箱の中の二匹の猫



 その日も目覚めが悪かった。起きてすぐにTVのスイッチを入れ、浴室に行き歯ブラシを持ってきてTVを見ながら磨いた。見ていると男性キャスターがJR山手線で架線事故があったため六時くらいから全面的にストップしている伝えていた。

 パンをトースターに入れ、冷蔵庫からバターとブルーベリージャムを持ってきて食卓に置き、インスタントコーヒーを入れた。僕は焼きあがったパンにバターとブルーベリージャムを付け食べた。トーストを一口食べ、コーヒーを一口飲む、久しぶりにゆっくりとした時間が流れていた。そういえば僕の幻像に始めて会ったのも確か山手線事故の時だったことを思い出した。

「JR山手線は先程六時四十分くらいから運転を再開しました。もう一度繰り返します、JR山手線は先程六時四十分くらいから運転を再開しました。JR山手線運転再開です」
とキャスターはくどいほど繰り返した。外は小雨が降っていた。鬱陶しい梅雨の季節で、いくらか涼しいような気がした。僕は週末に買った紺のスーツに始めて手を通した。部屋を出るとやはり外はかなり涼しかった。上着を着て正解だったようだ。

 目黒で山手線に乗り換えたが予想通りの混雑だった。駅のホームにも普段の倍くらいの人々が電車の到着を待っていた。いつもだと二,三分間隔で運行されている山手線だが、今日はなかなか電車が来なくてその間にもホームの人数は増えていった。

 七,八分待っただろうか、やっと山手線がホームに入ってきたが超満員といった状態で乗車できるのか不安になったが、目黒で下りる人数が多く何とか電車の中に入ることができた。電車はときどき止まりながら恵比寿、渋谷を過ぎ、僕もその間に少しづつ電車の中程に移動した。中程に移動すると出入口付近の圧力から開放され、ようやく一息つける感じになった。いくら涼しいといっても六月だし、混雑による人の熱気で車内の冷房はほとんど効いていない感じがした。ネクタイで締めた首筋に汗が溜まって行くような気さえしてくる。

 新宿を過ぎた辺りから電車は順調に走るようになった。ダイヤもだんだんと正常に戻りつつあるのだろう。池袋駅のプラットホームにはもう人は溢れていなかった。ダイヤが正常に機能しだし、システムが回復したのだろう。都会のシステムは薄い紙のようなもののような気がする。事故や天候により、そのシステムは簡単に破れてしまうのだ。

 JRの改札を出て私鉄への連絡口を歩いている時、遅延証明書をもらうのを忘れたことに気づいた。引き返そうかと思ったが、帰りにもらって明日提出すればいいと思い私鉄の改札を入った。上りの電車は満員だが、下りの電車は閑散としており、ホームにもほとんど人影はなかった。電光掲示板を見ると八時十分発の通勤快速が一番線から出るようだ。それに乗ろうと思い、いつも乗車する場所で電車が到着するのを待った。

 ふと背後に人の気配を感じた。それは誰かが僕の後ろに並んだといった漠然としたものではなかった。僕は後を振り向いた。そこにいたのはもうひとりの僕だった。
僕と僕との目が会った。彼は薄っすらとヒゲを生やし、洗いたてのTシャツを着て薄汚れたJパンをはいて素足にサンダルをひっかけて僕の後に立っていた。まるで数ヶ月前の僕のようだった。

 僕は驚きのあまり二,三歩後ずさりした。そしてもう一歩…。しかしもうそこにはホームはなかった。僕は線路に転落した。彼がホームの上から線路に転落した僕を覗き込んでいる。僕達の視線は再び絡まった。彼は僕の目を見ていたがやがて視線を左の方に移すと後に下がって行き僕の視界から消えた。

 僕は彼の視線が動いた方に目を向けた。電車がホームに入線してきた。僕と電車との距離はもう百mもなかった。逃げなくては…。僕は体を動かそうとした。しかし体を線路で強く打ってしまったようで全然動かすことができない。電車は僕に迫って来る。僕は必死に上半身を起こそうとした。わずかに上半身が動いた。

 このままホームの下に逃げ込むのだ。僕は必死に体を動かそうとした。時間はスローモーションのようにゆっくりと流れた。あと、ちょっと、ちょっと… 、だめだ…、僕は力尽きまた体が線路の上に転がった。横を見ると電車はもう目の前だった。

 電車は僕の体の上を通り過ぎて行った。僕の体は電車によって三つに切断されたはずだった。肩と大腿の上を電車の車輪が通過した。だけど…何故僕は生きているのだ…。電車に轢かれ体は切断されたはずなのに何故か僕には意識があった。痛みもまるでない。僕は本当に生きているのか?僕は本当に生きていたのだろうか?

終章

「同棲始めたんだって?」
ゆりが私に言った。私とゆりは秋の空に薄く掃いたような雲が流れる空の下、オープンカフェでコーヒーを楽しんでいた。
「うん、もうかなり前から申し込まれていたの」
「よかったね、貴美。ほんとに…。一時はどうなるかと心配していたけど…」
「私も、もうだめと思ったこともあったけど…」
私は今までのことを想い、涙がにじんだ。黄色く変色した外路地の銀杏が歪んだ。
「よく決心したわよね」
「うん、遥ちゃんも何か変わったというか、しっかりしてきたというか、まかせてもいいかな…なんて思って」
「そう、とにかくよかったね」 ゆっくりと時が流れ、秋の乾いた風が私の髪を撫でている。
「W市に新しいアパート借りたんでしょ?」
「うん、私のアパートに二人じゃ狭いしね。遥ちゃんも通勤に便利だっていうことで、こっちに来ることにしたのよ」
「そういえばあのことどうなったの?」
「あのこと?」
「ほら、ドッペルゲンガー」
そういえば一時、私達がだめになりかけた最大の原因がそれだった。
「死んだって」
「死んだ?」
「駅のホームから転落して、消えたって言ってた」
「ふーん、うちのはマンションの屋上から飛び降りたって聞いたけど、不思議な話。よく考えたら私達ふたりとも夫や恋人がドッペルゲンガーを見ているなんて、それも不思議よね」
「そういえば…そうね」
「何かあまり元気ないような?」
「そんなことないよ…。ただ、遥ちゃん…いや、いや、何でもないわ」
私は秋の高い空とそこに流れる羽毛で掃いたよな薄い雲を見上げていた。


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