箱の中の二匹の猫



 朝、起きると枕元には血で染まったカッターが転がり、僕の左手首はどす黒い血の塊で覆われ、それがふとんの上まで流れていた。水で傷口を洗った。思ったほど大した傷ではなかった。市販の消毒薬を傷口に塗布して、その上に脱脂綿を当て包帯を巻いた。でも、これで僕が僕であることが確認できたような気がした。もし、僕が幻影なら痛みなど感じることもないだろう。

 その週は何とか会社に行き続けることができた。仕事をしていると、気持ちもやや和らいだ。僕は仕事に集中することによって、かろうじて精神の均衡を保っていた。むしろ休みが来ることが怖かった。休みが来るとかろうじて保っている自分の形が崩れ去ってしまうような気がしてならなかった。

 その休みがやってくると、僕は薄ぐらい部屋のふとんの上で昏々と眠り続けた。心身ともに疲れ切っていた。そして、月曜日がやってきた。そしてこの月曜日に僕の一番恐れていたことが現実になっていたことを知ったのだ。

 会社に行くとアルバイトの光村さんが含み笑いをしながら近づいてきた。そして恐ろしい一言を発したのだった。
「あの女の人、今岡さんの彼女さんでしょ?」
僕は質問の意味がよくわからなかった。この女性はいきなり何を言い出したのだろうと僕はただその顔を痴呆のように見つめた。
「昨日、W市の駅前を楽しそうにいっしょに歩いていたじゃないですか?」
「何を言っている?昨日、僕はW市なんて…」
「やだ、もう、またですか?昨日、挨拶したじゃないですか?」
「僕が?」
「そうですよ、彼女さんもいっしょに。彼女さんですか?って訊いたら、笑って誤魔化したじゃないですか」

 僕が笑っていた…。しかも、貴美もいっしょだった…。僕の心は絶望の谷に落ちた。悪寒と強い吐き気が僕を襲った。僕はトイレに行き、二、三回吐いた。仕事などできる状態ではなかった。僕は体調が悪いと上司に言って会社を早退した。自分の左手首の内側を見た。そこには確かに先週の月曜日に切った痕が残っていた。僕は一体誰なんだ。僕は一体何処にいってしまったのだ。すべてが闇だった。僕はその闇の中で右も左も前も後もすべての方向感覚を失い、さ迷っていた。

 唯一の灯りは貴美のような気がした。僕は貴美の携帯に早退するようにメールを入れた。貴美からの返信は三十分後くらいに来た。僕のメールに何かを感じたらしく、昼で早退すると打たれていた。僕達はW市の駅の改札で待ち合わせをした。貴美は自転車に乗ってやってきた。
「どうしても訊きたいことがあるんだ。変な質問をするかもしれないけど、真面目に答えてほしい」
「それはいいけど、会社はどうしたの?」
僕は会社を早退してきたことを貴美に言った。そして、駅前のベンチにふたりで腰掛けた。困惑と恐れが貴美の表情に浮かんでいた。
「昨日、俺達会ったか?」
「何ですって?」
僕はもう一度同じ質問を感情のできるだけこもらない声で繰り返した。
「遥ちゃん、おかしいよ。どうしたのよ。一体どうなっちゃたのよ」
と貴美はかなり取り乱した。僕は貴美を落ち着かせるように静かな口調で言った。
「だから、さっき、変な質問をするかもしれないと言ったじゃないか。質問に答えてくれないか?お願いだ」
貴美は明らかに僕を恐れていた。それはそうだろう、彼女から見れば僕は狂人だ。自分でも自分がどうなっているのかわからない。本当に精神に異常を来たしているのかもしれない。
「わかった。昨日は遥ちゃんといっしょにいたわ」
「その時、俺の左手首に傷痕はあった?」
貴美は何かを諦めたような表情をしていた。感情を殺すというより、失ったという方が正解だっただろう。
「傷痕はあったわ。私に見せたじゃない」
「そうか…。それで昨日はその…、最後までいったのか?」

 感情を失っていた貴美だったが、ついに堪えきれなくなったらしい。
「いったいどうしちゃったっていうの?気でも狂ったんじゃないの?昨日のことを覚えてないの?」
僕は抑揚の全くない声で言った。
「とにかく、質問に答えてくれないか。昨日…」
と言った時、貴美が僕を押さえて言った。
「最後までいったじゃない。もう、いやよ」
と言うと大粒の涙を流し始めた。僕は深くため息をついた。深い、絶望感が僕に重くのしかかり、息をすることさえ苦しかった。いや、いっそのこと呼吸が止まってくれれば僕は神に感謝を捧げていただろう。

 僕は泣き続ける貴美を彼女のアパートの部屋まで連れていった。そしてわけを話そうとした。しかし、何をどういっていいのか、わからなかった。僕自身すらわからないことを他人に説明することはできない。まだ、泣き続ける貴美をおいて、僕はひとりで考えるため、駅前の喫茶店に入った。

 昨日、貴美といっしょにいた人物は間違いなく、僕だった。左手首の傷といい、それに貴美が僕と他の人物を取り違えるはずがない。ということはその日時に自分の部屋にいた人物、つまり僕がドッペルゲンガー、幻像だったのだ。

 さすがに稔さんを早退させることはできなかった。僕は喫茶店を出た後、稔さんの会社の勤務時間が終わるのを見計らって電話をかけた。幸い、月末まではまだ日数があるため、稔さんもそんなに仕事が忙しくないとのことで、すぐに会おうということになった。僕達は稔さんの行きつけの店で会った。

 僕はこの二,三週間に身の回りに起こったことを稔さんに話した。それは話していても自分のことのようには思えず、何処か遠い場所で起きていることのようにしか感じられなかった。そしてその中心にいる自分も蜃気楼のようにぼやけていた。稔さんは僕の話を冷静に聞いていた。

「今岡くんに起きた出来事を整理してみよう。その前にこの世の中に実体のある自分は必ず独りしか存在はしないということです」
と言い、ミルクティーを一口飲んだ。そしてまた語り出した。

「こんな話を知っていますか?ちょっと面白い話でシュレディンガーの猫という話です。確か量子力学の話だったと記憶しています。シュレディンガーっていうのはオーストリアの物理学者です。まず猫を密閉された箱の中に入れます。その箱の中には青酸ガスが入っている瓶もいっしょに入れます。さらに一個の放射性原子を入れます。この放射性原子が放射線を放出した場合それを感知するセンサーがあり、センサーが放射線を感知すると仕掛けがあって青酸ガスが入っている瓶が割れる仕掛けになっています。だから放射線が放出されると猫が死んでしまうのです。このままこの装置を一時間放置します。この放射性原子が放射線を放出する可能性は一時間では五十%と仮定します。となると一時間経って箱を開けた時、放射線は放出されている可能性は五十%、放出されていない可能性は五十%だから猫が生きている可能性も五十%、死んでいる可能性も五十%になります。ここからがこの話の本質です。密閉された箱を開けるまでは猫が生きている可能性は五十%、死んでいる可能性も五十%、半分は生きていて半分は死んでいるという不思議な状態になっています。だからこうも考えることができる、箱を開ける前は箱の中には生きた猫と死んだ猫両方の非実在の猫が存在する。そして一時間経ち誰かが箱を開けた瞬間にそのどちらかの猫が実在化してもう一方は消滅してしまう」
「それが今の僕とどういう関係があるんです?」
「いいですか、箱を開ける前には箱の中には生きている猫と死んでいる猫、二つの状態が五分五分で存在するように思えます。だけどよく考えてみてください、それはあくまでも可能性であって、実際には猫は生きているか死んでいるか、そのどちらかです。猫は一匹しかいないのですよ。半分生きている猫も、半分死んでいる猫も実在はしない。実在するのはそのどちらです」
「だから、どういうことなのです?」
「まだ、わからないのですか?半分生きている猫もいなければ、半分死んだ猫もいないのです。存在するのはその一方だけ…。そして、今岡くんは生きている。つまり、死んだ猫は消滅する運命なのです」
「その死んだ猫が僕だと言いたいのですか?」
「そんなことは言っていません。第三者によって、実体を確認された方が生きた猫です。これが第一の真理です。そして第二の真理は、あなたのドッペルゲンガーを見ることができるのはあなただけです。もう、おわかりでしょ」
稔さんはいつものように優しく微笑んだ。しかし、僕はその微笑に氷のような冷たさを感じた。

「最後に…前にも言いましたが、変わることを恐れてはいけません」
破滅に向かい走っている自分が見えるような気がした。しかし、その実感が何故か身近に感じられない。この実感の希薄さはどうしたことなのだろう。

つづく

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