箱の中の二匹の猫



 全く異常な話だった。嶋田さんのマンションを出た後、僕と貴美はレストランに入りいっしょに夕食をとった。しかし、二人とも黙示がちだった。貴美は明るく振舞っていたけど、僕は頭の整理がつかず、気づくとまたあのことを考えていた。うわの空な僕は貴美に何回か注意された。何と言って貴美と別れたのかも思い出せなかった。僕は目黒のアパートの自室に帰ってからも考えつづけていた。

 稔さんのいうようにあの体験がドッペルゲンガー現象であれば、あの人物は僕の頭の中で創られた者だ。全ては僕の頭の中だけで起きていることになる。そう考えればそんなに深刻になる必要もないかもしれない。怖いのは僕自身が発狂など精神に異常を来してしまうことだが、ドッペルゲンガーを三回も見たという稔さんだってああやって普通の生活をしている。大丈夫だと、僕は自分自身に強くいい聞かせた。

 そうこうしているうちにあの体験から二週間が過ぎようとしていた。僕の身の回りにはあれ以来、何も異常なことは起きず、平凡ではあるが穏やかな日々が続いていた。

 日曜日に僕は久しぶりに後楽園の場外馬券場まで競馬を楽しみに出掛けた。久しぶりの競馬だったが午前中はつきまくり、五レース中三レースを的中させ、数万円勝った。近くのファーストフードでアメリカンドッグとフレンチポテト、それにアイスコーヒーという簡単な昼食をとり、午後のレースに賭け始めた。午後は午前中のつきが嘘のように負け続けた。六レースから十レースまで立て続けに五レース負けた。僕は次のメインレースを最後にしようと思い、再び賭けたがまた馬券はただの紙屑へと変わった。負けるとまた無性に勝負をしたくなり、最終レースのマークシートを自動券売機に入れていた。テレビ画面に映し出されるレースを見ながら僕は徒労感に包まれていた。どうしてもいい結果が出るとは思えなかったのだ。あれだけ勝ったお金を全部吐き出し、僕の財布は薄くなっていた。

 最終レースが終わり、その馬券も払い戻し機に入れられることなくただの紙屑になった。僕は疲労感が全身を一気に犯し始めているのを感じていた。そして重い足を引き摺るようにエスカレータに向かった。その時、また僕の両目は見開かれたのだった。もうひとりの僕がエスカレータに乗ろうとしているところだったのだ。

 僕は彼に‘おい’と声をかけようとしたが、それは音にならなかった。しかし、彼には音にならなかった僕の呼び声が届いたようで僕の方に顔を向けた。僕は彼の顔を見つめた。そして驚くべきことを発見した。彼のあごの右側に傷が治ったような痕を見つけたのだ。僕にはそんな傷はない。なのに彼にはそれがある。これは一体…、彼は僕が頭の中で創り出した幻影のはずだ。それなのに何故、彼のあごの右側にあのような傷痕があるのだ。

 彼は平然とエスカレータに乗り徐々に下へと降りて行った。僕は彼の後を追おうとエスカレータに足をかけた。その時、後からきた人物が僕にぶつかり、僕は前に崩れ落ちてしまった。この時、前に人がいなかったら、僕は数段エスカレータを転げ落ちていたかもしれない。幸い、前に乗っていた人が壁になり、僕の体は二段だけずり落ちただけで止まった。

「大丈夫ですか?すいません、おけがございませんか?」
と僕に後からぶつかってしまったらしい初老の男性が声をかけてきた。
「さあ、さあ、立てますか?」
と僕の壁になった中年の男性が僕の体を支えて起してくれた。僕は彼にお礼を言った。彼は僕の体を見まわして何処も異常がないかを調べてくれた。そして僕の顔を見て「血が出てますよ」と言って自分のあごの左側を指した。僕は反射的にあごの左側に手を持っていったが、そちらは異常なく、右側が切れて血が滴り落ちていた。
「これは大変だ」と初老の男性は慌ててしまい、エスカレータで下の階まで降り、警備員に通報した。警備員は手際よく、僕の体を調べ、どこか他に異常がないかを確認してくれた。
「何かあるといけない。とりあえず救急車を呼びましょう」
と警備員は言った。僕はあまりおおげさにしたくはなかったので、「大丈夫です」と言ったが、あごの傷ひとつだけでも以外に酷い状況らしく、仕方なくそうすることに同意した。初老の男性はしきりに恐縮して、治療費は払いますからと僕に連絡先をメモして渡してくれた。

 救急車に乗り、僕は病院に行った。あごのケガは二針縫っただけで済み、他にいろいろと検査をしたが、これは後日、異常がないことがわかった。あごの右側にはあの日に見た僕の幻影と同じような傷痕が残った。しかし、僕にとって一番の衝撃は事故の直前に目の前に現われた僕の幻像だった。いや、もうそれは幻像といえないような気がする。あの幻像には確かにあごの右側に傷痕があった、そして、彼を見た直後に僕は同じような場所にケガを負った。これは単なる偶然ではすまされない。あの幻像は僕の未来を予告していたのだ。

 そしてもうひとつ、不気味なことがある。これはあとで気づいたことだが、始めに僕の前に現われた幻像は明らかに僕より年をとっていた。しかし、後楽園の場外馬券場であった幻像にはあまりそれを感じることはなかった。ということは奴は若くなっているのだ。そしてだんだんと僕に近づいている。そして、僕の方も少しづつ奴に近づいている。いつかこの二つの点が重なるときがくるのではないか?そんな気がしてならなかった。

 僕にはいいようのない恐怖が波のように押し寄せていた。この恐怖を誰かと共有したかった。僕は貴美に何回も電話をかけて、状況を訴えた。しかし、貴美には僕の深刻さがうまく伝わらないようで、‘考え過ぎ’という一言で済まされていた。

 何で貴美には理解できないのか、僕は苛立った。或いは貴美のいうように全てを‘偶然’として片付けてしまうこともできるのかもしれない。しかし、僕にはそんな勇気も寛容さもなかった。そして、稔さんに相談してみようと思いついた。彼だったら、或いは何かこの不気味な符号に明確な説明をつけてくれるかもしれない。

 前に自宅に伺ったときに稔さんの携帯電話の番号は聞いていたので、そこにかけてまた自分の幻像を見てしまったことを言い、異常な事態が起きたので会ってほしいと言った。ちょうど月末に当たっていたので忙しいようだったが、金曜日の夜に稔さんは時間を作ってくれた。

 ある日、病院に寄ってから会社に行くと、山本課長が僕の机にやってきた。ちょっと話があるというので、会議室まで行った。
「ケガはどう?大丈夫か?」と山本課長は気持ち悪いくらいやさしく言った。僕はちょっといやな予感がした。けがのことは前に話してあったが、「大したことはありません」と明るく応えた。
「そう、それはよかった。で、今岡くんに伝えておかないといけないことがあったのを思い出したんだよ。みんなには朝礼で伝えたんだが、今まで我社は暗黙の了解で服装は自由ということになっていたんだが、最近は仕事の質も変わって来社するお客さんも増えてきた。それで、社員は全員原則としてスーツ着用にしようということになったんだ」
「でも、僕の部署は汚れ仕事もありますし」
「いや、いや、そういう時は作業着に着替えてくれればいいんだよ」
僕の悪い予感は当たった。自分がだんだんと自分でなくなっていく感じがする。そういえば奴はスーツを着ていた。それも安物の…。
「それで、いつからです。最近は全然着たことないので、ひょっとしたらもうサイズが合わなくなっているかもしれないんですが」
山本課長は微笑みをたたえながら「そうだな、今週は猶予期間ということで、来週からでいいよ」といい足早に立ち去っていった。僕は眼に見えない糸の存在を強く感じた。そしてその糸はあのもうひとり自分に握られているような気がしてならない。奴がその糸を自分の方に引き寄せている力を感じた。

 週末に僕は稔さんと池袋の居酒屋で会った。稔さんはあまりお酒は得意ではないようで、ウーロン茶を飲んでいた。僕は後楽園の場外馬券場であったことを話した。稔さんは真剣な表情をして聞いていたが、その顔には僕の話をどう判断していいのか考えあぐねている困惑の表情が浮かんでいた。

 僕は自分の持っている疑問を稔さんにぶつけてみた。しかし、それに対して稔さんの答えは‘わからない’というものだった。僕は自分の事例を稔さんに解析してもらうことではなく、稔さんの事例を解説してもらうことで参考にすることにした。

「一応、自分なりに出した解答はあります。間違っているかもしれないですけど」
「ドッペルゲンガーは自分の頭の中で創られているものだとすれば、何か深層心理にあるものが表現されていると思うのですが?」
「私もそう思っています。ただ、私は心理カウンセラーでもないし、精神科医でもないからどこまで正しいのかは保証できません」
「ご自分の体験の解釈を聞かせてもらえませんか?お願いします」
「間違っているかもしれないけど?」
「かまいません。僕も自分の体験を分析してみたいんです。聞かせてもらえれば参考になります」
「わかりました。ただ、あくまでも素人の分析ですから」と稔さんはことわって、話し始めた。
「ドッペルゲンガーを見る前、私は精神的に停滞していたというかかなり強い閉塞感がありました。仕事も毎日、毎日同じことの繰り返しでね。危機感も緊張感も全然ありませんでした。ただゆりとの将来の生活を考えたらこの生活を続けるしかない、でも自分は日に日に死んでいくような感覚があったのです。もっと他の場所に自分の望むような生活が待っているんじゃないかって、そんなことを考えるようになりました。もし会社を辞めて新しい仕事を探すとなったら生活の保証はなくなります。いくらゆりが好きだといっても経済的に安定していなければ、いつかは終わります。ゆりが足かせになるとさえ思うようになっていました。そんな時、若い頃の自分の幻像が現われました。そして最後はマンションの屋上から飛び降りて死んだ…」
稔さんはまたウーロン茶を飲んだ。
「今になって思うと若い頃の自分の幻像、あれは可能性の象徴だったのではなかったのかと思うのです。つまりまだ将来も全く決まってなくていろいろな可能性があった頃の自分…。私はふとそんな時の自分が懐かしくなっていたのかもしれません」
「それでそれが幻視像として現れたと?」
「そんな気がします。或いはもう戻れないことへの恐怖が昔の自分を出現させたのかもしれません」

 僕達はしばらく沈黙した。それは時間を経過させるため必要な沈黙だった。
「最後のマンションの屋上から飛び降りてしまったというのは過去の自分に踏ん切りをつけたというか…」
僕は沈黙を破った。稔さんは吸っていた煙草の煙をふーっと吐き出した。
「過去じゃなくて未来だと思います。あの時、私は屋上で一人になって考え事をしたかったと前に話しましたね。その考え事とはゆりのことだったんです。ゆりは私のことを本当に心配していろいろ力を貸してくれました。あの時ほどゆりを愛しいと思ったことはありません。そんなゆりを一時は邪魔だと思っていたんだから私も相当なバカですね。あの時、もうこれからは自分のためじゃなくてゆりを幸せにするために生きようと思ったのです。もう一人の自分は必要なくなったということだったのでしょう。彼の存在理由はなくなったわけです」
「それで幻像は消えたと?」
「私はそう思っています。実体のない夢をみるより、目の前にある現実が一番大切なものだということを認識したからだと。もちろん今でも私の中には完全に払拭されていない部分はあります。でも、結局、人は現実と折り合いながら生きるしかないように思うんです」
「僕の場合はどうなるんでしょう?未来の姿が見えたっていうのは?」
「それは私には判断できません。それに今岡くんの場合は私のケースとはだいぶ様相が違うように思います」
「仮説でもいいから聞かしてもらえないでしょうか?最終的には自分で解答を出さなくてはいけない問題ですけど自分の見方だけだと見解が偏る可能性もあるし…」
稔さんはちょっと困ったような表情になった。僕は別の疑問を呈してみた。
「幻像についていた傷痕と同じような場所にけがを負ったというのはどういうことでしょうか?」
「それについてもわかりません。本来、ドッペルゲンガーとは未来を予見するものではないのです。だから、貴美さんのいうように単なる偶然と思っていいでしょう」
「僕はこれからどうすればいいんです」
「別に何にも…。とにかく気持を楽観的に持つことです。あと、海に飛び込むことを怖れちゃいけません」
話しが急に飛躍したので僕は面食らった。それを稔さんも察知したらしい。
「海と言っても実際の海じゃありませんよ。話のたとえです。今岡くんの場合は将来に対する恐怖や不安が大きいと思う。今の君を見ていると何となくそれがわかります」
「それは何か大きなことに兆戦しろということでしょうか?」
「いや、いや、変化を恐れるなということです」
というと稔さんは残っていたウーロン茶を飲み干した。

つづく

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