父の死

 日曜日の八時くらいに二階にある固定電話のベルが鳴った。一階でテレビを見ていた僕は、それに気づくのが遅れて、二階に上がったときには留守番電話に伝言が録音されていた。再生してみると母からのもので「重大な話しがあるから、戻ったら電話するように」とのことだった。その話しぶりと‘重大な話し’ということで何か悪いこと、それも血縁者に関することであると思った。ここ一年くらいに起きていることで、いくつかのことが想像され、不安な気持ちで母に電話をかけた。母からの応えは僕のどの想像とも違っていた。父が急死したのである。


 日曜日の午後6時頃、父は弟とふたりで夕食をとっていた。夕食のメニューはご飯にお刺身、それにラーメンだった。ふたりで向き合って食べていると、父は急に咳き込んでキッチンの方に歩いていき、流しで食べたものを吐いた。弟が二言、三言、声をかけたがそれに対する返事はなかった。

 キッチンから戻ってきた父はちゃぶ台の横に腰を下ろして、前屈みの状態でいたが、いきなり横倒しに倒れた。びっくりした弟は父が食べたものを喉に詰まらせたと思い、それを何とか吐き出せようと、背中を叩いた。父の背中に触れたとき、父の体が冷たくなっていることに弟は気づいた。

 すぐに119番で電話して、救急車はものの5分で来た。救急隊員は状態を診て、すぐに病院には搬送せず、居間に父を寝かせAEDによる蘇生を試み、それは30分に及んだ。しかし、父の脈は戻らずT医大に搬送され、その後、病院でも蘇生措置を試みたが父の心臓が再び動くことはなかった。

 こういう場合、つまり入院していたわけではなく死亡した場合は病院で死亡診断書は書かないそうで、父の死も変死という扱いになり、刑事がやってきて弟から事情を訊き、室内の写真を撮り、家にあった父が病院で処方された薬を持っていった。父の死体は監察医による検死を受けることになり、場合によっては解剖されることになった。

 静岡に住んでいる父の弟に連絡をいれると明日にも行くということだったが、警察の検死の状況によって父との対面が月曜日にできるかどうかわからず、弟はとりあえず詳しいことがわかり次第再び電話を入れるということにした。


 母の話しによると弟はひどく動揺していて、電話で話す声は震え、こんなことになるのならお粥でも作ってあげればよかったと後悔している様子であるという。母との話しを終え、すぐ弟に電話した。幸い、弟は自宅に戻ってきていて、声の震えもなく少し落ち着いたらしく、上記のような事情を聞くことができた。もし、死体が解剖に回された場合、いつ戻ってくるのかわからず、状況がかなり流動的なため、月曜日は会社へ行くことも考えたが、明け方早くに目が覚め、まだ暗い部屋の天井をなんとはなしに見ているうちに、とても仕事にいける気分ではなくなり、またこんなときに仕事をするのもあまりに非人間的であると思い直し、会社を休むことにした。

 状況がわかったら、お昼くらいに弟から連絡してくれることになっていたのだが、電話はなく、昼食をとった後、母に家に行った。母の方にも連絡はないということなので、母の家から弟に電話をすると、静岡の叔父が3時くらいに来るということなので僕も弟の家に行くことにした。

 弟の家にいくと、ちょうど静岡の叔父夫婦が着いたところで、父の検死も終わり、遺体は斎場に安置されているというので、葬儀屋に連絡を入れて叔父の車に乗って向かった。父の死の原因は喉に食物を詰まらせたことではなく、心臓だったらしい。死因は虚血性心不全と診断された。刑事の話しによると、物を喉に詰まらせ亡くなった場合は爪が黒くなり、口の中に白い斑点が現れるそうだが、それは見られなかったという。静岡の叔父の車に乗り、20分ほどで斎場に着くと葬儀社の人が出迎えてくれて、父の安置されている部屋へ案内してくれた。

 お棺に納められた父の顔を見た叔父はずいぶんと痩せたねえと言った。弟によると今年に入って食が細くなり、以前の半分くらいしか食べなくなっていたという。しかし、顔は安らかでそれほど苦しまなかったのかなと思うと、少し気持ちは楽になった。

 叔父は父の顔を見ながら昔の話しを始めた。
 「兄貴とはずいぶんと年が離れていてね、僕が小学生だった頃、兄貴はもう高校生で夕食を食べ終わった後、よく大森の映画館に連れて行ってもらってね。兄貴は西部劇が好きでね、僕はそんなに好きじゃなかったんだけど、いっしょに行くと帰りにいろいろと食べさせてもらえて、それが楽しみでいつもついていったんだよ」
それを引き取って
 「僕がゲーリー・クーパーの真昼の決闘のDVDを買ってきてみせて上げたら、とても喜んでいました」と弟が言った。

 父が映画を、それも西部劇が好きだったとは新鮮な驚きだった。まして、夕食を取り終えた後、映画館に足を運ぶほど夢中になっていたとは、僕の記憶にある父の像と大きな乖離があった。僕の記憶の中にある父は仕事一辺倒の人で、人間らしい側面を感じたことはなく、まるで機械だった。仕事を終え、家に帰ってきて、後は夕食をとり、ビールを飲みながらナイター中継を見ていた姿しか残っていない。休日も家でごろごろしているだけで、旅行はもとより、遊園地にすら連れて行ってもらった記憶はなく、趣味の全くない人だった。その父が若い頃は映画に夢中になっていたとは、新しい父の姿を見たような気がした。

 叔父さん夫妻の帰った後、弟に父の近況を訊いた。ここ数年、父はいろいろな病を患っていた。緑内障、糖尿病、心臓肥大、しかし、そのどれも死に直結するものではなく、突然の死に一番近くにいた弟は茫然としていた。弟は普段から父の体を気遣って、膝が悪くなったときは、足を摩ってあげたり、病院への送り向かいなど、独りで一生懸命に世話をしていた。その人が突然亡くなってしまったのだから、そのショックは大きかった。

 「ここのところは膝を悪くして、家の中でもやっと歩いている状態でね。だから、病院に行くのも自転車を使っていたんだ。だけど、その自転車が故障してしまって、何処にも出歩けなくなって急に衰えてしまった。玄関の前にある階段のところで倒れてしまって、家の前で寝転んでいるところを通行人に助けられたこともあったくらいだった。病院に行った帰りに動けなくなってね、まあ病院の前だったんですぐに中に運ばれて、うちに連絡が来たんだけど。最近はちょっとボケも始まっていて、このままボケてしまうのかなって考えたりして。先週、心臓の心電図を取っていたんだ。その結果が明日出ることになっていたんだけど…」

 翌日、弟と妻と三人で父に会いに行った。帰りのタクシーの中で弟に真昼の決闘以外はどんなDVDを観ていたのかと訊くと、観ていたのはそれだけだったという。
 「60年代の‘荒野の七人’とか、後、クリント・イーストウッドとかスティーブ・マックイーンの出ているものを話しても、あまり興味を示さなかったね。ジョン・ウェインもだめ、ゲーリー・クーパーだけだった。だけど、50年代の西部劇といっても、‘真昼の決闘’は名作中の名作だからDVD化されているけど、他のものは俺もわからないし、DVD化もされていないでしょ。あ、そう、そう、あと昔やっていたテレビドラマで大学病院が舞台になっている…、そう、そう、白い巨塔。あれ、リメイクされたでしょ。あれ観て、よく文句言ってたよ。昔のとここが違うとか役者が悪いとか」

 60年代といえば父が20代後半から30代後半までにあたり、もう仕事一辺倒になって映画を観に行くこともなくなっていた時期だ。高校生の頃、弟と映画館まで観に行った映画が父の全てだったのかもしれない。

 水曜日、火葬される父の棺桶にゲーリー・クーパーの写真を納めた。父と長いこと離れていた僕にはそれくらいしか、入れるものがなかったのである。弟は父愛用の衣服と父の飲んでいた大量の薬を入れた。薬を棺桶に納める弟の姿は奇異なものに映ったが、それは彼のやさしさの現われだった。

 火葬を待つ間、火葬場の喫茶室で待った。
 「ほんとに兄貴には映画によく連れて行ってもらったよ。僕はその間、ほとんど寝ていた。小学生で字幕を読むのは、すぐに消えちゃうし難しいでしょ。その後、食べにいくんだけど、何でも僕の好きなものを食べさせてくれたよ。兄貴はもらったお小遣いは、映画とその後の食事だけにしか使わなかったなぁ。何か自分のものを買うとか全くなかった。あと兄貴は漢字が好きだった。看板屋だから、商売で必要ということもあったんだろうけど、よく辞書を見て難しい字を覚えていたよ」と叔父は話した。僕も前の仕事では旧字を覚える必要性があり、字源を日に何回も引いた。父のことをもっとよく知っていたら、また別の関係もあったかもしれないと思うと、心に穴の空いたような気持ちになった。

 「何処だったかなTボールっていうボーリング場があるでしょ?その建物の天辺にボーリングのピンの形をした看板を立てる仕事をしたこともあってさ、梯子を使って高いところ登っていったよ。でも、兄貴はそういった仕事はあまり好きじゃなかったな。住宅関係の方が好きだった」
 「職人さんが仕事の終わった後、飲みに誘っても父は行かなかったそうです。オヤジは固くてダメだなんて、冗談で職人さんは言っていましたね」と僕がいうと
 「それは親父のことをみていたからね」と叔父さんがぽつりと言った。(2009.11.26)




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