自転車泥棒

 私の生活はすべてこの七時十三分が基準になっているのです。朝、行なわれる全ての行事はこの基準から逆算されて決められているのです。起きる時刻、顔を洗う時刻、トイレに入る時刻、新聞に目を通す時刻、そして朝食…全てこの基準からの逆算され、何となく決まってしまったのです。それは何となく決まってしまったものですが、決まったものはどんな売れっ子タレントも顔負けの分単位のスケジュールなのです。そして一分でも遅れが出ればその遅れを取り戻すのに私は必死にならないとなりません。特に家を出る時間が一分でも遅れればその遅れを取り戻すため私は競歩の選手のように手を大きく振り、大股で駅までの道をわき目も振らずに歩くことになってしまうのです。二分遅れればそれこそ最後の200mくらいは陸上の短距離選手の如くダッシュをしないといけなくなってしまいます。

 駅に行くまでの道は桜並木で桜の花が咲く季節になればそれこそピンクのトンネルになり、さらに季節が進めば新緑のまばゆいばかりの緑が空を覆うのですが、そのようなものを楽しんだ記憶はほとんどありません。家を出る時間を二〜三分だけでも早めれば少しはそういったものを朝の通勤時に感じることができるはずなのですが、そのわずかな時間を作ることが何故かできないのです。

 妻の方は勤め先が今のところになってから、通勤は歩いて十分くらいになったので、そういったものを楽しめるようになったらしく、たまに夕食をいっしょにとったときなどに話してくれます。そういった時には今度の休みの時にでもいっしょに散歩してみようということになるのですが、その約束が実行されたことはありません。

 妻の勤めている医院は九時始まりなのでそのくらいに行っていればいいそうですが、その医院は近所の老人達の溜まり場のようになっているらしく、ちょっと遅くなるとそういった老人達が医院の前で開くのを待っているそうなので三十分前には行って中に入れるようにドアの鍵を開けておくそうです。夏ならまだいいのでしょうが、冬は特に早めの出勤を心掛けているようです。だけど夏でも冬でも七時十三分に家を出ないといけない私にとってはうらやましいかぎりです。

 七時十三分という時刻が何故決まったかというとそれは最寄駅の電車のダイヤからです。朝なので比較的電車の運行間隔は短いのですが、乗り継ぎというものが三つもあるためそれらが一番うまく行く時刻が七時十三分になったというわけです。だから春のダイヤ改正の時期はかなりの不安と期待が心を支配します。家を出る時間が一分でも遅くてよくなれば私は少し楽をできるのですが、その逆になったらと思うと朝のスケジュールの根本的見なおしを迫られることになるので憂鬱になってしまい、そのスケジュールに慣れるまでの期間は常に「遅れたら」という強迫観念に駈られながら暮らすことになるのです。

 自分でも何故こんなに時間というものを恐れるようになったかわかりません。たとえ会社に遅刻していったとしても、常習ではない限りそれほど怒られることもなく(新入社員の頃はいろいろとお小言を言われましたが)、さらに私は勤続二十年近いのですから、怯える必要はさらにないわけで、役付きにでもなればタイムカードからも開放されるのです。

 だけど、私はたとえ役付きになりタイムカードを押さなくていい身分になったとしてもこの恐怖から逃れることはできず、いやさらに酷くなっていく気さえするのです。こういったことに詳しいカウンセラーにでも相談に行きたいところなのですが、もしそういったことが会社にでも知れてしまったらと思うと、それはもう私にとっては死刑宣告をされたのと同じでとてもとてもその勇気は出ません。

 会社に行ってからの私の心を支配しているもののひとつに挨拶があります。挨拶とは恐ろしいもので挨拶ひとつで人間関係が変わってしまうことがあるです。

私が入社した当時、その数年前に入社していた先輩のひとりにちょっとしたタイミングのずれから「おはようございます」という挨拶を怠ってしまったことがありました。その先輩とは次の日も顔を合わせたのでその時、挨拶しようと思ったのですが、昨日のことを根に持っているらしく私のことを見るとぷいと横を向いて何処かに行ってしまいました。それ以来何となく私とその先輩は険悪な感じになっていき、二十年近く経った今でも仕事で止む得ない時以外はいっさい口を利かない間柄になってしまったのです。これは後で知ったことなのですが、その先輩より年齢は私の方がひとつだけ上だったようでその辺りも微妙に影響していたのかもしれません。

その後、私は挨拶には気をつけるようになりました。今ではできるだけ年上、年下など関係なく自分の方から声をかけるようにしております。挨拶ひとつで社内に無用の敵を作ってしまうとは恐ろしいことです。

 会社では一日三回、休憩の時間があります。十時から十分間、十二時から一時間、三時から十分間です。十時からの十分間の休憩の時には社内放送でストレッチ体操が流れます。その掛け声に合わせて体を動かすことになっているようなのですが、若い人はほとんどやっておりません。彼らはその時間に喫煙所まで行ってタバコを吸ったり、社内にある自動販売機でコーヒーやジュースを買って飲んでいます。もちろんタバコやコーヒー、トイレなどは勤務時間中に自由に行なってもいいわけで、私も二時間毎くらいに喫煙所に行っております。よく観察してみるとストレッチ体操は役付きの人はほとんどやっているようで年齢と比例して行なっている方は増えるようです。私はというと特に用事がないときは参加しています。

 会社にいる時、私の最も恐れている時間帯が実をいうとお昼からの休憩時間なのです。若い時はこの時間帯だけが会社での楽しみという時もあったのですが、ここ何年も苦痛を感じるようになりました。

恐れの原因は二つあるのです。ひとつは時間です。私の会社は社内食堂がないため、昼食は外でとるかかお弁当を注文するかどちらかなのですが、私は外に行くことが多いのです。お弁当を注文するのはパートの人が多く、自然に話題は社内の噂話になり、そんな時に私がその横のテーブルで食べていたりするとそういった話はし難くなるようで彼らの楽しみを奪っているような気になってしまうのです。それで私は外に食べに行くようにしているのです。

 会社の外に食事処は数カ所あるのですが混んでいるところが多く、注文したものが出てくるのが遅くなることがあります。場合によっては十二時四十五分くらいに出てきて十分でカツ丼を掻き込んだということもありました。会社では十二時五十五分に予鈴が鳴るのですが、その時までに悪くても会社には戻っていないと私は不安に襲われるのです。試験時間がどんどん過ぎるのにまだ答案用紙はほとんど埋まっていない受験生のような心境になってしまいます。ましてや一時の本鈴に間に合わないとなったら…、それこそ列車の発車時刻を逃してしまった旅人のように私は途方に暮れてしまうでしょう。

 もうひとつの理由は知り合いの人と会うことなのです。数人で食事に行くときは全く気にならないのですが、ひとりで食事に行った時に社内の他の人間と会うのは苦痛なのです。特に相手側が複数でいる時、私はその姿を認めただけでその店を出て他の店に食べに行ったこともあります。独りで飯を食べている時に発せられる私を包んでいる孤独の影を見られるのが怖いのです。そうなのです、私はひとりでいるとき、自分でもその影を感じるのです。それが他人に見破られるのが死ぬほど恥ずかしく、また怖いのです。或いはそれが自分の本当の姿なのかもしれません。特に物を食べている時はその影を隠すことは容易ではありません。かなりの演技を必要とするのです。「目覚めの演技」では完璧な私もこの演技に関してはまだまだダイコンなのです。

 三時からの休憩はストレッチ体操もなく、女子社員がお茶を入れてくれて、それにお菓子などを合わせて食べるといったものです。この時間帯もあまり心地いいものではありませんが、時間が十分と短いので何とかなります。どうしても独りになりたいときはトイレなどに篭ってやり過ごせばいいので気は楽です。この時間帯が終わればもう他人の視線を恐れることもなく、気を使うこともなく、仕事に没頭できるのです。こうして私の会社での一日は過ぎて行きます。

 仕事が終わり、会社から家までの時間が私には一番心休まるときなのです。僅かながらも時という透明な強い糸が緩む気がします。昔は家に真っ直ぐに帰るということはあまりなかったのですが、最近は年のせいでしょうか、あまり遅くなると翌日の朝が辛くなるため無茶はできなくなりました。だけど、電車の窓から見える花火のようなネオンや家々の窓からもれる灯り、道路を照らしている街灯などを見ているだけで何かやさしい気持ちになります。灯りとは暖かいものです。

 最寄の駅から家までもゆっくりと歩けます。もう何処の店も閉まっていて、破れた新聞紙などが風に舞っていたりしますけど、それはひとつの風景であり、私の心を多少は癒してくれます。何故か私はこの寂しい風景が好きなのです。休日の行楽地などのわざとらしいくおおげさで偽善に塗れた風景より、嘘がなくて誰もがんばっていなくて自然な風が流れているこの暗い風景の方がよっぽど好きなのです。

 家に帰ると妻が作ってくれた食事をいただきます。帰る時間がよほど早くない限りひとりでの食事になってしまいます。十一時前だと妻は食事に付き合ってくれて給仕をしてくれます。

 私は妻にも独りで食べているところを見られるのは怖いのですが、それはこっそりと覗き見られるのがいやなので、妻を目の前にしての食事には何も抵抗はありません。私の食事が終わると妻は私の食べ終わった後の食器をお台所に持っていき、洗剤が溶かしてある水が入った容器の中に入れてから自分の部屋に戻り寝ます。

妻が先に先に休んでしまった場合は私がこの役回りをいたします。私はちょっとテレビを見てからお風呂に入り、風呂から出た後ちょっとだけビールなどを飲んでから床につきます。

 「夜の用事」があるとき、妻は自分の部屋からの私が床に入った気配を察してから襖を開け、私の布団の中に潜りこんできます。私は余程、体の調子が悪い時以外は「夜の用事」を断ることはありません。それは私達が確かに夫婦だと感じさせる唯一の行為のように思われるからです。私がこの女の夫なのだなと確認させてくれるのです。「夜の用事」が終わった後、妻は私の布団で眠ります。そうなると私は明日の朝の目覚まし時計の音が不安になるのですが、自分の部屋に戻れとも言えません。まあ、月にニ、三回のことなのですから、私が我慢すれば済むことです。


―つづく―

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