従妹の結婚式

 日曜日、妻の従妹が結婚式を挙げた。妻の従姉はペルー料理店の四女で、お相手は若き日の坂東英二にちょっと似た感じの笑顔がとても優しそうな日系ペルー人で、僕も以前に一、二回、会ったことがある。ペルー社会では、恋人を家族や親戚の家に連れてくるのは普通なのである。当日、妻は教会でのスピーチを頼まれているにもかかわらず、慣れない正装に時間がかかり、三時から式が始まるのに家を出たのは、二時四十分くらいであった。

 教会のある最寄駅に着いたときには、三時数分前になっており、駅からタクシーで教会に向かうことにした。駅の東口にあるタクシー乗り場で順番を待っていると、僕たちの前にいる一向が僕たちと同じ結婚式の招待状を持っているのが目に止まった。どうも、新郎の親戚らしい。大きな荷物から、遠方から来ているように思われた。

 教会に着いた時には、すでに三時を回っていたが、そこは何事も大らかなお国柄なので、式が始まっているわけもなく、みんな思い思いの席に座って寛いでいた。妻はちょうど控室から出てきた神父とスピーチの順番の打ち合わせをした。参列者の中でキリスト教徒でもなく、スペイン語を話せないのは自分だけかと思っていたが、ペルーに移民として渡らず、日本に残った新郎・新婦の親戚も来ていて、少し気が楽になった。

 式は全てスペイン語で進行したため、何が行われているのかさっぱりわからなかったが、厳粛なムードだけは伝わってきた。立ったり、座ったりを、やたら繰り返し、延々と続いた。テレビでよく見る教会の結婚式の場面とは、全く違った。

 僕は特に信仰している宗教はなく、キリスト教の式には馴染めない感じがして、自分が酷く場違いなところに来てしまったような感覚になった。式の途中で神父が参列者ひとりひとりに祝福を与える儀式も、妻に促されたが、神父の前に出て行く気分になれなかった。これは、他の日本人も同様のようで、誰も前に出なかった。信仰のない者が、その場しのぎで、さもカトリック教徒のように行動するというのも抵抗があった。

 式の終わったときは、もう五時半近かった。花婿・花嫁がみんなから祝福され、一旦は退場したのだが、結婚証明書にサインをするのを忘れたとかで、また教会に戻ったりした。全てが終わり、祭壇のところで、それぞれのグループに分かれて、新郎・新婦との記念撮影が始まった。それを見ていたら、新郎の両親らしい人がいないことに気づいた。妻に訊くと両親はペルーにいるということだった。その代わり、国内にいる親類の人たちが、多数出席されていた。教会の外では、子供たちがシャバン玉を飛ばして、その中でさかんに記念写真の撮影がされた。

 その後、パーティ会場のイタリアンレストランに移動した。レストランの前に着くと、妻の従弟のミツが立っていた。ご祝儀をいれる袋を買いたいから、コンビニまで付き合ってほしいというので、いっしょに行った。ミツは十月初旬に自宅で、気分が悪くなり、そのまま入院になった。原因は高血圧で、危うく脳梗塞になりそうだったという。入院生活によって体重は十キロくらい落ちたという。
 「そういえば、顔が締まったね。スッキリしたよ」
 「褒めてもお金ないよ」
 「どんな感じだったの?」
 「いや、もう大変だったよ。眩暈で立つこともできなくなってさ。普通じゃないっていう感じだったよ」
 「病院にはまたまだ通っているでしょ?」
 「来週の金曜日に、また検査にいくんだ。薬はずっと飲んでるよ」

 コンビニに着いて、祝儀袋のコーナーをみると、あまり種類がなかった。包む金額として目安一万円以内というのが、あるだけだった。
 「一万円以上包みたいときは、これをいくつか買わないといけないのかな?」
 「そんなことないよ。よく知っている間柄なんだから、これに五万円入れたって問題ないよ」

 結局、ミツはそれを二つ買って、レストランに戻った。会場の三階のフロアは貸し切りで、ダンスが出来るように中央部分が空けられていた。五時半からパーティが始まる予定だったが、式が長引き、さらに肝心の新郎・新婦が来ないため、六時半になっても、目の前の料理に手がつけられなかった。後から知ったことによると、新郎・新婦は写真館で記念撮影をしていたということだった。

 そのうち、誰が決めたのかはわからないが、お酒だけは先に飲んでいてもいいということになり、僕は赤ワインを飲んだ。空きっ腹にお酒を飲んだので、アルコールの回りが早く、眠くなった。周り見ると、ミツがビールを呷っている。
 「お酒なんか飲んでもいいの?」と声をかけると、
 「ワインとか焼酎はいけないけど、ビールはいいんだ」という。
 「医者がそういったの?」と訊くと
 「昔、痔になったときに、そういわれた」といった。それを聞いていた周りの人からブーイングが出て、ミツはバツの悪そうな顔をして、「あっ、薬飲まなくちゃ」といって入口の方に行ってしまった。七時を過ぎても、一向に主役が現れず、これまた、誰が決めたのか分からないが、料理を食べてもいいということになった。

 僕に限らず、そこにいた全員が空腹だったため、テーブルの上に置かれていたカモのロースト、サーモンのセビーチェ、シーザーサラダなどの前菜はあっという間になくなった。つぎに、ガーリックトーストが出てきたが、これも‘おいしい、おいしい’とみんな先を争うように食べた。

 ガーリックトーストが大方無くなった頃、花嫁と花婿が入場してきた。空いていた上座の席に着き、改めて‘サルー’とみんなでグラスを合わせた。イタリアンレストランらしく、いろいろなピザが出てきた。それをつまんでいると、曲がかかり、花嫁と花婿がダンスを始めた。初めは二人で踊っていたが、花嫁には男性、花婿には女性の参列者が代わる代わる相手をつとめた。

 その後は、食べることよりも、踊ることが中心になった。日本でずっと暮らしている人たちは踊ることに慣れておらず、見ているばかりであったが、次々と誘われ、席を立っていった。僕は自身の結婚式で経験済みだったので、それほど抵抗はなかった。ミツのお姉さんのメグが基本的なステップを教えてくれた。ただ、自分から、女性を誘うということは、恥ずかしくてできず、誘われるのを待つばかりだった。本当は男性の方から誘うのが礼儀なのである。

 九時を過ぎたくらいに、新郎側の参列者は遠方から来ている人もいて、みんな帰って行った。後から聞いた話によると、新郎の出身はペルーの北部ということで、ダンスの時に新郎側の参列者の一人が‘リマの連中より、俺たちの方が勝っているよ’といっていたそうである。そういえば、ひとりダンスのうまい中年の男性がいた。花嫁の参列者の約半数は日本人なので、大人しく思われたのかもしれない。

 新郎側の親戚がいなくなると、それまで狭く感じられた会場が急に広くなったように思われた。テーブルの上には二種類のスパゲティとフルーツを周りに配したプリンがほとんど手つかずのまま残っていた。みんなダンスに夢中になっていたので、料理に手がつかなかったようである。空いた席に寝そべり、眠りこける人まで出てきた。大きく空いた会場の中央では子供たちが、走りまわっていた。大人はみんな疲れてぐったりしているのに、子供の活力はどこから出てくるのだろう?

 大人たちがぐったりしている理由はダンスで疲れたというだけでなく、特に女性陣は慣れないハイヒールが堪えたようだった。妻の親戚は家系なのか太った人が多く、大きな足を無理やり細い靴に入れているものだから、長時間のダンスで限界になったようだった。

 十時を過ぎた頃、花婿のスピーチで、パーティは終わった。日本の披露宴とは全く違う自由で気兼ねのない、みんなで踊って楽しいパーティだった。帰り仕度をしていると、メグとミツのお姉さんエリカの恋人のケンちゃんが近づいてきて、
 「菊花賞、観ました?」といった。ケンちゃんも僕同様競馬が好きなのである。
 「観ました。オルフェーブル強かったね」
 「強かった。早めに先頭に立ったね」
 「そう、四角先頭でそのまま押し切った。本当に強い馬の勝ち方だね」
 「それで明日の天皇賞、何が来ると思います?」
 「7番がいいんじゃないかな?ケンちゃんは?」
 「まだ、考えてないね。明日の朝、新聞を見て決めるよ。そう、7番ね?」
 「そう、7番」
 「いい数字ね」

 僕と妻は、お土産をもらってレストランを後にした。外は寒いと思っていたが、意外と暖かかった。(2011.11.18)




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