そんな私に大きな楽しみがやってきました。サッカーのＷ杯です。それも日本で開催されるのです。このときをどんなに私が心待ちにしていたか…。これでも私は中学・高校とサッカー部に属していました。ただ、技術も下手くそで体力もそれほどなかったのでいつも控えで試合に出たことはありませんでした。だけど、サッカーは心の底から好きなスポーツだったのです。当時はまだ日本ではそれ程騒がれなかったＷ杯の面白さ、素晴らしさを誰とはなく友人に宣伝して回ったほどでした。そのＷ杯が日本で（韓国と共催ですが）開催されるのです。これが興奮せずにいられるでしょうか？

　始まってみると何ということでしょうか日本チームは調子よく、予選リーグを二勝一分けで決勝リーグに進出したのです。ベルギー戦は後半から、ロシア戦は始めからテレビ観戦することができました。三戦目のチニュジア戦は会社だったため観戦することはできませんでしたが、まず大丈夫だろうと思っていました。

　会社では午前中で早退する社員やアルバイトが続出しました。このチュニジア戦だけでなく、始めから見たいがためにベルギー戦の時も三時で早退する人が多数出ました。私は彼らにわかサッカーファンをちょっと軽蔑しましたが、彼らによって会社の反応を確かめることができました。会社はそれ程仕事が忙しくなかったせいか容認する姿勢を示しました。そんな時に私の楽しみにしていたカードが平日の三時からキックオフと決まったのです。

　私は日本代表を応援していましたが、どちらかというとレベルの高い海外のチームのサッカーを楽しみにしていたのです。特にイタリア、フランス、ブラジルなどです。イタリアとフランスは残念ながら予選リーグで姿を消してしまったのですが、ブラジルは残り、決勝リーグの初戦でイングランドとの対戦になったのです。私はこの事実上の決勝戦ともいえるこの試合をぜひとも観たいと思いました。

　それまで私は有給休暇というものをほとんど使ったことはありませんでした。使うにしてもそれは友人・知人の慶忌関係の行事など、どうしても避けられない用事の時に限られていたのです。だからテレビを見るためだけに有給休暇を使うというのはかなりの抵抗がありました。しかし、Ｗ杯は私が生きている間に日本で開催されるということはもうないような気がします。どんな形であれＷ杯が日本で開催されていることを体感したかったのです。そしてその日の前日、かなり迷った末、私は上司に午後から半休の申請を出しました。

　そしていよいよその日がやってきました。私はその日、ただ会社を早退してＴＶでサッカーの試合を見るだけなのに、朝から落ち着かずまだ真っ暗な時刻に目が覚めてしまい、不覚にもその後、また寝てしまったのです。よってその日は「目覚めの演技」ではなく、本当に妻に起されるはめになってしまったのです。妻が部屋にいたので私は何が起きたのか理解できず、つい「夜の用事」かと勘違いして妻を朝から抱こうとしてしまい、罵声を浴びる結果になってしまいました。ただ、妻も可笑しかったらしく、いつもはさしたる話題もなく黙々と食べる朝食もその話題で持ちきりになり、朝食はこんなに楽しいものだったのかと私は驚いたのです。

　しかし、その話題に気を取られている間にいつもの家を出る時刻を五分も過ぎてしまったのです。家を出る時刻が五分も過ぎてしまうと、もうそれを取り返すのはほとんど不可能なことで、それこそ家から陸上の中距離選手並みの速さで駅まで走らないといけなくなります。だけど、しがない中年男の私にそんな能力はあるはずもなく、取り返した時間は三分だけでした。いつも乗っている電車はもう発車してしまった後で、その次の電車がなかなか来ず、私の焦りは大きくなっていきました。

　ひとついつもの歯車が狂ってしまうと、その後もすべておかしくなってしまい、乗り継ぎでもことごとく時間を失っている感覚に襲われたのでした。ああ、せめて電車事故でも起こって少しでもダイヤが狂ってくれればと思ったのです。そうすれば遅刻の言い訳も楽になるのですが、そんなこと都合よく起こるはずもありません。

　電車は全てダイヤ通りに一分と狂いなく運行されたのでした。私は約十年振りの遅刻を覚悟しました。午後から半休するのに遅刻…私は自分がとんでもない不良社員に成り下がってしまった気分でした。一体何処で間違えてしまったのでしょうか？私は自問自答しましたけど、「目覚めの演技」ができなかったことがそもそもの失敗で何故「目覚めの演技」ができなかったのかというと、それは私が二度寝してしまったことが原因で、何故私が二度寝してしまったかというとそれは…とどんどん遡って行き、最終的にはＷ杯が日本で開催されたのが根源ということりなり、ちょっと遡り過ぎたと反省してまた元に戻ったりするのでした。

　そんなことを考えている間に会社に着いたのですが、私は遅刻にはなりませんでした。いつもの出勤時刻に比べれば五分くらい遅い時刻だったのですが、間に合ったのです。その時はじめて、あの時刻に家を出ても会社には間に合うことを知ったのです。私を縛っていた七時十三分という時刻は冷酷無比な看守ではなくなり、物分りのいいやさしい看守に代わりました。

　午後から半休ということもあり、午前中はいつもに増して仕事をがんばろうと思っていたのですが、何故かあまり仕事に集中できませんでした。始めはそれがＷ杯のブラジル×イングランド戦を見られるという興奮がそうさせているのだと思っていたのですが、どうもそうではなく午後から半休を取れるということで私の気持ちは浮ついているようでした。

　十二時のチャイムがなり、仕事の後片付けをし、会社をまだ太陽が真上にある時刻に出ました。それは私のとって入社以来、始めてのことでした。そして電車を乗り継ぎ自宅の最寄駅まで帰ってきました。いつもは全てシャッターが閉まり廃墟のような風景だった商店街が生き生きと息づいていました。いろいろな人々が往来し、女性の笑い声や赤ちゃんの泣き声が聞こえ、お惣菜屋さんにはいろいろなおかずが並んでいました。

　私はお肉屋さんでコロッケを２つ買い、桜並木の道を家に向かいました。桜の花の季節はもうとっくに過ぎていましたが、新緑の燃えるような緑が私の目に焼き付きました。ああ、緑って何と逞しくて美しいのだろうと心から思いました。私はその燃えるような緑の下でかつてない開放感を味わっていたのです。

　Ｗ杯を見るために半休を取ったのですが、ブラジル×イングランド戦はもうどうでもよくなっていたのです。もうかなり昔ですが大脱走という映画がありました。連合軍の捕虜達が協力してトンネルを掘り、ナチスの捕虜収容所から脱走するという筋書きだったと思います。何故だかその時、私はその映画を思い出していたのです。