7 朝、起きると枕元には血で染まったカッターが転がり、僕の左手首はどす黒い血の塊で覆われ、それがふとんの上まで流れていた。水で傷口を洗った。思ったほど大した傷ではなかった。市販の消毒薬を傷口に塗布して、その上に脱脂綿を当て包帯を巻いた。でも、これで僕が僕であることが確認できたような気がした。もし、僕が幻影なら痛みなど感じることもないだろう。 その週は何とか会社に行き続けることができた。仕事をしていると、気持ちもやや和らいだ。僕は仕事に集中することによって、かろうじて精神の均衡を保っていた。むしろ休みが来ることが怖かった。休みが来るとかろうじて保っている自分の形が崩れ去ってしまうような気がしてならなかった。 その休みがやってくると、僕は薄ぐらい部屋のふとんの上で昏々と眠り続けた。心身ともに疲れ切っていた。そして、月曜日がやってきた。そしてこの月曜日に僕の一番恐れていたことが現実になっていたことを知ったのだ。
会社に行くとアルバイトの光村さんが含み笑いをしながら近づいてきた。そして恐ろしい一言を発したのだった。 僕が笑っていた…。しかも、貴美もいっしょだった…。僕の心は絶望の谷に落ちた。悪寒と強い吐き気が僕を襲った。僕はトイレに行き、二、三回吐いた。仕事などできる状態ではなかった。僕は体調が悪いと上司に言って会社を早退した。自分の左手首の内側を見た。そこには確かに先週の月曜日に切った痕が残っていた。僕は一体誰なんだ。僕は一体何処にいってしまったのだ。すべてが闇だった。僕はその闇の中で右も左も前も後もすべての方向感覚を失い、さ迷っていた。
唯一の灯りは貴美のような気がした。僕は貴美の携帯に早退するようにメールを入れた。貴美からの返信は三十分後くらいに来た。僕のメールに何かを感じたらしく、昼で早退すると打たれていた。僕達はW市の駅の改札で待ち合わせをした。貴美は自転車に乗ってやってきた。
感情を失っていた貴美だったが、ついに堪えきれなくなったらしい。 僕は泣き続ける貴美を彼女のアパートの部屋まで連れていった。そしてわけを話そうとした。しかし、何をどういっていいのか、わからなかった。僕自身すらわからないことを他人に説明することはできない。まだ、泣き続ける貴美をおいて、僕はひとりで考えるため、駅前の喫茶店に入った。 昨日、貴美といっしょにいた人物は間違いなく、僕だった。左手首の傷といい、それに貴美が僕と他の人物を取り違えるはずがない。ということはその日時に自分の部屋にいた人物、つまり僕がドッペルゲンガー、幻像だったのだ。 8 さすがに稔さんを早退させることはできなかった。僕は喫茶店を出た後、稔さんの会社の勤務時間が終わるのを見計らって電話をかけた。幸い、月末まではまだ日数があるため、稔さんもそんなに仕事が忙しくないとのことで、すぐに会おうということになった。僕達は稔さんの行きつけの店で会った。 僕はこの二,三週間に身の回りに起こったことを稔さんに話した。それは話していても自分のことのようには思えず、何処か遠い場所で起きていることのようにしか感じられなかった。そしてその中心にいる自分も蜃気楼のようにぼやけていた。稔さんは僕の話を冷静に聞いていた。
「今岡くんに起きた出来事を整理してみよう。その前にこの世の中に実体のある自分は必ず独りしか存在はしないということです」
「こんな話を知っていますか?ちょっと面白い話でシュレディンガーの猫という話です。確か量子力学の話だったと記憶しています。シュレディンガーっていうのはオーストリアの物理学者です。まず猫を密閉された箱の中に入れます。その箱の中には青酸ガスが入っている瓶もいっしょに入れます。さらに一個の放射性原子を入れます。この放射性原子が放射線を放出した場合それを感知するセンサーがあり、センサーが放射線を感知すると仕掛けがあって青酸ガスが入っている瓶が割れる仕掛けになっています。だから放射線が放出されると猫が死んでしまうのです。このままこの装置を一時間放置します。この放射性原子が放射線を放出する可能性は一時間では五十%と仮定します。となると一時間経って箱を開けた時、放射線は放出されている可能性は五十%、放出されていない可能性は五十%だから猫が生きている可能性も五十%、死んでいる可能性も五十%になります。ここからがこの話の本質です。密閉された箱を開けるまでは猫が生きている可能性は五十%、死んでいる可能性も五十%、半分は生きていて半分は死んでいるという不思議な状態になっています。だからこうも考えることができる、箱を開ける前は箱の中には生きた猫と死んだ猫両方の非実在の猫が存在する。そして一時間経ち誰かが箱を開けた瞬間にそのどちらかの猫が実在化してもう一方は消滅してしまう」
「最後に…前にも言いましたが、変わることを恐れてはいけません」 |