複雑な思い

 数週間前、ひとつの噂を耳にした。昨年の9月、会社を辞めたパートのTさんが、夏頃に社員として復帰するらしいというものだった。Tさんは入社当初から、社員になることを希望し、時給の発生しない早い時間帯から働いたりしていたのだが、結局、常々「社員にしてやる」と言っていたMさんが信用できなくなり辞めてしまった。

 MさんがTさんを「いずれは社員にしてやる」と言っていたのは、ほとんど酒席上の戯言に近かったが、Tさんはそれを信用していたので、それが口先だけだとわかったとき、もう会社にいることができなくなったのだ。このような話は酒の席ではしない方がいいと思ったものだった。

 そのような経緯を知っていたから、Tさんが数日前に会社に来たと聞いたときは信じられない気がした。Mさんから仕事のことや、待遇のことなどの説明を受けたようだった。MさんがTさんに戻って来ないかと声をかけたらしい。

 Tさんが会社を辞めた時、一番衝撃を受けたのはMさんだった。その衝撃はまず怒りという形で表面に出て、「社員にしていやると言ったのに、普通、他の会社の面接を受けて内定もらうか?」とかなりの剣幕でTさんを批難し、Tさんの送別会のときも他の社員から、「T君、次はどんなところで働くの?」との質問があったとき、Tさんよりも早く「それが全然よくないところなんだよ!」と口を出して、質問した社員が「そんなこともないだろうけど」ととりなす場面もあった。

 怒りの収まった後、Mさんの心の中には自責の気持ちが強く残っていたようで、「俺の実力不足だった」とTさんに謝っていた。Tさんの新たな就職先は4勤2休で日勤と夜勤を繰り返す薬品工場で、Mさんは贖罪の気持ちもあり、いつかTさんを社員という待遇で呼び戻したいと考えていたようだ。

 Tさん復帰の話を聞いたとき、複雑な気持ちになった。MさんがTさんに声をかけたということなら、恐らく前のような与太話ではなく、社員として遇することの根回しをして上司の確約をとっている可能性が高いように思われ、嫉妬に近い気持ちになったのである。Tさんが前のようにパートとして戻ってくるということならば、恐らく僕は複雑な気持ちにはならなかっただろう。

 僕自身、社員になりたいという気持ちはないと思っていたし、そのような話が出た時も婉曲的に断ったが、心の何処かでパートという身分を恥じ、社員になりたいという気持ちが燻っていたのかもしれない。そうでなければ、Tさんが社員として復帰することで複雑な気持ちになることはないと思う。しかし、事態は予想外の展開をみせた。

 Mさんから声をかけられたTさんは即答を避け、じっくりと考えて週末に返事をしますと言ったようである。あるパートさんの話によると、金曜日の夕方、Mさんの携帯電話が鳴り、電話に出たMさんは相手を確認すると部屋から廊下に出た。しばらくして廊下から部屋に入ってきたMさんは電話の相手に対して「それじゃー、がんばって」と言って電話を切ったという。

 土曜日、妻が勤めから帰ってきて「Tさん、断ったみたい」と言った。何でも知りたがりの事情通のパートさんがMさんから直接話を聞いたそうで、彼女の話によるとMさんがTさんに戻って来ないかと声をかけたのだが、待遇はとりあえず前と同じパートという条件で、来年の4月くらいからは準社員にできるかもしれないという話だったらしい。

 わざわざ会社へ出向き、職場まで見学をしたTさんにとっては笑ってしまうような条件だったわけで、Mさんは未だにTさんが辞めたのは一時の気の迷いとでも思っていたのかもしれない。Tさんにしてみれば前のことがあるから、確約がなければ復帰する気にはなれないだろう。

 話のあったときすぐに断らなかったところをみると、今の職場にも辛さを感じていると思われ、年を取ると‘安住の地’を見つけるのは難しいということを実感した。しかし、現在、‘安住の地’にいると思われる人も、そこが本当に‘安住の地’なのかはわからない気がする。見せかけだけの安住で、本人にとっては地獄ということもあり得る。中年といわれる年齢をむかえると、動くに動けず、ただ忍耐の日々を過ごすか、あてもない漂流を続けるしかなくなるのだろうか?(2009.6.14)




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