彩子は胸の辺りに変な顔が描かれているTシャツを着てやってきた。僕と会うときはほとんどいつもこのTシャツを着てくるような気がする。前にこのTシャツのことを趣味がいいって褒めたことがあったけど、そのためなんだろうか?Tシャツに描かれた変な顔を見ると何となくほっとする。

 彩子を待っている間、流れて渦を巻いている人波を見ていた。人の流れをぼーっと見ていると心が落ち着いてくるから不思議だ。自分の回りが真空になってしまったようになり、回りの動きが別の世界での出来事のような錯覚に陥る。時の流れも止まっているように感じて、彩子が現われなければくるくる回るメリーゴーランドのような人の流れを傍観しながら、僕はその場所に二時間でも、三時間でも立尽くしていたかもしれない。

 朝のうちは強く降っていた雨だけど、家を出る頃にはすっかりと上がっていた。まだ、外は雨の名残があったけど、スニーカーは濡れて気持ち悪いので、サンダルを履いて家を出た。僕にはサンダルが一番合っているような気がする。何の気取りもなくて、開放的で、気持ちいい。

彩子とよく行く居酒屋に入った。早速、店員さんが飲み物を訊きに来た。僕は生絞りグレープフルーツサワーを注文し、彩子はカルピスサワーを注文した。僕も彩子のそんなにお酒は強くない。彩子はナスが大好物なので、早速ナスの漬物を頼んだ。

 飲み物がやってきてお決まりの乾杯をした。そして適当に料理を選んだ。
「仕事、忙しい?」
会話の最初はだいたい仕事のことを訊いてしまう。ホストの世界では年と仕事の話はタブーだそうだ。少ない友人のひとりで前にアルバイトでホストをやっていた山ちゃんが言っていた。僕はとてもホストにはなれないだろう。
「う〜ん、最近はそうでもないけど、9月になったら…」
と彩子と面倒臭そうに口を開くが、だんだんと調子が出てきて仕事上の愚痴や職場の人間の批評を話し出す。僕はそんなことにはあまり興味はないけど、熱心に聞いている振りをする。

「仕事探しているの?」
「一応…」
このことに関して、僕はあまり深く話すことができない。黙秘権を使いたいくらいだけど、そうもいかない。彩子は厳しい検察官のように詰問を続ける。
「よく、毎日々、何もしないでいられるわね」
「何もしていないわけじゃない」
「じゃー、今日は何してたの」
‘その質問は黙秘します’と言いたいところだ。
「腹筋」
「腹筋?」
「そう腹筋運動。それに腕立て伏せもやった」
彩子は呆れ果てたという顔をしている。
「いや、いや、午前中は職安に行ったし、食事を作ったりと結構忙しいかった。体が鈍っているような気がしたから、ちょっと運動してみたんだ」
「何を作って食べたの?」
カップヌードルとは言えなかった。
「チャーハン。金華ハムと長ねぎを入れて」
「タマゴは最初に入れたの」
「最初に入れた」
と言葉のとおりに返した。
「ご飯、パサパサにならなかったでしょ?」
「そういえば、そうだったかも」
以前に作ったときのことを思い出してこたえた。
「後から入れるとご飯がパサパサになっておいしくできるよ」

 彩子と料理の話などしたことがなかったので、彼女の新しい一面を見たような気分になり新鮮だった。会話は面白い。何気ない言葉の遣り取りでも、その人の新しい一面が見えたりする。そうするとまた次の面白い風景が見たくなってくる。そうやって一歩づつ僕らはお互いの心の中を歩いている。彩子はどんな風景を僕に見せてくれるのだろう。そして僕はどんな風景を彩子に見せることができるのだろう。

 気がつくと、僕は彩子の口を見ていた。
「何見つめてるのよ」
と彩子がちょっと恥ずかしそうに声を荒げたので気づいた。今まではそんなに意識したことはなかったけど、艶かしい口をしている。ひょっとしたら僕が彩子に惹かれたのはこの口のせいかもしれない。口をずっと見ていると、その中に自分が引き込まれてしまいそうになる。自分を取り戻すのさえ困難になるほどだ。
「いい口をしている」
と僕は独り言のようにつぶやいた。
「おかしいんじゃない」
と彩子はわざと口が隠れるように下を向き、サラダからレタスの葉を取り口に運んだ。

―つづく―


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