「サイちゃん、もう今日はいいよ」
「いえ、ちょっと残っているのでもうちょっとやっていきます」
「いや、もう時間だし。それに予定あるって言ってたじゃない」
山辺さんがやさしく声をかけてくれた。時計を見ると十七時三十分を二〜三分回っている。今日はこれから秀太と久しぶりに食事をいっしょにする約束をしていた。だけど、ちょっと仕事が残ってしまったし、それを片付けたい。三十分もあれば終わるだろう。
「六時までいいですか?それくらいにはきりがよくなりそうなんで」
「やってくれるならうれしいけど。大丈夫?」
山辺さんはやや小太りで丸いメガネをかけた、ちょっと煩いくらい他人のことを気にする性質の人だ。

「ええ、大丈夫ですよ」と私は愛想よく言った。それにしても秀太と会うのが何か面倒であまり気が進まなくなっている。もう約束してしまったから、我慢するしかないけど。六時まで仕事をすると約束の時間に遅れる可能性が高いけど、秀太がそれについて文句をいうことはないし、別にいいと思った。秀太はいくら遅れても文句一つ言えない冴えない男だ。がつんと文句を言うようだとちょっとは見直すかもしれないけど、そんなことはこの時期に雪が降るようなものだ。

 秀太とは以前同じ職場で働いていて知り合った。その職場を辞めた後、秀太から何回か電話をもらって、それがあまりに熱心だったからついつい会うようになってしまった。秀太はやさしいだけがとりえという情けない男で、阪神タイガースの熱狂的ファンだなんて言っているけど、ちょっと信じられない。あまり元気はないし、何かに夢中になっていたり熱中している姿を見たことがない。活気が全く感じられない私の苦手なタイプだ。今も無職にもかかわらず仕事もろくに探さないで、失業保険で何とか暮らしているらしい。一体どんな頭をしているのだろう。私には理解できない。確かにタイガースファンというだけあって、情けなくて頼りないところはそっくりだ。

 何回か体を重ねてしまったから、秀太は私が気をゆるしたと勘違いしてしまったのかもしれない。私は今、誰も付合っている人もいないから、とりあえず秀太と会っているだけ。だって、誰もいないなんて三十を超えて寂しいじゃない。いい男ができたら、すぐに振ってやる。秀太のいいところを一つ思い出した。彼のSEXは好き。私はあまりガツガツしたのは好きじゃない。秀太はうまくないけど、ゆっくり丁寧だから、私に合っている。彼の匂いもいやじゃないし…。

 六時まで仕事をしてから、秀太と待ち合わせた新宿の東口にあるルミネの入口に向かった。朝は雨が降っていて、昼の食事に会社を出たときはかなり強かったのに、今は上がっていた。あ〜、傘が邪魔だな、どうせならずっと降り続いてくれた方が傘の存在を意識しなくてすむのに。不要なものを持っているって何か気分が悪い。この傘に秀太の姿が重なってしまう。電車の中にでも置いて来てしまおうかしら…。

 都会での通勤の混雑はそんなに嫌いじゃないけど、これが休日だと雑踏の中で身を切るような寂しさを感じて怖くなることがある。あんなに人がいるのに、私のことを思ってくれる人もいなければ、知っている人もひとりもいない。部屋の中でひとりでいる方が気持ちは寂しくなかったりする。でも、夜になるとたまにどうしようもなくなって、涙が自然に出てきてしまったりして…。普段は煩い秀太の電話が待ち遠しくなったりする。だけど、あいつは勘が悪いから、そういうときに限ってかかってこない。どうでもいいときにはよくかけてくるのに…。

 混雑に身を任していると自分が自分じゃなくなるような感じがする。何かの一部…そう巨大で精巧な機械の一部のような感覚になる。子供の時、父親が機械に見えた時期があった。あの時は不思議な感覚で自分がおかしくなってしまったのかと思ったけど、今は私がそうなっている。子供の時はそれがいやな感覚だったけど、今はそうでもない。

 あ〜でも今日は秀太と何の話をしよう?あまり話題が見つからない気がするけど、いつものこと。それで何とかなるのもいつものこと。新宿が近づくにつれてちょっと憂鬱になってきた。このまま、帰っちゃおうかな?お腹が痛くなったとかいえば、言い訳は立つけど…でもたまには楽しいこともあるし、とりあえず行ってみようか…

 それにしても秀太はよくぼーっと一日していられるものだと変な感心をしてしまう。今日は一日何をやっていたんだろう?前に電話で訊いたときは本を読んだり、CDを聴いたり、ビデオを観たり、散歩をしたりって言ってたけど、退屈な時間がよく埋まるものだ。私は常に動いていないと不安になってくる性質だから、そんなの耐えられないと思う。私の方が精神的には健康的だと思うけど、彼の方が人間としてはしたたかなのかもしれない。退廃の中にどっぷり浸かって、それを愉しんでいるような気さえする。いや、いや、そんなに難しく考えることはない。彼はただ単なる怠け者よ。

 そんなことを考えている間に新宿に着いた。人の波を掻き分け、掻き分け東口の改札を出てルミネの入口に向かった。いた、いた相変わらずみすぼらしい恰好をしている。よれよれで首回りが伸びちゃって生地もかなり薄くなってしまったようなTシャツにところどころ切れているジーンズ、素足に薄汚れたサンダル…いろいろな人間が集る都会だから目立たないのかもしれないけど、地方だったら職務質問ものだね。

 だけど、秀太と唯一の共通点があるとしたら、物にあまり興味がないということかもしれない。実は私も秀太の服装とほとんど変わらない。ただ、多少は清潔かなっていうだけ。近くのスーパーで買った安物の胸の辺りに変な顔が描かれているTシャツに洗いざらしのジーンズ、それによそ行き用のサンダル…他人が見たら似合いの貧乏カップルっていうところね。

「ごめん。ちょっと仕事のきりが悪くなっちゃって。ずいぶん待った?」
「いや、今何時なんだろう」
相変わらず時計は持っていないようだ。私は腕時計を見た。
「六時三十五分くらい」
「ほんと。今日は以外と早かったね。そんじゃ、どうしようか?」
やっぱり待ち合わせの時間に遅れたことは何も言わない。いやみのひとつも言ってごらんなさいよっていう感じ。まあ、いいか。今日はたった五分遅れただけだし、かえってごちゃごちゃ言われる方がいやかもしれない。
「そうね。別に安くて飲める店だったらどこでもいいけど」
「じゃー、いつもの居酒屋にしようか」
「いいよ」
私たちはよくいく居酒屋に向かった。

―つづく―


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