第4回うおのめ文学賞参加作品

うぐいす



 あー、毎日、毎日暇で仕方なかった。会社を辞めた私はしばらく抜け殻のように生活していた。だって、今までは一日のスケジュールが決まっていたから、「今日、何をしようか?」なんて考えるのは土曜日と日曜日だけだったし、その二日の休日だって何か予定が入っていることがほとんどだった。それがほとんど毎日、何も予定がないと何をしていいかわからないし、毎日が日曜日のような状態だから、土曜日と日曜日のありがたさも消えてしまって、その輝きを失ってしまった。働いていたときは常に週末のことばっかり考えていて、そこが山場だったけど、今はそれが全体的に均されてしまい一週間が平面のようになってしまった。その、のっぺら坊の日々に目や鼻や口を自分で書き込んでいかなければいけないんだけど、まだ私にはそれを書き入れる力がなかった。

 会社を辞めてから一週間くらいは自然と夜更かしになっていた。それは夜、眠るのが何故か怖く、寂しさに襲われていたからだった。だから、夜遅くまで友達と電話でとりとめもない話しをしたり、パソコンで何処の誰ともわからない人とチャットをしたり、とにかく誰かと繋がっていないと身を切るような孤独感が私に押し寄せてきた。明け方までそんなことをしているものだから、起きるのは陽がもう高く上がった昼くらいで、顔を洗った後、何か簡単な朝昼兼用の食事を作って、とって、その後、毎日じゃないけど洗濯とか掃除とかのを家事をやるともう夕方になっていたりして、夕食の買い物に行ったり、面倒くさいときはコンビニのお弁当とインスタント味噌汁ですましてしまうこともあったけど、そんなことをしていると、あっという間にまた夜が忍び寄っていて、また怖くなるのだった。

 そんなふうに無為に過ごす日々が続いた。そのうち別の恐怖が前のそれに変わって私の心を支配するようになった。それは失うことの怖さだった。夜に襲ってくる孤独感よりも、生活の乱れによる自分と時間の喪失感のほうがはるかに怖くなっていった。ちゃんとした生活をしないと自分が崩れてしまいそうだったので、意識的に生活するようにした。深夜のチャットは完全に止めて、友達との電話も早めに切り上げるようにして、遅くても一時には寝るようにした。そうすると朝八時ちょっと前に目が覚めて、簡単な朝食をとり終わっても、まだ九時を少し回っているくらいだった。

 その後、掃除や洗濯などの家事をやるとちょうど昼くらいで、昼食をとると午後はまるまる自由時間になった。始めは戸惑っていた自由時間だったけど、私にはそれがだんだんと黄金の輝きを放ち出したことに気づいた。そう、それは鉱石の中に含まれた金だった。いままでの私はそれに気づかず、ただ単なる石としか見ていなかった。だけど、だんだんとその石から金を取り出す能力が備わってきた。時間の錬金術師…、なんちゃって…。

 当初、自由な時間になった午後は本を読んだり、CDを聴いたり、部屋の中で過ごすことが多かった。会社に勤めていた頃は頭が疲れていたせいか、あまりじっくり本を読んだことはなかったように思う。ほとんど学生時代以来、小説を多く読んだ。そういった本を読むとそれまで私はかなり狭い視野で世の中を見ていたということに気づかされた。もともと、小説なんて書く人はたぶん変わっている人が多いのだろうから、世の中の見方も変わっているんだろうけど…。生きていく上で実質的には役にたたないかもしれないけど、慰めにはなった。

 CDだって以前はただ何か音楽がないと寂しい感じがするからかけていたことが多かった。一枚、一枚聴きこんでいくと、新しい音がいっぱい聞こえて、新しい言葉がたくさん心に入ってきた。私は音の上を滑っていただけで、音の波の中に飛び込んだことがなかったような気がした。今は音の波を体に受けているのがわかり、私はその中で遊んでいる。

 だけど、家の中ばかりにいるのは肉体的にも精神的にもよくないと思い、外に出ることを心掛けるようになった。そうするうちに私は散歩することの楽しさを知った。散歩なんて年寄りくさいなんて笑われるかもしれないけど、ほんとうに楽しいの。私も今までは散歩なんてほとんどしたことがなかったけれど、外でお金もかけずにできることっていったら、結局、散歩になってしまったの。まさに瓢箪から駒っていう感じ。それに、体重がちょっと…こちらの方が大きな理由だったかもしれない。

 家の近所を歩いているといろいろな発見があった。そう、今まで見ていたけど見えなかったものが、よく見えてきた。まず、以外と緑が多いということに気づいた。私の住んでいるところは市街地だから道路もほとんど全部舗装されていて、家が建ち並んでいて、木々が育つ空間なんてなさそうなんだけど、そうでもなかったの。小さくも庭がある家はそこに何かしらの木々を植えていることが多いし、庭がない家ではそれこそたくさんの鉢植えを持っている。

 特に面白いのは近所の肉屋さんの裏手にある家のおじいさんで、太陽が高くなると、家の前の歩道に手作りらしい棚を出して、ブロック塀の内側に置いてある盆栽をそこに次々と並べていく。都会の狭い住宅事情ではブロック塀の内側にある猫の額ほどの庭には陽が当たらないのだろう。歩道は狭くなって、人一人がやっと通れるくらいになってしまい、また盆栽の枝がガードレールを越えて車道側に出ているものもあり、ここを通る車は減速を余儀なくされているようだった。だけど、おじいさんはそんなことには全く気にならないようで、メリヤスのシャツにベージュの腹巻、そしてステテコという昔ながらのスタイルで植木鋏を使い、悠々と盆栽の手入れを行なっていたりする。盆栽も太陽をその小さな姿いっぱいに浴びて、きらきら輝いて気持ちよさそう。今はもう亡くなってしまったけれど、私の祖父もいっぱい盆栽を持っていた。だからこのおじいさんを見ると祖父を思い出す。

 それとこんな都会でも生息している小鳥が多いことに気づかされた。田舎に住んでいたときは自然な存在だった小鳥がこちらでは貴重品だった。私の住んでいるアパートのブロック塀の上に米粒とかパンくずなどを置いておくと、それをスズメやメジロ、ヒヨドリなどが啄ばみに来たりする。午前中、まず自分のご飯を食べ終えた後、それらをブロック塀に上においておく。私は部屋に戻り、閉まっている窓を開け放って掃除を始める。そうすると、ブロック塀の上では小鳥の朝食の光景が見られたりして、朝から楽しい気分になる。まあ、たまにはカラスがやってきていやな気分になることもあるけど。

 あと、猫も多い。たぶん、みんな何処かの飼い猫でノラはあまりいないような気がするけど、それはわからない。どことなくのんびりしているのは飼い猫で、すばしっこいのはノラだろう。猫にはちょっと悲しい想い出がある。

 私のアパートの横が空き地だった頃、そこに白に黒ぶちの子猫が放置されていたことがあった。誰かが捨てたのか、それともノラの親が置き去りにしてしまったのかわからなかったけど、一晩中鳴いていて、ついに私はその鳴き声にたまらなくなり、明け方部屋に連れてきてしまった。まだ、生まれてからそんなにたっていないようで、その上、体も弱っていて自分でミルクを飲む力がなかったので、文房具屋さんでスポイトを買ってきて、そこにミルクを入れて飲ませてあげた。会社に行くときは、もともとみかんが入っていたダンボール箱に毛布を引いてそこに入れてあげた。そして会社から帰ってから、ミルクを飲ませてあげた。だけど、三日目に会社から帰ってくると子猫はダンボール箱の中で固く、そして冷たくなっていた。私は一晩中、泣いた。猫を見ると未だにその想いでが脳裏に浮かんできて悲しい気持ちになってしまう。

 ちょっと遠出をしたいときは自転車で出かけたりする。以前は電車を使っていたんだけど、無職になったら気分まで慎ましくなってしまったようで、徒歩や自転車で行けるところはお金を使わないで体を使うようになった。それほど貧窮しているわけじゃないんだけど、自分でも可笑しくなっちゃう。でも、ダイエットにはいいかもなんて前向きに考えるの。

 多摩川のサイクリングコースにも何回か走りに行った。平日だと人も少なくてのんびりと走れる。私の頭の中は何故か歩いていたり、自転車で走っていると考えが前向きになってくる。確か昔の偉い哲学者が何かを考えるときは歩くことにしていて、そのわけを問われると「歩みが止まると思考も止まる」と言ったらしいけど、わかるような気がする。だから部屋の中で暗い考えにとりつかれると私は外に飛び出すの。そうするとそれは私が動くことで振り払われ、さらに太陽の光で消えてしまう。だって、暗い考えなんて影みたいなものだと思うから。

 サイクリングコースで人に会うとその人の背景まで想像してしまう。中年の男性が平日に婦人用自転車で走っていたりするとこの人、会社をリストラされたのかしらなんて考えてしまって、そうするとその人の顔も何となく悲しげで寂しさが漂っているような気になり仲間意識が生まれたりするし、ミニチュアダックスフンドなどを散歩させている若い女の人を見ると高級住宅街に住んでいるハイソな若奥様か裕福な家庭の令嬢を想像してしまってうらやましくなる。

 だけど、圧倒的に多いのは老人の姿だ。サイクリングコースは所々にベンチが設けられていてそこで休憩できるようになっているんだけど、そこの座っているのはお年寄りばっかりだ。ベンチに腰を下ろして、杖を両手で突いてそこに顎を乗せて河原をじっと見詰ている人もいるし、上下ジャージを着てジョギングやサイクリングを楽しんだ後、タオルで汗を拭きながら休んでいる人もいる。そしてベンチの横や下辺りには猫がちょこんと座っていて日向ぼっこを楽しんでいたりする。老人と猫、何か映画のタイトルみたい…。

 河原にはその周辺の中学生や高校生が野球やサッカーのスポーツを楽しんでいて、サイクリングコース上のベンチで休む老人達との対比があまりにも鮮やかで、その風景が私に迫ってくる。その両者の境界線上のサイクリングロードを私はのろのろと走っていると不思議な感覚の囚われてどこか別の時空を旅しているような感覚に包まれる。

 ある日、私が自転車で走っているとお婆さんとそのお孫さんと思われる小さな女の子がサイクリングロードの上で遊んでいた。その女の子は三輪車に乗って来たようだったけど、もうそれには飽きてしまったみたいで、それをほっぽらかして土手の所々に生えている草花をしゃがんで眺めていた。お婆さんはそんな孫をやさしい眼差しで道の真中に立ってただ見ていた。私は小さな女の子を避けるため、放置された三輪車の外側を周ろうとした。お婆さんは私に気づいて、私の動きをじっと目で追っていたけど、その場所に立ち尽くしているだけだった。そしたら、その小さな女の子も私に気づき、さらには私が三輪車の外側を周ろうとしていることを察して、それを退けてくれて私が周らなくてもすむようにしてくれた。私はうれしくなって横を通り過ぎるとき「ありがとね!」って明るい声でお礼を言ったら、女の子ははにかんだように微笑んだ。

 ちょっとしたことだけど、気持ちが通じ合ったことを感じて私は人間を取り戻したような気分になった。都会に住んで毎日、忙しなく暮らしているとだんだんと人間じゃなくなってくるような気がする。ちょっとしたことでイライラしたり、速く、早くって迫られている。

 何かみんな速く生きようとし過ぎている。ゆっくり、ゆっくり、自分のペースで走ればもっと楽しくなるのに…。


―つづく―

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