自転車泥棒

 家に着いた私はそれまで着ていた背広を脱ぎ捨て、緑色のポロシャツとジーンズという姿になり、妻の自転車の鍵を探しました。家のことにほとんど無頓着なものですから何処に何があるか全くわかっていなかったのです。だけど、その鍵を鏡台の引き出しの中で発見したときは自分の幸運に狂喜しました。もう気分は大脱走でナチスのバイクを奪い草原を疾走したスティーブ・マックウィーンでした。

 私はその自転車の前輪の上にあるややひしゃげた黒いカゴの中に先ほどお肉屋さんで買ったコロッケの包みを入れ、比較的家の近くにある河川の土手に向かいました。平日の真昼間にコロッケの包みをカゴに入れママチャリで走っている自分の姿が私には可笑しく滑稽で、はたまた何とも情けなく苦笑してしまうのでした。こんな姿をもし妻が見たら私が発狂してしまったと思うのではないでしょうか?だけど、楽しかったのです。久しぶりの自転車はかなり足にきましたが、スリリングなエスケープでした。

 私が向かった河川の土手にはサイクリングコースがあり、さらに下流には野球のグランドやゴルフの練習場などもあり、以前には野球のある人気球団の練習グランドもありました。土手の上には一定の間隔で桜が植えられていました。その桜並木もうちの近くのある桜並木のように燃えるような緑の若葉を空に向かって広げていました。私は土手の近くにあるコンビニエンスストアで缶ビールを買い、その桜の木の下に腰を据えプルトップを開け、一口飲みました。喉から食道に心地いい感覚が広がりました。私がビールを飲むのはこの感覚を楽しみたいからなのかもしれません。喉越しという言葉がありますが、そうまさに喉越しなのです。

 次に包みを開けまだ暖かさが残るコロッケを一口頬張りました。懐かしい味でした。高校生の時はよく学校が終わった後、夕食時まで待ちきれないため友達とコロッケを買って食べたりしました。そんな時の思い出も甦ってきました。昔の思いでがこんなにも懐かしく思い出されるのは私が年をとった証拠なのかもしれません。

 きれいに晴れわたった青空の下、桜若葉の日傘の中に包まれながら、コロッケを頬張りビールを飲んでいるととても豊かな気分になってきました。今までの自分の人生の中で何か最高の贅沢をしているようなやや後ろめたく、それでいて楽しく優雅な気持ちだったのです。ただ、同時のある得体の知れない恐ろしさも私の心の中にはあったのです。今まで何故か私はこういった「幸福」を避けていたような気がします。それはこういった「幸福」は一時的なものでまたいつもの監獄に戻されてしまうと知っていたからかもしれません。

そうなのです。所詮、私は囚人でたとえ監獄から脱獄に成功したとしてもいつかは捕まり、そしてまた居心地のいい監獄に戻されるのです。もし、捕まらなかったら?いや、たとえ追手からうまく逃れたとしても、やがてこの外の世界で息をすることさえ辛くなり、私は自首してしまうことになるでしょう。大脱走のマックウィーンもバイクで草原を疾走して鉄条網を何度も飛び越えますが最後には捕まり収容所に戻ったのです。

 そんなことを考えながらビールを飲み、コロッケを頬張り、若葉茂る桜の木の下で過ごしていますと、紺色の制服を着て白い自転車に乗った人が私に近づいてきました。そう、それは警官だったのです。
「失礼しますが、その自転車の登録証を拝見できますか?」
と警官は愛想よく言いました。婦人用自転車をわきに置き、真昼間からビールを飲んでいる私を不審に思い、自転車泥棒だと思うのは至極当然のように思われました。
「この自転車はあなたのものですか?」
と警官は泥除けのところに書いてある妻の名前を見つめながら言いました。
「いや、これは妻のもので」
と私はできるだけ爽やかに答えました。その間に警官は登録証の番号を無線で本部に紹介しました。
「今日はお仕事、お休みですか?」
「ええ、会社は休みではないんですけど、午後から休みをもらったのです」
「どんなお仕事なんですか?」
と警官は丁寧に訊いてきましたけど、私は酒を飲んでいるせいもあり、少し苛立ってきました。そんなことまで何で訊かれなければいけないのかと言いたくなりましたが、そんなことを言うとさらに面倒くさいことになりそうだったので
「会社員です。最近、忙しい日が続いていて…。仕事も一段落したので休みをもらったのです」
と訊かれていないことまで、サービス精神を発揮して答えてあげました。
「奥さんの名前は洋子、ヨウコさんですか?」
「いえ、洋子と書いてヒロコって読むんですよ」
「あ、そうでしたか」
と警官は私への嫌疑をかなり緩めたようでした。その時、ようやく本部らしいところから無線が入り、登録証が確認されたのでした。
「どうも、長々とすいませんでした。そのまま自転車の乗ると飲酒運転になってしまいますよ。酔いが十分覚めてからお願いしますね。それでは」
と爽やかに笑いながら去って行きました。こんな時間にこんなことをして過ごしている中年男に親しみを覚えたのかもしれません。

 私はその土手にもう陽が大きく西に傾き、薄暗くなるまでいました。私の大脱走もどうやら終わりに近づいてきたようです。土手から家までの道程、私は大きな喪失感に後から追いかけられていました。それから逃げるように家路を急ぎました。逃げられないことは知っていましたが、急ぎました。その時はどういった気持ちだったのでしょう?早く居心地のいい監獄生活に戻りたかったのか、それともそれから必死に逃げているつもりだったのか…自分でもよくわかりません。

 家に着いた時はもうすっかり陽は暮れて辺りはくらくなり、街灯が明々と点っていました。マンションの三階にある我が家の窓にも明々と灯りが点っていました。灯りとは本当に暖かいものです。

 家のドアを開けると妻は驚いた表情をしていました。私がいつもの時刻ではなく、とても早い時刻に帰ってきたせいでしょう。私は妻に今日の半休のことは話していませんでした。それでW杯を見たいと思って早引けしたのだと話し納得してもらいました。
「それはそうとお父さん、私の自転車知らない?」
「え?」
「いや、お買い物に行こうとしたのだけど駐輪場にないものだから。泥棒にでも盗られたのかしら?」
私はすっかり恐縮してしまい、今までの経過を妻に説明したら、妻は大笑いしました。
「昼間からいい身分ね。それじゃ、W杯見なかったの?」
「うん、観なかった。ブラジルとイングランドどっちが勝ったか知っているか?」
「知らないわ」と妻はまたこらえ切れず噴出しました。
「でも、泥棒に盗られたんじゃなくてよかったわ。それにしても今日は何か変な一日だったわね。朝からいきなりだったし」
妻は楽しそうに破顔いながら夕食の仕度を続けました。


― 終 ―

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