僕が結婚して以来、母は独り暮らしを続けていた。母は住んでいるアパートの近くの町工場で事務員のようなことをしていたのだが、その町工場もそろそろ廃業するということで、そうなると当然、年金だけでは暮らしは成り立たず、貯金を切り崩しながらの生活も不安なので、公営住宅にでも引っ越そうと考えていた。しかし、公営住宅の抽選になかなか当たらず、アパートに住み続けていたのである。幸いにして廃業するはずだった工場もその時期が伸び伸びになり、現状維持の状態が続いていたのだが、そんな矢先に弟と同居していた父が亡くなった。 父が亡くなってから二年が経ち、弟も母が身近にいれば何かと家の中のことをしてもらえるし、母も家賃の心配をしなくてすむ、何より親子で暮らせばお互い安心できるということで同居することになった。本来であれば、長男の僕が母の面倒をみなくてはいけないのだろうが、時給1000円のパートの身分で借家の2DKの間取りではどうしようもない。全く自分の甲斐性の無さに情けなくなる。 僕が週末毎に母のアパートに行き、置きっ放しになっている本とかCDとか書類の整理をして荷造りも手伝うはずが、実際はただ行って昼飯を喰らってテレビを見て帰るだけで自分の仕事をせず、引っ越しの準備はほとんど母が一人でやることになってしまった。 思い起こしてみると、このアパートに引っ越してきたのは僕が高校三年生のときで、それまで一年あまり暮らしていたマンションが急遽全戸、賃貸から分譲になり、買い取りを求められたが、そんなお金があるはずもなく、退去することになったのである。僕はコンクリートの塊のようなマンションよりも、木の温もりの感じられる木造のアパートの方が好きなので、うれしかった。 前に住んでいたマンションは建物だけでなくその周りも全てコンクリートに覆われていた。そのためかどうかはわからないが、日常的に強い閉塞感を覚えていた。新しい住まいになったアパートには外階段の辺りは土のままで、狭いながらも木々を植えられるような庭があり、そこに小学生の時に祖父に買ってもらったひめりんごを植えたりした。 駅に向かう道の両側に桜が植えられており、花の季節にはピンクのトンネルの中を通って通学や通勤をした。また、閑静な住宅街ではあったが、都心に出るのにもいい場所にあり、何かと便利だったのである。考えてみれば、十代後半から四十代半ばまで暮らしていたのだから、僕の人生の中で、最も多くの時間を過ごしたアパートだった。 引っ越し当日、手伝いをするため母のアパートに行った。荷物は全て箱詰めされており、特にやることもなく、引っ越し業者の来るのを待っていた。母の話によると二時から四時の間ということだったが、業者の来たのはもう四時近かった。母はやはり昔の人で、自分でも荷物を移動させようとするため、僕も業者の人が運びやすいようにアパートの玄関口までダンボールを運んだりした。そのためというわけでもないだろうが、一時間かからずに部屋は片付いてしまった。 引越しの終わる頃、アパートの大家さんと母の働いている町工場の社長さんが顔を見せた。アパートの大家さんと会うのは初めてで、お礼の言葉を述べた。町工場の社長さんとは、何度か会ったことがあるが、最後に会ったのはもうだいぶ前で、初めは誰だかわからなかった。大家さんは物の無くなった室内を点検しながら、「寂しくなるわね」と呟いた。 大家さんや町工場の社長さんと名残りを惜しんでから、僕はバイクで、母は電車で弟の家に向かった。僕たちより十分以上前に引っ越し業者のトラックは出発していたので、もう着いているものだと思ったが、バイクで弟の家の前に乗り付けると、まだ来ていなかった。 そのうち母もやってきたが、肝心の引っ越し業者が来ない。結局、一時間くらいして、ようやくやってきた。道が混んでいたということだが、僕がバイクで走った限りはそんなこともなく、道に迷ったか、何処かで休憩していたかもしれない。しかし、体を酷使する仕事上、何処かで休憩していたとしても、それは責められない気がした。 荷物の搬入は、時間がかかった。運び出すときはほとんど玄関からトラックに直行できたが、こんどはトラックから一階の三部屋と二階の一室、さらにガレージに運ぶ物もあり、それを二人で行うのだから大変そうだった。七時少し前に全ての荷物の搬入が終わった。弟は気が利かないと思っていたが、引っ越し業者のためにお茶とお菓子を用意していた。 夕食は近くの和食レストランに行った。お正月に、妻も含めた四人で食事をしたところである。今日から母と弟の暮らしが始まると思うと、不思議な感覚になった。それは、母も同じだったようで、実感がわかないといっていた。 食事を終え、弟の家で休憩してから駅に向かった。今までは母と弟の家に行った時は、駅まで母と一緒だったので、何となく違和感を覚えた。今夜から母と弟は、ひとつ屋根の下いっしょに暮らすのである。そのことを思うと、少し肩の荷が下りたような思いがした。(2011.12.21) |