ひめりんごの木

 子供の時、祖父の影響からか植木が好きだった。当時、住んでいた家は一軒家だったが、庭などはなかったので、2階にある物干し台にいろいろな植木鉢が所狭しと並べられていた。祖父は草花にはそれほど興味はなく、枝ぶりなどの全体的な姿の鑑賞を愉しむものを集めていた。新しい物を買ってくるのが好きで、その数はだんだんと増えていったが、枝葉を刈ったりといった手入れをあまりしていなかったようで、ほとんどのものが枝も葉も伸びるだけ伸びて、あまり格好のいいものはなかった。ろくな手入れもされていない植木がたくさん並んでいる姿は子供の目からもあまり美しくは思えず、また買ってくるものにも統一感がなかったので、2階の物干し台は荒れ果てた原っぱのような様相を呈していた。

 一方、母は花の種などを買ってきてよく植えていた。松などの枝ぶりを楽しむものには興味はなく、花をつけるものに限られていた。またいずれは実をつけて食べて楽しむことができるものもよく植えられていた。そういうものは植木鉢ではなく、洗面器がその代わりをしていることが多かった。そんな中で毎年栽培されるのがイチゴだった。土を盛られた金色の洗面器の中で育つイチゴは何故か愉しく、今でもよく覚えている。イチゴの赤い実と金色の洗面器の対比があまりにも鮮やかだったせいかもしれない。そういったものがいくつも並び、まるでイチゴ畑のようだった。そんなにおいしかったという記憶はないのだけど、そこからもぎたてのイチゴを摘むのが、楽しくてしかたなかった。まだ完全に熟す前に摘んでしまい、失敗することも多かった。

 よく祖父に連れられてお祭りや縁日に出る植木を見に行った。いろいろな木々や草花が並び、そこには特別な空間が広がっていて、空気も違っているように感じた。子供の僕はそこに並んでいるものがほしくなり、よく祖父にねだったが、高値のものばっかり選っていたようだった。当時の僕には値段の観念などなかったので、あるいはそういったものを見る目があったのかもしれないが、たぶん子供のことだからやたらに大きい物とか、異彩を放っているものばかりに目がいっていたのだろう。

 祖父はそういった僕に困っていたようだが、孫に何か買ってあげたいという気持ちがあったようで、バラの植木を買ってくれた。僕が小学校1年生の時のことだった。棘のある恐ろしげな木で枝も病的な感じに曲がっていて、ちょっと近寄り難い雰囲気があり、始めはそんなにうれしく思わなかった。しかし、せっかく祖父が買ってくれたので水をやったり、世話をしているうちにまあまあ愛着がわいてきた。魔女の家の壁にでも枝葉を伸ばしていそうな怪しい雰囲気が気に入ったのかもしれない。やや紫がかったこげ茶色の大きめの鉢もそれを演出していたように思う。

 秋になり、つぼみが成長してやがて真赤な花をバラはつけた。人を威嚇する棘を持ち、細身で神経質そうに曲がっている幹や枝とごわごわした深い緑色の葉の陰鬱で恐ろしげな木に真赤な花がついている姿はこの世のものとは思えず、近寄るのが怖かった。そこだけが魔性の世界に包まれているようで、うっかり近づくと何処か異次元の世界にでも落とされてしまいそうだった。それでも花はあまりにも美しく甘い香りを漂わせていて知らず知らずのうちに近くに吸い寄せられるように見入ってしまうのだった。
しかし、花の時期が終わると僕はもうあまり興味がなくなってしまい、あまり世話をしなくなった。そして、それは母の役目になってしまった。バラはまだ僕には早かったのかもしれない。

 祖父について縁日やお祭りに行って、植木を見る習慣は僕が成長してもまだ続いていた。僕はもっと優しく、可愛く、健康的なものがほしかった。小学校3年生の春、白い小さな桜に似た花をつけた植木を見て、どうしてもほしくなり祖父にねだって買ってもらった。それが姫リンゴだった。柔らかい黄緑の明るい葉と直線的に健康的にのびている枝、そして可愛い白い花、僕の好みにぴったりだった。何処かの田舎の里山にでも生えていそうな懐かしい雰囲気があり、僕の心を和ませてくれた。

 花が終わった後はサクランボくらいの小さな実がなった。僕はそれが食べられると思い、1つもいで口に入れたが、あまりの渋さに吐き出した。実が食べられないのはちょっと残念だったが、その可愛さを見ているだけで十分に幸せな気分になれた。

 毎年、毎年、少しづつ鉢を大きいものに変えていった。そうすると、その分だけ姫リンゴが成長するような気がした。そして毎年、小さな白い花を咲かせるのだった。花が咲いた後は、できるだけ実がならないように間引きをした。そうしないと栄養状態が悪くなり、翌年あまり花が咲かなくなることがあると祖父に指導されたからだ。

 僕が中学校1年の時、祖父が亡くなった。そのため、植木の世話をする人がいなくなり、物干し台の植木群はさらに荒れた状態になった。祖父もあまり手入れはしなかったが、鉢を大きなものに変えたり、肥料や水を与えたりと最低限のことはしていたが、それすらする人がいなくなってしまったのだ。母が気づいた時に水をやる程度になっていた。

 しかし、そのうち家族の中でいろいろとあり、母もだんだんと世話をする余裕がなくなっていった。多くの植木が知らず知らずのうちに枯れていった。ただ、バラと姫リンゴは僕が気づいた時に世話をしていたので何とか枯れずにすんでいた。しかし、世話といっても水をやる程度でたまに肥料は与えたが、鉢を変えたり、実を間引きするといったことはしなくなっていた。

 そして、ある事情で家を出なくてはならなくった。僕は姫リンゴの植木だけを持って行くことにした。バラもできれば持って行きたかったが、荷物になるのであきらめざるを得なかった。バラを鉢植えのまま家に残していけば枯れることは明らかだった。僕は家の敷地にわずかに残る土の部分にバラを鉢から出し植えた。あまり陽の当たらない陰気な場所だったが、そこにしか植える場所はなく、何とかバラの木が枯れないことを祈りながら土を被せた。

 その後、何回か引っ越すことになったが、姫リンゴの植木だけはいつもいっしょに持ち歩いた。この植木だけは置いて行くことができなかったのだ。鉢を変えることもなく、水を与えること以外の手入れをほとんどしなかったため、木の成長も止まったようになり、春になっても花をつけない年もあった。

 僕が高校3年生の時、引っ越したアパートは狭いながらも敷地があり、部屋が1階だったこともあり、僕はその敷地に姫リンゴを鉢から出して植えた。それまで狭い鉢の中で育ってきた姫リンゴは大地に植えられ、生気を取り戻した。信じられないくらい急激に成長を始めた。それまでは鉢を入れても僕の腰くらいの高さしかなかったのに、いつのまにか僕の背丈を越してしまい、ついに2階の部屋の窓を超えるくらいまで枝を伸ばした。そして毎年、白い花を見事に咲かせるようになった。今までは僕が屈んで見ていた白い花を今度は見上げるようになった。部屋の窓辺は毎年、春になると白い花の傘が差されるようになった。その一角だけを見ていると、ほんとに懐かしい感じの風景だった。何処かの里山でボロ家の縁側に座り、ぼんやりとそこに咲いている花を見ているような、安らぎを覚えた。

 しかし、やがて2階の住人から姫リンゴの枝が窓まで延びているせいで、虫が入ってくるとの苦情が大家さんに出された。大家さんは姫リンゴの枝をばっさりと切ってしまった。その姫リンゴの花はちょうど2階の窓辺で咲いていた。だから、2階の人もそれを楽しんでいると僕は自分勝手に思っていたのだ。それは僕のひとりよがりだったのか、それとも都会の人はものの美しさよりも生活の快適性を選んでしまうものなのか…。何かやりきれない気持ちが心に広がった。

 それでも姫リンゴはまた枝をのばし、花をつけた。しかし、姫リンゴの枝を切ることは恒例行事にようになり、大家さんは何も考えず毎年枝をバサバサと切り続けた。そして、ついに姫リンゴは新しい枝をのばす力も白いきれいな小さな花をつける力も失ってしまった。

そして、僕はもう里山の気分を味わうことはできなくなってしまった。(2003.9.1)




皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。joshua@xvb.biglobe.ne.jp

TOP INDEX BACK NEXT