ユーレイの妻


 翌日の朝、私は販売店に電話をして、夫が帰ってきたこと、本日の午後、夫とふたりで謝罪に行くことを伝えました。所長さんは予期していたのでしょうか、それほど驚いた感じもありませんでした。夫は緊張しているようで、朝から食欲がなく、出かける時刻が近付くと吐き気をもようしていました。

 夫はいっしょに逃げるはずだった女とアメリカに着ていくつもりだったダークグレーのスーツに袖を通して、いっしょに部屋を出ました。少しは気持が落ち着いてきたのか、もう吐き気は治まったようですが、極度に緊張している様子で販売店に着くまで一言の言葉も発しませんでした。

 販売店の前に着いても夫は言葉を出せそうになかったので、
「ごめんください。小谷野です」と私が声をかけ、先に中に入りました。夫は口だけでなく、足も不自由になっているようで、私は入口で佇んでいる夫の手を取り、中に引き入れました。もう一度、中に声をかけると返事がして、少し経ってから所長さんと奥さんが出てきました。午後早い時間ということもあって、他の従業員の方はまだ休まれているようでした。みんなに会うのは辛いということで、夫がこの時間帯を選んだのです。私としては、皆さんがいる時がいいと思ったのですが、そういう時間は仕事が立て込んでいて忙しいようなので、夫の希望通りにすることにしました。

 「奥さん、先日はどうも」と所長さんはにこやかに挨拶をしてくれましたが、私の後に隠れるような格好になっていた夫に目が行くと、表情は一変しました。振り向くと夫は視線を足元に落したまま突っ立っていました。夫が前に出られるように体を横向きにすると、彼はしばらくもじもじしていましたが、意を決したのか数歩前に出て顔を上げ、所長さんと目を合わせました。今度は 私の方が緊張してしまい、胃の方からさかんに苦い液体が上がってきました。
 「この度は多大なご迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした。また、穏便な処置をとってもらいまして、ありがとうございます」絞り出すような苦しげな声で夫は言いました。
 「うん、わかった。どういうことか説明してもらおうか?」所長さんは店に置いてあって椅子に腰掛けました。奥さんは、後の一段高くなった畳の上に座って心配そうな顔をしています。
 「わかりました」と夫は言い、四丁目のアパートに住んでいた女と知り合ったところから集金を持ち逃げする経緯までを話しました。所長さんは途中で奥さんが何か口を挟もうとするとそれを目で制して、夫の話を最後まで静かに聞いていました。

 「話はわかった。夢か、今の人は本当に大切なものをわかっていないね。誰の言葉だったかな‘枯れ木に花咲くより、生木に花咲くを驚け’っていうのがあるけど、要はそれなんだよ。何でもかんでも当たり前になっちゃって、平凡であることの幸せを忘れちゃっているんだよ。それで枯れ木に花を咲かせるようなものに飛びついちゃう。お前は、それがどんなに泥臭くて恰好悪く見えることでも、目の前に育っている木を大切にして、大きく育てて花を咲かせるようにしなけりゃいけなかったんだよ。だけど、その時間に耐え切れず、結局、楽そうな方へ、見てくれが良さそうな方へ、逃げちまった。これから先はお前と奥さんの問題だから、俺はここまでにしておくけどね。そう、そう、奥さん、これ返すよ」そういうと所長さんは、茶封筒を私によこしました。中身を見てみると一万円札が数十枚入っていました。

 「これは一体、どういうことですか?」私は訳がわからず、所長さんに訊きました。
 「奥さんから弁償してもらった集金の代金三十万円、そしてご主人がお宅から持ち出した五十万円の合わせて八十万円が入っています。訳は、これ読んでもらった方がいいかな」そういうと、所長さんは一通の封筒を差し出しました。そこには販売店の住所と所長さんの名前が書かれていて、裏返してみると山岸千夏という名前だけが書かれていました。渡された封筒の中には数枚の便箋が入っていました。そこにはあまりきれいとは言えない文字が並んでいました。始めの数行を読み、愕然としました。その手紙は武を騙した女からのものだったのです。


 はじめまして、山岸千夏というものです。と言いましても、そちらの新聞を取らせてもらっていますので、顧客名簿に載っているかと思います。4丁目の白百合ハイツ202に住んでいました。
 何をどう説明していいのか、途方に暮れています。そちらで働いている従業員の小谷野さんが集金を持ち逃げする原因をつくってしまったのは私です。私が、その…、だめです。頭の中が混乱してうまく説明できそうにありません。長くなってしまいそうですが、始めから書きます。
 うちのアパートに小谷野さんが新聞の勧誘に来たのが出会った最初でした。始めは新聞を取るつもりはなかったのですが、小谷野さんがあまりにも熱心に勧誘して、その様子がおかしかったものだから、勢いで取ることになりました。夜はスナックで働いているので、お客さんとの話題作りにも役立つと思ったこともあります。今思えば、間違いはここから始まったのですね。
 それからは集金のときにいろいろと話すようになって、親しくなっていきました。小谷野さんは今の生活に疲れているようで、‘何所かに行きたい’というのが口癖のようになっていました。そんな小谷野さんが自分と似ているなと感じました。私も何所か別の場所で、違う仕事に就いている生活を漠然と思ったりすることがあったからです。
 しかし、小谷野さんと何度も会ううちにだんだんと彼を疎ましく思うようになりました。前は一流企業に勤めていたのに今はどうだこうだと、昔のことばかりに囚われている彼に腹が立ってきたのです。いえ、正確にいえば彼に腹が立ったというより、彼に重なってみえる自分に嫌気がさしたのかもしれません。「何所かに行きたいなあ」という彼に対して、私はあなたとは違うということを示したかったのかもしれません、「アメリカに行って写真の勉強をする」と言ってしまったのです。
 山梨にある私の実家は小さな写真店です。ネガの現像をしたり、地元の人たちの記念写真を撮ったりして細々と暮らしています。そんな夢のない生活に見切りをつけ私は都会に出てきました。しかし、ここには何もなかったのです。昼間はデパートの店員、夜はスナック勤めと暮らしに追われるばかりで日々が過ぎて行きます。‘写真の勉強’そんな嘘が咄嗟に出たのは、田舎にいたときのことが懐かしく思われるようになっていたのかもしれません。
 小谷野さんはそんな私の嘘に羨望を覚えたようでした。自分もアメリカに行きたい、そうすれば何かが変わるような気がすると言い出したのです。私には彼が独りでアメリカに行って何かを始めるなどという度胸がないことはわかっていました。口先だけで結局は何もしない彼への嫌悪感はますます強くなりました。それも彼の中に私の姿が見えたからだと思います。彼によって晒された自分自身の姿から、私は逃げたくなりました。そしてどうせ逃げるなら、この甘えてばかりの男からお金を巻き上げてやろうと思ったのです。
 彼に‘いっしょにアメリカに行かない?’と誘いをかけました。始め、彼は躊躇っていましたが、アメリカに行けばきっと何かが変わるよ、あっちで新しい生活を始めようよと熱心に私が口説くと本気になっていきました。向こうには知り合いがいるから住む場所とかの心配はないけど、旅費と当面の生活費としてある程度のお金を工面してほしいと彼に言いました。元一流会社の社員ならある程度のお金は持っていると思ったのです。彼は素直に了承してくれました。
 約束の二十五日、彼は約束通りお金を持って夜十時頃アパートに来てくれました。何気なくお金のことを訊きました。その時初めて彼が新聞の集金を持ち逃げしてお金を用意したことを知ったのです。まさかそんなことをするとは思ってもみませんでした。私が彼に求めた金額はそれほど高額なものでもなかったし、それくらいなら当然彼の預金から用意できると思っていたのです。しかし、彼はひとり残される妻にある程度のお金は残しておきたいと考え、集金を持ち逃げすることにしたと言いました。
 途端に私は怖くなりました。彼のお金だったら、彼が泣き寝入りしておしまいということになるでしょうが、販売店のお金となると私も共犯ということになりかねません。頭の中が混乱しました。どうしていいのかわからず、とりあえず計画通りに予約をしていた成田のホテルに向かい、彼が寝入った頃を見計らって私はホテルから逃げ出しました。元の計画では彼からお金を騙し取り、新しい土地でやり直そうと思っていました。しかし、独りになってみるとただ虚しさだけが胸の中に広がりました。こんなことをしても何も変わらない、いやむしろ悪くなっている、そんな虚しさ、悲しさでいっぱいになり、何の気力も湧いてきませんでした。前に戻ろう、それからまた始めよう、いつしかそんな気持ちになっていました。
 このお金は本来、奥様の方へ送るべきだったかもしれません。しかし、私は小谷野さんの住所を知らなかったのです。
 深夜、アパートに戻り、誰もいないのを見計らってから部屋に入り、新聞の集金の領収書から販売店の住所を調べました。小谷野さんの奥様、販売店の経営者並びに従業員の皆様、本当に申し訳ありませんでした。小谷野さんから頂いたお金はここに全額返却致します。本来なら、私自身がそちらに出向き、理由を話し、謝罪するべきところですが、皆様に顔を合わせることが恥ずかしくて、また怖くてできそうにありません。この手紙が着く頃には私は山梨の実家に戻っていると思います、そこで、ゆっくりと自分の身の振り方を考えようと思っています。
 本当に申し訳ありませんでした。このような手紙で謝罪することをお許しください。

 山岸千夏


 販売店を後にしてアパートに戻るまで、夫は一言も言葉を発しませんでした。私に続いて、山岸さんの手紙を読んだ彼はその内容にショックを受けたようです。仮にもアメリカにいっしょに行こうと約束した女性が、心の奥底では自分のことを蔑んでいたことがわかったのですから。

 「何所かに行って、何かをしたい」とただ漠然と思っていた彼に、「アメリカに行って写真の勉強をする」という言葉は、‘何所か’が‘アメリカ’になり、‘何か’が‘写真の勉強’と血肉を持ったのですから、魅惑的に響いたのでしょう。しかし、それも結局、ただの空虚な空気の振動だったのです。

 部屋に戻るなり、夫はごろりと寝転んで大の字になりました。
 「疲れた?」私は素気なく訊きました。
 「疲れた」そう答えると、彼は目を閉じました。そして、しばらく考えている様子でしたが、独り言のように
 「これから、どうしよう」と呟きました。
 「販売店はクビだしね!」私は明るく言いました。その明るさが彼を少しは照らしたのでしょうか
 「ああ、クビだ。思いっきりクビだ」と吹っ切れた調子で応えました。
 「まずは夕ご飯を食べて。今日はシメジの炊き込みご飯とサンマの塩焼き、それにナメコの味噌汁にしようかしら。ご飯を食べたら、お風呂に入って、ゆっくり休んで。明日になったら、仕事を探しましょう」
 夫はいい夢を見ていて、いきなり叩き起こされたような顔をして私を見ました。私はそんな彼を無視して、ちょっと早かったけど夕飯の買い物に出かけました。外に出ると秋の涼しい風が私の体を包んでくれました。午後になってまだそれほど遅いという時刻でもないのに、陽は傾いて私の体に正面から光が射してくるようです。
 少し前までは、まだまだ暑かったのに、今は涼しくなって随分と過ごしやすくなりました。季節は巡るものなのだと、改めて感じました。首もとに風を感じ、思わず襟を締めました。都会ですから厳しいというわけでもありませんが、やがて暗く寒い冬の季節がやってきます。それは、私たちのこれからを、暗示しているように思えました。(2007.7.19)


―完―

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