箱の中の二匹の猫



 日曜日、僕は地元の目黒にある紳士服の量販店に夏用のスーツを買いにいった。よく考えてみたら、サイズが合わなくなっているどころか、夏用のスーツを持っていないことに気づいたからだ。僕の幻像は紺色のスーツを着ていた。だから僕はあえて紺は避け、薄い灰色のスーツを選んだ。

 明日からこれで通勤するのかと思うと、気が滅入ってきた。自分を失ってしまうような不思議な感覚に陥った。夕方、貴美とW市の駅前で待ち合わせて会った。しばらく、駅前でぶらぶらとした後、いつものように居酒屋に入り、いつもより多めにアルコールを飲んだ。

 月曜日にまた病院に行った後、始めて昨日買ったスーツで通勤をした。事情を知らなかったアルバイト達にはいろいろと冷やかされた。三時の休憩時間になった時、アルバイトのひとりがおかしなことを言い出した。そして、それは僕を恐怖の沼に突き落とし、溺れさせた。
「今岡さん、紺のスーツ着てくるのかと思いましたよ」
とアルバイトの光村さんが言った。彼女はW市に住んでいる二十代の独身女性だ。
「え?」僕には彼女が何を言っているか理解できなかった。
「昨日、W市の駅前、歩いているのを見ましたよ。その時、紺色のスーツ着ていたから。そうそう、‘紳士服のA’に行ったでしょ?」

 僕は確かに昨日はW市にも行ったし、‘紳士服のA’にも行った。しかし、W市に行ったのは夕方の五時くらいだったし、紺のスーツなど着ていない。Tシャツの上にデニムのシャツをはおり、下はジーンズだった。それに‘紳士服のA’には行ったがそれはW市店ではなく、地元の目黒の店舗だ。

「僕を見たって何時くらいだった?」
「そうね、ちょうどお昼ちょっと前くらいだったかな?私、駅前で買い物をしようと出掛けた時だったから」
僕はその頃、目は覚めていたが部屋のふとんの中でぼんやりとしていた。彼女の見た僕は僕ではないということだ。では一体、光村さんの見た僕とは…。よく似た他人、或いは僕の前に二度姿を現したあの幻像…。しかし、僕の幻像は僕の頭の中で作り出されているこの世に存在しない幻の人物のはずだ。僕以外の人間がそれを見るということは絶対に有り得ないことだ。奴は僕の頭の中だけでしか存在していない。

「それ、間違いなく僕だった?」と僕は光村さんに何気なく訊いた。
「ええ、間違いないと思います。そんなに近くで見たわけじゃないけど…。それに、あごにガーゼも付いていたし」
何ということだ。このあごの傷を保護しているガーゼも付いていたとは…。考えられることは二つだ。ひとつは僕によく似た人物がたまたまあごにケガをしていたということ、もうひとつはどうしてかはわからないが、僕の幻像が実体化していて勝手に歩き回っているということだ。

 どうにか、その日の仕事を終え、家に帰った僕はまず‘紳士服のA’のレシートをゴミ箱の中から探した。そのレシートによって、スーツを目黒店で買ったことを確認したかった。そしてそこから冷静に推理を重ねようと思った。

 レシートはすぐに見つかった。僕は安堵して、そのレシートを見た。そこには思いも寄らない結果が待っていた。レシートにははっきりと‘紳士服のA W店’の文字が印刷されていた。さらに、時刻も打ち出されており十一時三十三分となっていた。光村さんの目撃情報と完全に一致したのだ。

 僕は昨日買ったスーツをあらためて確認した。それは間違いなく僕が目黒店で選んだものだった。それではこのレシートは一体どういうことだ。僕はゴミ箱をあさった。必死になって目黒店のレシートを見つけようとした。しかし、ゴミ箱を全部ひっくり返してもそれを見つけることはできなかった。

 次の日から僕は会社に行けない状態になった。会社には連絡も入れず、PCの電源も一切入れなかった。何をどう考えていいのかもわからず、またどう行動していいのかもわからなかった。ただ、薄暗い部屋の中で死人のようにぼんやりと天井を見ながら横たわっていた。不思議なことに無断欠勤しているにもかかわらず、会社からの連絡も一切なかった。もし、あったとしても僕は電話に出ることはできず、留守電のメッセージをして録音されるだけだったろう。

 そして、一週間が過ぎてしまった。梅雨の鬱陶しい天気が続いていたが、土曜日は久しぶりに太陽が輝いた。そのきらびやかな陽光が僕に動く力を与えてくれた。ふとんから起き上がった僕は、久しぶりにシャワーを浴びた。台所の流しにはこの一週間に食べたカップメンやらインスタント食品が散乱していた。それらをゴミ箱に叩き込み、ふとんを上げ、部屋の掃除をした。部屋の中は酷い状態になっているかと思ったが、ほとんど寝ていたので、それほど汚れてはいなかった。

 午後から貴美を誘い出していっしょに荒川の土手を散歩した。貴美は僕の憔悴しきった姿を見て驚いたようだった。さかんにその理由を訊いてきたが、僕は弱々しく首を振る以外に応えようがなかった。何をどう説明していいのかもわからなかったし、全てが遠いところの出来事のように思えてならなかった。
「会社を四日間も無断欠勤してしまったよ」と現状だけはとりあえず伝えた。
「一体、何があったの?無断欠勤って」
貴美の心配した優しい心が僕に伝わった。僕の目からは涙が落ちそうになったが、それは必死で堪えた。会社を無断欠勤した理由を説明するのは困難だった。もし、話したとしたら、貴美は僕に精神病院に行くことすすめただろう。

「だけど、会社からは何の音沙汰もなかったよ」と僕は話をそらした。
「そんなこと絶対にないよ。だって四日も無断で休んだんでしょ?普通だったら二日目には何か連絡があるはずよ」
と貴美はむきになって主張した。そう言われてみれば、確かにちょっとおかしいような気もする。作業の細かい指示は僕しかできないはずだし、一体どうしていたのだろうか?だが、そんなことより僕はもっと重大な問題を抱えている。
「寝てばっかりだったから、その合間に連絡があったのかも」
ととりあえずありえそうな可能性を指摘したら、すぐに貴美は反論してきた。
「留守電は入れていたんでしょ?誰もいなかったら、普通、留守電にメッセージを入れておくでしょ?そう思わない?」

 確かにそれはその通りだが、もうそんなことどうでもいいような気がしていた。その日は貴美の部屋でいっしょに夕食をとった。貴美は魚介類がいっぱい入ったパスタとベーコン入りのサラダを作り、それにワインを沿えてくれた。僕は久しぶりに心のこもった温かい食事をとることができた。

 その日は貴美の部屋に泊まった。貴美の部屋に泊まったときはだいたい僕達は体を重ねていたが、この日はふたり並んで寝ただけだった。ワインでほろよく酔ったとこともあり、静かな時間を愉しみたかったのかもしれない。僕はふいに貴美に提案をした。
「そろそろいっしょに暮さないか?」
貴美は驚いたようだった。それはそうだろう。今の今まで僕もそんなことを言うつもりはなかったのだから。
「同棲しないか?何かひとり暮しも寂しくなってきたし、いっしょに暮せば何かと楽しいような気がする」
「うん、そうかもね…。だけど、ちょっと考えさせて。いきなり言うんだもん。それにいっしょの暮すとなったも、いろいろと準備しないといけないし」
「そうだな。貴美の気持ちが決まってから、ゆっくり準備すればいいよ」
「うん」と貴美はうなずいたようだった。

 翌日は貴美が昔の友達を会う約束があるというので、朝食をいっしょにとった後、僕は池袋をしばらくぶらついてから目黒のアパートに戻った。一息入れていると、もう一着スーツを買っておこうと思い当たった。一着で一夏乗り切るにはちょっと辛いかもしれなかった。一週間前に行った目黒の量販店に買いにいった。店に入ってみて驚いた。この前と店の雰囲気が全く違っていたのだ。この一週間で模様替えをしただけかもしれないが、僕はまるで異次元の世界にはまり込んでしまったような奇妙な感覚に囚われた。

 今度は紺色のスーツを買った。奴と同じ色のスーツを買うことに抵抗はあったが、紺を一着持っていると何かと都合がいい。帰り際に店員に店内の模様替えのことを訊いた。 「いえ、最近はずっと同じですよ。この前、模様替えをしたのは五月の中旬くらいでしたよ」と彼は品よく言った。ここでも僕は迷宮に入り込んでいた。

 そういえばこの一週間、病院にも行っていなかったことに気づいた。知らない間にガーゼは剥がれていた。鏡で傷口を見てみるとほとんど治っているように見えた。よく考えてみれば、そんなに毎日消毒に行く必要もなかったのかもしれない。医者は大事に大事をとる傾向にあると思ったが、傷口の縫合に使った糸も知らぬ間に抜けていた。

 月曜日、久しぶりに朝から会社に行った。僕は自分のタイムカードを見てそこに並んでいる数字を見て、体が凍りついた。遅刻はしているが、時刻は毎日打刻されている。出勤時刻も病院に寄ってから会社に来る時刻と一致していた。僕は気が遠くなり、その場に立ち尽くした。

「朝礼始まるぞ」と山本課長の声で僕は我に返った。四日間も無断欠勤していたのに、僕の顔を見ても課長はそのことに関して何も言わないのはどういうことなのだ。朝礼では何一つ頭に入らなかった。何が起こっているのか… 得体の知れない何者かの手を感じた。

 九時になり、アルバイトが出勤してきた。最初に部屋に入って来た神野君に、「先週は休んで悪かったな」というと彼は僕が何を言っているのか理解できないような白痴に似た表情を浮かべた。
「何、言っているんです。病院に寄ってからだから遅刻はしていましたけど、ちゃんと出勤していたじゃないですか?どうしたんです?」
「俺、会社に来ていたか?」
「はぁ?来てたじゃないですか。どうしたんです?この土日の休みでボケましたか?」 そこに光村さんがやってきた。僕と神野君の間にある異様な雰囲気を感じたのか、彼女は怯えたような表情をした。神野君が今までのことを説明した。光村さんも驚きの表情を浮かべた。

 僕はおかしくなってしまったのかもしれない。かろうじて残っている少しの理性で僕は彼らに仕事の状況を訊いた。仕事は‘僕’の指示で順調に進んでいた。この四日間、‘僕’はちゃんと病院に行き、会社にも出勤して、アルバイトに的確な指示を出している。よく考えて見れば、仕事の指示を的確にアルバイトに出すことのできる人物はこの世の中でひとりしかいない。それは僕だ。

 どう考えても会社に行ったのは僕自身だった。そして、同じ日時に目黒のアパートの部屋で寝込んでいたのも僕だ。部屋に戻った僕は声を殺して泣いた。胸にせき止められていた思いが決壊し、それが一気に放流された。そして机の中にあったカッターを無意識のうちに手に握っていた。刃を出し、僕はそれで左腕の手首の内側を切った。鈍い痛みが走り、血が流れ出た。

つづく

HOME INDEX ←もどる つづき→