簡単に仕事を休む夫たち

 結婚してから、ずる休みがほとんどできなくなってしまった。独身の頃は月イチペースでずる休みを謳歌していたが、結婚後は半年に一度あるかないかという状態で、その理由はひとえに妻の追求の厳しいことによる。

 妻は全くといっていいほど、風邪を引かない。現在の職場に勤め始めて妻は十年になるそうだが、一回も病気で欠勤したことがないという。さらに、学校も病気で休んだ記憶はないそうで、正に健康優良児だったのである。

 そのせいか、風邪の辛さというものが、よくわからないらしく、ほんとに僕が三十八℃台の高熱を出して苦しんでいるときでも、会社に行けるのではないかというようなことを言ってくる。

 そのような状況で、ずる休みをするには迫真の演技が必要になるわけだが、力の入るあまり結局は演技過剰となり、返って嘘くさくなり、簡単に見破られてしまうのである。さらに、ずる休みをし難くなってしまったのは、簡単に仕事を休む夫は妻たちの攻撃対象になるということを知ったからである。

 職場にロサをいうペルー人の女性が入ってきた。ロサは会社の階段で足を滑らせ、数段落ちてしまった。初めは大したことないかと思われたのだが、昼休みに足が痛くなってきたということで、社員の人が社用車で病院に連れて行き、診察を受けると足の骨にひびが入っていることがわかった。

 診療代を支払う段階になり、ロサの健康保険の期限が切れていることが判明した。結局、会社内での事故ということで労災が適用されることになったが、何故、健康保険の保険料が未納になっていたのかということについて、妻と妻の従妹のメグが話していた。

 メグは以前、ロサの夫と同じ職場で働いていたことがあるそうで、そのときのことを妻に語っていた。何でも、ロサの夫はちょっとしたことで、よく仕事を休んでいたという。指をちょっと切っただけで欠勤、咳が出たら欠勤、お腹の具合が悪いと欠勤、という具合にずる休みを繰り返していたそうである。

 そのうちロサのことを心配して様子を訊きに来たもうひとりのペルー人女性のエステルも加わり、三人はそういうロサの夫のことをボロクソに言っていた。「そんなことやっているから、健康保険の保険料も支払えないんだよ」「全く、どうしようもない夫だね」「ロサがかわいそうね」などと口々に言い合っていたのである。

 僕はまるで自分のことを言われているのではないかという錯覚に陥り、その場に居た堪れないような気分になった。簡単に仕事を休む夫というものは、妻たちにとって害虫のような存在であるらしい。ロサも仲のいいメグにだけは、時折り、夫の愚痴を言っているらしく、メグはかなりロサの家庭の事情に詳しいようだった。

 それによれば、会社を簡単に休むだけでなく、家事もほとんど手伝わないらしい。ペルーでは、というより外国では、夫がある程度家事を手伝うのは常で、日本のように何もしない夫は、これまた粗大ごみ扱いになる。幸か不幸か、僕は家事をまあまあ手伝う方なので、多少は胸を撫で下ろすことができた。

 妻たちの集中砲火を聞かされては、さすがにずる休みする気にはなれなかった。しかし、気分の鬱屈してくることはある。そんなときの最良の処方箋はやっぱりずる休みだ。あの何ともいえない開放感によって、心が生き返るのである。何かいい口実さえあれば、そんなことを考えていたら、その機会が巡ってきた。

 今の所に引っ越した後も銀行へ届けている僕の住所は、動かさないでいた。それは、何かと都合がよかったからである。しかし、先月末に母は弟の家に引っ越したため、銀行の住所変更が必要になった。銀行は、母の住んでいたアパートの近くにあるため、母に手続きを頼んだのだが、本人の住所の確認できるもの、住民票などが必要といわれたという。

 しかし、さすがに年末は忙しく住民票を取りにいくことができなかったのだけど、何とか仕事も一段落して来たので会社を早退させてもらい、役所に行くことにした。住民票を取りにいくだけなのだから、四時くらいに早退すればいいのだが、銀行にも行くということにして二時で上がることにした。プチずる休みである。

 当日、二時に会社を出て、すぐに役所に行って三時には市庁舎を後にした。さて、これからどうしよう。気候がよければ、桜木町まで行き、汽車道から赤レンガ倉庫、大桟橋辺りをぶらつくのもいいけど、何しろ寒いし、三時とはいえ冬の短い陽はだいぶ傾いてきている。

 久しぶりに鶴見線に乗ってみようか?鶴見線で浜川崎まで行き、そこから南武支線に乗って帰ればいい。僕は鶴見駅から鶴見線に乗った。車内はいつも通り、空いていた。車窓から、工場の風景を見ながら、ぼんやりしていた。こうして、何も考えず、ぼんやりできる時間は貴重である。

 浜川崎に着き、南武支線のホームに向かった。無人の改札を通り、ホームに出ると、そこには僕一人しかいなかった。電車はとうぶん来ないらしい。ベンチに座っていると、さすがに寒くなって来て、意味もなく、周囲を歩き回った。そのうち電車がホームに入線していた。電車の中に入り、やっと人心地着けた。

 西日が僕の後から差し、真正面にある女性アイドルのポスターを照らしていた。近くのある工場のクレーンが鉄屑を巨大な磁石で持ち上げ、運んでいた。その鉄屑が所定の場所に落とされるたびに、大きな音が響いた。そんな光景をぼんやりと見ていると、何ともいえない開放感に心は満たされていった。

 陽がポスターから外れ、電車の中が薄暗くなった頃、ようやく電車は動き出し、僕の時間も残り少なくなったことを思った。(2011.12.30)




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