ユーレイの妻


 夫がいなくなってから三回目の勤めに出た日のことです。その日は夕方から夜十時までの勤務でしたが、もうすぐ勤務が終わるという時刻、私のレジに野球帽にサングラス、そしてくたびれた紺色のTシャツにジーンズをはいた長身の男性がポテトチップスと栄養ドリンクを差し出しました。彼はお金といっしょに小さな紙切れを渡しました。「いらしゃいませ、こんばんは」と私はマニュアル通りに接客して、彼はポテトチップスと栄養ドリンクを持って店の外に出て行きました。

 夫でした。小さな紙切れには私たちの住んでいるアパートの近くにある神社の名称が書かれていました。勤務を終えて、私はその神社に行きました。そこには夜中にもかかわらず、野球帽にサングラスのいかにも怪しい風体をした長身の男、夫がいました。
 「武、一体、何よ!その格好」あまりに滑稽な姿に思わず、声が出ました。
 「おい、刑事は来ていないよな?」呆れました。夫は警察を警戒していたのです。しかし、その風体ではかえって逆効果で、もう笑うしかありませんでした。
 「何、笑っているんだよ。大丈夫だよな?」
 「そんなことより、集金を持ち逃げしたって本当なの?」

 夫はうなずきました。状況証拠は全て夫が黒だということを示していましたが、私の胸の奥底には夫を信じる一片の心があったのです。あの人はやっていない、きっと何かの手違いなのだという気持ちが残っていたのです。しかし、その欠片は粉々に砕けました。
 「何でそんなことしたのよ」問い掛けというより、私の叫びでした。
 「それより、警察はどうなっている?刑事に見張られたりしていないのか?」
 「新聞屋の所長さんは被害届を出していないの!」

 私の言葉を夫は理解できないようでした。夜の神社のような薄気味悪い所に長いこといたくはなかったのですが、これまでの経緯を夫に説明しました。それを聞いて夫はほっとしたような、それでいて何所か寂しそうな表情を浮かべました。
 「とにかくアパートに帰りましょうよ。そんな格好でこんなところにいたら、かえって怪しまれるわよ」

 ふたり揃って久しぶりに部屋に戻りました。居間に入るなり、夫はどっと畳に腰を下しました。
 「武、説明してちょうだい。何で、集金を持ち逃げなんかしたの?」
夫に話をさせるため、詰問調ではなく、できるだけ穏やかに言いました。
 「騙されたんだ」
 「騙されたって、誰に?」

 夫は体を捩ったり、首を傾げたりして言いづらいようでしたが、もうこうなっては私にすがるよりないということがわかったのでしょう、「その、女に」と絞り出すような声で言いました。そして、ポツリ、ポツリとですが、話し始めました。
 「新聞配達をしていて、その…、知り合ったんだ、うちの新聞を取ってくれて。四丁目にあるアパートに住んでいる女なんだ。始めはただ二言、三言話すくらいだったんだけど、だんだんと話込むようになっていって…。その、そのうち、そういう関係になってしまった」
 夫は苦しそうに言いました。しかし、聞いている私の方が胸を圧迫されるような感じがしてきて、よほど苦しかったのです。夫のパスポートがなくなっているのに気づいたとき、背後に女がいるという気はしました。しかし、それが実際に夫の口から語られると、さすがにショックでした。
 「その女がアメリカへいっしょに行かないか?って誘って来たんだ。アメリカに行って写真の勉強がしたいって。できればいっしょに行ってほしいって言われた。アメリカには知り合いもいて、家もあるから大丈夫だって。仕事も紹介できるから、あなたも英語でも勉強して、あっちでいっしょに暮さないかって…」

 思わず大きな声を出してしまいそうになりましたが、夫に最後まで話させるため、辛うじて自分を抑えました。私が先を促すと夫は話を続けました。
 「それで旅費と当面のお金を工面してほしいって言われて、集金を持ち逃げすることにした。二十五日、夜九時半まで集金して、バイクを乗り捨てて、教会のすぐ近くにある女のアパートに行って、お金を渡した。それから予約をしてあった成田空港近くのホテルに行った。だけど、翌朝、彼女はいなくなっていた。全く、もうわけがわからなくて…。ホテルのフロントの話だと朝というより、俺が寝込んですぐに出て行ったみたいだ。集金で疲れ切っていたから、ぐっすり眠っていたようで気づかなかった。」

 夫の話は現実味が乏しく、にわかには信じられませんでした。もともとそれほど思慮深いというわけではなかったけど、こんなに浅慮な人ではありませんでした。
 「その女の話を信じたというわけ?それで持ち逃げを?周りにどれだけ迷惑をかけるか考えなかったの?ただの迷惑じゃないわ。犯罪なのよ。一体、どういうつもりなの。何を考えているのよ。その女はどういう人なの?」
 夫は少し困ったような表情をしました。彼がそのような表情を浮かべた理由が始めはわかりませんでしたが、彼の話を聞いて愕然としました。
 「年は二十三歳と言っていたけど、彼女のことはほとんど何も知らない。今はフリーターをしていると言っていたけど、どんな仕事をしていたのかはわからない」
 「フリーターが新聞取るの?」皮肉っぽく私は言いました。
 「俺が勧誘した。始めは断っていたけど、あなた面白いから取ってあげるって契約してくれた。読んでいれば話題作りにもいいかもしれないとも言ってたな」
 「そんな何にも知らない女と何でいっしょにアメリカなんて行こうとしたのよ。そんな夢みたいなこと現実にあるわけないじゃない」
 私は我慢しきれず、つい強い調子で言いました。夫はそれに対して抗弁する風でもなく、淡々と応えました。

 「夢みたいな話だから、乗ってしまったのかもしれない。毎日、二時半に起きて販売店に行って、朝刊をトラックから降ろして、折り込み広告入れて、バイクに積んで配達して、終わったら八時くらいから寝て、また二時くらいに起きて、今度は夕刊。配達が終わったら営業に出て、月末からは集金してさ、八時くらいに終わって、明日のことを考えて十一時くらいに寝て。その繰り返しで毎日が過ぎていく。この仕事は特別かもしれないけど、同じことを繰り返す日常から逃げ出したかった。疲れてしまったんだ。でも、何所に行けばいいのかわからないし、行き場所もないように思えて。その時、あの女に出会って、アメリカの話をされて。アメリカに行けば何かが変わるし、何かが起きるような気がして。ただ、一時でも夢を見たかったんだろうな…」
 他人事のように話す夫を見て、私は怖くなりました。彼は地に足のついた人間ではなく、幽霊のように思えたからです。いや、彼は幽霊などと仰々しく表現するより、ユーレイとした方が実情に合っているでしょう。自分の居場所さえわからず、ふらふらと彷徨っているだけの魂が抜けてしまった人間…。

 昔、母に言われたことがあります。変わるのはいいけど、もとに戻れないような変わり方はしてはいけないって。恐らく、母はそれほど深い意味で言ったのではないでしょう。しかし、‘元に戻れないような変り方’をしてしまった人物を目の当たりにすると、母の言葉が石のように心の中に沈んでいくようでした。

 よく考えてみれば、彼は生活というものを自分の意思でしたことがないように思えます。以前は実家で彼の母親が世話をして、彼は朝、会社に行って、夜、家に帰ってきて、ただ、それだけ。あとは全部、食事もお風呂も用意され、掃除、洗濯も母親任せだったのです。私とも早くに結婚したものですから、母親が妻に変わっただけで、いつしか彼はただ家と会社を往復しているだけの存在になっていました。

 そんな自身の危うさを無意識のうちに彼は感じ取っていたのかもしれません。ただの仕事ロボットから人間に戻りたかったのでしょう。前の会社を辞めたのは、自己防衛だったように思います。しかし、人間らしい生活ができる仕事なんて、そうそうあるものじゃありません。多少、収入は落ちても、それほど忙しくなくゆとりの持てる職場を夫は考えていたようですが見つからず、拘束時間も長く、休みも少ない今の仕事に就いたのです。そして、人間には戻れず、今度はユーレイになってしまったようです。

 どうしたら夫に足を生やすことができるのか、私にはわかりません。しかし、まず人としてどうしてもしなければならないのは、ご迷惑をかけた販売店の所長さん、そして奥さん、従業員の皆さんに謝ることです。私はそのことを夫に言いました。
 「あんなことしてしまって今さら顔を合わせられない」と彼は強い拒否反応を示しました。しかし、それができなければ、それすらできないようであれば、彼はいつまで経ってもユーレイのままであるような気がしました。
 「みなさんに謝るのは武自身のためなのよ。所長さんもそのことはわかっている。だから、ご主人のためにも来てくれと言ったのよ。あちらだって本音を言えば、武とはもう顔を合わせたくはないかもしれないけど、これからのことを考えて言ってくれたと思う」
 「だけど、どうすればいいのか…。恥ずかしくて、とても行けないよ」
 「自分を捨てなさいよ。投げ出してしまうの。できなければ、人生ずっと逃げたままよ」
 「逃げたままか…。楽なら、それでもいいような気もする」
 「独りで生きていくなら、それでもいいわよ、どうぞご勝手に。でも、私といっしょにこれからも暮らしていく気があるなら、それではだめ」
 「久子…」

 夫は久しぶりに私の目を見ました。私の決意がどれほどなのか、図ろうとしたようでした。夫が私を置き去りにしたように、私も彼と別れる決意をしていました。その気持ちは目を通じて伝わったようです。夫は
 「わかった。販売店に行ってみんなに謝るよ。久子の言うように、そうしないと新しいスタートを切れないような気がする」と弱々しいけど、はっきりとした口調で言いました。(2007.7.11)


―つづく―

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