曲にお断りしようとしたのです。木下さんは私をかなり気に入っているようで、「そんなことを言わないで、また会ってください。もう数回会ってそれでもお気持ちが変わらない場合は諦めますから」とかなり強く言ってきました。私も重ねてお断りしたのですが、最後には「もし、このまま会えないようなら、僕は死にます」とまで言い出したので私は仕方なく、相手の提案を受け入れることになってしまいました。

 帰りの列車の中でそのことを母にいうと「ずいぶん情熱的な人ね。何回かお会いしてゆっくり結論を出せば」と呑気に言っていました。しかし、このまま何回も会えば、結婚せざるを得なくなるような気がしました。家に帰ってから父に今日のことを話し、お断りの電話をしてくれるように頼みました。しかし「次に会う約束をしたのだろう。それなのにそんなことはできない。それに仕事を一生懸命している人といっしょになるのが一番幸せなのだ。遊び好きなんかと結婚でもしてみろ、始めはいいかもしれないがいつかは後悔する時がくる」とますますこの話に乗り気になってしまったのです。

 こうして私と木下さんは何回かお互いの家を行き来しました。そして、結婚したくない気持ちには変わりなかったのですが、それは絶対の拒絶ではなくなっていました。私の気持ちの微妙な変化を感じたのか木下さんは情熱的に結婚をせまってきました。そして、家に帰れば父も熱心にそれを後押ししたのです。私もついにそれに押し切られてしまい、木下さんとの結婚を了承しました。何回も東京に行くうちに都会の魅力に引き寄せられたという面があったかもしれません。私は木下さんより、東京での暮しに憧れたのです。銀杏が色づき始めた秋の日に私と武さんは結婚しました。(2009.3.21)


―つづく―

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